en Juillet(b)
本中、「Die Lorelei」は世界の民謡・童話(worldfolksong.com)様より引用させて頂きました。
・七月十七日(金)
T高祭前日、空印寺は当日の給仕係いわゆるウェイトレスが役目であったが、店内の内装の準備が遅れていた為、担当係に関係なく暇な人間は狩り出されていた。無論、ウェイトレスの衣装担当の湊も同じだった。同じく当日の呼び込み係の美琴も同じ運命だった。何とこのクラス、女装やサイフォンで淹れるコーヒーに拘るあまり、すっかり店内の内装の事を皆で忘れていたのである。笑えない現実がそこにあった。焦ったのは学級委員長とT高祭委員だった。二人はクラスの皆の前で床に額を付けんばかりに謝り、皆に再度協力を請うたのだ。祭りに浮かれていたのはクラス全体であり、この二人に責任を押し付けるのは如何なものかという雰囲気が広がり、誰が悪いという責任を追及するよりまずは内装の準備を整えようという流れになった。実際、この二人だけの責任というよりクラス全体が間抜けなだけだが。
空印寺と湊は給仕の衣装担当とその衣装を着る者という今までの流れで何となくパートナーを組み、お品書きを書いていた。そこに美琴が加わり、三人が固まり一つのグループになっていた。字は性格が現われるというが、案外それは当てはまならないものかも知れない。空印寺は女の子が書くような可愛い丸文字、美琴は習字の先生が書いたような楷書体でまるでプリンターで打ったような綺麗な文字、湊は一生懸命に書いているのは十分に伝わるのだが、文字ひとつひとつの大きさがバラバラでその文字も何となく歪であった。三人は出来上がったお品書きを比べあいながら、それぞれの出来について誉めたり貶したりしながら和気あいあいと笑った。
湊は今こうして空印寺と美琴を囲んで楽しく話ができることが信じられなかった。空印寺に一大決心をして空印寺に話しかけはじめた頃には想像もつかなかったことだった。
空印寺は湊と会話を持つようになって、自分がこの人と話ことを楽しみしている事に気づき、意外な驚きを持っていた。真麗や湊と話すことは楽しい。話すと言っても実際は、真麗、湊が空印寺に話しかけるばかりで、殆ど空印寺の方から話しかける事はないが……それでも今までは全く誰かと話をすることなどなかったのだ。それを思うと大進歩と言える。しかし、今空印寺の心に引っかかっていること、真麗と湊との違いである。二人はあからさまに好意を示し、真麗に対して自分はその想いに応えた。自分は真麗に好意を持っている。そして一方で、空印寺は湊に対しても自分が好意を持っている事を認めざるを得なかった。湊といると心が温まるのだ。その温もりは彼女に好意を持っていないと生まれないもの。今まで全く恋愛に無縁だった空印寺にも理解できた。そして湊と楽しく会話を楽しむ事が、自分が不誠実な人間ではないかと思うようになってきた。真麗に対しても湊に対しても何だか申し訳なく思える。なのに卑怯な事に、今はそのどちらも手放したくなかった。
その想いは完全に空印寺のエゴであった。さらに空印寺は自分のエゴを知りながら、その事に目を逸らした。怖かったのだ。こうして人と話すことの喜びを手放すことが。幼い時に突き刺さった心の見えない棘は空印寺に今だ苦しめていた。
・七月十八日(土)
T高祭は土曜日曜の二日間で開催される。初日は学内のみので行われ、二日目の日曜日は一般公開される。初日は内輪のノリになり、日曜日は来客をいかに持て成すかが競われる。一般公開される日曜日には各出し物の投票が行われ、一位のみだが発表される。特に副賞がある訳でないが、ここで一位を獲る事は伝統あるT高校の名誉であった。
空印寺たち、給仕係が衣装に着替え終わった。ウェイトレス姿でいる時、空印寺は声を出す事を禁じられた。空印寺の声は元々細く高い声であったが、そこはやはり男性の声である。そのギャップも面白いが、来客者を完全に騙してやろうと、そんな悪戯心がクラスに蔓延していた。湊は「もうこれは止めらないな」と思いながらも、それはそれで面白いとも思ったのも事実だ。空印寺の綺麗に整った顔を邪魔しないように持参した化粧品を薄く塗り、薄い空印寺の唇にまだ使ったことのないイブサンローランのステックで薄くルージュを引いた。たったこれだけの事なのに、空印寺の美しい顔が引き締まり、見栄えの良い美しさが際立った顔になった。「これなら誰が見ても美人と思う事は間違いない……」湊は空印寺に化粧を施しさらに美しさを増したことい満足した。また美琴がこの顔を見たら、「神様は不公平だ」とまた騒ぐだろうなと思うと、笑いが込み上げてきた。そんな湊を見た空印寺は不安そうに、
「変じゃないかな……」
と小さく呟いた。
「ごめんなさい。空印寺君を見て笑ったんじゃないの。また美琴が空印寺君を見て騒ぐと思ったの」
「???」空印寺は何の事だか解らないとそんな表情をした。
「美琴ね、空印寺君が綺麗だからヤキモチを焼いてるのよ」
空印寺は返答に窮した。
「でも美琴じゃないけど、わたしも空印寺君はとても綺麗だと思うわ。たしかにちょっと焼けるわね」
