en Juillet(a)
・七月三日(金)
期末試験の最終日、最後の試験。空印寺と湊は英語Ⅱが終わった。空印寺は試験がはじまる前に、忘れていた記憶なのか幻覚なのか、判らないものに悩まされたが、しかし試験がはじまると持ち前の集中力を発揮し、それなりの出来までに持ってきた。また湊は停学を受けた影響が逆に良い方向に傾いた。自習していた箇所が試験にやたら出題されていたのだ。こちらはかなりの手応えがあった。
「これなら両親に勉強のことで心配をかけずに済む……」湊はほっと胸をなで下ろした。
真麗は古典の試験を終えたところだった。真麗は試験を終えると確認ということをしない。ケアレスミスをすることもある。しかしそんなことはお構いなしだ。試験をやり終えると、ペンを置き、しかもシャープペンでなくボールペンを使う、そのまま黒板をぼうと眺めているのだ。それでいて学年でも十番前後の成績をとるのだから、周りからは妬まれるより不思議ちゃんとして見られている。本人は他人の目をまるで気にすることがない。それどころか、全く興味を示さない。それが不思議ちゃんとしての周りの認識を強めているのも事実だった。
空印寺と真麗は試験期間中、放課後図書室には行かなかった。この期間、勉強をする生徒が大挙して押し寄せてくるからだ。二人は玄関先で待ち合わせをして、高田駅までの道のりを楽しんだ。試験が終わると途端、図書室はいつもの状態、日常に戻る。真麗もいつものように指定席に座り、空印寺を来るのを待っていた。気がついた人は不思議に思うかもしれない。真麗は三年で二階に、二年の空印寺は三階に教室がある。普通に考えれば、四階にある図書室には空印寺の方が早く来そうなものだが、実際は真麗の方がいつも早く来る。その理由は真麗は何でも機敏に動きさっさと物事を片付けるのに対し、空印寺はゆったりとした動作で物事にあたる。図書室に来る時間差は、こうした二人の行動に起因するのである。口悪く言えば、真麗はせっかちで空印寺はノロマとなる。
空印寺が図書室に入ってきた。真麗の顔が一瞬でほころんだのは言うまでもない。夕刻、図書室を下校時間になり追い出され、そのまま学校出た時、空印寺が珍しく独り言のように呟いた。
「球技大会、嫌だな……」
真麗は空印寺が何故嫌がるのか、理解できないような顔をして、
「なぜ。嫌なの?」
「球技と言うより運動が苦手なんだ……、足が遅いうえに鈍くさいから……冷泉さんは何に出るの?」
「バスケットよ」
真麗は架空のボールを持ちジャンプショットを決めた。信じられないくらいの跳躍力で、その瞬間、真麗の体は無重力状態に置かれた。長い髪がふわっと広がり、同じようにスカートの裾が持ち上がった。長い脚が露わになる。空印寺は真麗の無邪気な色気に胸の鼓動が速くなった。真麗が着地すると、空印寺の振り返り、ニコッと笑った。
「冷泉さんはバスケット経験者?」
「違うわよ。バスケットはこっちに来て知ったの」
空印寺は真麗の言いように違和感を持った。「冷泉さんはやっぱり帰国子女なのかな……、バスケットをこっちで知ったなんて……、それに映画やハンバーガーのこととかもあるし……」しかし空印寺は真麗にその事を無遠慮に訊くことはなかった。いくら親しい仲であっても、相手のプライベートな事情を不躾に尋ねることは失礼にあたると思ったのだ。こういうところは空印寺の性格が表れている。
「空印寺君は何の種目に出るの?」
「サッカー、多分何も出来ないから立っているだけ」
「サッカーって?フットボールの事?」
この時空印寺は真麗が帰国子女であると確信した。そして本人がその事を言わないのなら、または言いたくないのなら、自分から訊くまでもない。きっと話たくなったなら話してくれる。それまでは知らない振りをすれば良い。空印寺はそう結論付け、これ以上その事を考える事を止めた。
「冷泉さん。バスケ頑張って、応援に行くから」
真麗はその言葉を聞いて、段々と全身が熱くなっていくのを感じた。
「うん」
空印寺のこの一言がちょっとした騒動を起こすことになる。そして、この日から空印寺の読む本にはホワイトハウスコックスのブックカバーが付けられることになった。真麗が試験期間中にも関わらず片道二時間をかけて新潟市内の専門店で購入したものだった。その事を真麗は空印寺には伏せておいた。何となく空印寺が自分の事を心配すると思ったのだ。
・球技大会 七月五、六日(月、火)
