第二話 怒りの決意
三人はすすんで口を挟もうとしないシャーロットに時々水を向けながら、とりとめもない雑談を続けている。
その間、シャーロットの嫌な緊張は、とめどない思考とともにぐるぐると彼女のなかで渦を巻き続けていた。
(……もし、あの人があの時計をステューダー伯爵に譲ったとしたら……ううん、そんなことあり得ない。やっぱり見間違い?)
――もしくは、譲ったのではなくて。
そこまで考えたところで、伯母アイリーが話題を変えた。伯爵夫人としては、本題を切り込んだ、というわけだった。
「ところで、昨今は自由恋愛などといって、身分の高い方とそうでもない方との恋のお話がでたりもして、とてもロマンチックなことだと思いません?」
姪を格上の名家と縁付けようと意気込む伯母が投じた言葉に、上の空だったシャーロットの顔が固まった。
「いやぁしかし、現実的に結婚はロマンチックだけでは成り立ちませんからねぇ」
「あらレッセ子爵は冷たいこと。ステューダー伯爵はいかがお思い?」
アイリーは伯爵にシャーロットを売り込むとっかかりが欲しいだけだとはわかっていた。
ただその話題は、心ここにあらずだったシャーロットを大いに動揺させた上、図らずも彼女の興味の全てを会話の内容へ集中させる結果となった。
(もしあれが、わたしの予想通りの物なら、……あの人を彷彿とさせるこの話題に、なにか反応を示すはず)
知らず息をつめてシャーロットが見つめる中で、ヴィクター・ワーガスは「そうですねぇ」と相変わらずの微笑を浮かべて言った。
「我々の結婚は、当人たちだけのものとは言い切れませんからね。……ただ」
落胆した顔のアイリーを前に、男はゆったりと言葉を続けた。その右手を、テールコートの内側に何気なく滑り込ませながら。
「愛するものがいる人は、ときに立場も事情も顧みなくなることがある。そういう恋も、あるのでしょう」
男の口角はにこやかに上がっている。
――シャーロットは絶句した。
「おや伯爵、意外とロマンチストでいらっしゃる」
「ええ、ええ、そう、思い合う二人はときにどんな障害も乗り越えてしまいますものね、家柄ですとか伝統ですとか。あらこれはただの一例ですのよおほほほほ」
盛り上がる子爵と伯母の言葉など、もう耳に入ってこない。
ただその両目は眼の前の伯爵の顔と手元へ釘付けになり、扇で隠した口元は小さく震えていた。
(……取り返さなくちゃ)
呆然としていたのは短い時間。
ここにきて、動揺と物思いだけに支配されていた碧眼に、強い決意の熱が灯る。
(なによりも、一刻も早く)
男は例の懐中時計を再びその手に持ち、まるでアイリーの言う自由な結婚を肯定するかのようなことを言った。
ほのかな笑みを口元に浮かべて、ごく穏やかに――シャーロットがぞっとするような冷たい瞳で。
真逆だと、本能が告げる。
シャーロットは、男の言葉が本心からのものではないどころか、冷ややかな嫌悪に根差していると、気がついてしまった。
そして同時に、確信した。
男が一瞬出し、またすぐに上着の内側へ戻した銀の懐中時計が、シャーロットの考える“あの人”から譲られたわけではないということを。
そんなシャーロットの胸の内など気がついていない伯母と子爵の前で、「そういえば、」とヴィクターが思い出したようにさらに言い出す。
「最近話題になりましたね。大貴族の嫡子と身分違いの女性との秘めた恋が。あれは悲痛な終わりを迎えたようで」
ああ、とレッセ子爵が痛ましい顔で後を引き継ぐ。
「ランドニア公爵家のフェリックス殿ですな。いやいや、あくまで噂ですから、故人の名誉を悪戯に傷つけてはなりませんよ」
それから、アイリーが逸れ過ぎた話題をなんとか目の前の伯爵自身の結婚のことに持っていこうとする傍らで、シャーロットは扇を持つ手に力が込もるのを抑えられなかった。
(……取り返さなくちゃ。あの懐中時計を、絶対に)
見間違えようもない距離で確認した銀の懐中時計の蓋には、百合の花と天使が彫られていた。
それはランドニア公爵の長子、フェリックス・ロザードの持ち物である。――一週間ほど前、自ら命を絶ったという知らせが、王都を席巻した話題の男の。
(こんな、フェリックスのことを、わたしたちのことを冷たく嘲笑うような男の手元から、絶対に!)