そう言いながら湊は微笑んだ。「ほんの一週間前まではちょっと話すだけも顔が赤くなり、緊張しっぱなしだったのに……」湊は空印寺に一歩も二歩も近づいた気がした。そしてこの状況がずっと続くことを願った。
空印寺たちのクラスの喫茶店は、最後の頑張りが効いて内装も納得のいくものが出来た。高校生が制作するものであることを考慮すれば文句のない出来だった。店内はちょっと大人っぽい落ち着いた雰囲気の内装。それに似合わない厳ついおっさん顔のウェイトレスたち、その中にとてつもない美人がいた。良く見れば空印寺と判るはずなのだが、湊が薄くではあるが、化粧をした為、ちょっと見では空印寺とは判らなかったのだ。元々空印寺は美形で名は通っていた。それだけなく無口な根暗でも有名だった。最近は三年の女子と付き合っている噂もあり、本人の預かり知らぬところではあるが、学校のゴシップにはよく名前が出てきていた。「二年一組に、すごい美人がいる」空印寺と面識のあまりない一年と三年男子の間でその噂が広がり、空印寺のクラスの喫茶店は大いに繁盛した。この噂につられてきた連中は、店内の内装に出来の良さに驚き、厳ついおっさんウェイトレスの歓待に「騙された」と怒り、給仕に来た空印寺を見て頬赤らめ「写メを撮っていいか」と空印寺に尋ね、無言で断られ、がっかりするのに忙しかった。ただ気合いを入れてサイフォンでコーヒーを淹れていた連中は「コーヒーは美味しくないのか」と涙目になって訴えていた。
初日はクラスの誰もが考えていたより成功を収めた。T高祭は現金のやり取りはない。現金は金券に換金されることになっている。一杯のコーヒーに二枚ほどのクッキーを付けて、金券で二百円。これが妥当な値段かはさて置き、二万円を上回る売り上げがあったのだ。明日はもっと売り上げを伸ばそうとクラス中が盛り上がって初日を終えた。
初日、空印寺は休憩時間でもウェイトレスの衣装を脱ぐことを学級委員長から禁じられた。
「空印寺、その恰好で校内を歩いて、うちのクラスの宣伝をしろ」
空印寺が嫌な顔をして首を横に振ると、
「空印寺さん、この通りです。その恰好で居て下さい」
と強気な態度から一転土下座をせんばかりに卑屈なくらい下手に出た。クラス中はこの学級委員長のコントを爆笑しながら眺めていた。空印寺は助けを求めるように湊を見た。湊も笑いながらも、空印寺の視線に気づき、空印寺の方を見て学級委員長に同意するように何度も頷いた。空印寺は「ブルータス、お前もか」と言いたくなる心境だった。空印寺は学級委員長の言葉に一度だけ小さく頷いた。
「そうか。空印寺、ありがとう」
学級委員長は空印寺に抱きついた。その瞬間女子から、
「相馬君、セクハラだー」
と大合唱が起こった。
「俺たちは男同士だ」
と学級委員長は叫んだが、女子の黄色い声にかき消された。
「空印寺君、セクハラで訴えるべきよ」
「女の敵」
女性陣の学級委員長への様々な口撃に、空印寺は顔を引きつらせたまま笑うしかなった。
空印寺は真麗との待ち合わせしている図書室に向かった。スカートは足がスウスウして心もとない。それに試着した時よりも何だかスカートの丈が短いような気がする。階段を勢いよく上がるとスカートの中が下から見えてしまいそうだ。一応スカートの中は学級委員長の命令でメンズ用レギンスを穿いている。理由は「男の物のパンツを見せるのは夢が壊れるから厳禁だ」とか。良く解らない理由だった。
空印寺が図書室に着くと真麗は既に図書室の前で待っていた。
「ごめん、待った」
真麗は空印寺を見て驚いた顔をして、無言で空印寺の胸を触った。
「冷泉さん?」
空印寺がびっくりして胸を隠す。真麗は口許を手で押さえながら笑っていた。
「空印寺ちゃん、行きましょう」
真麗がこんな冗談言った事がなかった。空印寺はクラスにかかり切りで真麗に会えていない事を気にしていた。「良かった……」好きな人の機嫌が良いことは、嬉しいことだった。
真麗と空印寺が校内を歩いていると真麗に熱を上げている一年生女子たちが二人を見つけた。だが、空印寺がウェイトレスの姿であったこと、空印寺が化粧をして印象が変わっていたことで彼女らはその女性が空印寺だと気づかなかった。彼女たちは、真麗といる女性がびっくりするくらい美人だったことで、真麗は面食いだという認識を持った。だからと言って、真麗の信望者は趣意を替えるつもりはないようだ。そしてこの二人を見て同性愛的なやや過激な妄想をして愉しむことになった。真麗と空印寺はコガモたちの存在を徹底的に無視をした。コガモたちもただ見ているだけ何も絡んでは来ない。元々彼女らにしてみれば、レクリエーションの一種なのかもしれない。憧れの同性の先輩を連れ立って見て楽しむのは。
空印寺は真麗と腕が絡むくらい密着し歩きながら、また深々と思考の海に溺れていた。真麗が空印寺の手を握った。温かい手。空印寺はその温かい手を握り返した。真麗の顔が嬉しそうに微笑む。空印寺は真麗の、この手があったからこそ、今こうしてここにいることが出来る。真麗に出逢っていなかったなら、今でも誰とも口をきかず、ずっと孤独な時間を過ごしていただろう。この恰好は恥ずかしいけれど、学級委員長、湊の友人の美琴や衣装係の人たち、厳ついウェイトレスたちとも全く言葉を交わすこともなかったのだ。そう思うと、孤独な世界には戻る気が起こらないどころか、今の自分のままでいたい気持ちになる。真麗と湊、彼女たちとの交流がなければ、今の状況はあり得ない。彼女たちの手を握った、その手を放す勇気はない。また、ここに結論が落ち着いてしまった。空印寺が自己嫌悪の底なし沼に足を踏み入れようとした時、真麗が、
