en Juillet(c)
・七月二十一日(火)
空印寺は夜遅くまで考え事をしていた。そしていつしか眠りに落ちていた。
…………何か気持ち悪い気配がして、空印寺は目を覚ました。薄暗いところにいるようだ。目が慣れていない。はっきりとここがどこか確認できない。誰かが何かを食べているような音がする。それと時々漏れるように聞こえてくる、くぐもった笑い声。「心細かった……」やがて目が慣れてきて、ここが洞窟のような場所だと判り、この場所を離れようとした。しかし足が何かに繋がれていて、ここからほとんど動くことが出来ない。小さな岩が自分の目の前にある。その向うから、さっきから聞こえてくる何か食べる音やどもったような笑い声。その人たちに助けてもらうと、繋がれた足を引きづりながらも何とか岩の向こうに顔を出せた。
空印寺はそこで信じられないものを見た。人を喰らう女がいる。一人、二人、三人ほど。人の皮をその歯で噛切り、肉や内臓にまるで肉食動物が捕食した草食動物を喰らうように群がる。顔中血みどろになり、時折り顔を上げては肉を咀嚼する。人は恐怖が許容範囲を超えると声も出ないものらしい。それどこから体が硬直してしまい全く動けなくなった。失禁しなかっただけでも空印寺は大物なのかもしれない。
人を喰らう連中の横に小さな女の子が立っていた。時々、人肉を分けてもらっているようだ。そして空印寺の視線を感じたらしく、空印寺の方に顔を向けた。空印寺は遠目であったが、その女の子と目が合った気がした。空印寺の予想通り、その女の子は空印寺に気づき、トコトコと空印寺の方にやってきた。人を喰っていた女の一人が女の子の動向に気づき、その後を追ってきた。空印寺の許にやって来たのは幼い女の子だった。女の子は空印寺の顔をじっと覗き込んだ。可愛らしい顔をした女の子だった。女の子の目は特徴があった。涼しげな切れ長の目だった。それから女の子はパチパチと瞬きをして思案顔になった。
「ねえ母さま。この男の子、わたしに下さいな」
女の子に母さまと呼ばれた、女の子を追ってきた女が、赤い血を口許から滴らせながら手に持っていた肉を食み、喉を鳴らして呑み込んだ。
「あら、あなた、この男の子が気に入ったの?」
不気味な笑みを零しながら、女の子に問いかけた。その女の子は胸に手を当て、
「この男の子の顔を見たら、胸がドキドキするの。びっくりするくらいドキドキするの。わたし、その……母さま。わたし、この男の子と一緒にいたい」
と母親に訴えかけた。
「小さいと言っても、あなたも女なのね。いいわ、その子はあなたにあげるわ。好きになさい」
女の子は満面の笑顔になった。それから思い詰めたように顔を引き締めて、
「母さま、ありがとう。それで、その、わたしもこの子と一緒に陸に上がりたいの」
女は「あらまぁ」とちょっとした驚きの表情を見せ、女の子に諭すように、
「この子を陸に返すとして、あなたがこの子と同じように陸で生きていける大人の体になるまで後十回は冬を越さないといけないわよ」
女の子はそんな事など問題ではないかのように小さな胸を張って応えた。
「大丈夫よ、母さま。わたしは待ちます」
女の子は再び空印寺の顔に自分の顔を寄せた。女の子の切れ長の目が空印寺を捉える。
「あなた、名前は?」
「くういんじたかやす」
恐怖でほとんど口が開けられずさらに舌ももつれがちで、自分の名を言えたかどうだか空印寺には判らなかった。女の子は空印寺に何かを期待するような顔をしながら、
「わたしのこと好き?」
と空印寺に迫るように問いかけた。空印寺にはこの女の子が得体の知れない化物にしか見えず、ただ恐怖を感じる以外何もない。そしてその事を言葉にすることは出来なかった。彼の生存本能が警告を鳴らしたのだ。「絶対逆らうな」と。空印寺はその女の子の様子を伺いながら首を縦に振った。女の子は目を見開き嬉しそうな顔をしながら弾んだ声で、
「また会える?」
空印寺は先と同じように首を縦に振った。
「約束よ」
その女の子は母親の方に振り返り、
「ねぇ母さま。この男の子も約束してくれたわ」
「馬鹿ねぇ、この男の子は陸に帰ると、ここでの事やあなたとの約束は忘れるのよ」
「嘘よっ、そんな事はない。絶対約束を守ってくれるわ。好きって言ってくれたのよ」
女の子はむきになって母親に言い返した。女の子の母親はやれやれと少し面倒くさそうな顔をして、
「じゃ、この男の子におまじないをしておいてあげる」
「どんなおまじない」
女の子は期待に目を輝かせた。
「将来あなたを必ず好きになる、おまじないよ」
その言葉を聞いた女の子の笑顔はこの世界の幸せを独り占めしたように、満面の笑みをたたえ、
「ありがとう、母さま」
女の子の母親は空印寺の小さな顎を掴み、自分の眼と空印寺の眼を合わせた。その眼の瞳孔が縦長に伸び、まるで暗闇の中で光る猫の眼ようでもあり、爬虫類の眼のようでもあった。空印寺はその眼に見据えられ死の存在を触れるくらい間近に感じた。ただただ震え上がるばかりで何も出来ず、そして恐怖が全身を覆い空印寺の顔を嬲るように抱きすくめた時、空印寺は意識が遠のいていくのをまるで他人事のように感じた。意識が途切れる瞬間、真の恐怖から解放される時こんなに心を安らかにするのだと知った。その直後、空印寺の意識は途絶えた。
空印寺が目を覚ますと、寝汗で全身がびっしょりと濡れていた。「あれは現実、夢、それとも妄想のたぐいなのだろうか……」空印寺は判断がつかなかった。ただ幼い頃に失った空白の時間、それを埋めるものだという確かな実感があった。またあの光景が脳裏に蘇る。人を喰っていた連中。思い出しただけで、空印寺は胃の中のものを吐き出した。それと同時に蘇る圧倒的な恐怖。空印寺は目を伏せ、身を縮こませるように頭を抱えた。脂汗の塊がいくつも頬を流れ顎を伝い落ちていく。空印寺は口許を手の甲で拭った。全力疾走直後ように息が荒い。しかも肩で息をするような浅い呼吸しかできない。
あの小さな女の子、あの眼、間違いなく幼い時の冷泉真麗だ。そう確信があった。あの時、女の子に感じた得体の知れない化物への恐怖、それが今の冷泉真麗と繋がっていく。それが生々しい実感となって空印寺を襲う。空印寺は冷泉真麗が今まで感じていた自分が失っていた感情、人と触れ合い繋がっていくことへの関心を呼び起こさせてくれる存在から、淡い恋心を抱いていた存在から、その温かみのある色が徐々にぼけはじめ、瞬く間に恐怖、本能が感じる捕食される恐怖の色へと変化していった。「あれは人間なんかじゃない……、化物だ……」空印寺は再び吐き気に襲われ、呼吸が乱れた。空印寺は苦しさから逃れるように何度も深呼吸を試みた。長い時間をかけることにより、その試みが少しずつ成果を上げていく。空印寺は呼吸が整いはじめ、心が落ち着いてきた。そして冷静さを取り戻したと感じた時、空印寺は自分が失踪している間の記憶がないこと、それからの自分の殻に閉じこもるようになったこと、その原因を推測した。