手の中の扇が、みしりと軋んだ。
***
その日の正午まで、時を遡る。
イヴリン男爵邸において、シャーロットの部屋の扉を強く叩いたのは、彼女の二つ上の姉リンディだった。
「シャーロット! あなたいつまで寝ているつもり?」
ドンドンと響く騒がしさに、シャーロットはしかめ面で手紙から視線を移した。
別に惰眠をむさぼっていたわけではないが、起床してから寝間着にガウンを羽織っただけで朝食にも出て行かなかったのは自分なので、重い足取りながら扉に向かう。
「……うるさいわね、朝ごはんならいらないってジュリアに言ったわよ」
細く開いた扉の隙間から仏頂面を見せた妹に、姉も負けず劣らずの深いしわを眉間に刻んで応戦した。
「朝ごはんなんてとっくに終わってるわよ。そうじゃなくて、今日はアイリー伯母様の誕生日パーティーでしょ! 今さらすっぽかすなんて、あなたのために独身の殿方を呼んでくださる伯母様に顔向けできないこと、このわたしがさせないわよ!」
反論を許さない剣幕で言うなり、リンディは男爵令嬢らしからぬ強引さでシャーロットの部屋の扉を押し開けた。
「ちょ、ちょっと、言ったでしょ、気分が悪いんだってば!」
「一週間前からそう言ってるけど、ウェリント先生はどこも悪くないって言ってるし、いつも通りおやつは食べてるって聞いてるわよ」
力負けしたシャーロットの部屋に、大股で姉が、続いてせかせかと二人の女中が入ってくる。うち一人の押す台車には洗顔用の陶器のたらいやタオルが乗っていた。
「い、妹の言うことより、ちょっと診ただけの医者の言うことを信じるのっ?」
「ええ。ほらさっさと顔を洗いなさい。ジュリアたちを困らせるんじゃないの」
我が物顔で衣装棚を開けながら即答されて、シャーロットはあまりの態度に閉口した。
そんな妹に、姉は呆れ顔で向き直る。
「だいたい、あなたがそんなにふさぎ込んでどうするのよ。確かにわたしもグレイス姉様も驚いたし、悲しいニュースだけど、遠目にお見かけするくらいで、ほとんど話したこともない人じゃない」
ため息混じりに言われて、シャーロットは俯いた。姉はそれをふてくされているのだと捉えて言い募る。ただし、その口調は宥めるように和らいでいた。
「亡くなられた方を悼むのは悪いことじゃないけど、伯母様はただでさえ遠慮してパーティーの規模を小さくしたらしいのに、これでシャーロットが来なかったらあの人きっと悲しむわよ」
顔をそむけた妹の頭を最後にぽんぽんと軽く叩くと、リンディは女中たちに任せるといって部屋を出ていった。
部屋に残されたシャーロットは、顔に落ちかかる金髪をかき上げもせず、黙ったまま床を見つめていた。
(……ほとんど話したことがない、なんて、リンディたちはそうでしょうよ)
女中に控えめに促され、今度はシャーロットも大人しくドレッサーの前に動く。椅子に座るなり、うねる髪をまとめられ、まずは洗顔と、台の上にぬるま湯の張られたたらいが置かれた。目の前に揺れる水面が現れる。
するとシャーロットは、小さな波の向こう側の少女と向き合うはめになった。感情があふれ出さないよう唇をかみしめる、自分の顔と。
アーモンド型の青い目が、いっそう険しげに歪む。
(遠目に見かけたくらいじゃない、話したことがあるどころじゃないわよ)
一週間前、王国ブルーラスの首都コートリッツを、一件の訃報が駆け巡った。
大貴族ランドニア公爵の嫡子、フェリックス・ロザードの遺体が発見されたと。
「……っ」
シャーロットはぬるま湯の中に両手を沈めた。たらいの底で崩れていく自分の表情をかき消すために。
遺体の側には、遺書があったという。
(……なんでっ!)
その噂は、フェリックスから何通もの恋文を受け取り、そして送っていたシャーロットの耳にも、冬の寒風とともに吹き込んできた。
たらいの中の湯は温かくとも、すくって外気に触れればすぐに冷めていく。
シャーロットは、いつもより鋭く肌を刺す冷たさに奥歯を噛み締めた。