第十二話 地図帳一冊分
あくる日、シャーロットはテーブルに置かれた紅茶と小さなパイ菓子をよそに、自室の窓から冬の空を見つめていた。コートリッツに薄く積もった雪も溶かしそうな、白々しいまでの青空を。
「……聞いているのか、シャーロットっ」
そして考えていた。
自業自得という言葉について。
「おまえ、ステューダー伯爵と王立美術館で大きな声で、やれ、あ、愛は期間じゃないだの、婚約は進めないだの、あけっぴろげに大騒ぎしていたそうじゃないか! そんな噂話の流れで“娘ぎみのご婚約おめでとう、なんで進めないんだい?”なんて言われるわしの身にもなってだなぁ……」
くどくどと叱っては、めそめそと嘆く父親の声を背中で受けながら、先日の自分の喉を呪っていた。
「聞いているのかっ、だからおまえはもうちょっと思慮深さをもってだなぁ……」
椅子に横向きにかけていたシャーロットは、父親に何も返さないのはそのままに、他人事のように遠い空を見つめるのをやめてとりあえずテーブルの上の菓子に向き合うことにした。
パイ生地を器に、たっぷりとカスタードクリームをつめたそれは、“愛の井戸”などと呼ばれる人気パティスリーの花形。
ざく、と、カラメリゼされた表面をフォークで押し割る。何度も何度も、パイの底へと突き刺すように押し込む。
クリームの井戸に沈めたカラメルに思い描いたのは、口うるさい父の顔であり、声の大きい自分の顔であり、そして紅茶色の髪の憎たらしい男の顔だった。
***
父親を追い出すようにティータイムを終えると、シャーロットは部屋で地図帳を引っ張り出していた。ここ数週間ですっかり見慣れた分厚い書物だ。
「ランドニア公爵領、フレック……バットン……」
めくるページもいつも同じ。新聞でフェリックスの訃報を知ってから、『バットンって、どこ……』と、ふらふらと書斎から勝手に持ってきたのだ。
バットンは田舎だ。列車を使っても、コートリッツから一週間以上かかる。その周辺一帯はみな小さくとも古くからある町で、ランドニア公爵一族との関わりも深いのだと最近知った。
シャーロットはページをめくり、コートリッツ駅周辺のページを開いた。
コートリッツからしばらく列車で北上していくと、グースという駅に着く。
そこから、東へのびる街道を通って四つの小さな町を経る。気候が良かったり、単身で馬を走らせれば別だが、雪深いグースで降車してから半日馬車に乗って、日が沈む前に最初の町について宿を取る。翌日から、また半日使って次の町へ。
そうしてゆったり進んでいき、それぞれの町の宿で金を使って領主家族の顔を見せながら、館の回りにリンゴ畑、さらに北にダイヤモンド鉱山を抱える広大なランドニア公爵領にたどり着く。
「……もう少しで領地に着けたのに……」
遭難死したわけではないとわかっていても、シャーロットは小さな町と大きな公爵領の距離を見比べてため息をついた。
「森の奥の、凍った湖……」
バットンの町の南側、ウィンリールと書かれた別の小さな町との間に、森を示す記号がある。注釈を見ると、背の高い針葉樹の森だった。そしてその森のなかに、大きな湖が記載されている。
こんなに大きな湖が凍るなんてと、北方には真夏の避暑目的以外には訪れたことのないシャーロットは想像だけで身を震わせた。
そしてそのあと、はたと気がついて首をかしげた。
「この湖、バットンから遠くない?」
湖や鉱山が広大で、小さな町や街道は密集しているように見えるが、縮尺から考えればバットンと湖はとてもではないが近くない。
森の中に開かれた町ウィンリールとどちらが近いか、という並びだ。ただ、ウィンリールからバットンへつながる街道は書かれていない。
シャーロットはとくに深い理由はないまま、ページをめくった。
すると、グースの二つ手前にあるノースローク駅から、やはり東へのびる細い街道があった。ノースローク駅を西端として東西に並ぶ二つの小さな町を通った街道は、そこで逆時計回りに湾曲するようにして森へ向かい、ウィンリールで終わっている。
グースからランドニアへ至る街道と、ちょうどバットンで合流しようとして、森に阻まれたような形に見えた。
***
「……違いますよ、その湖ではありません」
コートを脱いで使用人に預けると、ヴィクターはどこか疲れたような顔をして、シャーロットの隣、暖炉前の椅子に腰かけた。
「フェリックス殿の亡くなっていた森はこっちの、もっと小さな森ですよ。湖は小さなもので、……この縮尺の地図ではつぶれていますね」
ヴィクターはシャーロットが膝の上で開いた革張りの地図帳の一ヵ所、バットンそのものを指差したあと、眉を寄せてページを覗きこんだ。
「南の森は広大で、湖は近くに行かないと見えません」
シャーロットが「ふぅん」と相槌を打つ間に、手袋越しの長い指が器用にページをめくった。
「ほら、この森です」
拡大したページには、確かにバットンの町の一部といってもいいような近さで森が書かれていた。近くに書かれた等高線が、森のなかに高台があることを示している。洞窟もありそうだ。
「フェリックスは、この森に何をしにいったのかしら」
「わかりません。だから警察は一人で死ぬことが目的だったんだろうと結論付けたんです。周囲に他の人間のいた形跡もなかった」
二人は額をつき合わせて、地図の上を見つめていた。
「もっとも、夜通し降り続いた雪で、洞窟周辺の足跡は、朝にはほとんど消えていたんでしょうね」
ヴィクターの言葉のあと、シャーロットはしばらく地図を見つめ、呟いた。
「ここ、行ってみたい」
そういって顔をあげると、予想以上に近いところに紅茶色の前髪があった。
思わずのけぞって距離を取ろうとしたが、相手は遠ざかろうとした地図帳を引き寄せたので、膝の上の本を落とさないよう、シャーロットは腕と足をぴんと伸ばして固まった。
「俺は必要なのですでに手配済みですが、あなたは行ってもただ寒い思いをするだけだと思いますよ」
「……ひ、人を役立たずみたいにっ……、わたしも行くわよ、絶対ついてくわよ!」
相手の言いようについムッとして、シャーロットは言い返す語尾が強くなった。あ、と思ったが、今回はこういう展開も見越して外ではなく自邸で話すことにしたのだと思い出し、ひとつ息を吐く。
それを見たヴィクターが、前傾姿勢を正して背もたれに体を預けると、ようやく二人の距離は地図帳見開き一冊分より余裕が出た。
男はそのまま、ふ、と軽く笑った。
「……ですが、まず男爵の許可を得ませんと」
わざとらしい笑みにシャーロットが眉根を寄せる背後で、声が上がった。
「シャーロットっ! 夜這いの次は二人で旅行をねだるとはっ、ほんっとにおまえは慎みをどこにやったんだっ!」
いつの間にか、応接間の入り口で真っ赤な顔の父親が頭をかきむしってそこに立っていた。
大声につられて現れたリンディがすぐに引きずっていったが、そのリンディも「ごゆっくり……」とひきつり気味の笑顔を客人に向けていた。シャーロットに対しては堂々と睨みをきかせていくのも忘れない。
「……」
「お土産に、振り回すのに良さそうなつららでも探してきてあげますよ、婚約者殿」
にやにやと意地の悪い笑みを前にして、シャーロットは地図帳の上の拳を震わせたのだった。
おかげで、ここに来るまでに、ヴィクターが父と同じような目にあって恥をかいたのであろうことは、想像できても謝る気になれなかった。