「空印寺君、わたし、どんなことがあっても、あなたの味方よ。だから、そんな顔をしないで」
空印寺は自分が今そんな顔をしていたのかと思い、無理にでも笑おうとした。しかし上手く笑えない。その時、真麗が大胆にも空印寺の頬に軽く口づけをした。一年女子のコガモたちのどよめきが起こった。
「空印寺君、何か食べましょう。二年の出し物を廻れば、昼食の替わりになるものがあるかも知れないわ」
「うん」
空印寺が少し気持ちが持ち直したのか、笑顔が戻った。真麗は空印寺の腕を取り、二年の教室に向かった。
・七月十九日(日)
一般公開の日、空印寺たちのクラスは燃えていた。昨日の結果が予想以上に良かったことがさらにやる気に火を付けることになった。学級委員長は空印寺に昨日同様、給仕の間は喋ることは一切禁止。さらに昨日同様、休憩時間もウェイトレス姿のままでいることが告げられ、朝一番と正午の半時間ほどは美琴たち宣伝班と共にビラ配りをすることになった。クラス全体が期待の眼差しで見るので空印寺は嫌とも言えずただ疲れたように頷くだけだった。このビラ配りの時も話すなと厳命されてしまった。
「空印寺君、仏頂面は止めなさい」
ビシッと美琴は空印寺の鼻先に人差し指を突きつけた。空印寺はその美琴の迫力に圧され、びっくりした表情をしながらカクカクと二回ほど頷いた。
「よろしい空印寺君。ほら、お客様には、笑顔、笑顔」
美琴は空印寺に手本を見せるように、ニコッと微笑んだ。屈託のない笑顔を見せ、その豹変ぶりに空印寺を驚かせた。
「こんなの営業スマイル、誰だって出来るわよ。ほら空印寺君、え・が・お」
空印寺は美琴がしたようにニコッと微笑んだ、つもりだった。
「駄目、やり直し」
美琴はその可愛い容姿に似合わず体育会系のノリだった。十回ほど繰り返して、何とか空印寺は美琴の合格点を、最低な合格点だけど、貰えた。
「うーん、まだ表情が硬いけど、まあいいわ。何人かは騙くらかすことは出来るわね」
何とも身も蓋もないこと言い、外部からの来客が入ってくると、美琴は自分と空印寺を前面に立てビラを配った。小動物系の可愛さとに加え屈託のない愛嬌がある美琴と文句がつけようのないくらい美人の空印寺のコンビは来客者の目を引きまくった。他には全く注意がいないくらいに。同じく喫茶店をしている三組のビラ配り連中から「あのコンビは反則だろう」と苦情が出たところで時間となり空印寺は本来の仕事に戻った。
校内では写メは禁止であり、これはT高祭の規則である。しかし校舎外では一応写メは記念撮影などある為、許可されていた。学級委員長はこれを利用したのだ。間違いなく空印寺の美人ぶりは盗写され拡散される。そしてその容姿を見ようと好奇心旺盛な連中が集まると学級委員長は見越していた。そして、その思惑通りになった。店を開けて一時間ほど経つと、漫画やアニメであるようにさすがに行列は出来なかったが、稼働率は常時百パーセントだった。朝から昼過ぎにかけては男性客が圧倒的に多かった。空印寺を目で追う男性客の多い事、多い事。そして当然空印寺の正体はばれる事になる。あの飛び切りの美人が実は女ではなく男であると噂が立つと、今度は女性客が圧倒的に多くなり、男女の比率が変わっただけで稼働率は百パーセントを維持し続けた。
空印寺と真麗は少しだけ会う時間を持てた。空印寺は、今日はT高祭の後、打ち上げがあるから一緒に帰れないと告げた。そして空印寺は真麗のクラスも打ち上げがある事を真麗から訊き、この後は受験勉強漬けになるのだから打ち上げに参加するように真麗に言った。真麗としてはクラスの打ち上げより空印寺と居たかったが、空印寺にそういうに言われると気は進まないけど打ち上げに参加せざる負えない。しぶしぶ空印寺の言葉に真麗は頷いた。そして今日はここでお別れだった。
「「バイバイ、また明日」」
二人の声が重なった。
T高祭が終わりを告げる放送が流れた。
「終わった……」
空印寺は思わず溜息まじりにひとりごちた。今日一日、昨日以上に人の視線に晒された。昔は恐怖の対象だった人の視線が、今は感覚がマヒしてしまって、ほとんど何も感じない。ほんのニカ月前までは考えらない事だった。それが回復でも、進歩でも、成長でも、何でも良かった。空印寺は自分が大きく変化していることを実感できた。
「お疲れ様」
湊がコーヒーと残ったクッキーを二枚ほど持ってきた。
「ありがとう」
空印寺は遠慮なくコーヒーとクッキーを受け取った。ヘロヘロに疲れている時に甘い食べ物はとても美味しく、コーヒーも空印寺の好みの薄めブラックだった。湊が空印寺を心配そうに見ている。空印寺は湊に顔を向け、小さく礼をした。湊の顔が少し赤くなり、嬉しそうに笑んだ。
「それにしても……」と空印寺は思う。これほど接客業が疲れるものとは思ってもみなかった。そして視られることを生業にしている芸能人やモデルに対して、「よくこんな神経の疲れる仕事ができるな……」空印寺は呆れ半分、尊敬半分な心持になった。
