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en Juillet(d)

・七月二十四日(金)


 朝早くから真麗は校門の裏でじっと人を待っていた。自分の足許を見ているように伏し目がちにして、「待ち人以外は興味ありません」と全身殺気だっていた。その為、真麗に入れ込んでいる一年生たちも真麗を見ても小さく挨拶するだけでそそくさと去っていった。甘い匂いを感じて真麗が顔を上げると空印寺の背中を見つけた。真麗は駆け足で空印寺に追いつき、

「空印寺君、おはよう」

 真麗の声を聞いて空印寺は驚いたように振り返る。大きく息を吐き、呼吸を整えてから、

「冷泉さん、おはよう」

 真麗は努めて笑顔で、

「今日、放課後、どこかに行かない?」

 空印寺が立ち止まった。真麗も同じ様に立ち止まる。空印寺が珍しく真麗の顔に自分の顔を近づけた。その積極的とも言える空印寺の行動に真麗はちょっと動揺した。

「冷泉さん、もう会えない。今までありがとうございました」

 空印寺が大きく頭を下げた。それから真麗の方を一度も見る事なく、踵を返し駆け足で真麗の前から去っていた。真麗は空印寺の言った言葉がすぐに理解できなかった。

「レイセンサン……

「モウ、アエナイ……

「イママデアリガトウゴザイマシタ……

 その言葉を理解した時、真麗は回れ右をしてそのまま学校を背にして歩き出した。


 空印寺はもっと真麗に伝えるべき言葉があった。けれでも言葉がそれ以上でなかった。真麗に伝えなければならない言葉、自分を孤独の深淵から救い出してくれた事、人の優しさ、人の温もり、愛し愛される悦び、人と交流することの素晴らしさ、それらを伝えてくれた事への尽きぬ感謝、言い出したら切りがないくらいだ。しかし同時に、捕食されるという本能が感じる恐怖もあった。それらが混在して元々口下手な空印寺を委縮させた。だが一度言葉にしてしまった以上取り返しはつかない。真麗に対して十分誠意を尽くしたと空印寺は自分自身を強引に納得させた。自己欺瞞という言葉に、またもや目を背けたのだった。身も蓋もない言い方をすれば、空印寺は真麗の全てに背を向けて湊に逃げたという事だ。


 空印寺と湊は放課後、湊の家がある子安新田の方に向けて歩いていた。

「空印寺君、ごめんね。お母さんがどうしても連れて来いって。昨日、夕食前に帰ったじゃない。だから今日は絶対夕食を食べてもらんだって。今日は大丈夫よね?」

「うん」

 と言いながらも空印寺はあまり気の乗りはしていなかった。この年齢の男子であれば、交際相手の親に会うのは緊張もするし、第一何を話せばよいのか判らない。それに何か粗相をして嫌われてしまうのでないかとネガティブになるのは当然の事だった。それから勉強の事や読んでいる本の事を、他愛のない会話をしているうちに湊の家に着いた。湊が玄関の扉を開けると、湊の両親が待ち構えていた。

「お父さん……」

 明らかに湊の声は非難が混じっている。

「湊、おかえり。おーお君が空印寺君か、はじめまして。まあ遠慮なく上がってくれ」

 友好的な口ぶりで顔は笑顔なのだが、目は全く笑っていなかった。母親の方は「やれやれ」と苦笑いをしていた。一番驚いて茫然としているのは空印寺だった。


 湊の家を見つめる長い髪の少女。くるりと体を反転させ今来た道を戻りはじめた。そして制服の下にあるペンダントとしているヘアピンを力なく握った。


・七月二十五日(土)


 半ドンの授業が終わり、放課後軽い昼食をとった後、空印寺は乗り気ではなかったが、湊が強引に空印寺を引っ張て図書室に行った。空印寺は真麗と顔を合わせずらかった。さすがに空印寺でもそこまで無神経ではなかった。湊が強引に図書室に行ったのは、湊の心の中に、あの女に対しての対抗心があったのも事実である。以前に図書室で空印寺とあの女を見た時、あの女のいる場所を切望したことがあったからだった。そして今自分の手は空印寺を握ることができるのだ。例えあの女がいたところ何も問題はない、と湊は考えていた。

 図書室には真麗の姿はなかった。空印寺はほっとし、湊は特に気にした様子はなかった。


 湊と空印寺は下校のチャイムに急かされるように帰る準備を整のえ、図書室を見回りに来た教師に追い立てられるように図書室を出た。二人並んで階段を下りる。湊は何だか足がふわふわして宙を歩いている気分だった。

