第十五話 反省と関心のあいだ
「……あ」
シャーロットは部屋に戻る途中で気がついた。紙袋をヴィクターの個室に置いてきてしまったのだ。
かの男の顔は見たくもないが、いかんせん菓子には罪がない。シャーロットは戻ろうとしていた自室を通りすぎた。
菓子に混ぜられていた果実は正真正銘ブルーベリーであり、体調を崩した従者はジャムなしのパン・デピスのほかにも、軽食や飲み物を買っていたという。
(……夜には、従者が降りた駅に着くわね)
中毒症状はあくまで可能性であり、列車内で投与された薬が降車後に効いたおかげでことなきを得たのかもしれない。
だがシャーロットは、フェリックスも毒物によって死んだという点で引っかかっていた。
ヴィクターはどう考えているのだろうか。
(聞いたところで教えてくれるかしら)
「ヴィクター、入るわよ」
軽くノックして返事を待つが、中から応答はない。留守だろうかと思い悩む。
――あんな不謹慎なからかい方をして、もし自分がここで苦しみ始めたらどんな顔をするのだろうか。
不毛な考えを追い払って、シャーロットは試しに、とコンパートメントの戸を押してみた。
鍵は開いていた。初対面の夜でもあるまいに、不用心なことだとシャーロットは眉をひそめたところで、足元に転がってきた空のカップに気が付いた。
なんで床に、と思ってさらに扉を押し開け、――そして、目を見開いた。
「ヴィクターっ? ヴィクターどうしたの!」
扉のすぐ向こうでうずくまっていたその右肩に手を当てたシャーロットは、自分でも驚くほど切羽詰まった声で男の名を呼んだ。
「な、なんで……」
そのとき、シャーロットの目に入ったのはテーブルの上の紙袋だった。
「――っ、だ」
「触るな」
だれか、と叫ぶ手前で、下りた紅茶色の前髪の隙間から黒い目がシャーロットを射抜いた。
安心したのもつかの間、ヴィクターの顔は冬だというのに汗に濡れ、しかしながら室内だというのに青ざめて息も上がっていた。
シャーロットの頭は真っ白になった。
「……肩から、手を」
「吐いてーー! 今すぐ吐いてーーーーっ!」
「っ! か、がはっ、ごっ」
シャーロットは無我夢中で、相手の背中を全力で叩いた。
***
「……怪我?」
激しく咳き込んだ男を前に、今度は修道院で習ったとおりに後ろからみぞおちを圧迫しようと背後に回り込んだシャーロットの動きは、切羽詰まった顔の当人に両腕を取られてようやく止まった。
「もう二年も前のことです。ときどき痛みがぶり返すだけで、しばらくじっとしていればなんともなくなります」
「ぱ、パン・デピスは」
「……そんなに怖いなら、もうあれ捨ててきましょうか」
苛立った様子のヴィクターは戸口付近まで転がってしまったカップを拾うと振り返って、空いた手をテーブルの上の紙袋に伸ばした。
「そ、それはもったいないわ。お菓子のせいじゃないならいいのよ」
急いで紙袋を確保したシャーロットに、どっちなんだ、とげんなりと呟く男は相変わらず顔色がよくなかった。
「それより、怪我、ちゃんと治ってないんじゃないの? 一応列車内で医者を探したほうが」
「……半分気の病のようなものです。お気になさらず」
とりつくしまもない言い方だった。
(……女王陛下の近衛隊って、後に残るような大怪我もする仕事なのね)
式典の際に凛々しい軍服姿で主君に華を添える姿しか思い浮かばなかったが、極秘任務の遂行といい、シャーロットの思っていた以上に大変な仕事のようだと申し訳なくなる。
加えて、旧家の当主である彼には数百年前に王家から爵位とともに与えられた領地の管理もあるはずで、事業の経営と投資で財をなすシャーロットの父以上に忙しいのかもしれない。
(口が悪いのも、古い傷がいたむのも、生活に時間的余裕がないからじゃないかしらね)
そう思ったシャーロットは、手のなかの紙袋を弄びながら、何気なく提案した。
「やっぱり従者をつれなさいよ。わたしと違って、命じれば別室待機もさせられるでしょ?」
深い意図はなかった。むしろ相手のためを思って言ったことだった。
「……大きなお世話ですよ。あなたが大人しくしていてくだされば、なんの問題もないのに」
だから、返された言葉の鋭い棘に、シャーロットはもろに動揺して、つい声を荒げてしまった。
「な、によその言い方っ! 人が心配して言ってるのに」
ヴィクターはもはや何も言わずに、茶器を持ってドアノブに手をかけた。背筋はぴんとのびて、直前までの憔悴を感じさせない佇まいであった。
「か、肩触ったのだって、悪かったと思ってるわよ! なによ、そんなふうに言わなくたっていいじゃない!」
出ていく背中へかけた言葉に返事はなかった。
静かに閉じられた扉を、シャーロットはしばらくの間むかむかと睨み付けていたが、やがて湧き出でてきた罪悪感にため息を漏らした。
だから、もともと無理やりついてきたのはこちらの方だというのに。
(でも、怪我のこと知らなかったんだもん……なによなによ、わたしの言うことはなんだって気に入らないってわけねっ)
滅入る気持ちを上昇させるべく、わざと相手に非を擦り付けるが、うまくいかなかった。
理由はわかっていた。一瞬、彼が本当に毒物に苦しんでいるのかと思ってしまったからだ。
それはもちろん、フェリックスの従者のことを事前に聞いていたせいでもある。
しかしまっさきに脳裏に浮かんだのは、フェリックス本人の遺体のそばにも、毒物が残されていたという記事の内容だった。
「……まあ、誰であれ、死なないならそれが何よりよ」
当たり前すぎて、口に出すと滑稽に聞こえた。
しかし、当たり前のように帰ってくると思っていた人が、永遠に帰ってこなくなることもあると、シャーロットは思い知ったばかりだった。
持っていた部分がくしゃくしゃになった紙袋のなかを覗く。
見覚えのある菓子を一欠片口に入れ、シャーロットは手近な椅子に座った。
(……本人が戻ってこなきゃ、無施錠で無人になっちゃうし)
気まずくとも、スペアの鍵を渡してもらえる関係ではない以上、ここでしばらく待つより仕方なかった。
焼き菓子は冷めてもスパイスの香り豊かだが、飲み物がないとどうにもすすまなかった。
袋の口を折り、手持ち無沙汰になったシャーロットは無意識にあたりを見回した。荷物置き場の鞄、壁に掛けられた外套、テーブルの上のペンとインク、黒い手帳。
「……」
シャーロットは窓の外に目を移す。コートリッツからはずいぶん離れて、流れていく地面や木々につもる雪も厚くなってきていた。
シャーロットは、面白味のない車窓風景から、また机の上へと視線を戻す。
「…………」
シャーロットはウエスト横のウォッチポケットから懐中時計を取り出すと、そのふたの百合と天使を見つめた。久しぶりに手元に戻ってきてからは、肌身離さず持ち歩いている。
「…………天使さま、どうかお見逃しください。これも早急に真実を知るためなのです」
ぼそりと呟くと、シャーロットは文字通り天使の目から我が身を隠すように、懐中時計を大事に元のポケットへしまいこんだ。
そして出入り口の扉が動く気配がないことを確認すると、シャーロットはそっと黒革張りの手帳を手に取った。