「おそらく記憶がないのはその間に起こった事、化物たちが人を喰らうのを見、自分の命が危機に晒され、その極限状態で感じた圧倒的な恐怖を封印したからだ。その恐怖は封印してもその破壊力は凄まじく、心に傷を残しながら自分を蝕んでいった……、その推測はおそらく正しい。そしてその傷は自分では手に負えず、また誰にも言えるものでもなかった。化物が人を喰っていたなんて、誰も信じるはずがない。その事を口にしても、妄想や幻覚として処理されるのがオチだ……実際、誰も信じてもらえず心の傷が見せた幻覚と処理されてしまった……、自分はその事を本当は口に出し、心の奥底から吐き出したかったのかもしれない……、誰かに信じて欲しかったのかもしれない……、それが現実として不可能である事を自分は受け入れた。その諦念が人との繋がりを断つきっかけになったのかもしれない……」空印寺は強く目をつむった。あの忌まわしい過去を追い出すかのように。それから意を決したように抱えていた頭を上げ、唾を呑み込んだ。
それも束の間、すぐに再び恐怖に囚われた。手が震えている。足も笑っているようだ。膝がガクガクとしている。そして、敗北宣言の口調ように「人を喰うようなあんな化物をどうしたらいいんだ……、それに、こんな事誰も信じてはくれない……」空印寺は途方もない事を目の前にしていることに気づくことになり、無力な自分の力を強制的に思い知らされた。そう思いながらも、空印寺の心の片隅では「そんな馬鹿な話があるものか、きっとその出来事は自分の妄想や記憶違い」と自分が推測した事を否定していた。そうやって空印寺は自分をあの圧倒的な恐怖を今なお封印しようとしていたのかも知れない。そして、空印寺は恐怖に抵抗するように心の片隅で、はっきりとこう唱えてもいた。「冷泉さんはそんな人じゃない……」と。
空印寺は最悪な朝を迎えた。心も体も疲れ切っていた。だが、この日学校を休む気にはなれなかった。真麗に会って自分の記憶が本当の事か確かめたかった。そういう気持ちとは反対の確かめたくないと言う気持ちも同じく位あった。それだけなく、湊にも会って自分の気持ちを確かめたかった。顔を洗いに洗面所に降りた。鏡に映るのは今にも死にそうな顔をした自分。空印寺はシャワーを浴びた。体に水を浴びた事で少しは心も体も楽になった、と思いたかった。そうでもしないと心も体も動いてくれそうになかった。学校へ足を引きずるように向かう。結局、一時間目には間に合わなかった。二時間目の途中から教室に入った。数Ⅱの授業だった。この短縮授業の時期の授業は教科書でなく受験を見据えた総復習をしていた。
湊が心配そうな顔で空印寺を見ている。空印寺は湊の視線を感じ、ちらっと湊の方を見た。「自分は袖野さんの事を意識している……」と空印寺は認めた。すると、自然と疲れ切っていた心が癒されていくのが実感できた。体の方は軽くはならなかったが、少なとも心持ちは軽くなった。休憩時間になると、湊が空印寺の許に来た。心配そうに、
「空印寺君、大丈夫なの?顔色が悪いよ。保健室に行った方がいいわ」
空印寺は、大丈夫だと言わんばかりに首を小さく横に振った。
「そう……」
湊は空印寺が大丈夫だと言うのでそれ以上しつこくするのは止めておいた。本音を言えば、一刻も早く帰宅して身体を休めて欲しかった。それくらい空印寺の顔色は病的に悪かった。
半ドンの授業が終わり、いつもなら楽しい気分で向かうはずの図書室への道のりがやけに遠く、足が重かった空印寺は「このまま永遠に図書室にたどりつかなければいいのに……」と本気で考えくらい気持ちも重くなっていた。それでも目的地に向かって歩き続ければ、やがては目的地には着いてしまうもの。空印寺は図書室のドアの前で立ち止まった。
「もし冷泉さんが、あの時の少女だったら……」昨晩見た、あの悪夢に空印寺は縛られていた。圧倒的な恐怖、真麗と確信した少女、あれは妄想、爬虫類のような縦長の瞳孔、人を喰らう生々しい音、ただの悪夢……空印寺の手が震えて、うまくドアの取っ手を掴むことができない。その時、
「空印寺君、どうしたの?」
真麗が空印寺の背後から声をかけた。空印寺が驚いた表情と恐怖で慄いた表情を合わせたような顔をしている。そんな空印寺を真麗は、
「どうしたの?入ろう」
と空印寺の腕をいつものように取った。その瞬間、空印寺は真麗の腕を振り払い、
「ごめん」
と言い残して走り出した。それもまるで慌てふためくような足取りで。真麗は唖然としながら空印寺の背中を見送った。
空印寺は下駄箱のところまで駆けてきた。激しく呼吸をしている。それが恐怖によるものか、全力で駆けたことによりものか、全く判別できなかった。空印寺は口に手を当てコツンと下駄箱に頭を押し当てた。空印寺は真麗に対して好意を持っている。それは確かだ。しかしあの眼を見た瞬間、恐怖を感じたのだ。生命の根幹を成すところが恐怖におびえるのだ。人間の感情なんて本能の叫びには到底かなわない。空印寺は唇を噛んだ。「冷泉さんはあんな化物じゃない……」それを恐怖が打ち消そうとする。「どうすれば、いいんだよ……」
「空印寺君、また気分が悪いの?」
振り返ると、湊と美琴のコンビが空印寺を力一杯心配していますという顔をしていた。空印寺は弱々しく一回首を横に振ってから、顔色を隠すように俯いた。湊はそんな空印寺の手を取り、
「保健室で少し休んで」
有無を言わせない口調で言い、強引に保健室へと引っ張て行った。湊は保健室のドアを一回ノックしただけで、中からの返事を待たずドアを開けた。
「すいません、上杉先生。気分が悪い人がいます。ベッドを使わせて下さい」
保健医は何か書き物していたらしく、ちらっと湊の顔を見て、その横に連れられてきた顔色の悪い空印寺を見て立ち上がった。
「空印寺君、大丈夫?」
空印寺の前にまで保健医はツカツカと歩み寄り顔を覗き込んだ。
「そこのベッドで横になりなさい」
空印寺は倒れ込むようにベッドに横たわった。保健医は空印寺の過去をその立場上ある程度知っていた。思春期を対象としたカウンセリングなら訓練を受けているが、PTSDの対応となれば専門過ぎてお手上げだ。空印寺のこともあり一応勉強をしたが、素人が手をかけて良いものではない。素人が下手に手を出したらPTSDが悪化し兼ねないのだ。保健医はここは一旦様子見と決めた。「気分が落ち着いたら帰宅させ、もしPTSDの兆候があるのなら主治医に診て貰うのが取るべき選択だわ……」
「袖野さん、繖さん、悪いけど、ちょっと空印寺君と二人で話があるの。席を外してくれない?」
湊は驚いて目を見張った。空印寺は見るからにインドア系で、確かにあまり体は丈夫そうには見えない。