球技大会は七月五、六日に開催された。種目は男子がサッカー、ソフトボール。女子はバレー、バスケットで学年を問わず各グループを作り、そのグループ内で総当たり戦を実施する。各グループ一位のチームが決勝トーナメントを行い学校一を目指す。尚、全生徒は自分が出る競技には、フル出場、途中交代問わず毎試合には必ず出場することが義務付けられている。つまり応援だけの参加は不可という事である。
空印寺はサッカーに出場した。サッカーは最低でもハーフは出場することが義務化されている。当然空印寺はハーフで交代。試合中はゴールキーパーの前でポツンと立っているだけで全く守備として役に立たなかった。敵チームのサッカー少年の引き立て役としては十分に役には立ったが。真麗は当然と言えば当然、空印寺の試合を見に来ていた。真麗は特に声を上げて応援をしなかった。ただ空印寺を眺めていた。本人はそれで十分満足だった。
午前の試合は空印寺、真麗とも一試合ほどこなした。午後一時から試合が再開された時、空印寺と真麗の試合がバッティングした。真麗は自分が出る試合を放り出して空印寺の試合を見に行こうとして女子全員に止められた。それもそのはず、真麗はポイントゲッターとしてチームの得点の半数以上を叩き出していたのだ。真麗のジャンプ力、スピード、体幹の強さなど運動能力の高さは凄まじかった。元々体育の授業では運動能力の高さを見せてはいたが、はっきり言えばその時の真麗は手を抜いおり、その手抜きのことを隠すこともなく淡々と授業を受けていた。
今日の活躍の裏には、空印寺が言った先日の言葉があった。「バスケ頑張って、応援に行くから」と。真麗はバスケ未経験者とは思えない程の大活躍をしていた。ただしそこは初心者、反則も多かった。一応学校の球技大会なので、本来は甘々の判定をするはずだが、ダブルドリブル、トラベリング、チャージング、プッシングなどの様々な反則が取られた。真麗がバスケ部員顔負け、と言うよりバスケ部員が足許にも及ばない程の遙かに上手いプレーをした為、バスケ未経験者にも関わらずバスケ部員並みの厳しい判定をされたのだ。それも一時で終わり、試合が進むにつれ、真麗は反則を取られなくなり、そうなるともう誰も真麗を止めることは出来なかった。
長い髪をポニーテールにして活躍する真麗の姿を空印寺はこっそり見に行っていた。そして真麗の試合が終わると、そっとその場を離れた。試合が終わると真麗はクラスの女子に囲まれていた。色々と賞賛の言葉をかけられているようだが、真麗は余り興味はなさそうだった。
本当の事を言うなら、空印寺は本当は真麗と一緒に居たかった。真麗も自分の姿を見つけると、何より一番に駆けつけてくれるだろう。全く他人の目を気にすることなく。だが空印寺にはそれは荷が重い。今だ人の目が怖いところがある。つまり人と壁を作りコミュニケーションを避ける事の底にあるものは「他人の存在が怖い」という感情である。空印寺にはまだ多くの課題が残されていた。またクラスの人気者になっている真麗の邪魔もしたくなかったこともあった。
空印寺が一人でいると、湊が声をかけてきた。
「空印寺君、お疲れ様」
空印寺はここでもしっかり読書をしていた。もう「豊穣の海」は読み終えていて、新しい本を読んでいた。また三島由紀夫の著物であり「鏡子の家」という作品だった。空印寺はこの「鏡子の家」をまだ一度も読んだことがなかった。何かで澁澤龍彦が書いたこの本の評論を読んだことがあり、必ず読もうと思いつつも縁のなかった作品だった。
空印寺は自分のクラスを応援する気は全くなく、そもそも運動嫌いである。強いて言うのならば、真麗の活躍を見ていたいが本音であった。そんな空印寺だが、湊には何故だか好感が持てた。栞を挟んで本を閉じ、少しばかり親愛の情を持って笑みを浮かべた。湊の頬が赤くなる。
「それ、また三島由紀夫?」
「うん」
空印寺は本の題が判るようにブックカバー外し書名を湊に見せた。
「鏡子の家……」
空印寺は湊に微笑んで見せた。湊は顔をさらに赤くしながら、
「豊穣の海を全部読んだよ。仏教の輪廻転生の話だよね。最後の巻の主人公はちょっと可哀想だった」
空印寺は湊の簡単な感想を聞きながら、最後の巻の主人公、安永透については自分を知らぬ愚か者のように感じていた。彼を可哀想という観点があるなんて思いつきもしなかった。意外な発見だった。空印寺は殊勝な顔をしながら、自分の考え以外についてもっと知りたいと思った。他人とこういう意見交換などしたことのない空印寺にとっては刺激的なことだった。自分の世界が広がっていく気がして面白く感じることができた。空印寺は湊からまた読書感想を聞いてみたいと思い、その事を口にすると、湊は嬉しそうに何度も頷いた。
