1話 転移、遭遇
アッシュは眩しさで反射的に閉じてしまった目を開いた。そして、周囲を見渡す。
すると辺りは木が立て続けに並んでいて、足元にはふさふさと生い茂っている芝生を確認した。
木々が遠くの視界を遮って、周囲に木以外何があるかは認識できないでいる。
自分が今どういう状況か分からないアッシュであったが、すぐに感の良さが働き異世界転移したのではないかという仮説に彼の脳は辿り着いた。
さっきまで自宅の部屋にいたのに突然景色が変わり見覚えのない場所にただ呆然と立ち尽くしているのだから。
「これってもしかして……本当に異世界に来たのか!?」
テンションが急に上がり、普段ではあまり出さない大声を出しながら両手を天に掲げガッツポーズを取るアッシュ。
(は!いけないいけない!こんな所いきなり誰かに見られたら……って誰もいないか)
ふと、我に帰り再度周囲に人や生物がいないか確認して、ほっと胸をなで下ろす。
そして思い出したように、ズボンのポケットに手を入れて携帯を取り出す。
「確か、異世界転移物あるあるのひとつにあった、携帯が圏外になっているっていうのを確認しなくては」
取り出した携帯の画面に目を向ける。
すると、案の定画面右上には圏外という文字が映っている。
「やはりな……間違いなさそうだ」
アッシュは自分が異世界に来たということをすぐに理解した。
「まだ確定じゃないが、このファンタジー溢れる木々や芝生。恐らくここは異世界だろう……夢にしてはリアル過ぎるからな」
そう頬をつねりながら一人でぶつぶつと喋る。携帯をしまうと、再び周囲を見まわし人が歩けそうな小道を探す。
(しかしまぁ、今回に限ってこんな服で異世界転移を実行したのが間違いだったか……)
アッシュがそう思うのも当然で、着ているのは上下真っ黒のジャージであるからだ。
(とりあえず、ここで立ち止まってても何も起こらないからな。このあたりを散策して情報収集しなくては)
◇
歩き始めて数時間が経過した頃だ。
辺りは薄暗くなって、日は沈みきる最中であった。転移直後は明るい森だったが、すっかり不気味な森に変わってしまった。
そして、アッシュは淡々と続く小道を歩いて疲れが出てき始めた。
「おかしいな……こういう時って何かもっとこう……イベント的な何かが発生するのが鉄則じゃないのか……」
ぶつぶつと小言を呟きながらアッシュは近くの木に寄りかかり休息を取った。
「ふぅ……平和だなぁ」
暗い空を見上げながらアッシュは一息つく。
(この世界にはドラゴンとか勇者は居るのだろうか……エルフや獣人なんか居れば是非話してみたいものだ)
疲れの影響か、アッシュは考え事をしながら眠りにつこうとした。
(なんだか、眠くなってきたな)
船を漕ぎ始めると同時に、前方の茂みに草木が揺れる音が聞こえた。
「ん?何かいるのか……」
眠ろうとしていた身体を起こし、脳が半分眠っているような状況で、特に疑うこともなくアッシュはその茂みに近づいていった。
そして、草を掻き分けようと手を伸ばした瞬間茂みの奥から細い棘のようなものが飛んできてアッシュの肩を掠めた。
「な!?」
咄嗟の出来事に事態が読めないアッシュであったが、危機感を察知し反射的に飛び退いた。同時に眠気も一瞬で覚めた。
(今何か飛んできたか?)
後方を向くが、何も見当たらない。
ふと肩に目を向けると、そこには普段の日常では考えられない光景を目の当たりにした。
アッシュの肩は血で染められていて、指先まで滴っていたのだ。
その事実に気付いたアッシュは途端に激痛に襲われその場で叫んだ。
「いってええええ!!!!!」
(痛い!痛すぎる!いきなり過ぎんだろ!)
頭の中が痛みでいっぱいになり必死に出血を抑えようと腕に手を当て、歯を食いしばる。そして、痛みに悶絶するアッシュを前にその細い棘のようなものを飛ばしたであろう生物が現れた。
グルルルル、と猛獣のような唸り声が嫌でもアッシュの耳に入ってくる。
その生物を見た瞬間アッシュの口は開いたままになった。
姿はイノシシのような図体をしているが、ニュースで見るような農園を荒らす野生のイノシシとはあまりにも違いすぎる点があった。
通常イノシシには角などないはずだが、この個体は額から捻れた鋭い角が一本生えており、牙が異様に大きく胴体がアッシュよりも一回りもふた回りも大きかった。
獲物をようやく見つけたかのように、イノシシは涎を垂らしてアッシュを見る。
「なんだよ……これ……」
初めて目にした異様な姿のイノシシに動揺を隠せずにいた。もう、死ぬかもしれないと、そう思わざるを得ない程の威圧感に震えが止まらない。
「……この森ってこんな魔物が彷徨いているのか?」
怯えながら分析をするアッシュであったが、赤目のイノシシと目が合った瞬間、イノシシは眼をぎらつかせ、普通の動物よりも遥かに発達している爪の生えた脚で前掻きを始めた。
(焦るな。考えろ、考えるんだ。ここで死ぬわけにはいかない。異世界転移してすぐ人生終了なんてありえない!)
次にイノシシが取る行動を予想したアッシュは嫌な予感を察知し、顔が引きつる。
(待てよ?この動きって……)
そしてアッシュに考える時間を与えることもなく、予想通りイノシシはアッシュに向かって突進してきた。
(やばい!)
