第二十五話 ノーバスタの再会
翌朝、シャーロットは食堂で紅茶色の髪を見つけ、驚きに目を見開いた。ついで、異郷で知人を見つけた旅人のように、明るい顔でせっせと歩を進めた。
「おはようヴィクター。朝はここで食べるのね?」
シャーロットが嬉々として向かいの席に座ると、新聞を手にしたままのヴィクターは視線だけを向け、「おはようございます」と返した。
「やけにご機嫌ですね」
「だって、てっきり朝もあなたはいないものだと思ってたから」
深く考えずに返事をしてから、シャーロットは自分の言葉に狼狽えた。
これでは、まるでシャーロットがヴィクターと一緒に食べたかったみたいだ。
「……ほら、ひとりだと退屈だし、あんまり別々だと仲が悪いみたいじゃない」
「退屈のおかげか、シードルの進みが良かったみたいですが」
「だ、誰に聞いたのよ……。あ、カフェオレに蜂蜜をいれてね」
「あなたが寂しそうだったと、わざわざ宿の奥方が食後酒と一緒に伝えに来ましたよ」
注文伺いに来た給仕に温かい飲み物を頼んだシャーロットは、その言葉にぎょっとした。
実情を知らない女将からすれば、婚約者と旅行に来ているのに別々に食べているシャーロットを気遣ってのことだとわかる。
とはいえ、シャーロットは気恥ずかしさに思わず“考えごとをしていただけだ”と反論しかけた。しかし、声に出す直前に別の考えが頭を掠めて、言葉はそちらに取って代わられた。
「ま、まさかあなた、それで今朝はこっちに下りてきたの? ……わたしを寂しがらせないように、って?」
「は? いいえ?」
予想以上に冷淡に否定されて、シャーロットは怒るよりも拍子抜けした。相手からして、いかにもな答えだったせいもある。
既に皿を空にしていたヴィクターは、湯気の立つコーヒーのカップを避けて新聞をめくった。
「放っておくと酔っぱらいを馬車に乗せないといけなくなるかもしれないと、そっちが心配で」
「……」
「冗談です」
さすがに目が据わったシャーロットだったが、ちょうど給仕が甘い香りの漂うカップを持って近づいてきたので、渋々口は閉じたままにした。
「なぜ彼が部屋から出なかったのか、客室と食堂の両方を使わないとわからないので」
周囲の様子に目を配ってから、ヴィクターはそう言った。
フェリックスは朝も部屋で食事を済ませたらしい。そうヴィクターが話すと、かつての恋人の“らしくなさ”に、シャーロットは途端に表情を翳らせた。
「……やっぱり、彼、なにか変だった感じがする。体調不良だったからだと思う?」
「さあ」
「……もし、もしもだけど、ゴルバック氏が本当に流行り病にかかっていたとしたら、フェリックスにも移っていた可能性もあるわよね」
「……」
ヴィクターは新聞をめくる手を止めない。
その素っ気なさに、シャーロットは自分が下らないことを言ったかと思い、いたたまれなさを隠すようにカップを持ちあげた。
「……妙に部屋をきれいに使っていたのも、彼自身、それを警戒していたからとも考えられますね」
まろやかな甘みで胃の腑が温まるのを感じていたシャーロットは、ヴィクターの伏せられたまつげを見返した。
「昨夜、給仕に話を聞きました。彼はフェリックス殿が去った後、部屋の清掃も行ったそうですが、ごみひとつ、髪の毛一本落ちていなかったそうで。それまでの使い方が汚かったわけではなく、宿泊客の中でも珍しいくらいきれい好きな男だと思ったそうですよ。従者もいなかったのに、律儀なことだ、と」
シャーロットは自分よりも淡い金髪だった男のことを思い返す。
清潔感について、特になんとも思うことはなかった。それは彼が常に身なりを整えてシャーロットと会っていたこともあるし、逆に、特別潔癖だったわけでもないという意味でだ。
天気のいいときには、公園の芝生の上に直接座るのも厭わない青年だった。
「それは、病原菌を宿に残さないようにという、気遣いだったのかもしれませんね」
眉を寄せたままのシャーロットへ、ヴィクターはそう付け加えた。
それも妙な話だと思ったが、ちょうど給仕がバターの蕩けたパンケーキの皿を持って近づいてきたので、シャーロットは一旦その話を打ち切った。
***
二つ目の町、ノーバスタへ到着したとき、既に辺りは薄暗く、懐中時計の針は前日の到着時より遅い時刻を示していた。
シャーロットはため息を吐いて懐中時計をしまうと、ヴィクターの差し出す手に捕まって慎重にステップを降りた。
「……雪の中を進むのって、大変なのね……」
「疲れましたか」
「……平気よ」
強がりつつも、シャーロットはヴィクターが宿の従業員にふたり分の荷物を預けているときを見計らって、外套の上から腰をさすった。
雪の積もった道のりは、いかに慣れた御者の操る馬車であっても快適とは言えなかった。
「かえって馬に単身乗る方が楽だという地元民もいますよ」
馬を馬小屋へ連れていく途中の御者がそう笑う。人の良さそうな笑顔の鼻が真っ赤で、シャーロットはずっと馬車の中にいた自分が申し訳ないような気になった。
「この町で交代でしょ、昨日からありがとう。なにか、温かいものでも御馳走しましょうか」
「ええっ。それはお気遣いをどうも、お嬢様。しかし、こんなお上品な宿屋より、もっと安い店のほうが、俺たちの仕事にはよく効くのが揃ってますから」
「よく効く?」