「体育の授業も球技大会も普通に参加していたのだから問題はないはず……、もしかして、実は保健医と二人で話さないといけないくらい体が悪かったの……」湊の思考が悪い方へ流れて行く。心配で心配で堪らないと湊は顔一面で訴えていた。保健医はそんな湊を見て、
「袖野さん、心配しないで。ちょっとプライバシーに関わる事を話すだけ」
保健医は冗談言うような軽い口調で、
「プライバシー保護よ」
湊は納得していない顔をしていたが、
「湊、外に出よう」
美琴が湊の腕を取り促した。しぶしぶと言った態度で湊は美琴に連れられて保健室から出た。その事を確認した後、保健医は改まった顔をして、
「空印寺、気分はどう?」
「大丈夫です」
保健医は何も言わなかった。だが、この顔を見て「大丈夫だ」と言われても全く説得力がない。
「もしこの状態が続くようなら、主治医の先生に見て貰いなさい。今からでもと言うなら、わたしが病院とかけ合います。県立S病院よね」
空印寺は首を横に振り、
「気持ちはしっかり持てています」
「そう……、静かにしている方がいい?それとも彼女たちといる方がいい?」
空印寺は目を閉じた。本音を言えば湊に傍らにいて欲しい。同時に湊に心配をかけるのも気が引ける。どちらも正直な気持ちだった。そのジレンマに空印寺は陥った。保健医は空印寺がどちらかにしたいのか悩んでいるのを見て、彼女たちと空印寺を会わせることに決めた。ここはさすがに保健医であった。こういう時、患者は側にいて欲しくない時には、言い方を濁すものの即答するもので、逆に居て欲しい時には、遠慮が先に立つらしく中々そのことを言い出せないものである。保健医は保健室の外で待っている二人組のところに行った。
「袖野さん、繖さん、空印寺君の側にいるのは構わないけど、今は無理に話しかけないでね。でも、こういう時は側に人がいるだけで心強いから」
「空印寺君はどこか悪いのですか?」
保健医は湊の空印寺君を想う真剣な目に心を打たれた。恋する女は強い。だからと言って、空印寺の過去を話す訳にはいかない。
「ただの過労よ。空印寺君は今回のT高祭では大活躍だったから」
さらに場の空気を軽くするような口ぶりで、
「空印寺君、本当に綺麗だったわね」
と言って空印寺の女装姿を思い出し、含み笑いをした。そんな保健医の言葉など、湊は納得していなかったが、ここは空印寺に会えることだけでもと強引に自分を納得させた。二人がベッドの側まで来た。空印寺はその気配を感じた。そしてゆっくり目を開けた。
「ありがとう」
湊は涙が出そうになった。悔し涙が……。空印寺がこんなに苦しそうにしているのに、全く無力だったからだ。それに追い打ちをかけたのが、保健医が空印寺と二人で話があると言われた時だ。空印寺に対して絶対に入っていけない場所があることを知らしめられた気分だった。それと嫌な事も思い出してしまった。空印寺は小中学校を長く休んでいたという噂だった。それが事実かただの噂か確かめることなどしなかった。ただ漠然と嘘っぽいなと思っていただけだった。その噂さが今真実となって湊の前に降ってわいたようだった。そしてマイナスの感情はどんどん不安を煽っていく、その不安がマイナスの感情をさらに加速させていく。負のスパイラルに湊ははまり込んでしまった。湊は空印寺がこのまま消えてしまうのでないかと、そんな非現実なことを真剣に思ってしまったのだ。思わず空印寺の手を握った。
空印寺は再び目を開けて湊を見、ゆっくり体を起こした。湊の手の感触を確かめ、少しだけ握り返した。空印寺は湊の手を見ながら、
「温かいね。もう少しだけ、手を握っていてもいいかな」
湊は大きく頷いた。空印寺は湊の握った手許を見て何か考え込んでいる。一方の湊は空印寺の顔がまともに見られないようで、足許を見るように俯いている。お約束通り顔は真っ赤になっていた。そんな状況を肩身の狭い思いで美琴は見ていた。「居場所がないよう……」
半時間後、空印寺のベッドに保健医が顔を出した時、その状況を見て若い三人には悪いが、つい笑いたくなった。空印寺と湊は明らかに互いを意識し合っており、二人の世界に当てられてお邪魔虫と化した美琴。「若いって特権」と保健医は思った。そして「そう思う自分は歳を取ったということだろうか…………」保健医は自分の年齢を考えることを止めておいた。
「袖野さん、繖さん、今日はもう帰った方がいいわ。空印寺君、タクシーを呼ぶわね。今日はタクシーで帰って。お金の心配なら要らないわ、わたしが出すから」
「あちゃー、給料日は明日やん。今日は呑めんやないか、さらば愛しの川中島幻舞……」と思いながらも、財布の中にあった唯一の諭吉さんを保健医は空印寺に手に押し付けた。保健医から強制的に湊と美琴は保健室から追い出された。その時、湊は確かに見た。長い髪がふわっと流れ、廊下の曲がり角に消えていくのを。
・七月二十二日(水)
空印寺は真麗に対して思慕の念を失ってはいなかった。同時にそれは湊への想いとは違い、真麗自身を想ったのではなく自分を救い出してくれた人への想いだった。その想いが偽物などとは思ってはいない。間違いなく空印寺は初めて恋をした相手を真麗だと思っている。空印寺は心のどこかでは認めたくないのだ。優しくされればそれだけで、誰であろうと好きになっていた現実を。そして蘇る失っていた過去。生命の危機に晒され、心を破壊され、言葉を失い、人を避け続けた日々。圧倒的な恐怖。心ではなく本能が震え上がる恐怖。その源にいた冷泉真麗に似た幼い少女。違う、冷泉真麗本人。「そんな事はない。あれは妄想だ。あれは夢だ。悪夢だ……」これらの事が空印寺の頭の中が壊れそうなくらいグルグルと思いが駆け巡った。
目覚ましが鳴った。おそらく一時間も眠っていない。学校に行くべきか悩んだ。その時、湊の顔が浮かんだ。ちょっと困ったように、頬赤くして照れたように笑う湊。そんな湊にに会いたくなった。空印寺はその理由だけで学校に行くことにした。教室に着くと、空印寺は自分のロッカーから教科書一式を取りだし自席に向かった。以前は誰とも口をきくこともなった。しかし今は相変わらず空印寺は無口であるが、少なともクラスメイトにはちょっとだけ親愛の情を浮かべ会釈をするまでになった。無論は相手も同じ様に会釈をしてくれ場合もあれば、「おはよう」と声をかけてくることもある。空印寺の世界は一変していた。それでも暇を見つけては読書に浸るのはご愛敬と言うところだろうか。
少し遅れて湊が教室に入ってきた。T高祭の影響もあって、停学後の悪い流れはなくなり、以前と同じようにクラスメイトととは接していた。湊が鞄を机の横のフックに掛け席に座ると、空印寺が立ち上がり湊の方へ歩きはじめた。そして湊の前の席に横向きに座り、湊に顔を向けた。湊はキョトンとして空印寺を眺めていた。空印寺が上半身を少し湊の方に傾け顔を湊の方に近づけた。空印寺の顔が急接近して湊の顔がお約束のように真っ赤になる。そして空印寺が近づいた分、上半身を後ろに傾けた。恥ずかしかったのである。
