第十六話 『お連れ様からです』
翌朝、窓の外の降雪は止んでいた。
シャーロットとヴィクターはともに乗車予約をしたわけではなかったため、一日目の夕食の席は別で設けられていた。
それが、翌朝にはひとつのテーブルに席が準備されていた。
「……頼んでないのに」
「車掌が伝えたのかもしれませんね」
シャーロットは、前日の車掌の困惑顔を思い出した。
自分をひとりにしたくないとでもいうのか。シャーロットは口を尖らせたが、何も言わなかった。
大人しく席に着き、注がれた熱い紅茶で口の中を湿らせてから、運ばれてきた皿の上のオムレツに目を向ける。なめらかな卵生地にパプリカやホウレン草が覗いていて、目に鮮やかな彩りだった。
「……」
しかし、シャーロットのすました顔は崩れない。
向かいに腰を下ろしたヴィクターも、無言でバゲットにバターを塗っていた。
「……」
「……」
窓の外の雪景色に負けず劣らず、静かな朝食のテーブルだった。
***
(……まだ怒ってるのかしら)
食堂車から個室へ戻り、シャーロットは気づまりだった自分の肩をほぐすように回した。
イヴリン男爵家はいつも家族全員で朝食を食べている。少し前にはフェリックスの報道の衝撃で屋敷の食堂に下りて行かない日も続いたが、普段は貴族らしく厳かにふるまおうとする父の努力もむなしくなる、賑やかな食卓であった。
だから、正直に言えば、今朝の重苦しい雰囲気は彼女には耐えがたかった。
(でも、不機嫌という風でもないのよね)
では、あれがヴィクターにとってはいつも通りということなのだろうと結論付ける。
貴族たちは連日連夜の宴会で夜型の人間が多い。午前中に口数が少ないのも、そう珍しいものではなかった。
(……手帳を見たこと、ばれたとか?)
寝台に腰掛けたシャーロットは、頭に浮かんだ可能性に陰鬱な気持ちになる。
手帳の後ろのほうには、予想通りフェリックスの事件のことが書かれていた。手に取ったときから使い込まれた革の手触りに気が付いていたが、空白のページはそう多くなかった。
(……“AからVへ”)
アデルからヴィクターへ。
最後のページの後ろには、古くなったインクでそう書かれていた。
別れた女の贈り物でも、便利なら使うのか、と不思議な気持ちになった。
シャーロットはベッドサイドテーブルに置いていた自分の日記を手に取り開く。昨日ヴィクターの帰室を待って自分の個室に戻るなり、急いで書き記したのだ。
事件の概要、女中メアリー・コートナーの略歴、跡継ぎになるであろうフェリックスの従兄や連れ子だという義理の妹のこと、従者の症状と執事による解雇。
懐中時計のことは遺体の状況とともに書かれていたが、二重線で消され、脇にはシャーロットの氏名が小さく記されていた。
それは知っていると読み流そうとしたシャーロットだったが、そのすぐ近くの記述に目が吸い込まれた。
(……フェリックスのそばにあった、毒入りの小瓶……)
新聞の内容よりも詳細に記されたその内容を見てからというもの、シャーロットの気持ちは晴れなかった。朝から口が重かったのは、そのせいもある。
この不可解さをヴィクターに相談したかったが、そうするとシャーロットは盗み読みの罪を告白しなければならない。
頭が重い。
悪いことはできないものだと、シャーロットは半ば後悔していた。
そのとき。
「フェルマー様」
コンパートメントの外からかけられた控えめな声とノックの音に、シャーロットは急いで日記を閉じた。
軽く身支度を確認して扉を開けると、廊下に立っていた女の給仕が、台車を伴って立っていた。
見れば、そこにはガラスのデザートスタンドがあり、ジャムで飾られたクッキーやきつね色のフィナンシェ、色鮮やかなマカロンが乗っていた。
シャーロットはそのかわいらしさに見惚れた後、怪訝な顔を給仕に向けた。
「注文してないわよ?」
「ええ、お連れ様から贈り物です」
にこにこと笑顔で答えられ、シャーロットは面食らう。
「つ、連れって……」
「ご伝言がございます。“昨日のことを許してほしい”とのことです」
ガラスの上の輝かしいプチフールを前に、シャーロットは個室の中でひとり、寝台に倒れ伏していた。
罪悪感に打ちひしがれていたのである。
(お菓子でっ……お菓子で機嫌が直ると思ったら大間違いだけど……っ!)