話題が球技大会に移った。空印寺は湊がどの競技に出るか、実は知らなかったのだ。クラスの皆で競技を決めている時、空印寺は窓の外をぼうと眺めていた。
「袖野さんはバレー?」
「うん。いっぱいミスしちゃった」
「大丈夫だよ。ぼくなんかボールに触れなかったよ」
「仕方ないよ、相手の人たちどう見ても経験者だし」
「うん……」
空印寺は浮かない返事をした。湊は何とかして空印寺に元気とは言わないでも、いつものような状態にはなって欲しいと思った。だが、何をすれば良いのかまでは判らない。湊は男性と一度も付き合ったことがない。湊は何か参考になるようなことを頭の中で巡らせた。
「こういう時、恋愛小説ではヒロインは好きな男の子をまるで母親のように包み込んであげるのだけれど……」湊は自分が空印寺の頭を胸に抱えている図をかなり暴走気味に想像した。それはあまりに恥ずかしい図だった。湊が想像したのは構図がやや異なるロダンの夫婦の像だった。しかもふたり全裸の。
「わたしには無理、絶対に無理……、そんな事できない……、空印寺君は顔が良いから絵になるけど、わたしがしたらギャク漫画になる……」湊はちょっとだけ自分の両親を恨んだ。「空印寺君くらい綺麗な顔であればなぁ……」湊は空印寺の顔を羨ましそうに眺めた。空印寺が湊の視線に気づき湊の方に顔を向けた。湊はその顔を正面から見た時、ひとつの案が浮かんだ。
一週間先に学園祭がある、通称T高祭。その時、クラスの出し物である喫茶店で、空印寺を着飾って女装、クラスの男子がやる女装ウェイトレスをさせてみたいと思ったのだ。空印寺の顔が綺麗なのが一番の理由になるが、単にそれだけではない。湊はウェイトレスの衣装を担当している。上手くいけば、空印寺の触れることが出来るし、もしかしたら、その綺麗な顔に、化粧を施すという大義名分で透き通るように白い肌に触れることが出来るかも知れないのだ。
湊には魅力的な案になった。しかし空印寺は人と話すのがはっきり解るくらい苦手としている。そんな空印寺がその人目を引くのようなことを簡単に了承するとは思えない。でも、うだうだ考えても仕方がない。湊はダメもとで空印寺に自分の考えた案をぶつける事にした。一旦こうと心に決めた時の女性は、湊に限らず強いものだ。
「ねぇ空印寺君、T高祭でわたしたちのクラス、喫茶店やるでしょう。その時、空印寺君、ウェイトレスしてみない?」
空印寺の顔に「?」のマークがいくつも飛び交った。
「空印寺君って、その、つまり、あのね、すごく、綺麗な顔しているでしょう?絶対、美人になれると思うの」
湊はまるで自分が着飾っている姿を想像しているようなキラキラした目で空印寺に訴えった。空印寺は湊の言葉にびっくりした。自分が女装をするなんて夢にも思っていなかったのだ。空印寺も自分の顔は女顔だとは鏡を見る度思ってはいたものの、綺麗だとは一度も思ったことがなかった。客観的に空印寺の顔を見ると、女顔ではあるが、どちらかと言うと中性的な美を感じさせる。空印寺としては、もっと野性味溢れるワイルドな感じな顔になって欲しいと思っている。残念なことに現実は彼の思い通りにはなっていない。
それは湊にも言えた。彼女も自分の感覚では、空印寺のような中性的でありながら女性を感じさせるような顔に憧れる。現実は頬っぺたの赤い丸顔の垢抜けない女の子。湊本人は気づいていないが、実は空印寺の顔は湊がなりたい顔のサンプルのひとつとして挙げる顔だった。もしかして、湊が空印寺に惹かれる要因の一つかもしれない。
「似合わないよ」
空印寺は湊の言葉にあまり乗り気でないことを示した。今度は湊が空印寺の返事に異議を唱えた。
「勿体ないよ。空印寺君、自覚なさ過ぎ」
湊は心底不満顔になった。空印寺に反対されたことで、逆に確信した。
「空印寺君は歌舞伎の女形のように絶対美人になれるよ……」それに湊だけでなく男の子に対して毒舌は吐く美琴も空印寺が美形であると認めている。さらに美琴の話では、空印寺の隠れファンもいるらしい。それだけではない。信じられない噂をさっき耳にしたのだ。洗面所で手を洗っている時、その外の廊下で、おそらく二年の女子が話していたことが聞こえてきた。あの北浜奈美が実は空印寺に惚れていたらしい。美形の顔と孤独癖のあるところに完全に参っていたのこと。空印寺に三年の彼女ができたと噂が流れ、北浜はかなりいらついていた。そこへ湊が言い寄った為に湊に八つ当たりをした、というのが真相とか。