「空印寺君、この後、打ち上げ行くわよね?」
「湊、何言ってるのよ。今日の功労者よ、居なきゃ意味ないでしょう」
美琴は空印寺の方を振り返り、ニヤッとして、
「空印寺くーん、着替えちゃダメだよ、ねっ」
空印寺は美琴が両手の指をワシワシと動かしながらジリジリと寄ってくるのを、顔を引きつらせ見ていた。漫画の描写だと額に汗が一筋描かれる状況だ。
「もう止めなさい」
湊が美琴の体を羽交い締めにした。そして何が可笑しいのか二人は笑い出した。空印寺は二人の笑いについて行けず、キョトンとしてただ笑っている二人を眺めるだけだった。
空印寺のクラスの学級委員長は実は何事にも手際が良く、仕切り屋としてはかなりの策士で優秀だった。あの店内の内装が遅れていたのも実はこの学級委員長の策略で、この事があってクラスの盛り上がりは一気に頂点まで高まったのだ。今回の打ち上げも高田駅近くの大きな喫茶店を卒なく押さえ貸し切っていた。そして何故か縁もゆかりもない一年生と合同だった。この一年生たちとの合同打ち上げは最初のうちは一年生が緊張したのか、硬くなってあまり盛り上がらなかった。しかし学級委員長はそれも予定とおりだったらしく、ある程度落ち着いたところで無理やり席をシャッフルさせた。そしてみんなが盛り上がるように、それぞれの功労者をお立ち台に上げ、インタビュー形式であほらしい質問と真面目な質問を4対1の割合で行い、ただバカなお笑い狙いだけなく真面目な部分を見せ皆の心を惹きつけた。
一年生は真面目な企画だったのだが、それでも裏話や失敗談は豊富にあり、それを暴露される度一年生は笑い、それに釣られ二年生も、一年の時を思い出して笑ったのである。二年生の番になると、誰しも空印寺がお立ち台に立たされると思いきや、意外なことに美琴が呼ばれた。中学生にしか見えない先輩の話術は面白く、おまけに可愛らしい。喫茶店での裏話を暴露しまくった。そして最後に美琴は、
「これらの事を参考にして、来年のT高祭で喫茶店などのお店を成功させて下さい」
と締めくくり、爆笑と拍手喝采を貰った。普通に考えれば、二年一組の喫茶店の成功は間違いなく空印寺の話題性にあった。しかし口下手で照れ屋の空印寺をこの場に引っ張り出しても、場が盛り上がらないし、お疲れの空印寺を労わることもあった。ここは学級委員長の仕切り屋としての上手さが光った。しかし意外なところから、空印寺は注目を浴びることになった。当然この一年の中にも噂になった美人を見ていた。一年の男子生徒の一人が「誰ですか」と訊いたことがきっかけになった。一斉に空印寺のクラスメイトが空印寺の方に目をやる。その視線を追って空印寺の顔をじっと眺めて、その男子生徒は物凄い大声で、
「えーえっ」
と叫んだ。そしてその男子生徒は案外ノリが良く、空印寺の前まで来て右手をいきなり差し出して、
「初めて見た時、恋に落ちました」
と告白した。店内は爆笑渦に包まれた。空印寺は目を白黒させながら、大きく首を横に振った。すると告白した男子生徒は、
「振られたぁ」
とそこにバタンと倒れ込んで泣く振りをした。さらに笑い声が膨らみ、
「髪を丸めて出家します」
と宣言した途端、
「お前、もとから坊主頭じゃないか」
とツッコミが入り、腹を抱えて笑う者が続出した。後は一二年交えたグリープが出来上がり各々話が盛り合っていった。空印寺のいるテーブルのグループも盛り上がった。当然の事として、空印寺は聞き役だった。皆でこうしてワイワイとする場に自分が参加していることが、空印寺とって殆ど初めての経験であり、戸惑う事も多いけれど、心から楽しかった。こんな楽しい経験を今まで自分から放棄していたことを空印寺は後悔するほどだった。空印寺の隣に座った一年の女子生徒は空印寺の横顔をチラチラ見ては何かを言おうとしている。そんな視線に空印寺が気づき、その女子生徒の方に振り返った。
「先輩、胸触ってもいいですか?」
といきなりびっくりするような事を言ってのけた。その女生徒は頭を掻きながら、
「失礼ながら、先輩がホントに男性なのかと思いまして」
空印寺はこの一年生たちには驚かされてばかりだ。
「男だよ」
少しはにかみながら答えた。
「うーん」
その女生徒は腕を組み考え込んだ。
「やっぱり、先輩。胸触ってもいいですか?」
と言って空印寺の胸に向かって手を伸ばそうとする。さっき見た美琴のように両手の指をワシワシさせた。空印寺は両手を前に出して、
「待って、待って」
困惑の声を上げた。周りの連中はその女生徒の事を止めるどころか、その女生徒をけしかけながら無責任に笑い転げている。空印寺は湊に顔を向け無言で助けを求めた。湊は空印寺の言わんとすることをあっさり悟り、その女生徒の隣に座って、
「駄目よ、逆セクハラよ」
湊はその女生徒の手の甲をつねる振りをした。その女生徒は両腕を上げ、
「ホールドアップ」
と言って笑い出した。湊も一緒になって笑いはじめた。先ほどの湊と美琴の事と言い、この二人と言い、空印寺は女性の笑いのポイントは全く理解できないということが理解できた。盛り上がった一年との合同打ち上げは午後九時になったところお開きとなった。学級委員長は最後まで自分の責務を全うするつもりのように、