「昨日は、ありがとう」
湊は空印寺が自分の手を握りしめていたことを、さらにその手の感触を思い出し、頭に血が上り過ぎたのか、頭がクラクラしてきた。
「あ、あの、空印寺君。体も大丈夫なの?」
しかし空印寺の体の事を思うと、そんな浮ついた気持ちは一気に冷めていった。保健医は空印寺の事で隠し事をしている。あんな下手な嘘で騙される高校生なんていない。けれど聞くことなんかできない。
「ごめん。心配かけたね」
空印寺が済まなそうに頭を下げた。湊は何て応えて良いのか窮した。そして何気なく口にした言葉、それは湊の素直な気持ちだった。
「怖かった、空印寺君が消えてしまいそうで」
その時の思いが蘇る。空印寺は俯いて、
「ごめん」
と言い、机の上にあった湊の手、その手の甲に触れた。その瞬間、朝のチャイムが鳴った。空印寺は立ち上がりながら、
「ありがとう」
と少し微笑んだ。人は現金なもので、湊は空印寺の手の温もりと自分だけに向けた微笑みの両方を欲しいと思うのだった。
放課後になった。空印寺は昨日同様、真麗のいる図書室に行くのは気が重く、出来れば行きたくなかった。今もなお、あの悪夢の少女が真麗でないことを心の奥では空印寺は願っていた。だからこそ、その真偽を確かめたくなかった。もし真麗があの少女だったらと思うと本能だけでなく感情さえ恐怖に縛られてしまい、二度と真麗の心に、その手に触れる事ができなくなってしまう。空印寺にはそれが恐ろしかった。自分を明るい世界へと導てくれた手を放すことになるのだ。誰にも心を開かずいた空印寺が初めて人に心を開き、初めて好きなった人の手を。
空印寺は自分が好んで読む「豊穣の海」の主人公みたく不退転の精神を持っていなかった。その事で彼を責めるのは酷であろう。彼は英雄でも何でもないごく普通の少年だ。しかもコミュニケーションに支障を来たすほどの心の傷を負っていたのだ。空印寺はこのまま帰宅することにした。何となく図書室に行かないのは後ろめたさがあった。一階に降りる足取りは重くなる一方だった。校舎の玄関のところで空印寺は真麗と会った。
真麗は空印寺が図書室に来ず、そのまま帰宅すると思っていた。空印寺を見つけると、そのままじっと空印寺を見つめた。真麗の眼には空印寺の後ろにあの女が立っているように見えた。
空印寺に真麗が近寄ってくる。空印寺は目を伏せ、奥歯を噛んだ。心の奥から湧き上がる恐怖に耐える為に。まるで口付けをするくらい真麗は空印寺に身を寄せた。空印寺は下を向いたまま何も言わない。突然真麗は空印寺の襟首を掴んだ。顎を掴み、無理やり顔を上げさせて、真麗は自分の顔を空印寺の顔に思い切り近づけた。空印寺の息を吞む音が聞こえた。空印寺の顎を掴む真麗の手に力が入る。この時真麗はあの女の匂いを確かに感じた。
「人魚はね、愛する人からの愛情を失うと泡になって消えるの。あなたの為になら泡になって消えるのは構わない。望むところよ。でもね、あの女の為に泡になるなんて、死んでも嫌。そんな事になるくらいなら、あなたを殺して海に帰るわ」
真麗は額を空印寺の胸に二度ほど叩きつけ、真麗の体は力が抜けたように空印寺にしなだれかかりそのまま空印寺の足許に崩れ落ちた。真麗は空印寺の足許で肩を震わせ、しゃくりあげはじめた。この修羅場のようの状況を他の生徒たちは、知らぬ顔を決め込みながらもしっかりと盗み見をしていた。それも興味津々な表情を隠そうともせず。ヒソヒソと声が漏れてくる。
「別れ話……」
「浮気……」
「空印寺と冷泉じゃない……」
空印寺は以前のように真麗に接することが出来ない。どうしても恐怖が先だってしまう。空印寺は屈みこんで真麗の肩に恐る恐る汗ばんだ手を置いた。真麗の肩が空印寺の手に反応するように動き顔を少し上げた。それから下から見上げるように空印寺の方を見やった。真麗の顔が少しほころぶ。
「空印寺君……」
まるで迷子の子供が母親を見つけたような甘えた声。その声すら空印寺には恐怖を覚えた。空印寺は弾かれるように真麗の肩から手を放し、見知らぬ人を見るような目で真麗の顔を見た。その途端、真麗の顔色が変わった。空印寺が真麗の顔から視線を外し、ゆっくりと立ち上がると、それを追うように真麗も立ち上がった。空印寺は全く真麗を見ようとはしない。
真麗は空印寺との間に、空印寺の方から拒絶という不可侵な壁が造られ、空印寺の目に、その心に自分が写っていないことを悟った。それを悟った瞬間、言いようのない怒りに駆られた。辺り構わず殴り蹴り倒したい、そんな暴力的な感情だった。
「わたしはこんなにあなたを愛しているのよ……、こんなにもあなたを想っているのよ……、あなたはわたしのもの。そう約束したじゃない……、あなたは私だけを見ていれば、それでいいのよ……」真麗はそう叫びたかった。でも今の空印寺には何も言えなかった。言葉が後戻りの出来ない現実を突きつけてしまう。「拒絶」と言う言葉が恐ろしかった。
空印寺は相変わらず真麗を見ないまま真麗に向かって小さく頭を下げ、真麗から離れると、そのまま振り返ることもなく駆け足で通用門を出た。その後ろ姿を真麗は何も言えずただ見つめるだけだった。ただのその切れ長の目には、殺意にも似て、愛情にも似た尋常とは思えない力が宿っていた。
真麗は高校のすぐ北にある公園の歩いていた。極楽橋を抜け、三重櫓が見えたところで足を止めた。いつもなら図書室で空印寺の隣に座っているはず。ほんの少し前、空印寺に会った。信じられない事に空印寺が自分を拒むような態度をとったのだ。まるで悪夢を見ているようだった。それが原因でこうして当てもなく公園にいる。まわりの景色は目に入らない。考える事は空印寺の事ばかり。
真麗は目を閉じた。つい先ほどの出来事がまるで今起こっているように鮮明に脳裏に蘇る。空印寺に対して激しいまでの怒りを覚えた。それだけはなく、同時に狂わんばかりの愛情も感じた。どんなに腹を立ても、忌々しく思っても、決して彼を愛することをやめられない。
真麗は輪郭を揺らしながら堀に映る三重櫓を眺めた。その上下逆様な姿を見ながら、空印寺と再会した時の事を思い出していた。彼の後を追うようにこの高校に編入した。彼を見つけた時、思わず泣きだしそうになった。自分はこの日を待ち続け、待ち望んでいたのだ。その想いに反して、彼は全く自分の事を覚えていなかった。それは当然の事とは言え、その現実を見るのはやはり辛かった。