湊は人の噂をそれ程信用していないが、この噂は的を得ていると感じた。
「わたし、空印寺君の事、本当に綺麗だと思っているんだよ」
クラスメイトの軽い会話から離れ、湊は真剣な眼差しを空印寺にぶつけた。コミュニケーションが苦手な空印寺でも会話の空気が変わったことを感じ取った。湊が冗談やお世辞で言っているのではないことが伝わってくる。湊の真剣な眼差しが少しずつ懇願の色を帯びたものへと変わっていった。それは女性が本能的に知っているものだろうか。上目使いに頼りなく儚げさを演出し、あなただけが頼りと言わんばかりの口調で男性にお願いごとをするのは。男性との駆け引きなど知っていても行動に出来ない湊ですら、その手のことを無意識にこなしていた。
湊の無意識のまま使った女の武器に空印寺は完全に呑み込まれていた。空印寺は催眠術にかかったように、湊が自分を綺麗だと言ってくれたことに対して否定的な感情が払拭されていき、湊の言葉通り自分は綺麗なのかもしれないと思いはじめた。このナルシシズムは空印寺が決して過度なナルシストであることを意味してない。この程度の自己への賛美など誰しも持ち得ているもの、もし否定するような人間はもはや自尊心すら持っていない事に等しい。そんな自己肯定できない人間など人の社会で生きてはいけない。人としてのプライドのない人間は他人から信用も信頼もされず、他人から拒否されるだけの存在となるからだ。そして何より、湊の言葉が空印寺に届いた一番の要因は、空印時自身に湊への好意があったからだった。
空印寺は湊のじっと自分を見つめる瞳を見た。透き通るような綺麗な瞳をしている。その瞳の中に吸い込まれ行くような気がした。それは以前感じたものとは違い温かく優しさに満ち満ちたものだった。
「以前感じたものとは違う……、吸い込まれ行くような瞳……」空印寺は一瞬何かを思い出そうとして、はっとなった。しかし何も捕まえることは出来ず。大気に蒸発する液体のようにどこかに消えていった。もう一度、空印寺は湊の瞳を見た。
「解った、考えてみる」
湊が満面の笑顔になったことは言うまでもない。
球技大会二日目の午後には、各種目総当たりのリーグ戦が終わり決勝トーナメントが開始された。空印寺のクラスはどの競技も決勝トーナメントに残ることは出来なかった。決勝トーナメントに残れなかったクラスはここで解散となり、三々五々散る事となる。真麗のクラスは三年女子で唯一決勝トーナメントに残る事ができた。種目は女子バスケで真麗の活躍が光ったことは周知の事実である。
空印寺は午後も居残り決勝トーナメントの試合を見ていた。種目は女子バスケ。真麗がいるクラスの試合だった。真麗はクラスメイトに取り囲まれ全く一人で行動が出来なかった。この不思議ちゃんは目を離すと、ふらふらとどこかに行ってしまうとクラスの誰しも思っていたのである。その考えは客観的に見て正しい。真麗は空印寺と会えないのがかなり不満だった。しかし空印寺が試合を見学しているのに気づき、空印寺が自分を見ていると思うと、一気にやる気になった。
準決勝の試合が開始される。試合開始早々、真麗は徹底的にマークされた。真麗のチームは真麗一人で勝ち上がってきたのだから、その作戦は当然である。しかしやる気のなった真麗を止めることは不可能だった。ボールを手にしてからシュートを決めるまで、とくかく速い。そしてシュートを決める度、黄色い歓声があがる。特に一年女子の盛り上がりは凄かった。
長い髪を無造作にポニーし、その髪から覗く涼し気な切れ長の目。少し欧米人の血が入ったような中性的で整った顔。全体的に細く、八等身な上に足が長い。真麗は空印寺以外の事には殆ど何も興味を示さない。それがどういう訳かクールで格好いいとなってしまった。男子生徒から見たらあまり魅力を感じないタイプかも知れないが、女生徒から見た時、特に年下の女生徒から見た時、女性が憧れるクールで恰好良い女性像として、外見から感じるやや中性的な魅力を含み、思春期特有の同性愛的な疑似恋愛の対象には打ってつけとなった。真麗としては迷惑な話なのだが……
真麗のクラスは準決勝をあっさり勝ち上がり決勝に進んだ。決勝は優勝大本命の二年生のクラスだった。このクラスの女子は運動部のエースが集まっており、学年主任の担任が球技大会で優勝する為に意図的に運動部員を集めたのではないかと、噂になるほどだった。実際そんな事はありえないのだが、学生に限らず人の噂は真実であるかは重要でなく、聞き手が面白いか否かで、噂の信憑性は決定するものである。つまり噂は面白ければ何でもの良いのである。