「傍から見ると私たちはどう見えるのだろう? 付き合っているように見えるのだろうか? それともただの友達同士?」湊は空印寺との距離を一歩、二歩と詰めた。腕が触れ合うくらい近づいた。

「恋人同士に見えるかな……」顔がぽっと赤くなるのを湊は感じた。ちらりと空印寺を盗み見る。突然空印寺が足を止め、そして湊の目の前で隣の下駄箱の列を指さした。

「あっ」

 湊の下駄箱は空印寺の隣の列にある。湊は幸せの妄想に浸っていた為、ついつい空印寺に付いて行ってしまい自分の下駄箱の事を失念してしまった。恥ずかしい……

「わたし、靴を履き替えてくるね」

 空印寺の足許を見ながら湊は呟くように言った。空印寺は一回だけ頷いて答えた。けれども湊はそれを見る事なくさっと踵を返し自分の下駄箱の方へ歩き出した。空印寺は湊の背中を見届けた後、自分の下駄箱に向かった。下駄箱から靴を取りだしポンと投げるように置き靴を履き終えると、代わりに上履きを下駄箱へ雑に放り込んだ。その時、廊下側で人の気配を感じ、その方向に顔を向けた。

 空印寺は自分でも判るくらい息を呑んだ。そこに真麗が立っていたのだ。じっと自分を見つめている。空印寺はその眼が、いや真麗そのもの存在に恐怖を感じ取った。その恐怖は以前から感じ始めたものと同じだった。暑さが原因ではない汗が全身から噴き出してくる。

「空印寺君、お待たせ……」

 湊が玄関を回って空印寺のところにやって来た。空印寺が湊の方に振り返る。湊はその空印寺の向う側に真麗がいるのを認めた。そして湊は空印寺の顔が露骨に嫌がっているのを見て、真麗と空印寺の間に割って入った。ほんの数分前の空印寺の事で顔を赤くし照れていた湊とは全く別人だった。湊は真麗をまるで親の仇のような視線で、敵意丸出しで睨みつけた。

 真麗は湊の敵意丸出しの視線を受けたにも関わらず、まるで湊の存在しないかのように、ただじっと空印寺を見つめている。

「冷泉さん、こんにちは。私たちは今から二人で帰りますので。それでは、さようなら」

 湊の声は真麗には届いていないようだが、そんな事はお構いなしに事を進める。湊は空印寺の手を取り、

「行きましょう」

 空印寺の手を少し強引に引っ張った。それにつられるように空印寺は歩き出し、二人は玄関を出た。未だに真麗の視線を感じる。それから湊は空印寺と手を繋いだまま歩き続けた。空印寺の様子がどこか変だったのが気になったのだ。空印寺の手は異常に汗をかいている。その手を少し強く握る。それを感じたのか、空印寺が湊の方に振り返り、何とも言えない引きつった笑みを返す。湊はその空印寺の引きつった笑みを見て、真麗にこれ以上空印寺に付きまとわないように言わなければならないと心に決めた。

「あの女、最低。振られたのに、しつこ過ぎる……、完全なストーカーよ……、空印寺君は私が守るわ……」湊は真麗にあらん限りの悪態を心の中でついた。

 湊と空印寺は帰る方向が真逆である。県道38号線の交差点で別々の方向に向かうのだが、今日は真麗の事があり、湊は空印寺に付き添って高田駅まで行くことにした。空印寺は申し訳なさそうに首を振り辞退の意思を示したが、湊は強引に付いていくことにしたのだ。繋いだ手をぎゅっと強く握り、もう一方の手で空印寺の腕をしっかり掴んだ。その意思の強さに根負けして、空印寺は湊が駅まで付いてくることを認めた。二人が歩き出しても、湊は空印寺の手をしっかり手を握ったままだった。空印寺はかなり気恥ずかしいかった。けれども、その気恥ずかしさよりも、今は湊が自分の手を掴む感触、重みがとても心を強かった。湊が、この人がここにいてくれるだけで、自分の支えになっている。その心持ちは空印寺の男としての部分を揺さぶった。