「大丈夫。あの時、彼はわたしを好きだと言ってくれた……、また、彼と恋に落ちればいい……、わたしはあの時と同じわたしなのだから、彼はわたしを愛してくれる……、そしてわたしは彼を愛すればいい……」真麗は水面に空印寺の顔を思い浮かべてみた。小さい時の面影を残しながら成長したその顔は女性のような美しさを持ち、それだけなく思わず嫉妬してしまうくらい綺麗な顔をしている。その顔をずっと眺めていたいと思う。そしてずっと触れていたいとも思う。顔だけじゃない、その体も、そして心も、全て、彼の全てに触れていたいと思う。真麗はそれを失うかもしれない、と考えただけで言い知れぬ恐怖、喪失感、いや絶望感に襲われそうになった。「彼を失ったら私は生きる価値がない……」水面に思い浮かべた空印寺の顔が水面から離れ、物凄い勢いで堀の底に沈んでいく。空印寺の顔がぼやけ輪郭すら判らなくなり、やがてひとつの点となった。その点も熱い鉄板に零した水滴のようにあっさりと消えてしまった。
涙が零れた。真麗がそのことに気づいたのは、涙が止めどなく激しく流れ落ちはじめてからだった。真麗は堀の周りに設置された手すりを両手で掴み頭を垂れながら、どうしたら良いのか判らず、そのまま泣き続けた。泣き続ければ、それで色々な事が全て解決するように思えたのだ。しかし、そんな都合の良いことは起こらない。その時、
「もう帰っておいで」
と言う声が真麗の耳に響いた。とても優しい口調だった。真麗は顔を上げた。
「もう帰っておいで」
再び真麗の耳に同じフレーズが響く。真麗は唇を噛みながらその言葉に対して拒否するように首を横に振った。「嫌よ、絶対帰らないわ……」真麗は心の中で優しい口調で語れた言葉に対して激しい口調で答えた。真麗はハンカチで目元をそっと押さえ、涙を拭いた。乱れた長い髪を手櫛でさっと整え、空を見上げた。
「絶対帰らないわ……絶対に……」真麗は強く心に誓った。その力強い決意とは裏腹に、その顔には悲壮感一色しかなかった。そして追い打ちをかけるように不安顔にもなった。
「母さまや姉さまは大丈夫だろうか……、この間地震があったことだし……」
・七月二十三日(木)
空印寺は目覚めて起き上がろうとした時、体の疲労が体力の限界まで達しているように感じた。体でなく心の疲労も限界にきているようだった。このまま眠ってしまいたい心境だった。それでも空印寺は学校に行く事に決めた。その理由は昨日と同じ湊に会いたかったからだ。真麗に対しては、昨日の事でもう言い逃れや自己欺瞞で誤魔化せないと空印寺は思い、そして、もうこれ以上冷泉真麗とは会うことはできないと考えていた。その理由は、真麗への恐怖もあるが、やはり湊への想いと真麗の想いの違いを認めた事だ。実は空印寺はここに至っても自己欺瞞から離れる事ができなかった。恐怖心から自分の好きになった女性から逃げ出すことを認めたくなかった。「どんなに恐怖を感じても、自分の言葉で自分の正直な気持ちを伝えなければならない……、冷泉さんに嫌われるのは怖い……、しかし、冷泉さんをこれ以上傷つけるような事はしてはいけない……」と空印寺は心から思っていた。
これは男性特有の考え方で、理路整然と話せば相手に自分の真意が伝わると考える。しかし、それでは女性の心に響くことも届くこともない。女性が求めているのは自分の心を理解して欲しいという気持ちである。いくら男性が正論を女性に説いたところでその女性の気持ちを理解してあげなければ、その女性にとって男性の説く正論に何の価値もない。空印寺がまずしなければいけないのは真麗の気持ちを知り理解することであり、自分の誠実さを示すことではない。だが、この手の事は一般の男性でも難しいこと。高校生になって初めて恋を知った空印寺には、そこまで期待するのは土台無理と言うものだ。一般に「初恋は実らない」と言うのは、恋には経験がいかに重要であるという裏返しなのだろう。
空印寺と冷泉が痴話喧嘩をしていたという噂は学校中に響き渡っていた。それは当然だった。玄関先でやり合ったのだ。しかも、真麗は球技大会で一年生にファンが出来るほど活躍し、また空印寺は知る人ぞ知る美形キャラだったのが、今や全校にその美人ぶりを宣伝した有名人である。これで学校中の噂にならない方がおかしい。空印寺が学校に来ると、何だが視線が妙に集まるのを感じた。教室に入っても同じだった。それは一カ月以上前に、空印寺と真麗が初めて一緒に帰った時のようだった。
空印寺が席に着くと、すぐに湊と美琴が連れ立って教室に入って来た。空印寺の目が湊を自然と追う。その視線を感じ取った湊が空印寺の方に顔を向けた。一瞬視線が絡み合う。湊が恥ずかしいそうに視線を落とした。その時、前を歩く美琴と足許が絡まって二人とも転びそうになった。後ろから足を掛けられた美琴は、
「うぇっく」
謎の言葉を発しながら、後ろを振り返り、
「湊、もぉ危ないじゃない」
プンプンお怒りだった。湊は頭を下げ、笑みを噛み殺しながら平謝りをした。空印寺はポンコツコンビの掛け合い漫才を見ながら心が和んでいくのを感じていた。空印寺は立ち上がり、少し照れたように顔を伏せながら湊に近づいた。空印寺の雰囲気がいつもと違う。明らかに空印寺が頬を染め緊張しているのが見て取れる。湊は突然の空印寺の行動にただ立ち尽くして茫然と空印寺を見ていた。湊の胸が高鳴った。まるで空印寺が自分に愛の告白をするような、そんな夢にまで見たシチュエーションが目の前にあるように思えたのだ。頬を少し紅色に染め顔を伏せ、緊張した面持ちで空印寺が湊の前で立ち止まった。湊は自分の鼓動の音をこんなにはっきりと聞き全身で感じた事はなかった。
「わたし、死ぬかもしれない……」湊は日記を処分しておくべきだったと真剣に後悔した。美琴は湊の後ろでこの状況を複雑な顔で見ていた。湊と空印寺が上手く行けば良いという素直な気持ち、湊が空印寺に取られると言う嫉妬、カップルが誕生する瞬間が見られると言う野次馬根性、先に湊に彼氏ができるという羨望とちょっとした敗北感。それらが美琴の中でミキサーにかけられて混ぜ混ぜになっていた。
「袖野さん、おはよう」
それだけ言うと空印寺は踵を返し自席に戻った。実は空印寺はこの一連の行動で自分は最大の親愛の情を示したと思っていた。その親愛の情を示された湊は、
「………」固まっていた。美琴が「あーあ」と声を出さず唇を動かし、湊の肩をポンポンと叩いた。振り返った湊は、
「おはよう、美琴」
「おはよう、湊」
美琴の声は元気一杯だった。それを見ていた北浜奈美は余りにも間抜けな二人のやり取りを腹が立つことも忘れ、思わず声を殺して爆笑してしまった。
二時間目の物理Ⅰ授業は自習となった。担当の先生が家庭の事情で緊急に帰宅したからだった。漏れ聞こえてくる噂では自宅が火事になったらしいとか。しかし後になって分かったことだが、第一子が生まれたからだった。何とも人騒がせなことである。これは教育委員会で問題にならないのだろうか?