空印寺は決勝戦も真麗の雄姿を見る為に人ごみの中に紛れていた。真麗は空印寺がどこに居ても簡単にみつけてしまう。この時も、人影から顔を覗かせている空印寺を見つけ、にこりと笑って空印寺に小さく胸の前で手を振った。空印寺の周りにいた男子生徒の何人かは勘違いをしたようだった。
決勝戦がはじまった。準決勝同様、真麗は徹底的にマークされた。真麗を二人で挟み込むようにして動きを封じにかかった。この作戦は真麗を封じるのに有効だったが、その分、数的不利な状況を作り出す。しかし運動部員のみ構成された二年のチームは数的不利な状況を各選手のポテンシャルの高さで補った。時間が経過するのつれ運動不足ぎみの三年はスタミナが持たず足が動かなくなってきた。ただ真麗はボールを持つと軽々と二人いるマークを振りきりシュートを決めていた。そしてシュートを決める度、空印寺を見る。自分が得点すると空印寺が嬉しそうにしてくれる。真麗は俄然やる気になった。
試合内容は真麗を中心としたワンマンチームを運動部のエースたちが徒党を組みチームプレイで対抗する構図となった。さらに両者一歩も譲らず、決勝戦に相応しい白熱した闘いで観戦者を魅了した。
物事には必ず終わりがあるもの。試合時間残り数秒、真麗のチームは三点ビハインド。真麗がルーズボールを手にした。一気に相手ゴールに迫る。クラスメイトは大きな声で三点シュートと叫んでいる。真麗はディフェンスを物ともせずゴール下に切り込み、まるでダンクを決めるようにジャンプをしてボールをバスケットに押し込んだ。その瞬間、まるでミスをしたかのような落胆の声が真麗のクラスメイトから上がった。真麗は何故で自分のクラスは落胆の声が上がったのか理解できす。不思議そうな顔をしてクラスメイトを見た。そしてクラスメイトたちは真麗が不思議そうな顔をしているの見て、気がつき思い出した。真麗がバスケ未経験者で今の今までルールをまともに知らなかったこと、そして三点ルールをキチンと真麗に教えていなかったことを。相手チームはボールイン後数秒時間稼ぎをして、試合は終わった。
真麗のクラスは準優勝となった。しかし真麗には全く興味外、それより自分が得点をすることで空印寺が喜んでくれた事の方が嬉しかった。真麗は球技大会ではほとんど空印寺と話す機会がなかったが、空印寺の笑顔を見られたのだから、十分どことか、お釣りがくるくらいだ。学園マンガにあるように真麗は運動部からの入部の誘いはなかった。真麗が三年生であり成績も学年でも上位にいる。そしてT高校は部活が盛んとは言え、そこは進学校。学業を最優先であることは言うまでもない。多くの運動部の顧問は真麗が三年でなく一年いや二年の時にでも転校していればと溜息を吐くのが関の山だった。
真麗は一躍ヒロインに祭り上げられ、クラスメイトからなかなか解放されなかった。真麗はあまり注目されたくなかった。そう言うと、今回の行動はそういう真麗の気持ちと矛盾したことに思えるだろう。しかし真麗の中では空印寺の事が最優先である。空印寺が喜んでくれるなら、目立つことを望まない自分の気持ちなど取るに足らない問題だった。
やっとの事でクラスメイトから解放されると、今度は一年の女子が群がって話しかけてきた。恋愛シミュレーションゲームのお約束にあるようなアイドル扱いではなく、一年の女子はただ群がっているだけで誰が誰に話しているのか判らない状態だった。もし学者がいたならカオス状態と名付けること請け合いだ。
真麗は「どいて」とにべなく、そこを抜け出し、空印寺が待っている図書室へと向かった。すると、一年女子は誰かリーダー的が存在いるわけでもないのにカルガモの子が親鳥の後ろを付いて行くように、ぞろぞろと真麗の後を追った。真麗はさすがにこれには腹を立てた。空印寺との蜜月を邪魔されるのは許し難い事である。何か言うと振り返ろうとした時、空印寺がすぐそばにいる事に気づいた。真麗の顔が一転、怒りモードから満面の笑みになった。そして、コガモ連中の事などきっぱり忘れた。
「空印寺君」
真麗は軽やかに空印寺の許へ駆けていった。空印寺は真麗を見てほっとしたような顔をした後、笑みを浮かべた。そして真麗に付き従ってる女生徒たちに目を向けた。
「いいの?」
真麗は素気ない口調で、
「いいの。行きましょう」
