第二十六話 真夜中の訪問
部屋のなかの明かりは、暖炉の炎のみであった。
扉を施錠したヴィクターは、外套とフロックコート、そしてジレまで脱ぐと、崩れ落ちるように椅子へ腰掛けた。ついで、手袋が順々に、床に落とされる。
打ち捨てられる、といった方がしっくりくる様子だった。
「……」
のけぞるように背を預け、揺れる火を映す静かな天井を見上げた。
控えめなノックの音が響いたのは、そのときだった。
(……宿の人間か?)
ヴィクターは答えず、じっとその場にとどまっていた。
「……ヴィクター?」
廊下から様子を伺うように聞こえてきたのは、女の声だった。ヴィクターの脳裏に、金髪と青い瞳の娘の顔が思い浮かんだ。
(今、何時だと思ってるんだ)
その非常識さに苛立つとともに、愚直さを憎み切れない。ヴィクターは緩慢な動作の頭でゆるゆると考えた。
――なんでここにきて、あのときのことを、彷彿とさせるようなことばっかり。
頭の中で、不快感が煙のように漂っていた。
ただ、火元がどこなのかがはっきりしない。
再びノックの音がしても、ヴィクターは動かなかった。
――カチャ。
「……」
カチャ、カチャ、カリカリ。ガチャ。
「…………」
カリカリカリカリカリ、カリ。ガチャ、ガチャ。
「………………」
ガチャガチャガチャガチャガチャ、ドンドンドン、ダンッ――。
ヴィクターはぐんと頭を上げると、立ち上がって大股で扉へと近づき、鍵を開けて扉を思いっきり引いた。
「っ! あ、何よ無事なら返事くらいしなさいよっ! なんかあったのかと思ったじゃない!」
「……できもしないくせに何やってんですかバカ」
「バッ? なによそっちだってできるだけで上手いわけじゃないくせにっ!」
ガウン姿のシャーロットの足元には、曲がった二本のヘアピンが転がり――そして、未開封の瓶が立てられていた。
部屋の主がその瓶を不審げに見遣ったところで、シャーロットがそれを拾い上げた。
「えと……肩、押さえてたから。ほら、馬車のおじさん言ってたじゃない? 強いお酒は飲みすぎなければ薬になるって」
「……」
御者の言葉をはき違えている。そう思っても、ヴィクターは差し出されるままに琥珀色の瓶を受け取った。たぷん、と中身が揺れて、重みが伝わる。
見れば確かに、強い種の銘柄だった。
「……じゃあ、また明日ね」
「戻るのか」
立ち去ろうとしたシャーロットは、相手の言葉に目を瞬かせた。
言った男も、無意識に出た言葉に驚き、そして呆れた。
「……すみません。明日、また」
ヴィクターが身を引いて閉めようとした扉が、ダンッ、と止まる。
シャーロットが体当たりしたせいだった。
「良いわよ付き合うわよ。わたしも夕食で飲んでないの!」
***
酒の匂いがする。
相手の帰宅を感知して訪問したシャーロットは、男の顔を見るなりそう感じていた。
(友達と飲んだ後は、口も軽くなる、かもしれない)
差し入れは本心から痛みを和らげさせるためだったが、既にそれなりに飲んでいるとわかると、別の目的も生じてきた。
素面のときに問いただすより、気になることは今きいたほうがよさそうだと。
――彼の様子が気がかりだったという理由は、なんとなく、はっきり考えないようにしていた。
扉の隙間から伺ったとおり、部屋には暖炉の火しか明かりがない。
ランプに火を移そうかと迷ったところで、シャーロットの前に背の低い寸胴型のグラスが差し出される。中には差し入れたばかりの蒸留酒が、底から第二関節分ほどの高さまで注がれていた。
(まぁ、すこし話したら彼も寝るでしょうし、わたしも部屋に戻るし)
テーブルそばの椅子に腰掛けようか迷ってから、シャーロットは小ぶりの長椅子のほうを選んだ。そちらの方が暖炉に近くて明るかったからだ。肘掛け椅子もそばに並んでいたが、膨らんだスカートでも座れる方を、いつもの癖で選んでいた。