自習になったからと言って、期末試験も終わり夏休み身近にも関わらず、完全にお遊びモードにならないのはここが進学校だからだろう。みんなそれなりに自習をしていた。どうしてもやる気のでない二名ほどが机に伏せて寝ていた。湊は空印寺が前に読んでいた三島由紀夫の「鏡子の家」を一週間かかっても完読できないでいた。ここ最近、T高祭などで色々と忙しく中々まとまって読書をする時間が取れなかった事と、この手の純文学を読むのが湊はあまり得意でないこともあり、読む速度が遅かったのが主な要因だった。さらっと流すように読めばもっと速くは読める事は出来なくはない。けれど、それでは空印寺に感想を求められた時に、薄っぺらな感想しか言えない気がしたのだ。空印寺に感想を求められたなら、立派な感想とは言わないまでも、少しはまともな感想は言いたいもの。そういう理由で、湊は読む速度をあげることが出来なかった。一方空印寺は読書をしていると思いきや、意外な事も物理Ⅰを勉強していた。加速度、速度、距離、時間、それらが微積分の関係で結ばれていることに興味を持ったのだ。距離を時間で微分すれば速度に、速度を時間で微分すれば加速度に、積分すればその関係は逆になる。それが面白かったのだ。他にもこういう関係があるではないかと考えてはみたが思いつかず、悩んでいるうちに二時間目終了のチャイムは鳴った。空印寺が湊のところに来た。湊は「今日は空印寺君とよく話すな……」と思いながらも、やっぱり嬉しかった。
「鏡子の家まだ読み終わってないの、何だか難しい本だね」
「そうだね、三島由紀夫の本は専門家で解釈が大きく異なるから。でも袖野さんの感じたままで良いと思うよ」
空印寺がそう言うなら、そうなのだろうと湊は思った。空印寺が何故だか一気に湊に顔を近づけた。一瞬湊の息が止まる。そして湊だけに聞こえるように、
「今日の放課後少し時間いい?」
湊は空印寺の言葉に息を止めたまま首を十回は縦に振った。
「ありがとう、下駄箱のところに居て」
空印寺が去った後、湊は胸が苦しくて気が遠くなりそうだった。息を止めたままだったのだ。三時間目、古文の授業での湊の行動を見ていた者がいたなら、その奇異な行動を訝し気に見る事にだろう。顔が赤くなったり、青くなったり、急に笑い出しそうになったり、ソワソワしたり、一人百面相をしていたのだから。今日最後の授業が終わり、美琴が、
「湊、また本を買いに行きたいのだけど。今日、大丈夫?」
湊が困ったような顔をして、済まなそうに、
「ごめん、今日は予定があるの」
頭を下げた。その時、ちらっと空印寺の方に視線を一瞬向けた。
「あっ、そうなの。じゃ今日は私一人で行くよ。じゃ、バイバイ」
美琴もガサツのように見えて、そこは女性である。湊の一瞬視線を空印寺の方向に行ったことで、湊の予定がなんであるか察しがついた。気持ちは今朝と同じ、複雑な心境だった。
「美琴、今日はひとり?じゃ、カラオケ行かない?」
T高祭で一緒にビラ配りをしていたクラスメイトの、女生徒の一団から声がかかった。
「行く!」
美琴は少しの間、湊の事は忘れることにした。そそくさと湊は鞄に教科書一式を詰め席を立った。何だか学校の校則違反をしているような気分だった。大胆なところを見せる一方で、こういうところは気の小さな湊であった。湊が自分の下駄箱まで来ると、すぐに靴を履いた空印寺が現われた。湊は当然色々な事を期待していた。この状況で期待するなというは絶対無理な話だ。ここ数日の意味ありげな空印寺の態度。決定的なのは保健室でじっと手を握られた事だ。でも不安はあった。空印寺は何も言葉にはしてくれていない。それに冷泉真麗との関係がどうなったかは知らない。二人が言い争っていたという噂は学校に来る途中耳にはした。しかし所詮噂は噂。それに事実がどうであるかは本人たちにしか判らない。湊はそれら全て自分の頭の中から追い出した。「今、わたしが考えなければならないのは、空印寺君のことだけ……、それ以外の雑音は知らない……」
空印寺が小さく頭を下げた。
「無理言って、ごめん」
「いいの。で、その、話って何?」
空印寺が何かを言おうとした時、小さな声が漏れ聞こえてきた。
「あれ、空印寺君じゃない……、隣にいるの冷泉真麗、じゃないわね……、えぇ、何ぃあれぇ、空印寺君、趣味悪い……、空印寺君と全然釣り合ってない……、あれだったら、わたしの方が断然可愛いわ……」
容赦のない悪意が籠った言葉の羅列だった。今し方、雑音を無視すると決めた湊であったが、湊が目をつむった事実を突きつける女性独特の悪意の槍は、湊の心を容赦なくグサリと突き刺した。
「そんな事言われなくても、自分が一番理解している……、空印寺君と自分とでは不釣り合いなことぐらい……」湊は泣きたくなった。人は見たくない現実を無理やり見せられるのが一番堪えるのである。女性の個人攻撃の上手さはこういうところで、絶対男性には真似ができないどころか思いつきもしないだろう。
目に見えて湊の表情が落ち込んでいく。空印寺は湊の手を取り「気にするな」と言わんばかりに首を横に振り、ぐっと湊の手を引っ張り、人目も憚らず湊と手を繋いだまま早歩きで学校を出た。
空印寺は自分がどこへ行こうとしていのか、実は何も解っていなかった。勢いで飛び出したものの、足任せに歩いていた。公園に向かい、湊がいつも通る38号線の交差点まで来たところで、湊が空印寺の手を少し引き、空印寺の足を止めさせた。空印寺が湊の方に顔を向ける。
「空印寺君、わたしの家、こっちなの………………………家に来ない?」
湊の飛び切り大胆な言葉は空印寺の思考を止めさせた。この大胆な言葉はあの悪意の言葉たちが引き金になっている。湊の中でその悪意に打ち勝つ、そのバックボーンとなるもの、裏付けとなる確証が欲しかったのだ。
「えっ?」
「あ、あの、違うの。だから、その大丈夫よ。お母さんが居るから」
ペンギンのように手をパタパタさせながら、空印寺に言い訳にもならない言い訳をした。そして今度は湊が空印寺の手を取った。すると湊は大胆にも空印寺の手を引き自宅への帰り道を歩きはじめた。悪意の声が聞こえない安全なところに湊は行きたかった。真っ先に思いついたのが自宅だった。誰しもそうであるように自宅の自分の部屋は、そこは完全なパーソナル空間、余人が干渉することはない。
湊と空印寺は全く話すことなく歩き続けた。湊は淡々と歩くことで一旦考える事を止め、少しずつ冷静さを取り戻しつつあった。しかし完全に冷静さを取り戻す前に湊の家についてしまった。湊は玄関先で暗証番号と鍵を使い玄関の扉を開けた。
「ただいま」