コガモたちは真麗が空印寺の方に駆けて行く姿を見てざわつきはじめ、空印寺の顔がこちらに向けた時、さらにざわめきは一層大きくなった。格好いい憧れの先輩の恋人が、よく見れば、びっくりするくらい美形だったのだ。コガモたちにはこんな美味しい状況はない。そして、二人が並んで歩く後ろ姿は画になった。髪が長くスラリとした細身の真麗。そして真麗同様に細身の空印寺。なにより胴長短足の日本人とは思えないくらい二人とも足が長い。二人のシルエットはまるでハリウッドの恋愛映画や少女漫画の一場面のようだった。
「湊……」
「美琴、行きましょう」
と湊はそんな言葉を口にしたにも関わらず足は根が生えたように動く気配がない。湊と美琴は今まで教室に残り他のクラスメイを含め五人で雑談を楽しんでいた。自分たちのクラスはどの競技も決勝トーナメントに残ることが出来ず。あっさり球技大会はお開きになったものの、何となくお祭りの後の余韻的な雰囲気があり、去りがたい気持ちがあった。
運動神経が全く良くない湊とさらに輪をかけて運動音痴の美琴のポンコツコンビは、何かとミスをする度に、二人とも真面目な性格な故に互いに自分が相手をフォローしなければと言う熱意を持っているのは良いが、ポンコツぶりを発揮するだけでさらに傷を広げてくれた。それに変に受けを狙ったところなく、本人たちが真剣なゆえに妙な面白さがあった。それだけなく、美琴の影響も大きいが周りをほっこりと和ませる力もあった。
本人たちは不本意だろうけれど、その事を周りの三人から指摘され、面白がられるのは運動音痴コンビのお約束ではあった。湊たちの祭りの余韻を愉しんだ話もお開きになり、一階に降りたところでポンコツコンビは空印寺たちに遭遇したのだった。湊の顔が空印寺を見て嬉しそうに微笑んだかと思うと、真麗を見て一気に不機嫌になった。湊が一年女子の集団同様に空印寺と真麗の後ろ姿を眺めていた。
「ねぇ、湊」
美琴が湊の腕を軽く揺すった。湊は美琴に腕を揺すられて我に返った。
「あっ、美琴。行きましょう」
ついさっき同じセリフを言ったことを湊は気づかなかった。美琴は自分が蔑ろにされたようで気分が悪かった。前にもまして、空印寺が湊の心を奪っていったことが許せない気持ちになる。一方で湊の恋が上手くいくことを願う心もある。ジレンマという言葉は今の美琴の為にある言葉だった。
・七月八日(水)~十六日(木)
短縮授業がはじまった。球技大会からT高祭と言われる学園祭までの十日間はT高校では最も活気づく期間であり、三年生にとっては、T高祭は受験勉強が本格化する前の最後のイベントとなる。T高校は県内でも有数な進学校であるが、学業だけなく部活や課外活動が盛んな校風を持つことでも有名である。その中でも最も盛り上がるのがT高祭であり、各学年各クラス知恵を絞り、この一週間余りで一気に企画を仕上げるのである。そのT高祭は各学年企画が主に決まっている伝統がある。
T高祭では一年生は様々な個性あふれる企画に挑戦し、二年生は喫茶店などの食べものを扱い、三年生は基本有志であるが演劇をするのである。空印寺のクラスは喫茶店をやり、コーヒーを豆から挽きサイフォンで淹れる本格的なものとお茶受けにクッキーを各種、客に提供することになった。その喫茶店だが、ネタや笑いに走るのをやめて恰好良い雰囲気でやろうかと意見もあったものの、最後にはそれではイパンクトがないと言うことで、最終的には在り来りな企画となったが、男子を女装させ給仕することになった。空印寺は裏方仕事、不足した物を買いに走るサポート係をする。この役は常にキッチンでスタンバイしておく必要がある為、T高祭を見て回ることを楽しみしているクラスメイトには不評で誰も成り手がなかった。そこに空印寺が立候補したのだ。空印寺は特別T高祭を見て回りたいと思っておらず、それより読書をしていたいのが本音である。この役はまさに空印寺に打ってつけの役目だった。
そんな中、湊が突然空印寺を給仕係に推薦したのだ。今さらと言う雰囲気が特に男子から出たが、意外なことに女子からは好評で、さらに空印寺が給仕を引き受けても良いと言ったことで、女子のテンションは一気に盛り上がった。男性には理解できない感覚ではあるが、女性は綺麗なものに触れたいという思いがある。それだけでなく、特に容姿や顔が整った女性や男性を、自分のセンスでメイクや着飾らせると言ったコーディネイトを愉しむ、そんなファッションデザイナーのような感覚が生まれながらあるようだ。それは幼い少女の着せ替え人形の延長線上にその感覚はあるのかもしれない。