 空印寺は湊を見た。湊は空印寺を守るように手を握り、強い意志を持って前を見つめている。この先に行くべき道が見えているように。空印寺は湊から向けられる強い気持ち、その愛情を伴った優しさを向けられる事に、男して人としての悦びを感じた。その悦びは心の奥底から湧き上がって来て心全体を満たし、それだけはなく、この身体全体をも包み込んでくる。

 空印寺は湊にもっともっと近づきたくなり、湊の事を、湊の全てを感じたくなり、湊を抱きしめたくなった。その衝動は思春期の少年を加速される事はあっても停止や減速させる事はない。例え人付き合いが悪い空印寺であっても、無論同じである。空印寺は湊の腰に手を廻し、ぐっと自分の方へ抱き寄せた。実はこの空印寺の湊への信愛の裏には、無論空印寺には自覚はないのだが、真麗からの本能的な恐怖から逃げる為と手放した愛し愛される悦び、人と繋がることを取り戻す感情もあった。

 湊は突然空印寺に抱きしめられ気が動転した。何が何だか解らない。腰に手を廻されたかと思ったら、あっという間に抱きしめたられた。そして抱きしめられた、と理解した途端、湊の頭は真っ白になった。空印寺が湊を抱きしめたのは十秒も満たさないくらい短い時間だった。空印寺は湊との距離を取った。湊が顔を真っ赤して今にも泣き出しそうな目をしていた。空印寺は湊の気持ちを考えず、自分の欲望のまま行動を取ったことを知り、湊がこんな自分を嫌うのではないかと不安になった。

 湊は空印寺に抱きしめられ頭が真っ白になり意識がとんだ。その後にはっきりと思い出せるのは、空印寺が顔を赤くして自分に対して頭を下げて謝罪している姿だった。おそらく自分も彼以上に顔を赤くしている自覚はあった。まだ頭がふらふらしている。全力疾走した後のように息も荒く鼓動も激しい。息を整えないと話すことも難しいそうだ。湊は数回深呼吸した。その甲斐があって、少しは落ち着きを取り戻した。しかし話はじめると、まだ上手く言葉にできず焦るばかりだった。

「空印寺君、あの、あのね。その、だから。えーと。あ、謝らなくていいの。その、びっくりしただけだから」

 湊は再び空印寺の手を取った。空印寺がその手を少し強く握り返す。それから二人は何も言わず手を繋いだまま歩きはじめた。今度は二人の頭が近づいて一瞬重なりすぐに離れた。

「目は口程に物を言う」という諺がある。その意味は何も言わずとも目つきを見ればその人の感情が読めると言う事である。

 真麗は空印寺と湊が抱き合い、唇を合わせるのを見ていた。その切れ長の目にはどんな感情が宿っていたのだろうか。真麗は誰にも顔を見られたくないのか、顔を伏せながら二人と反対方向に歩きはじめた。


 真麗はかなり遠回りして、南高田駅に着いた。プレハブの無人駅舎への階段を上がりホームに出る。疎らに人が立っている。この駅は単線の一面ホームなので、上りの乗客か下りの乗客は電車が来るまでは判らない。真麗が乗る上り電車はまだ十五分ほど時間がある。どうやら先に下りの直江津行の電車来るようだ。真麗は何故だか急に、その下り電車に乗ってみたくなった。ただ自宅に帰りたくなかっただけのか、それとも別の意味があるのか、直江津駅は空印寺がいるところだ。多分にそういう気持ちもあったのだろう。だが、それを真麗は認めたくはなかった。

 下り電車がホームに入って来た。ヘッドランプが光る。その光がやけに眩しかった。まるで異邦人のムルソーと同じく眩しいことを理由に殺人を犯すように、真麗は直江津行の列車に乗り込んだ。空席を見つけ、そこに腰を下ろして目を閉じた。電車が揺れる。規則的なガタンゴトンという音が聞こえる。ただそれだけだった。電車はすぐに高田駅に着いた。真麗は慌てて立ち上がり電車から降りた。見慣れた高田駅のホームだった。真麗は跨線橋を渡り上りのホームへ出た。自分でも無意味な事をしていると思う。だけど真麗はそれでいいと思ったのだ。こうしている内に何かが変わるのではないかという希望が持てた。何の根拠もない、ただの妄想のたぐいであっても。それでも何かに縋らないと自分が自分でなくなってしまいそうで、真麗はそれが怖かった。