ヴィクターも、肘掛け椅子の方に腰を下ろした。そして片手にグラスを持ったまま、タイの結び目に指を差し込んであっという間にほどいたので、シャーロットは内心ぎょっとした。
いやに気まずくて、つとめて表情を変えないようにしてグラスの中身をなめたつもりだったが、ヴィクターは息だけで笑った。
「すみません、はしたなかったですね」
「い、いいわよ、こっちもこんな格好だもの」
「それもそうか」
呟いて、ヴィクターはグラスを呷った。一口でかなりのかさが減ったように見えて、シャーロットは思わずサイドテーブルの水差しを確認した。
(別に今さら、はしたないも何もない、けど……)
シャーロット自身、部屋まで入るつもりはなかった。部屋の位置も隣り合っており、廊下での余人の目さえ避けられればと、つい軽装で訪れてしまっていた。
しかしながら、相手も相当リラックスしている――というより、どうにも動きが重く、退廃的な雰囲気である。
服装の乱れのせいか。不機嫌とも違う、据わった目のせいか。シャーロットは戸惑っていた。
(……お酒が入って、無口になるタイプだったらどうしよ……)
何から、どう切り出せばいいだろうか。グラスの中の波打つ琥珀に、思案する自分の顔がうっすら見えた。
どうも、フェリックスは義母や義妹と仲がよくなかったらしいが、どう思うか。
この宿屋で夕飯を取らなかったが、いいのか。この部屋も、フェリックスが使っていた部屋なのか。
肩は、大丈夫なのか。
グレッグ・ノラートとは、何を話していたのか。
ロバートとは、誰のことなのか。
質問を頭のなかでこねくり回しているうちに、シャーロットのなかで聞きたいことそのものがどんどんずれていってしまう。
「……ずいぶん遅くまで宿に入らなかったけど、グレッグ殿とは仲がよかったの?」
とりあえず、雑談から始めることにして、シャーロットは天井を仰ぐヴィクターの方を向いた。
ヴィクターは上を見上げたまま、ゆっくり瞬きをした。
「……彼は、ある程度飲むと、翌日の昼くらいまで動けなくなるやつで」
低い声でゆっくり話し始めたヴィクターの方を、シャーロットは見つめた。
口調がくだけている。シャーロットと話しているときにこうなるのは、怒っているときばかりだった。
しかし今、ヴィクターから怒りは感じられない。
「悪気はないんだが……どうにも、お喋りが過ぎるから」
だから、口封じに潰してきたということかと、シャーロットは眉を潜めた。
「……ロバート、さんも同じ学校のひと? 何か、あったの?」
ヴィクターが横目でシャーロットの方に注意を向けた。
その黒い瞳の奥に一瞬、深い闇が垣間見えた気がして、シャーロットはつい鼻白んだ。
「……な、なによ」
「なんで、と聞いたな」
「えっ、聞いてないけど」
「馬車で」
言われて、シャーロットは自分の発言を振り返ろうとして視線を暖炉に向けた。
しかし、相手にそれを待つ気はなかったようだとすぐにわかった。
「なぜ、あなたとフェリックス・ロザードを、気にするのかと」
「あっ、ああ、そのことね」
その問いには、一応答えを得ている。メアリーとのことを隠すのに、シャーロットをカモフラージュにしていたことへの不快感だと。
それを、なぜ今また急に。そう続けようとして、シャーロットは視線を横並びの肘掛け椅子へ向けた。
そこではじめて、男が自分のすぐそばに立っていたことに気がついた。見下ろしてくる顔は片側だけオレンジの炎に照らされて、もう半分はかえって濃い影に覆われている。
驚きに、思わずガウンの下の肩が小さく跳ねる。何を言おうとしたか、シャーロットは忘れてしまった。
「……えと、」
「あなた方を気にする理由なんて、くだらない好奇心に過ぎないよ」
シャーロットの座る長椅子が、かすかな軋みを立てて沈む。
ヴィクターが座ったからだ。
シャーロットの、すぐ隣に。