「二次会はするな」
「とっとと帰れ」
「男子は女子を送り届けろ。ただし狼になるな」
などと咆えまくっていた。学校側にいちゃもんを付けられたくないのだろう。最後に来て汚点を残したくないのが彼の本音だった。空印寺と湊は全く反対方に帰ることになる。ここで今日はお別れだった。そして偶然にもエアポケットのように二人は周りの喧騒から切り離された。
「空印寺君、今日はお疲れ様でした」
空印寺は疲れた表情を隠そうと笑みを見せて、
「袖野さんもお疲れ様」
「えっ、わたしは空印寺君ほど活躍してないよ」
「でも、衣装作ってくれたし……」
「気に入ってくれた?」
さすがに空印寺も「気に入った」という言葉は口に出来かねた。湊はコロコロ笑い、
「嘘よ。空印寺君が読んでいる三島由紀夫の鏡子の家を今度読んでみるわ」
「じゃまた感想を聞かせて」
「うん、任せて」
湊は満面の笑みで空印寺の言葉に応えた。
「「バイバイ」」
真麗の時と同じように二人の声が重なった。
空印寺は突然北浜奈美に声をかけられた。
「空印寺君、話があるの?ちょっと時間ちょうだい」
奈美は空印寺の返事も聞かず歩きはじめ、クラスの連中と離れたところまで来ると空印寺の方に振り返り、
「ねぇ、家まで送ってくれない?」
空印寺がどう応えて良いものか迷っていると、
「ボディーガード」
「でも、役に立たないよ」
空印寺は少しばかり間を置いて応えた。
「大丈夫よ。空印寺君がやられている間に逃げるから」
空印寺は思わず笑いそうになった。奈美のツンケンとした受け答えが新鮮だった。真麗も湊もこんな話し方をしない。彼女たちはジョークの入った皮肉や憎まれ口をほとんど言わない。そもそも、そんなセンスを持ち得ていない。空印寺は彼女のような話し方が面白いと思った。しかしこの手の一種センスが要求される会話をするほど空印寺はコミュニケーション能力が備わっていなかった。
「すぐにやられるよ」
「わたしが逃げきるまで持ち堪えなさいよ。男でしょう」
「うん、解った」
自信無げに空印寺が答えると、
「でも顔は守りなさい。わたし、あなたの綺麗な顔が好きよ」
空印寺はいきなりそんな事を言われ、つい奈美を見つめてしまった。
「わたし、昭和町なの。こっちよ」
奈美は空印寺のことなど気にも留めず、またスタスタと歩きはじめた。高田駅の南側の踏切を抜け、自動車が一方通行の細い道を通り、突き当りのT字路のところでも足を止めず、目の前にあったお寺の門をくぐった。すると何の前置きもなく、奈美は空印寺の胸に飛び込んで空印寺の体を力一杯抱きしめた。時間にして十秒くらいだろうか。
「好きよ、空印寺君」
小さな声でそれだけ言うと空印寺から離れた。顔を見られたくないのか、奈美は空印寺に対してそっぽを向いたままだった。空印寺はあまりの急展開な為、頭の中が混乱していた。それでも奈美に対して自分の気持ちをキチンと伝えるべきだとそう思い、その事をたどたどしくも言葉にした。
「北浜さん、その、あ、ありがとう。でも今付き合っている人がいるんだ。それで、その、その人が好きだから。ご、ごめん」
奈美は空印寺の返事を皮肉めいた自虐的な笑みを浮かべなら聞いていた。
「謝らなくいいのよ。ボディーガードはここまでいいわ。ありがとう」
奈美はまた空印寺を置いて歩き出した。空印寺はその背中を見送りながら「袖野さんに対して、北浜さんと同じような事がなぜ出来ないのか……」空印寺は何も答えを見いだせずにいた。二人に対する好意に微妙なズレがある。その違和感が何のなのか知りえたら、この不誠実な状況を解決できると空印寺は思えた。
真麗が打ち上げの幹事に参加することを伝えると、それを聞いていた女子たちは「絶対よ、バックレルのはなし」と真麗を囲んで次々と言葉をかけた。
真麗のクラスの出し物は演劇で「人魚姫のようなもの」と言う良く解らない演目に落ち着いた。コメディーなのかシリアスなのか、演技している連中にすら解らない代物だった。しかし、そのアバンギャルぶりが受けて笑いを取る事に成功した。もちろんシリアス派が落胆したの言うまでもない。ストーリー自体はアンデルセンの人魚姫を元にし、最後は悲劇的なラストではなく大団円、人魚姫は泡に消えずそのまま王子の側室となり、隣の国の姫は正室として幸せに暮らしたというオチだった。悲劇性など欠片もない、そもそもシリアス派はコメディー派にやり込められていたのが正しい物の見方だった。
真麗は背景を担当していたので、本番の時はやることがない。図書室で勉強か空印寺が読んでいる本を自分も読むつもりでいた。しかし真麗の事を気にかけているお節介で気の優しい女子たちが真麗を拉致同然に自分たちのクラスの演劇に連れて行った。クラスの演劇がはじまった。観客の反応は最悪だった。シリアスにしてはギャグが邪魔だし、そのギャグも湿りがちだった。少しお寒い風が流れ始めていた。そんな中、舞台の場面が進むつれ、ついに真麗が描いた前衛芸術が白日の下に晒されることになった。体育館に半分ほどいた観客は真麗の描いた物体に目を奪われた。観客の多くは芝居そっちのけで真麗の描いた物体を、真麗曰く人魚に仕える魔女を、指差し隣の人たちと何やら議論をはじめた。それくらいインパクトがあったのだ。舞台で演技をしている連中は完全に蚊帳の外に置かれた。堪りかねた漁師Bはアドリブをかました。