同時にアッシュは後方へ全力で逃げた。当然のようにイノシシはその後を追いかける。
障害物のない直線距離ならば、あの発達した脚に人間は到底及ばない。すぐに追いつかれてしまうだろうとアッシュは考えるが、木々をうまく避けながら走っている為に、イノシシの走行を邪魔してスピードも激減している。
(よし、これなら何とか逃げ切れる!)
◇
「はぁ……はぁ……」
(苦しい……最近運動していなかったからか、体が重く感じるし、呼吸が上手くできない……)
少しのパニック状態になりながらも今出せる全力でイノシシから逃げる。思考能力も低下してきている為に、動きも段々と単調になっていく。
すると、先ほどアッシュの肩を掠めたのと同じ細い棘が何本も飛んできた。
振り返ると、イノシシの目の脇にある小さな角から飛んできているのを確認した。角が飛ばされた後、驚異の再生スピードで生えてその角はアッシュに向かって飛ばされる。
「まじかよ!?」
(どんな再生力だよ!!というか、もうそろそろ走るのにも限界が!)
走り続けて数分が経った。普段走らないような森の道で、足場と視界が悪く平地よりも体力を奪われる。そして、アッシュの体力も限界が近づき徐々にスピードも落ちていった。
疲労に伴い気が緩んだその瞬間、それを狙ったかのようにイノシシが角を飛ばすと、それはアッシュの右足に命中した。そして、肩の痛みを忘れるほどに足に激痛が走り、体勢を崩して、その場に転がって倒れこんでしまった。
「くっそ……!」
足が動かない。痛みを通り越して痺れに近いような感覚が足全体に伝わってくる。
だが、そんな危機的状況だからこそ脳が活性化しているのか、アッシュは自分が持っている知識の中からひたすら生き抜く方法を模索していた。
(とりあえず刺さった角を抜くか……?いや、駄目だ。これ以上出血させてどうする?)
だがアッシュにこれといって医学の知識などあるわけがなく、角を無闇に引き抜いてはいけない事。そして、このまま放っておいても失血死してしまう事ぐらいしか思い浮かばなかった。
しかしその状況とは裏腹に、アッシュを襲ったイノシシはもう間近まで迫っている。
(くそっ……俺死ぬのか……折角来たこの世界も終わってしまうのか……まぁそうだよな。俺はライトノベルの主人公なんかじゃない……。転移して神の力を貰ったり、すぐ体が強化されて最強になって、周りからチヤホヤだなんて、そんなうまい話どこにもねぇんだよな……なんか、馬鹿みたいだな俺……最後がこんなのってないよな……)
アッシュは悔しさからか、眼から涙が零れた。そんな事など気にもしない様子のイノシシはアッシュの目の前で立ち止まり獲物を捕まえたかのような眼でアッシュを見つめる。
(あぁ……後悔ばかりの人生だったな……でも、最後に異世界に行けて良かった……)
アッシュは身体を楽にし、ゆっくり目を閉じた。
目を閉じて数秒経つ。しかし、アッシュが想像していたような攻撃は来ることはなく、次の瞬間、イノシシ周辺に突然爆発が起きる。その爆風に巻き込まれたアッシュは、吹き飛ばされて付近の木にぶつかった。
「ぐはっ!?」
突然物凄い衝撃を受けたアッシュは、痛みに耐えながらも上体だけ無理やり起こして周囲の様子を確認する。
「げほっげほっ……」
まだ土埃が完全に収まっていなかったらしく、咳き込みながら目を擦ると目の前に何者かが立っているのに気付いた。そして、奥の方にはイノシシが丸焦げで倒れているのをアッシュは目にした。
(イノシシが丸焦げ!?それに誰だ、女性の……人?)
セミロングの黒髪に白い帽子を被り、後ろ姿だけでもすらりとした体型をしているとわかるその人物は、身に付けている純白のマントについた土埃を払いながら振り返ると、手負いのアッシュに向けてこう言い放った。
「お前、弱いね」
振り返ったその人物はアッシュに向かって睨みつけながら、冷徹な表情で言う。
「こんな所で何してるの?」
(日本語!?言葉が通じるのか……?)
「あ……いや……」
状況が読めず、パニックに陥ったアッシュの口からはうまく言葉が出てこない。
「こっちも暇じゃないからさ、さっさと答えて」
アッシュに喋らせる余裕も与えずにその女性は言う。
(何がどうなってるか分かんないし、痛くてまともに喋れない……)
「はぁ……そんな間抜けな装備で武器も持たずにアトラスの森に入るなんてさぁ。自殺同然。魔物が狂暴化してるっていうのに、命投げ捨てようとは」
(自殺するわけあるか!くそっ、このまま誤解されちゃ......何か喋らないと)
「俺は死にに来たわけじゃない……」
誤解だけは解こうと、痛みに耐えながらも必死に答える。
そして、だんだんと意識が遠のいていく感覚がアッシュを襲う。抗う術もなく瞼を閉じようとすると、目先に立っている黒髪の人物が何か喋っているのをアッシュは感じた。
「そう。なら何で入ってきたかは知らないけどさ、生きられる体なのにそれを無駄にしようとするなんて本当に嘆かわしいよ。俺はお前みたいなーーーーーーーーーーーーー」
(何を言ってるかうまく聞き取れない......)
結局その言葉を最後まで聞けずに気絶してしまうアッシュ。