 新井駅に着いた時には午後十一時近くになっていた。駅を出て、湊とやり合った場所を通り過ぎ、県道30号線を伝い渋江川を越え東へ向かう。この数百メートル余りの歩道を照らす街灯はクラシックな形をしていて意外とオシャレな雰囲気があった。余り関心のある人はいないようだが。大きな道からはずれ数分、真麗が自宅に着くと玄関のドアの前に小包が無造作に置いてあった。宛名もなく、送り主の名もない、不審物と言えばその通りの物だった。さらに雑に包んである包装紙にはミミズが這ったような文字、良く見れば、「Entschlafen」とも見えなくもない文字が書いてあった。真麗はじっとそれを眺め、真剣な面持ちでその小包を手に取った。玄関の鍵を開け、部屋に入る。2DKの一番日当たりの良い部屋が真麗の部屋になっている。部屋は綺麗に整理整頓されていた。しかし何となく生活感が感じられない。勉強机にその小包を置き、椅子に腰掛けた。再びミミズの這った文字のようなものを眺め、その文字のようなものを優しい手つきで撫でた。

「帰っておいで」優しい声がまた聞こえてくる。

 真麗はその言葉を先日と同じように首を振り拒絶した。それからゆっくりと小包を開けた。そこには刃渡り30cmほどの小刀が鞘に収まっていた。それだけでなく、その刃渡りと同じくらいの毛髪の束が一房入っていた。真麗はその毛髪を手に取り、じっとその毛髪を眺めた。まるでその毛髪に何かのメッセージが込められているように。

 一時間近く、真麗はその毛髪の束を眺めていた。視線を手許に落とし、それから興味を失ったかのように無造作に毛髪の束を机の上に投げた。真麗は小刀の鞘を抜き、その刃をじっくり観察するように見つめ、自分を納得させるかのように何度も頷き、いきなり小刀を持った腕を振り上げ一気に小刀を入れていた小包に振り下ろした。鋭い刃は小包の柔な包装紙を簡単に突き破り、その下にある合板の机に突き刺さった。真麗はその突き刺さった小刀を強く握りしめた。真麗は自分が何をしたいのか、何を望むのか、今なお理解できないでいた。空印寺が見せる自分を拒絶するような態度。

「わたしも馬鹿じゃない。今、空印寺君がわたしの事を心良く思っていないのは解る……、それを認めるのは悲しく辛い……、でも、と思う……、あの時も、ここに来てからも、彼は私の事を好きだと言ってくれた。その言葉は嘘じゃない……」

「今は彼の心は私から離れているかもしれない。きっと私の事を解ってくれる。また私の事を愛してくれる……」そして蘇るのは空印寺とあの女の寄り添う姿。真麗は息苦しくなるくらい胸が痛んだ。あの女の事を少しでも思い出しただけも気分が悪い。「あんなブサイクなんて、どこかで腐っていればいいのよ……」小刀に握る手に力が入った。ぐりぐりと机を掘る。一度発火した真麗の怒りは湊だけでなく空印寺にも向かった。

「私の事を好きだと言ったのに、どうしてあんな女がいいのよ……、私の事を好きだと言ったのに……」再び小刀に握る手に力が入る。どういう訳だか、真麗は笑いたくなった。心から、お腹の底から笑いたくなった。なのに声が出ない。小刀を机から抜き、再び力任せに机に突き刺した。それも瞬く間に力が抜け、怒りに焼いた身が冷めていく。

「このまま泡となって消えるのも、それもいいのかもしれない……、全てを捨ててここまで来たけど、彼がいなくては意味がない……」真麗の心はここ数日何度も同じ場所をぐるぐると廻っていた。空印寺に想い焦がれ、空印寺のつれない態度に怒り絶望し、空印寺に寄り添うあの女の姿に妬み、そして行先を失った自分の想いに対して。

 真麗はいま出口のない迷宮にいる。その迷宮は麻薬の禁断症状に等しく、心をどこまでも蝕んでいく、愛情の飢餓が生み出した禁断症状だった。真麗は空印寺と付き合いはじめ、空印寺に体に触れ、心に触れ、空印寺のあたたかい温もりを知り、その心地良さを知った。真麗が感じた愛情と言う媚薬は、真麗の体の奥から痺れさせ、女の性が知りうる肉体と精神の快楽を呼び起こさせ、真麗の心を芯から蕩けさせた。真麗は空印寺から持たされる愛情という快感なしでは生きていけない程、依存し酔ってしまった。それは幼い頃から彼を想い続けた時間と重みに比例していた。そして空印寺からの愛情への禁断症状が起こると真麗は攻撃的になり、禁断症状が収まると真麗は攻撃性を失い、絶望的な心持ちになり、それだけでなく空印寺を想い焦がれる。まるで麻薬中毒患者が身も心も疲れ果てているのに、それでも麻薬を求め、同時に麻薬の後遺症にもがき苦しんでいるようだった。