「みんな、舞台に注目してくれ。その絵はただの背景だ!」
これを機に一気に場の流れはコメディー路線へと転び決定付けた。幕が下りる時には拍手と笑い声があった。ここでも真麗は本人の意思に関係なく球技大会同様大活躍を見せたのだった。その真麗が打ち上げに来るということで、クラス全体が活気づいた。真麗のクラスの打ち上げはカラオケだった。真麗は以前空印寺をカラオケに誘ったことがあった。カラオケに興味があったのは事実だった。しかしそれは空印寺と一緒にと言うのが前提であり、空印寺の居ないのであればカラオケに行っても真麗にとっては意味がない。
打ち上げの場所は前に空印寺と一緒に入ろうとしたカラオケボックスVANだった。さすがに全員入る部屋はなく、三つのグループに別れる事になった。当然各部屋の出入りは自由。真麗はしっかり女子たちが確保していた。ノリの良い男子が歌い始めたのを契機に一気にみんなが歌いたい歌を入れはじめた。あっと言う間に、十曲ほどが待ち状態になった。真麗は皆が曲のリズムに合わせて手を叩いているのを真似て自分もリズムに合わせて手を叩いた。驚いた事に、真麗のリズム感は素晴らしく、どんな曲のリズムであろうとあっさり合わせてしまう。そして真麗が一曲もカラオケに入れていない事に真麗の横にいた女生徒が気づいた。
「冷泉さん、何か入れなよ」
ポンと曲目リストを渡された。どこを開いても真麗の知らない曲ばかりだった。そしてパラパラとめくっていく内に「ローレライ」の歌を見つけた。その曲目を指さしたまでは良かったが、真麗はここからどうしたら良いものか判らなかった。ただそうして茫然としていると、真麗の正面に座っている女生徒が真麗の様子に気づき、
「ローレライ?これを入れたらいいの?」
真麗は頷いて彼女の問いに応えた。真麗の順番は中々回ってこなかった。が、真麗は別段気にする様子はなかった。どちらかと言うと、ドリンクバーで淹れた紅茶がまずかった方が気になっていた。
真麗が入れたローレライの前奏が流れはじめた。女生徒が一人この歌を知っている顔をしただけで、他の人たちは全く知らないようだった。ちなみにこの楽曲を知っていた女生徒は元合唱部でドイツの歌詞を知っていた。真麗は日本語の歌詞を無視してどこかの言葉で歌い始めた。皆は最初はネタなのかと思ったが、
「ドイツ語よ」
今は元になった合唱部員は驚いた表情を隠さなかった。真麗はドイツ語で歌っていた。そして何より、バスケ同様、誉め言葉を口にすることを忘れるくらい上手かった。高く澄んだ声、これだけなら穿いて捨てる程そこら辺に転がっている。しかし人を惹きつける魔力のような歌唱力を持つ者は滅多にお目にかかれない。元合唱部はカラオケの伴奏が邪魔に聞こえた。真麗の歌声を聞くにはただの雑音と化していたのだ。彼女によって演奏中止のボタンが押された。しかし真麗は最後まで歌いきるつもりらしく歌を止める気配はない。誰ひとり声もなく、合いの手入れる者もなく、真麗の歌声が部屋の中に響き渡り、聞き入る者たちの聴覚を通じて彼らの心を歌声によって支配した。もしここがライン川で彼らが船員だったら、彼らは間違いなく真麗の歌声に導かれ船外に転げ落ちて溺れていることだろう。真麗の歌声にはそんな不思議な力があった。
「Die Lorelei」
Ich weiß nicht, was soll es bedeuten,
Daß ich so traurig bin;
Ein Mährchen aus alten Zeiten,
Das kommt mir nicht aus dem Sinn.
Die Luft ist kühl und es dunkelt,
Und ruhig fließt der Rhein;
Der Gipfel des Berges funkelt
Im Abendsonnenschein.
Die schönste Jungfrau sitzet
Dort oben wunderbar
Ihr gold’nes Geschmeide blitzet,
Sie kämmt ihr gold’nes Haar.
Sie kämmt es mit gold’nem Kamme,
Und singt ein Lied dabei;
Das hat eine wundersame,
Gewaltige Melodei.
Den Schiffer im kleinen Schiffe
Ergreift es mit wildem Weh;
Er schaut nicht die Felsenriffe,
Er schaut nur hinauf in die Höh’..
Ich glaube, die Wellen verschlingen
Am Ende Schiffer und Kahn;
Und das hat mit ihrem Singen
Die Lore-Ley gethan.