きょとんとしたシャーロットにヴィクターが「酒ですよ」と横から口をはさんだ。
「カルヴァドスもそれなりに強い酒ですが、このあたりの肉体労働者は体を温めるために、もっと強い酒を好むそう、で、……」
ヴィクターの言いように「飲み過ぎなければ、ここらでは薬みたいなものですよ」と、御者は照れくさそうに言った。
シャーロットは「ふーん」と話を聞いていたが、先に宿の前まで進んでいたヴィクターが、顔を扉から横にそらして固まっていることに気がついた。
「なにかあった?」
「……あ、いや」
相手が口ごもったのを珍しく思い、シャーロットもヴィクターの目線同様に首を巡らせた。
宿が面しているのは町のメインとなる通りだった。両脇にはいくつもの宿屋や食堂、酒場があり、迫る夕暮れに備えて灯りをともしはじめている。
既に人の出入りが盛んになりはじめているそれらのうち、ひとつの店の前に立つ男がシャーロットの目に入った。
「……あら? あのひとって……」
シャーロットが意外そうに呟くのと、男がふたりに気がつくのは同時だった。
男は驚き、そして「これはこれは!」と嬉しそうに近寄ってきた。それこそ、“異郷で知人を見つけた旅人のよう”だった朝のシャーロットさながらの足取りで。
「ヴィクター殿! まさかこんなところで会うとは、不思議な偶然もあるものだっ!」
その目が紅茶色の髪の男へ向いていたことも、朝のシャーロットと同じだった。
「……ああ、まさか、こんなところで会うとは」
「いやあ、親戚に会いに北方に来たついでと、グースで降りて、ふらふら観光してたのさ。君こそどうした? そちらは……」
男は陽気に話していたが、シャーロットの方へ目を向けると「あっ」と驚いたような顔をした。
「……紹介するよ、こちらイヴリン男爵の末のご令嬢、シャーロットだ。シャーロット、彼は俺の学友のグレッグ・ノラート殿。次期ハーバン子爵だ。……で、グレッグ、見てわかる通り、我々は婚約の話が進んでいてね」
シャーロットは目をみはる相手に“なんだかなぁ”と思いながら「お久しぶりです」と挨拶をした。ふたりは互いに相手を知っていた。
とはいえ、一度成り行きで挨拶をしただけの関係で、男がシャーロットにすぐに注意が向かなかったのも無理はない。
だが、シャーロットは相手の反応から、自分のことも覚えているだろうと見当をつけていた。
でなければ、ヴィクターの隣に立つシャーロットを見てこんな反応はすまい、と。
「あ、ああ、相変わらずお美しいことで、って、え、婚約? ヴィクター殿、君が、こちらのご令嬢と?」
「……グレッ」
「なにかございますか?」
ヴィクターの言葉を遮って、シャーロットは笑ったまま問いただした。
頭には、寝台列車の食堂で陰口を叩いてきた貴族令嬢のことが浮かんでいた。
しかし、ぽかんと呆けたグレッグ・ノラートは、シャーロットの予想とは別の言葉を口にした。
「いや、だっていつの間に? ヴィクター殿、ロバートのこと、もういいのか?」
「……ロバート?」
シャーロットが笑みを忘れて不思議そうに繰り返したとき、ヴィクターの左手がガッと強くグレッグの肩を掴んだ。
その勢いに、そして端から見てもわかるほどの、食い込む指の強さに、シャーロットもグレッグも続く言葉をのみ込んだ。
「……婚約は、ここ二週間ほどで進んだ話でね。まだ女王陛下にも話していないし、正式発表も先なんだ。グレッグ殿、あなたが寝耳に水なのも、仕方ないことだったな」
そう流暢に話すヴィクターの口元はにこやかに上がっている。
しかしその目には、旧友へ向けるとは思えない、凄惨な迫力が込められていた。
「そ、そうか、いや、君が幸せなら、わたしも安心……いった!」
「……シャーロット」
グレッグの右肩の外套に、より深いしわが刻まれていくのを唖然と見つめていたシャーロットは、ヴィクターに呼ばれて弾かれたように顔を向けた。
「……先に、宿に入っていてくれ」
「…………え、ええ」
拒否することも、理由を問うこともできずに、シャーロットはそそくさと目の前の扉の奥へと入っていった。
すぐに従業員がやってきて、シャーロットはステューダー伯爵の到着を伝えるとともに、空き部屋の有無を確認した。
(……釣り合いが取れてない婚約だって驚かれたんだと思ってたけど、なんか違う感じ……)
婚約者であることと部屋の場所を近くしてほしいことを説明しながら、シャーロットはヴィクターの昔馴染みの不可解な言動を振り返り、腑に落ちないものを感じていた。
「では、ワーガス様とフェルマー様は、お夕食は同卓でご用意しましょうか?」
女主人にそう聞かれ、シャーロットは答えに迷い、今しがた通ってきた戸口の方を振り返る。
ちょうど、出入り口横の窓の外に、見覚えのある男がふたり連れだってシャーロットのいる宿屋から離れていくのが見えた。
「……いえ、彼は外で食べるみたい」
向かいの店へ入っていったのを見届けて、シャーロットは胸に引っ掛かるものを感じながらもそう伝えた。
気になったのは、グレッグ・ノラートが言おうとしたことを、ヴィクターが強引に遮ったということがひとつ。
もうひとつ気になったのは、たった今子爵令息を引きずるように歩いていった彼が、一瞬右肩を押さえたように見えたことだった。
「……?」
この夜、シャーロットの杯は水と果実ジュースでしか満たされなかった。




