第十三話 浮き足だつ初旅行
かき避けられた雪が、壁沿いで溶けては凍る、早朝のコートリッツ駅。
「……な……」
目が合った瞬間に愕然とした、相手の顔をゆっくり眺めてから、女はふっと得意げに笑った。
「このとおり、ちゃーんとお父様の許可は取ったわよ」
手の中に押しつけられた手紙と、目の前のシャーロットを交互に見てから、ヴィクターはまさか、という顔で封蝋を破いた。
「浮気してるかもしれない、不安で夜中に後を追いかけてしまうかもしれないって泣いたら、“せめて昼間、婚約者と一緒に動いてくれ”ですって。浮気するわけないって言ってもらえないあたり、もてる殿方は大変ねぇ」
視線が手紙の上から下へと這っていくにつれて、ヴィクターの目元が細かく震え始める。それを嘲笑うかのように、シャーロットはひらひらと乗車チケットをはためかせてみせた。
出発を待つチョコレート色の寝台列車が停留する駅舎で「……父親まで頭おかしいのか?」と呟いた無礼な男の横をすり抜けると、シャーロットはもぎ取った一等車両に乗り込んだ。
娘の勝手をわびる男爵からの手紙の末尾には、“つららは自分で探しますので、ご心配なく”と、別のインクで一文が書き足されていたのだった。
***
シャーロットは自分のコンパートメントから、すぐさまヴィクターのいるコンパートメントへと移ってきていた。片手に車内で購入したパン・デピスの入った紙袋を携えて。
「どうして女中ひとり連れてこないんですか、馬鹿なんですか」
注文した熱い紅茶とコーヒーが同時に運ばれてきた後、シャーロットが選ばなかったコーヒーを手にしたヴィクターは、窓の外をげっそりとした顔で見つめながら言った。
いい男も台無しで小気味よかったが、先日の自分も似たような顔で空を見つめていたことを思い出したので、“馬鹿”発言については、シャーロットは何も言わないでおくことにした。心の中の“偽装婚約の井戸”に相手を沈めるにとどめる。
「だって、ジュリアがいたらフェリックスのこと話せないでしょ。かわいそうだけど、馬車の中でお腹下してもらって、家に帰らせたわ」
「手口が強盗のそれと変わらないじゃないですか、訴えられても助けませんからね」
「う、うるさいわねぇ。寄宿学校では自分のことは自分でやってたもの、身支度も含めてひとりで大丈夫よ。だいたい、あなただってわたしと会うとき、いつも従者をつれていないじゃない」
「……」
個室の借り主の向かいに勝手に腰かけ、つんとすましたシャーロットが返した言葉には返事がなかった。かわりに、地を這うような申し出が忌々しげな表情でもたらされる。
「コルセットが締めにくいときは遠慮なく俺を呼んでください。――全っ力で手伝ってやる」
「呼ぶわけないでしょこの馬鹿力っ」
ひとりでも締められる前開きのコルセットだとは言わず、かの夜に敵わなかった腕力と握力を思い出したシャーロットは反射的に叫んだ。叫んでから、コンパートメントの扉がしっかり閉まっているかを思わず確認した。
不注意にも、シャーロットは自分が戸を閉めきっていなかったことにそのとき気がついた。コンパートメントのなかから漏れた大声につられたか、廊下で立ち止まっていた赤毛の男と細い隙間越しに一瞬目があったのを感じた。
(覗くなんて、あ、厚かましいわねっ)
シャーロットは急いで閉めに行き、鍵までかけた。
「……従者と言えば、フェリックス殿の行程のなかでも、すこし不自然なことがあったようで」
椅子に戻ったシャーロットはその言葉に反応して、視線を個室の中に戻した。ヴィクターはまた窓の外を見ていた。
「途中で従者が体調を崩したっていう件でしょ。……まさか、彼も亡くなってるとか?」
「いえ」
シャーロットは胸をなでおろした。
「死にかけたかもしれませんけどね」
シャーロットは焼き菓子を落としかけた。
「彼はコートリッツを発った日の夕刻から、嘔吐や発熱、瞳が大きくなるなどの症状に見舞われて、二等車に居合わせた医者がすぐに薬を飲ませても、今度は幻覚を見始めたと。最近はやっている、移りやすい悪性の風邪の可能性もあると、次の駅ですぐに降ろされたそうです」