 そもそも愛情は優しく愛しむものであるものなのに、それが時には鋭利な刃物となり心を深く抉り傷つけることがある。何度も繰り返さる禁断症状と後遺症で真麗の心はズダズタになっていた。もし擬人化できるのであれば、全身血まみれの生死をさまよう危篤状態だった。真麗が発作的に自分の喉に小刀を向けた。一気に突けば、この無限地獄から抜けられるとそんな誘惑にかられた。

 その時、真麗にひとつのイメージが浮かび上がった。

「真麗の体が腐った木が崩れるようにボロボロと崩れ落ち、崩れ落ち先から泡となって消えていく。真麗の体はあっという間に泡になってしまった。その泡のひとつが、空印寺があの女の肩を抱きながら寄り添う二人の前にふわふわと漂った。二人は結婚指輪を交換するようにその泡を優しく捕まえる。二人は顔を見合って、相手の事を愛おしそうに微笑む。そして二人が捕まえた泡はあっけなく消え、二人が頬寄せまた笑い合った……」そこでそのイメージは消えた。真麗の小刀を握る力が緩み、腕を下した。そしてまた笑いたくなった。心から、体の奥から笑いたくなった。今度はお腹の底から笑い声が出た。

「笑うとこんなに気持ちいいんだ……」真麗は顔を上げ、天井にある明かりの点いていない電灯を眺めた。まだ暗闇に眼が慣れていないのだろう、目に映る物が全てぼやけていた。


・七月二十七日(月)


 土曜日曜と二晩続けて、真麗は机に伏せた状態でそのまま眠ってしまった。ずっと空印寺のことばかり考えていた。今朝目を覚ました時、まだ窓の外は朝日が昇る前の薄暗く青味がかった色をしていた。昨晩も、お風呂に入っていなかった。長い髪は一日でも手入れを怠たると、すぐに髪はもつれたり絡まったりする。それだけではない。髪の先の艶がなくなってしまう。綺麗な髪を維持するのは見た目以上に手間がかかるもの。もちろん手間をかけた分愛着も沸く。真麗は自分の長い髪が好きだった。彼に会うために、生まれてから一度も切ったことのない髪に刃を入れた。その時は、彼に会える喜びの方が髪を惜しむ気持ちより大きかった。半年も経っていない話だなと真麗は思った。真麗は浴槽に洗い水を張り、服を乱雑に脱ぐとその水の中に体を沈めた。冷たい水が気持ちよかった。髪を丁寧洗い、体を石鹸水で洗い流す頃には、真麗は「今日は必ず空印寺に会わなければならない」と言う使命感にも似た気持ちになった。

「空印寺君にあの贈り物を届けないと……」真麗はお風呂からあがり、体の水分を拭きり、髪を時間をかけて乾かした。窓を見た時、もう夜が明けていた。真麗は晴れやかな気持ちになった。身を清めるようにお風呂に入ることで、体だけなく心まで洗われたような気持ちになったのだ。


 真麗は登校時には珍しく学校指定の鞄だけでなくきれいな手提げ袋を持っていた。教室に入るなり、真麗のきれいな手提げ袋は注目を浴びた。もちろん、あからさまに見る者はいない。ちょっとした仕草のついでにその手提げ袋をちらっと見る。その後見せる彼らの表情は様々だ。意味深な顔をする者、無関心を決め込む者、女生徒たちは主に手提げ袋の中味と誰に贈るのかが一番の関心事項だった。真麗と空印寺が痴話げんかをした噂から真麗が空印寺に贈り物をするのだろうと、考える者が一番多かった。

 真麗は何も知らない振りをして、彼らの事は無視することにした。元々彼らのことなど興味はない。真麗は時計を見た。まだ時間はある。自分の教室に向かう生徒たちの間をすり抜けるように駆け足で空印寺の教室に向かった。そこで目に留まった男子生徒に声をかけた。その男子生徒は運動部でも所属しているのか、背が高くがっちりとした体躯だった。