湊は空印寺を自分のセンスで綺麗になって欲しいと思っていた。もちろん空印寺に触れたいという気持ちも多分にある。湊も給仕の服を選び調整する担当だったから空印寺を給仕係に引き込んだのだが、しかし湊の可愛い野望もあっさり砕け散った。給仕の衣装を担当の女子がこぞって空印寺の担当をしたいと言い出したのだ。混乱を避けるため、厳選なアミダクジが行われ、見事湊は空印寺の担当を引き当てたのだ。
「空印寺君、よろしくね」
「うん」
湊はこのまま卒倒するのではないかと思うくらい自分の心臓の鼓動が早くなり過ぎた。心臓の鼓動を鎮めようと、いつものように胸を押さえ深呼吸を繰り返した。毎度毎度、空印寺の事で心臓の鼓動が高鳴り、湊はいつか自分が心臓発作で倒れるのではないかと、真剣に考えはじめるのだった。
真麗のクラスは演劇をやる。建前は有志による参加ではあるが実際はクラス全員参加がほとんど強制のようなものである。真麗は適当な裏方の仕事に立候補をした。何に立候補したかは今日になってはじめて居残りを要請され、絵筆を渡されるまで知らなかった。しかも何の演目をやるかも知らなかった。
クラスがする劇はアンデルセンの人魚姫だった。ただし少しばかり物語に手を加えた半分シリアスで半分はコメディーのようなストーリーだった。そのようになった理由は、脚本がもめにもめたのだ。シリアス派とコメディー派が対立し、その結果こんな中途半端なことになってしまった。暴走気味の熱意が生み出した意見の対立だった。そんな状況ではあったが、クラスの盛り上がりには水を差すようなことはなかった。先日の球技大会で女子バスケはあわや優勝と言うとこまで勝ち上がり、その勢いもあった。クラスの雰囲気は一丸となってこの演劇を成功させようと気運が高まっていた。
真麗にしてみれば、せっかくの短縮授業。空印寺と会っている時間が増えるのだから、良いことずくめのように思えた。しかしそんなに甘くはなかった。空印寺がクラスの出し物の為に図書館には行けないと言うのだ。面白くもない。ここで背景の絵を描いているのは、空印寺と会うまでの暇つぶししかない。
真麗は人魚がいるような海を描くように言われ、描いてはみたが、真麗には絵の才能は全くないようで、魚だかクラゲだかウミウシだか何だか判らないものが仕上がってしまった。真麗本人によれば、人魚に仕える魔女を描いたそうだが、前衛芸術の極致な作品となっていた。
真麗のクラスメイトは反応に困った。幼稚園児でももっとマシな絵を描くだろうと言うレベルである。しかし真麗は真剣に描いているのだ。真麗は最初のうちは邪魔くさいと思いながら描きはじめたが、思いのほか絵を描くことは真麗には楽しく、真剣に取り組む気になった。
クラスメイトは、真麗の、その真剣に取り組む姿を見ているので下手と指摘するのが憚られた。真麗が絵を描く姿は周りの人たちにそういう気持ちにさせたのだ。真麗はバスケでは超人のような活躍を見せ、絵を描かせたなら違う意味で活躍していたのだった。そして、真麗は不思議ちゃんとしてその名をクラス内でさらに高めていくのだった。
空印寺の服が届いた。湊は空印寺の学生服の上から給仕をする時のフリルの付いたワンピースを宛がった。細いと言ってもやはりそこは男の子、少し仕立て直した方がきれいに着る事ができる。高校の学園祭レベルでは実際はそこまでする者はいない。他のクラスメイトはピンなどを使って誤魔化す程度で、仕立て直すなんて面倒なことはしない。しかし湊はそのような事は考えてもいなかった。空印寺の着る服なのだ。湊は自分で出来得るのことをやりたかった。手を抜くなんてもっ以ての外であった。
湊は裁縫が嫌いではない。どちらかと言えば好きな方である。服を自分の手で作ること、破れ等を修復することは純粋に面白く楽しい。肝心の湊の裁縫の腕だが、下手ではないものの抜群に上手でもないと言ったレベルだった。
家に持ち帰った空印寺の服を母親に指南されながら仕立て直したのだった。仕立て終わった服を両手広げその完成度を確かめる。「少なとも自分の力を出し切った」と思える出来栄えだった。空印寺がこの服を着たことを思い浮かべた時、湊の顔の筋肉が緩んだのを母親が目ざとく見つけた。湊は「これは女の子着る服よ」と言い訳したが、その言い訳の前に男の子が女装する為のものだと言ったことをすっかり忘れていた。それだけ母親は湊の心の内を全て見透かしてしまった。恐るべし、熟女の洞察力。母親は娘の恋をからかうこともせず、自分の娘時代を思い出すような目で湊を見るのだった。