シャーロットの読んだ新聞には、そこまでの詳細は載っていなかった。だからそれこそ寒さで調子を崩したのかと思い、体調管理不足でフェリックスから目を離すなんてと行き場のない怒りを抱くことすらしていた。
それが思っていた以上の重篤な症状だったとわかり、青ざめたシャーロットは手に持った菓子を口に入れることができなくなる。
「知らせを受け、降車駅近くの病院の医師が彼を介抱して、幸い一晩で回復したとか。とくに後遺症もなかったようですが、そうやって目を離した結果、主人が死んだとあって、解雇されたそうです」
「……ぶ、無事でよかったけど、理不尽でかわいそうね」
自分も心の中で従者を責めていたことを恥じながら、シャーロットは一瞬で冷えた手元を温めるため、パン・デピスを袋ごと膝に置き、カップに持ち替えた。
「主人一家のための使用人統括にあたる執事としては、仕方ないでしょう。……おかげで、従者を見つけて話をきくのに手間取りましたが」
「話?」
「列車内、もしくは乗る前に、なにを口にしたかと」
湯気の立ちのぼる紅茶を一口飲んだシャーロットは、話が見えなくなって首を傾げた。
「流行り病の症状には確かに似ていました。幻覚も強い薬の副作用の報告に一致します。が、散瞳の症状というのは初めて聞きました」
「そ、そう」
やはりよく分からなくて、シャーロットは静かにパン・デピスをちぎって口に入れた。
ほのかな蜂蜜の甘さと香辛料の風味とともに、生地に混ぜられたブルーベリージャムの爽やかさが口の中に広がって、場違いにもそれを堪能してしまいそうになる。
「これはある植物の中毒症状にも、とてもよく似ているのですよ」
「……えっ、てことは、だれかがその人に毒を盛ったってこと?」
飲み込んでから身を乗り出して口を開いたシャーロットに、可能性です、とヴィクターは続けた。
「そ、それも、もしかしたらこの列車内で行われたかもしれないって言うのっ?」
「騒がないでください。古来から毒性は認識されていましたが、悪気無く間違えて口にしてしまう事故も起きていた植物です。使い方次第で薬にもなりますし、誤って口にした可能性も排除できません」
「何食べたって? どこで手に入れたって言うのよ」
シャーロットが急かすと、ヴィクターはようやく女の方に顔を向けた。
「……それ、この列車の名物だそうですね」
「え、あ。そうよ、朝ごはんまだだったし、色んな味の種類があったわ……ってそれはいいから」
「彼も、それを食べたそうですよ」
シャーロットは目と口を開いて息を止め、ついで膝の上の紙袋を見た。
「俺は従者の症状はベラドンナの中毒症状に近いなと思っているんですがね。まぁ似ているんですよ」
――ブルーベリーの実と、ベラドンナの実は。
「………………い、嫌ーーーーっ!」
とっさに放り投げた紙袋を、長い腕を伸ばした男が絨毯張りの床に落ちる前に掴む。
「……従者が食べたパン・デピスには、ジャムは入っていなかったそうですがね」
しれっと放った言葉は、勢いで椅子から転げ落ちたシャーロットが喉奥に指を伸ばすのを間一髪防いだ。
「この、この、鬼畜がぁぁぁあっ!」
***
一等車の廊下で、車掌は疲労のにじんだため息を吐いた。
乗客からの通報は、コンパートメント内で若い女が暴れているような怒声と騒音がするという内容だった。
流行り病の騒ぎからひと月もたっていないのに、と大慌てで現場に走ってみれば、椅子の倒れた個室の中の二人は婚約者同士で、ちょっと行き違いがあっただけだという。
『ねぇ! い、一応きくけどこのジャム、いつ採取された実で作られたのっ? 六月よね? 初夏よね? 花は白かったわよねっ? え、まさか紫だったのっ?』
赤みがかった焦げ茶の髪の男が、申し訳なさそうに事情を説明する傍らで、金髪の女はしきりにパン・デピスの材料について喚いていた。
健康志向をかさに着たヒステリーだろうかと、車掌はつらつらと思う。上流階級の人間は食べるものに贅沢をいうから、その産地や栽培方法に口を出すことも、まれにある。
車掌は、今にも個室から飛び出して掴みかかってきそうだった勢いの女を、室内に押しとどめてくれた男の勇姿に密かに感謝し、また婚約の英断を称えながら持ち場へと戻っていった。