その時、湊は空印寺を母親に紹介しないといけない事に気づいたが、後の祭りだった。「とにかく自室まで一秒でも早く駆け込むしかない……」そういう時に限って上手くいかないものである。いつもなら声だけで返してくれる母親が湊の前に現われた。
「お帰りなさい、湊。モロゾフのチーズケーキがあるのよ。ロンネフェルトのクイーンズティーでお茶にしない、クイーンズティー湊好きでしょう」
この時空印寺は玄関の扉の影にいて、湊の母親から見えていなかった。
「お母さん、あ、あの、その、友達が来ているの」
「美琴ちゃん?上がってもらいなさい。一緒に頂きましょう」
丁度その時、空印寺が扉の影から現われ、バツが悪そうに小さく頭を下げ一礼をした。
「あら……」
湊の母親は一瞬言葉を失った。湊がボーイフレンドを連れてくるのは全く予想にもしなかった上に、連れて来たボーイフレンドは芸能人かモデルかと思うくらい美形だったのだ。しかしそこは年の功、すぐに立ち直り、
「あら、いらっしゃい。娘がいつもお世話になっております」
ニッコリと微笑んで、卒のない挨拶をした。空印寺はこういう挨拶などした経験が一度もない。
「ぼ、ぼくは空印寺建康と言います。いつもお世話になっています」
出足で少し噛み、よく聞くと挨拶としてはあまり出来の良いものではなかった。場慣れしていのがバレバレだった。
「空印寺さん、上がって下さい」
「えっ、は、はい」
湊と空印寺は湊の母親に連れられて客間に通される事になった。湊としては空印寺と自室に行きたかったが、物事は思い通りに行かないのが世の常である。湊は母親に制服を着替えるように言われた。母親としては娘に綺麗な恰好をするように言ったわけであるが、湊にこういった腹芸が通じるかちょっとだけ心配していたのだ。「湊は素直な良い娘なのだけれど、ちょっとばかり抜けたところが……、変な恰好で来ないでよ……」湊の母親はそう思いながらも、そこは女性。空印寺のチェックも怠らない。
「空印寺さんは、湊と同学年ですか」
「は、はい。同じクラスです」
「先日、T高祭で湊のクラスの喫茶店に伺ったのですが、中々面白い催しでしたわね。空印寺さんは何の担当だったのですか」
空印寺は言いにくそうに、
「あの、その、あ、ウェイトレスを……」
最後には聞き取りくらい小さな声になった。その言葉で、湊の母親は湊のクラスの喫茶店にいた惚れ惚れするような美人と空印寺が繋がった。
「あっ、あの時の美人さん」
パンッと手を叩いた。空印寺が恥ずかしいそうに下を向いた。
「湊もこんな美形をボーイフレンドにするなんて、絶対苦労するわね……、話した感じは軽くもないし、湊と同じT高校なら学力も問題ないわね……、それに擦れてないし、可愛いじゃない……」母親の印象は概ね良好だった。しかし「お父さんは荒れるだろうな……」その様子を想像した湊の母親はつい笑いが込み上げてきた。
湊は母親が心配したような事はなく、普段なら絶対しない服を脱ぎ捨てるということをして、さらにクローゼットを全開にした。ベッドに服を並べては、どれが良いのか迷いに迷っていた。でも時間をかけることなど出来ない。ホテルで食事をするような服を着ようかと一瞬考えたが、さすがにそれは違うと思った。完全に混乱の極致である。「普段着でいて、空印寺君に良い印象を与える服……」鉄板かも知れない。薄いピンクのワンピースを選んだ。靴下は白。スタンドミラーに自分の姿を映す。少し髪の毛が乱れている。慌ててブラシをかけ、髪が整ったのを確認するとポイとベッドの上にブラシを投げた。部屋を出ようとして、ハンカチを持っていないこと気づいた。脱兎のごとく部屋の奥に戻り引き出しを開け、一番お気に入りのフルラのハンカチをワンピースのポケットに忍ばせた。湊の部屋は台風が通った後のように服が散乱していた。湊は階段を下りていく時に、
「これじゃ、部屋に空印寺君を呼べない……」その事に気づいたが、後の祭りだった。
慌てふためいた様子を微塵も見せず湊は空印寺の前に現われた。母親は湊の恰好を見て頭を抱えたくなった。薄いピンクのワンピース、まるで小学生のような可愛らしい恰好で来たのだ。
「もう少し大人っぽい服ががあったでしょう……クリーム色のテッドベーカーとか……、これなら制服の方が良かったかも……」余程ファッションに通じた男でない限り、女性が思うほど男性は女性の服に対する拘りを理解していない。空印寺も似合うとか似合わないとか、元々そういう目では見てない。もし母親推薦の服を湊が着たところで、結果は変わらなかっただろう。つまり気に留めない。
フレデリシアの調度品で統一されたテーブルを囲むように、空印寺が上座に、空印寺の前には湊が座り、空印寺の左側、湊の右側に湊の母親が座っている。そして、空印寺と湊の母親の会話は、湊の母親から空印寺の質問攻めとなるのは致し方のないことだった。それが親心と言うもの。
「空印寺さんは、どこの大学を希望なさっているの?」
「お母さん、そういう事は……」
と言いながらも、湊も気にはなっていた。確実に大学入試はやって来るのだ。その時、空印寺と湊は別々の大学に行くことになるかもしれない。空印寺は学年の一桁前後を維持し続けている。特に理数に関しては、普通科でありながら理数科より成績が良いという噂が立つほどだ。理数科への編入の話は実際あったらしい。このまま空印寺が成績を保てたなら国公立に行くにしろ私学に行くにしろ、一流と名が付く大学に進学できるだろう。その時、湊は空印寺と同じ大学に進学できるのだろうか。湊は不安になった。
「あ、あの、まだどこの大学に進学するまでは……」
「お母さん、空印寺君は学年で一桁の成績を取ってるの。わたしと違って選び放題なの」
湊はその不安を払拭するように少し声を高めた。
「あらあら湊、空印寺さんの為に必死になって可愛いわね……
「湊、モロゾフのチーズケーキは全部食べていいわよ。空印寺さんロンネフェルトがお好みでないなら、ハロッズやウェッジウッドのダージリンやアッサムとかあるから遠慮なく湊に言って下さいね」
空印寺は紅茶よりコーヒーの方が好みであったが、それを無遠慮に言う程肝が据わっていない。そればかりでなく、紅茶のブランドも種類も全く知らない。知っているのは午後の紅茶くらいだ。
「はい」
「空印寺さん、わたしは今から夕食の買物に行きますので、湊をよろしくお願いします」
丁寧に空印寺に頭を下げた。空印寺は釣られるように立ち上がり一礼をした。母親が部屋を出ると、
「空印寺君、ごめんね、お母さんが失礼な事ばかり言って」