 真麗は上目遣いで男子生徒を見る。

「ちょっとお願いがあるの」

 その男子生徒は足を止めた。

「悪いけど、空印寺君に伝えて欲しいの」

 声をかけられた男子生徒は最初の内は嬉しそうな顔をしたが、すぐに期待外れの顔をした。

「一時間目の授業が終わったら、通用門側の自転車置き場に来て欲しいって」

 男子生徒は真麗の、その鬼気迫る真剣な表情を見て納得顔になった。この男子生徒は空印寺が三年の女子と付き合っていると噂が立った時に、その噂を何度も耳にしていた。その噂の人物がここにいるのに意外なことに全く気づかなかった。噂は聞いていても、案外当人の顔をまでは知らないものかもしれない。男子がする恋バナなんてその程度もの。男子生徒がぶっきらぼうに、

「わかった」

 と答え、

「ありがとう」

 真麗はスカートを翻し軽い足取りで駆けていった。その男子生徒は真麗の後ろ姿が見えなくなるまで真麗の姿を見ていた。そして真麗の姿が廊下の曲がり角で消えた。男子生徒は肩をすくめ、ちょっと気取った顔をしながら「やれやれ」と一息吐いた。


 真麗は一時間目の授業をさぼり、自転車置き場を囲む鉄柵の陰に身を屈めながら空印寺が現われるのを待った。どれくらい時間が経ったのかは判らなかった。ただ時間がじりじりと音を立てて過ぎていった。それでも真麗は待ち続け、ついに空印寺の姿を見つけた。

 空印寺は少し困った顔をしている。真麗の顔がほころんだ。「空印寺君って、やっぱり空印寺君だわ……」じりじりと音を立てて流れていた時間が止まり、時間の流れが弛緩した。手提げ袋から彼への贈り物を取りだし、両手で強く握った。

 この贈り物が空印寺に届くことを願いながら……

 真麗は再び空印寺を盗み見た。真麗は空印寺がこの場所に来てくれたことが、無性に嬉しかった。その悦びを体現するかのように真麗は空印寺に向かって足取りも軽く駆け出した。空印寺は前触れもなく突如現われた真麗を見て驚きの表情をする。硬直したように体の動きが止まった。

 真麗は両手で握った贈り物を空印寺に向け、一気に体ごとぶつかった。空印寺は突然の事に何が起こったのか理解できなかった。その直後、歯を食いしばりながらお腹を抱えるように前屈みになり、そのまま背を丸くしたまま真麗の足許に倒れ込んだ。空印寺の体から真っ赤な鮮血が染み出してくる。それも物凄い勢いで。

 真麗は空印寺が足許で苦しむ姿を眺めていた。喜んでいるのか、悲しんでいるのか、怒っているのか、悔やんでいるのか、他人の目からは全く判らない表情だった。真麗は空印寺の血が付いた小刀を空印寺の横に放り投げた。アスファルトに金属が当たる無機質な音が響く。真麗は空印寺の方を見ながら一歩二歩と後退り、いきなり振り返ったかと思うと、全速力で駆け出した。


 空印寺はたまたま通りかかった、近くにあるコンビニエンスストアに彼女から頼まれたダブルチョコドーナツを買いに行っていた男子生徒に発見された。彼は即座に119番に通報し、自分の校則違反など物ともせず全力疾走で職員室に駆け込んだ。空印寺は救急車で病院に搬送された。意識不明の重体、生と死の狭間を細いロープで渡っている予断を許さない状態だった。

 女生徒が一人、気を失って倒れていたことを忘れずにここに書き留めておく。

 その後は、学校は大混乱に陥り、好奇心丸出しのマスメディアが寄って集ってこの事件を面白おかしく流した。その混乱は永遠に続くのかと思われる程、大盛況だった。しかし一週間も経たず、マスメディアの熱は次の獲物へと移っていった。生徒の間ではこの事件で持ち切りとなった。刺した女生徒が真麗であり、刺された生徒が空印寺であったことは生徒の間ではあっという間に広がった。

 この後、すぐに運よく夏休みがはじまる。生徒たちの事件への関心も長い休みが薄れさせてくれることを期待した教師も多かった。特に受験を控えた三年生のクラスを受け持つ担任たちは。


 上越地方特有の短い夏休みが終わり、八月の下旬に学校が始まった。


 空印寺建康は一命を取り留め、冷泉真麗の姿は跡形もなく消えた。

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