重要なのは物ではない。
どんな形であれ、問題は、相手が謝意を示してきたということだった。
記憶にある限り、二人きりのときはシャーロットが他者に類を見ないほど尊大で失礼な態度を貫いてきた男が、先に折れて、あまつさえご機嫌取りをしてきたのである。
(……ていうか、直接謝りなさいよっ!)
きっと朝のシャーロットの様子を見て、何か思うところがあったのだ。シャーロットが相手と向かい合って食事をすることを、窮屈に感じたように。
こんなことをされては、シャーロットは自分から相手に謝り返しにいかないと気が済まない。朝食の席でひとこと言ってくれれば、シャーロットもその場で返せたのに。気恥ずかしさが心の中で相手に八つ当たりをさせる。
シャーロットはガラススタンドの置かれたテーブルに目を向けた。
朝食が終わって間もないからか、冷めてもおいしい種類の焼き菓子がシャーロットを呼んでいる。
軽食や菓子のメニューには載っていなかったと思えば、まさか相手が特別に注文したということだろうかと考えてしまう。
給仕の女の笑みが頭によみがえる。婚約者の機嫌を取ろうとする男とそれを受ける女を、ほほえましく見守る女の顔が。
ゆっくり身を起こし、床に足を下ろした。
「こんなにたくさん、ひとりで食べられないし……」
シャーロットは手に持ったスタンドを傾けないよう気を配りながら、のそのそと個室の扉を開けた。
***
「……何かありましたか」
移動した先のコンパートメントの主は、相変わらずの冷ややかな顔だった。
「……別に、ひとりじゃ食べきれないから」
シャーロットはなんとなく相手の目を見づらくて、それだけ早口で言うと入室の許可を待った。
「あなたは甘い物なら無限に食べられる種類の人間かと思っていました」
半身になって入室を促したヴィクターに内心ほっとしながら、シャーロットは部屋の奥のテーブルへと直行した。
いつも通りの憎まれ口になんと返そうかと迷っていると、扉の方を向いたままのヴィクターから「昨日はすみませんでした」と言ってきたので、シャーロットはきょとんとしてしまった。
「心配してくれたあなたに、大人げない態度を取りました。傷のことも、従者のことも」
「……こっ」
あらためて聞かされた言葉に、シャーロットは思わず上擦った声を出してしまった。
「こっちこそごめんなさいっ、その、別に朝のこととかも、わたし意地はってたわけじゃないのよ、ちょっと考えごとしてただけで……だからそんな、二回も謝ってくれなくても」
シャーロットは狼狽えて、既にテーブルに置いたデザートスタンドへ手を添えたり離したりと意味のない動きをしながら謝り返した。
なんとなく、相手から贈られたお菓子を一緒に食べることで、自分からの謝意も伝わるのではないかと思っていたシャーロットは、自分こそ幼稚だったかと顔を赤くした。
しかし、振り返ったヴィクターは眉をひそめた。
「二回?」
「ほ、ほら、このお菓子に伝言つけてくれたでしょ。まぁでも、そうね、わたしもちょっと普段から落ち着きがないって言われてたから、これを機に直していこうかと……」
「……伝言?」
シャーロットはそこでようやく、相手の顔に広がる戸惑いに気が付いた。
「え……? あの、さっき給仕の女の人が、あなたからだってこれを……」
「……知りませんよ」
口を開けて呆気にとられる女と、不審げに眉を寄せる男の間に沈黙が流れた。
窓の外は静かな雪景色である。
閉め切られたはずの個室の中で、雪の冷気にあてられたかのような悪寒がシャーロットの背に走る。
フェリックスの従者は列車内でパン・デピスのほかにも、軽食や飲み物を買っていた。
台車を押してきた女の笑顔が、脳裏によみがえる。
「っ、おい、待てっ!」
訪れたばかりの個室から飛び出したシャーロットは、もと来た道を逆戻りしていった。