空印寺は首を振って応えた。それから二人は黙り込んでしまった。元々は空印寺が湊に話があるという事だった。しかし湊も当の空印寺もその事をすっかり忘れてしまっていた。この沈黙は二人には照れ臭い沈黙となった。その沈黙を破ったのは湊だった。やはりこういう場合、男性より女性の方がと言いたいところだが、今回に限って言えば、空印寺が腑抜けなだけだろう。
「紅茶とチーズケーキを用意するね。空印寺君は紅茶何が良い?」
「ごめん、紅茶って全く判らないから、袖野さんに任せる」
「うん」
空印寺が客間にひとり残され、
「ふーっ」肩の力を抜いた。初めて他人の家にお邪魔し、ガールフレンドの母親と対面まで済ませたのだ。これで緊張しないと言えば嘘になる。
「やっぱり紅茶に拘りのない人ならウェッジウッドのダージリンが一番癖がないかな……、じゃ、私も同じものを……」湊は誰かを持て成すがとても好きだった。自分が選んだもので人が笑顔になってくれるのが嬉しいのである。それが自分の好きな男子ともなれば気合いも入るし、喜んでもらえれば嬉しさも倍増となる。
湊が二人分のチーズケーキと紅茶を持って客間に入ってきた。空印寺は何やら考えている様子だった。
「どうしたの?」
こんな言葉が何気なく出るくらい二人の間の距離は縮まっていた。だが、この二人にはその事に気づいてはいない。そこは恋愛初心者の二人。まずはキチンと言葉にしないと自覚できないものらしい。
空印寺が湊の言葉で考え事を止めた。空印寺の前にヘレンドのティ―カップ一式とプレートが置かれ、チーズケーキがまずプレートの上に置かれた。クリストフルのティースプーンとケーキ用のナイフとフォークが入ったバスケットがプレートの横に並べられ、カップとお揃いのティーポットから香りの良い紅茶が注がれた。最後に、シュガーポットが空印寺の手許に置かれ「さあ召し上がれ」と言った感じだった。
空印寺はこんな上品な持て成しを受けたことがない。そもそも友人もいなければ、家族でどこかに出かけることもない。さらに言えば、こういう時の作法が全く知らない。空印寺はここで恰好を付けても恥をかくだけだと思い正直に、
「袖野さん。ごめん、テーブルマナーってよく知らないのだけど……」
「気にしないで、普通にしてればいいの。ここは高級店じゃないよ」
この手のセリフを言う人ほどテーブルマナーが身についているもの、空印寺はティーカップを見ながら固まってしまった。湊はそんな空印寺に気を使わせないように微笑みながら、
「美琴なんて、面倒だと言って、手掴みでケーキを食べるわよ」
その光景を思い出しらしく友人の事をおもんばかってか、声を殺して笑っていた。空印寺は美琴に感謝した。「自分と同じ様に無作法な人がいてくれて……」それからお互いがお互いの事を意識していることが隠せない程緊張した沈黙が続き、空印寺が紅茶を飲み終えた時、今自分がここにいる意味を思い出したらしく、突然、
「袖野さん、あの、その、つまり、話がある」
湊は飲みかけのカップとソーサーを机の上に置いた。
「うん」
「袖野さん。袖野さんの事が……好きです」
それきり空印寺は口を閉じてしまった。もっと自分の気持ちを話したいのに口が開らかなくなった。湊はもしかしたらという気持ちも期待もあった。それでも、現実に空印寺から告白されると頭の中が停止したようになってしまった。「空印寺君は今わたしの事を好きだと言ったわよね……」その時、あの女の事が脳裏を横切った。
「冷泉さんとは?」
それが空印寺の告白に対する湊の最初の返事だった。空印寺は湊の左側に視線を少しずらし、
「冷泉さんは僕を救ってくれた人だった。感謝もしている。それで、その、初めて好きになった人だった。でも、今は違う」
自分の右側に視線を向けて話す時、嘘を吐いていると心理学擬きの本に書いてあることが多い。本に書いてあることが真実であれ嘘であれ、空印寺は湊に対して、真麗への本能的に感じる恐怖については話さなかったのは事実。しかしその心の底にあるのは、真麗への紛れもない恋慕である。空印寺自身は自覚がないのだが、心の奥底では今なお真麗を頼りたいと思っていた。無自覚とは言え、これは完全に空印寺の二枚舌で、彼女たちに頬を張られても全く文句が言えない。
一方湊は空印寺と真麗の関係をこれ以上聞きたいとは思わなかった。それに湊は空印寺が真麗の事を過去形で話しているのに気づいていた。そして二人の関係が、少なとも空印寺の中では終わっている事を知った。湊はそれ十分だった。
「わたしも空印寺君のことが好き」
空印寺が安心したように微笑んだ。また二人の間に沈黙が横たわる。お互いに気持ちを確かめ合ったのだから、もっと恋人らしいことをすればいいのにと思うだろうが、今時の高校生であっても奥手同士ならまどろっこしい展開になるようだ。湊は真麗の以外に引っかかっていることがひとつあった。保健医と空印寺が二人で話した事だ。明らかに保健医は隠し事をしている。自分の好きな人事を知りたいと思うのは当然の流れ。しかし湊はその事を訊くべきか逡巡した。余りにプライベートなことに足を入れ過ぎているのではないかと……でも心配なものは心配なのだ。空印寺を心配する気持ちに嘘偽りはない。湊は心に決めた。
「空印寺君、この前、保健医と話したことって何かな……その心配なの」
空印寺は湊が心配だと言ってくれたが嬉しかった。しかし自分の闇みたいなことを言って嫌われないかと怖くもあった。空印寺は俯きがちに少しの間考え込んだ後「いず何れは話すことになるならだから……」顔をあげることが出来ないまま小さな声でポツリポツリと話しはじめた。
「その、子供の頃、記憶を失う事があって……人と話せなくなった……それから学校に行けなくなって……今もカウンセリングを受けながら……」
そこで空印寺の口が止まった。失っていた記憶がフラッシュバックしそうになったのだ。一瞬空印寺の顔が苦痛に歪む。湊の心に浮かんだのは、空印寺が人の寄せ付けないような態度。空印寺が小中学の時、長期欠席していた噂。
「ごめんなさい。嫌なのことを訊いて。ごめんさない」
湊は自分の無神経さに腹が立ち、思わず涙が込み上げてきた。「何てデレカシーのないことをしたんだろう……、わたしは馬鹿だ……」
空印寺は首を横に振りながら、
「泣かないで」
と優しく湊に声をかけ、湊の手を握った。
「うん」
良い雰囲気になり、そうして二人は長い時間手を握っていた。そこへ玄関を開ける音がした。
「ただいま」
中にいる二人に聞こえるような大きな声が聞こえた。一応母親なりに気を使ったのである。どうせなら後半時間ほど遅く帰る方が良かったのだが……
湊は心の奥から込み上げてくる喜びを隠そうとせず、そしてちょっと残念な顔をして、
「お母さんが帰って来たね」
客間を出て玄関へと母親を迎えた。