真麗が歌い終わると、シーンとした静寂があった。それは神聖なものへ対する尊敬や畏怖の念が籠る沈黙であった。元合唱部員は「ローレライの歌声はこんな歌声だったのかもしれない……」などと恐れ多い事を考えていた。真麗は皆が自分の歌を聞いてくれたことへの感謝を込めペコリと頭を下げた。
「凄いわ、冷泉さん。凄い、まるでプロみたい」
と元合唱部員が言うと周りの人たちはそれではっと意識を取り戻したようになり、真麗に拍手喝采と賛辞をおしみなく贈った。真麗の歌を聞き逃した連中は真麗にアンコールを送ったが、あっさり断られた。その理由が「紅茶がまずい」だったが、本音は「さきに、空印寺に聴いて欲しいから」だった。
・七月二十日(月)
七月の第三月曜日は祝日であり、T高祭で疲れた体を癒す日でもあった。しかし元気な高校にはただの遊びに行く日でしかない。空印寺と真麗は一カ月ほど前に来ていた映画館にいた。真麗がバスに極端に弱いので、春日山駅から半時間余り歩いてこの映画館にたどり着いた。映画は何を観るのかはまだ決めていない。一般的にはもうちょっと計画性を持ってデートをするように思えるが、この二人は相変わらず行き当たりばったりのデートをしている。タイムテーブルを見ながら、空印寺と真麗は何を観るか話し合っている、と言ってもそもそも事前に映画の情報を知っているわけではないので、映画の内容はまるで知らない。チラッと見たポスターが唯一の情報源だった。この状況をもし熱心な映画ファンが見ていたなら「お前ら映画をバカにしているのか」と怒り出すこと請け合いだ。まるでトンチンカンな映画評論の会話が終わり結論が出た。何と、アニメーション映画を見る事になった。二人ともアニメーション映画を見たことがないと言うのが決め手になった。二つ並んで空いている席がなかったので、空印寺と真麗は離れて座る事になった。空印寺はそれ程気にはしなかったが、真麗の方は映画を観る楽しみの半分以上が削がれた気分だった。映画は主人公がバケモノの世界で修業し、そこで培った能力で危険になった人間界を救う話しだった。
空印寺は話のテンポが良い前回観た映画とは違い、話の展開が急で話を理解するのに苦労した。そこはファンタジーと言うことで納得はしたものの、おっとり気味の、悪く言えばノロマな空印寺には目の回るような内容だった。一方真麗は映画の内容の方はあっさり理解し、クジラ化したことなど説明不足な点等が気になったが、そこは自分で埋めればよいと空印寺とは違った見解をしていた。
映画を観終えると、二人は映画館を出て、前回とは反対方向を目指した。そこで目についたスペインの冒険小説と同名のディスカウントストアに入った。店内は商品が所狭しと並べられ、下手な商品の取り方をすれば商品の山が崩れてしまいそうだ。商品の群れを縫うように歩きながら真麗と空印寺は冷やかし丸出しの態度で商品を眺めていた。真麗の胸元には空印寺が気に入っていたべっ甲のヘヤピンがチェーンに落ちないようにしっかり繋がれている。最初の内は髪に付けていたのだが、何かの拍子で落としそうになったので、こうして首から下げていた。真麗はこのヘアピンを肌身離さず持っている。これがあれば他にも何もいらないと言った風だった。実際、真麗は空印寺に何か買って欲しいなど言う気はなかった。女性が物で男の愛情を計るような事は真麗には全く考えには及ばなかったことだった。淡泊と言うか、物欲がないと言うか、真麗にはそう言った欲はないのか知れないが、ことが空印寺になるとそういう訳にはいかなった。女性の愛情の欲求は物欲と愛欲でできており、その総和は一定でどちらかに天秤が傾けば、どちらかが重くなり一方が軽くなるようだ。真麗の場合、愛欲が重く物欲が軽いという事になるのだろう。
映画を観た後、ぶらぶらとウィンドショッピングを楽しみ、気がつけば二時を回っていた。どこかで遅い昼食を取ろうとなってフードコーナーを探した。すぐにフードコーナーは見つかり、どこの店に入ろうかとなった時、映画の時と同じようにあまり知らないところへ行こうとなった。もんじゃ焼きと言う文字が目に入った。空印寺が、
「冷泉さん、食べた事ある?」
真麗は首を横に振り、
「空印寺君は?」
空印寺も首を横に振り、もんじゃ焼きを食べる事が決定した。もんじゃ焼きは東京ローカルの食べ物で、小麦粉を水で溶いてキャベツやイカなどの好みの具ともに鉄板で焼いて食べる関西のお好み焼に似た食べ物である。お好み焼きと違う点は生地が水っぽいのでお好み焼きのように固形化しないが特徴で、自分で焼くの一般的である。とは言え、空印寺と真麗にいきなりそんな器用な事が出来るわけがない。二人は自分でもんじゃ焼きを焼くことをあっさり放棄、店員にもんじゃを焼いてもらうことにした。ある程度もんじゃを店員に焼いてもらい、最後に小さな鉄へラで生地を押さえつけ焼いて食べることを店員に教授してもらった。空印寺がまず試しにもんじゃの端をヘラで鉄板に押し付け焼け跡がついたくらいで梳くって口に入れた。
「熱っ、おいし」
空印寺がそう言うと真麗も空印寺を真似てヘラを器用に使いもんじゃを焼き口の入れた。
「不思議な味」
と言いながら真麗はまたもんじゃを口にした。
「でも、おいしい」
二人は和気あいあいとしながらもんじゃ焼きを平らげ、これだけは小食とは言え、若人には少々不足気味だったので、今度が焼うどんを頼んだ。これも二人とも食したことないモノだった。焼うどんも食べると、さすがに喉が渇いてきたので、ウーロン茶を二つ頼んだ。
「汗いっぱい掻いちゃった」
真麗は左手を内輪にして自分を扇ぎながら、ウーロン茶に入っていた氷を噛んだ。何がきっかけになるか、人生解らないものである。真麗が氷を噛んだその時に、空印寺は自分の中で答え、それが何か上手く言葉に出来ないが、そう答えのような、そういった事を確かに自分の中で出たのだ。しかし、それが明確にならないのが、もどかしい……
