第一話 高鳴る胸
(なんで?)
パーティー会場の端に佇んだまま、シャーロットは限界まで見開かれた自分の目と、寝不足の頭を疑った。
冬の寒さも極まる二月某日。ダール伯爵邸の広間にぶら下がるシャンデリアの光を反射して、“それ”は一瞬、銀色に輝いた。ちょうど、自身の癖のある金髪とは対になるように。
そのシャーロットの青い目がひたと見つめる先には、数人の招待客を隔てて、ひとりの紳士の横顔がある。濃く煮だした紅茶のような髪色の、通った鼻筋とまっすぐな眉の美丈夫。
しかし、シャーロットにとって重要なのはその男の顔でも佇まいでもない。彼女の双眸は、手袋に覆われた男の右手へと向けられている。
(なんで、あれがここに?)
男の手の中には、古い懐中時計があった。
ジレからのびる銀色の鎖が、人差し指と中指に絡んでちらりと揺れ、文字盤の蓋が浮き上がる。男は黒い目を一瞬そこに注いで、ゆっくりとそれをテールコートの内側に戻した。
蓋の表に何かが彫られていたが、遠くて、小さくて、はっきりとは見えなかった。
(……もっとよく見なくちゃ、似てるだけかも)
紺色のドレスの下で鼓動が乱れる。細い喉をごくりと上下させた、そのとき。
「シャーロットったら!」
はたと気が付いて、シャーロットは肩を跳ねさせて声の主へと振り返った。
「……ア、アイリー伯母様」
パーティーの主催である伯母は、顔をしかめて立っていた。彼女はシャーロットの父の姉で、ダール伯爵夫人と呼ばれている。
今日は彼女の誕生祝を名目に人が集められているのである。
「そんな壁際で見つめていないで、もっと広間の真ん中にいらっしゃい! それになんでそんな暗い色のドレスなんです、今日はとっておきのお客様もたくさんいらしてるのに。……ほら、あそこでリンディが話してるクェイラー子爵なんて」
「ね、ねえ伯母様、あの濃い赤茶の髪の紳士はなんて方?」
姉の近くにいた若い貴族の話を遮って、シャーロットは扇の影でこっそり対象人物を指差した。
アイリーは姪の態度に気を悪くするでもなく、おやおやと目を見張ると一層声を潜めて答えた。
「さすがライナスの娘、面食いは父親譲りですこと。でも彼、婚約に漕ぎ着けるにはちょっと難易度の高いお方よ?」
「ちがっ……い、いいから!」
訂正する間すら惜しむと、伯母はちらと件の男の方を見てから耳打ちした。
「彼はステューダー伯爵位をお持ちの方よ。建国期から続くこの爵位の名前なら、あなたでも聞いたことはあるでしょう? 年は二十歳とお若いけれど、すでに家督を継いでいる上、女王陛下の覚えもめでたい、ヴィクター・ワーガス殿です」
「ヴィクター・ワーガス……」
教えられた名を口の中で繰り返したシャーロットは、扇越しにもう一度男を見た。相手はシャーロットとアイリーの視線には気がついていないのか、別の招待客と話し込んでいる。
「十七歳になったばかりのあなたとなら、年齢の釣り合いはとれますけど……。新興貴族のフェルマーとしては荷が重いし、性格もあなたとはあんまり合わないかと、第一候補からは外していましたの。わたくしだって、今回はたまたま縁があってお呼びできた方ですし」
そこまで言ってから、「でも」とアイリーはにんまりと笑って姪に顔を近づけた。
「シャーロット、あなたにその気があるなら、このわたくしがひと肌脱ぎましょう」
「……えっ、あ、ちが、待っ……!」
「さあさ、笑いなさい。なんの、伯爵と男爵令嬢なら、次期公爵と使用人に比べればよほど釣り合いが取れているというもの」
「っ!」
あらこれは不謹慎だったわね、と伯母が付け足す。しかしその言葉にシャーロットは一瞬息が止まり、背中を押す手から逃れるタイミングを逸した。
あれよあれよと言う間に紅茶色の髪の男のすぐ側へと運ばれ、シャーロットが制止する間もなく「ごきげんよう、ステューダー伯爵、レッセ子爵」とアイリーは声をかける。
「楽しんでくださっています? ああ、こちらはわたくしの姪、シャーロット・フェルマー。シャーロット、こちらがステューダー伯爵、ヴィクター・ワーガス殿よ。レッセ子爵とお会いするのは、二回目ですわね」
屋敷の女主人から声をかけられ、ステューダー伯爵と呼ばれた男の目が、それまでの話し相手からアイリーへ、そしてシャーロットへ移る。
黒い目と正面から向き合い、きゅ、と予期していなかった緊張がシャーロットの背筋を駆け巡った。が、伯母に強く背中を押され、渇いた喉でもどうにか声を絞り出すことはできた。
「……お初にお目にかかります。イヴリン男爵ライナス・フェルマーの三女、シャーロットと申します……」
「はじめまして。フェルマー家の三姉妹は美人揃いと聞いていましたが、噂以上でいらっしゃる」
男は目を細めて口角を軽く上げ、慣れた仕草でシャーロットの手を取ると指先に軽く口づけた。
年に見合わない落ち着きのある声音で、歯の浮くような世辞も嫌みがない。ヴィクター・ワーガスは、新入り貴族の伯母とその姪に対して、友好的な態度を見せたといえた。
「……あ、え……」
しかし、対するシャーロットは、まるで人生で初めて異性と話した少女のごとく、しどろもどろになってしまった。寄宿学校を出た一年前から社交の場に出ていて、挨拶から始まる一通りの他愛ない会話を如才なくこなしてきたにもかかわらず。
突然の会話に、心の準備ができていなかったせいである。
しかしなにより大きかったのは、その興味関心のほぼ全ては相手の上着の奥にあったせいである。
「あらあらっ、この子ったら照れてしまいましたわ」
横に立つ伯母がごまかすように笑うも、シャーロットはその後も言葉少なだった。伯母とヴィクター・ワーガス、そして先ほどまでヴィクターと話していたレッセ子爵が和やかに話していても、「はあ」とか「ええ」などと実のない相槌をうつしかない。
そうしている間も、シャーロットの頭のなかは常に先ほど見た懐中時計のことでいっぱいだったのだ。
(……なんでこの人が、あの懐中時計を持っているっていうの)
――だって、それはわたしがあの人にあげたのに。
年頃の男女が、きらびやかな宴の会場で向かい合う。
うら若き乙女の胸の高鳴りは本物だ。
ときめきではなく、緊張と混乱、そしてわずかな疑念によってではあったが。
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