空印寺は財布の中を確かめた。空印寺は彼自身のことで家庭内が上手くいっていない。それが両親には負い目になっているらしく、小遣いは結構な額を貰っている。本以外買うことがない空印寺はかなりの額を貯め込んでいた。財布の中には高校生には多額な諭吉が三枚ほど入っていた。
「冷泉さん、今から行きたいところがあるのだけど、いいかな」
「うん、いいよ。どこに行くの?」
「雁子浜」
「今から?」
「タクシーで行けば三十分くらいで行けると思う。しんどいかもしれなけど付き合ってくれる?」
空印寺にこういう風に頼まれたら真麗には断る事が出来ない。
「いいわ」
空印寺は前回のデートの時、真麗のべっ甲のヘアピンを買ったショッピングセンターに公衆電話があったことを思い出した。二人はそこに向かった。実はすぐそばに公衆電話のボックスがあったのだが、気づくことはなかった。果たしてショッピングセンターで公衆電話はあった。二階のエレベーター横に、丁度階段の入口に設置されていた。備え付けのタウンページを開きタクシー会社を探し、真っ先に目に着いたNタクシーを呼んだ。タクシーは十分ほどで到着して、二人は車上の人となった。
「彼女、車に弱いので、あまり飛ばさないで下さい」
空印寺がそう言うと、プレートに堀秀治と名前の書かれた白髪混じりの運転手は、
「わかりました」
と渋い声で応えた。運転手はゆっくりと明らかに丁寧な運転をしてくれた。その甲斐あって、真麗は車酔いをすることはなかった。その分、雁子浜へは空印寺が言ったより長くかかったが、それでも四十分程で到着した。空印寺はもっと運賃がかかると思っていたが、案外安く一万円で半分ほどのお釣りがきた。二人が車を降りると、
「お疲れ様、お気をつけて」
と運転手から声をかけられ、空印寺が、
「ありがとうございます」
と返すと、運転手は意味あり気なサムズアップをして応えた。「何か勘違いされている……」そう思った空印寺ではあった。
空印寺と真麗が雁子浜の海岸に出た。もう午後四時になっている。元々雁子浜は鵜の浜や上下浜に比べ人気がない。この時間、海水浴をしている人は当然見当たらず、波打つ際で遊んでいる家族連れが一組と恋人同士と思われる男女が一組いただけだった。右手の方に、初めてこの浜でデートした時に座った階段状の防波堤が見える。誰も座っている人はいない。空印寺は真麗の手を引きそこに向かった。あの時と同じように二人で腰掛けた。真麗は空印寺の腕を絡め体を密着させた。空印寺に真麗のぬくもりが伝わり、その暖かさが心の奥まで染みわたる。まるでやさしさに包まれているようで、それを手放すことがあまりにも惜しく思える。
空印寺は海を見つめながら、自分の考えがまとまっていくのを感じていた。今こうして真麗に触れて貰わないと、自分の気持ちがグルグル回りはじめ、何も答えを見出す事は出来なかっただろう。
「自分は真麗が好きだ……」その事を何度考えても自分の気持ちに変わりない。同時に好意を持った湊の違い、その違和感の正体。それは好意を持った時のきっかけだった。
空印寺は幼い頃の体験、それは未だに不明である、その体験がトラウマとなりPTSDを引き起こした。人と接触するが出来なくなり、孤独の道を進むことになった。誰とも、家族でさえ、話す事を拒んだ。その後PTSDの加療を受け、学校が通えるまで回復したものの、はやり誰ともコミュニケーションがうまく取る事が出来なかった。そんな時に空印寺は真麗と出逢った。彼女は空印寺がコミュニケーションを取ることを恐れていることなど構わず、空印寺が作り上げてしまった人との心の壁を簡単に越してしまった。そして彼女は空印寺が失っていた人と繋がること、心だけでなくその手の温もりを思い出させてくれた。空印寺からすれば真麗は自分が作り出した心の闇から救い出してくれた恩人であり、空印寺の心に占める存在は大きい。それだけなく真麗は空印寺に好意を持っていた。空印寺はそれに応えたいと思った。そして彼女に恋をした。空印寺は気づいてしまった。もし気づかなければこのままずっと真麗の事を想い続けられていたのかもしれない。それを気づかせたのは湊だ。湊がいなければ、こんな事にならなかった。だが湊を恨む気にはなれない。空印寺は目を閉じて息を止めた。「自分は真麗自身に惹かれたでのはない。真麗と同じように自分を救い出してくれた女性なら、誰でも好意を持ってしまっていただろう……、それはただの疑似恋愛なのかもしれない……、精神科医が治療中の患者に好意を持たれるのと同じ……」そして、そういう部分がなく心惹かれたのが湊。空印寺は真麗が絡めていた腕をそっと外し、立ち上がった。
「どうしたの?」
真麗が空印寺に問いかける。
「何でもないよ。帰ろうか」
「もう少し、ここにいない?」
真麗が立ち上がり、空印寺の首に腕を巻き付け、そっと口付けをした。空印寺はその口付けに対してほんの少し躊躇いを感じた。毎度のことではあるが、女の洞察力、勘は鋭い。真麗は空印寺のそのちょっとした躊躇いの動きを見逃さなかった。
「空印寺君、誰の事を考えたの?」
真麗の口調が詰問するように鋭くなった。こういう時の男は情けない。空印寺も多分に漏れず醜態を晒す。
「ごめん……」
これでは真麗の言葉を認めているのと同じだ。パンッと小気味の良い音が空印寺の左頬で鳴った。
「バカッ」
真麗は空印寺の胸に飛び込んで空印寺の体を抱きしめた。それはまるで、昨日の北浜奈美を見ているようだった。しかし空印寺は北浜奈美の時のように真麗を突き放すことは出来なかった。勘違いから起こった恋愛感情であっても、真麗に好意がある事実は変わりない。空印寺は「これが冷泉さんでなく袖野さんなら、こんな捩じれたことにならなかったのだろうか……」とふと思った。その時、真麗が空印寺の顔をじっと睨むように見つめていたのことを空印寺は知らなかった。