湊が空印寺にこの服を渡した時、空印寺と湊の手が触れた。湊の顔が赤くなったのは当然の事として、空印寺の顔もぽっと頬が赤くなった。
「ありがとう」
空印寺がそう呟くと、湊は嬉しそうに頷いた。空印寺とその仲間たちのウェイトレス姿を確認する名のお披露目会がはじまった。むさ苦しい男子連中がヒラヒラのスカートを着てクラス全員の前に一人ずつ現われた。悪ノリした学級委員長がまるでファッションショーでもあるように紹介しながら。ほとんどが爆笑の渦だった。実際、厳つい顔を故意に選んだ節がある。学級委員長の企図するところだった。最後に空印寺が教室に入ってくると、空印寺を女装させることに熱心だった女子よりも興味なさげにしていた男子がまず図太い声で「おーおー」と歓声をあげた。その歓声の後、何故か女子から拍手が沸き起こった。空印寺は恥ずかしそうに俯きがちになり、照れたように頬染めたのだった。湊は空印寺の姿にとても満足した。実際自分の手柄ではないが、まるで自分が褒められたように嬉しかった。
「空印寺君、ほんとうに歌舞伎の女形になったらいいのにね……、それともモデルでもいけるかも、脚も長いし……」ついついその美しさに湊は時間を忘れ見とれてしまった。
ぽん、ぽん、と誰かが背中を叩いている。湊が気づく様子がないので、もう一度、背中をぽん、ぽんと叩かれた。それでやっと湊は後ろを振り返った。湊の背中を叩いたのは美琴だった。美琴は振り返った湊の顔を見て、
「湊、よだれ!」
美琴は湊の口許を指差した。湊は慌ててハンカチを取り出し口許を押さえた。
「………」
美琴が下を向いて笑いを堪えている。その瞬間、湊は美琴にからかわれたことに気づいた。
「もうぉ」
湊が美琴に怒ったように言ったが、照れ隠しバレバレの口調だった。
「湊。ごめんごめん。だってねぇ。湊、口を開けてポカンと空印寺君を見てるんだもの」
美琴が湊の傍に寄った。
「空印寺君、ほんと綺麗ね。男の子なのに何であんなに綺麗なの。うー何だか腹が立ってきた。神様は何を考えているのよ。不公平よ」
美琴がプンスカするのも、湊は解る気がした。学年で一番綺麗な紫の上さんとタメがはれるくらいだ。最近、空印寺君が変わってきた。人を寄せ付けない壁が少し取れ、どこか抑圧された表情が少なくなり、偶にではあるけれど、笑顔を見せるようになった。
湊はその笑顔を独占したいと思うようになり、今その笑顔が向けられる一人の女に対して嫉妬していた。そして自分がその女に成り代わりたいと切望した。
湊が空印寺の着ている服を確認している時、真麗がこっそり空印寺のクラスを覗いていた。真麗は空印寺がスカートを穿き女性の恰好をしているのを見てちょっと驚いた。一応、事前に空印寺からは女性の恰好をすると聞いてはいた。真麗は空印寺のその姿を見て純粋に綺麗だと思い、その美しさに見惚れてしまった。普段は顔を隠すように前髪を垂らしている。その髪がカチューシャで留められ、顔全体を見せている。真麗は複雑な気分になった。その顔の美しさを堪能し、触れることが出来るのは恋人である自分の特権だと思ったのだった。
真麗のそんな思いを余所に、湊が嬉しそうに空印寺の体に触れ、空印寺もまんざらの様子だった。真麗は腹が立つと言うより、言い知れぬ不安を感じ取った。これ以上のここにいると自分がどうにかなってしまいそうなくらい、不安から生まれてくる恐怖が襲ってくる。真麗は踵を返し空印寺の教室から駆け足で離れた。
「わたしのこと好き……」彼はわたしの事を好きと応えてくれた。「大丈夫よ……」真麗の足は自然と止まり、そう一人自分に言い聞かせるようにひとりごちた。
空印寺は湊と話すようになって、それは基本、湊から話しかけてくるものではあったが、その会話にどこか違和感のようなものを感じはじめていた。彼自身もそれをどう表現して良いかまでは理解できない。ただ感じるのだ。真麗と触れ合い話す時の違いを。
真麗と話すようになってから、空印寺は自分の殻に閉じこもっていた状態から少しだがその殻を剥がれ壊れていったことを自覚している。しかし最近こんな事を考えている自分がいることに空印寺は気づいた。それは真麗との出会いがまるで誰かに仕組まれたように思えるのだ。理由はない。いや、あの猫のような、爬虫類のような縦長の瞳孔。それが浮かび上がってくる。その事を認めたくないだけなのかも知れない。
不思議な事に、真麗の時と同じように、湊が突然自分に話しかけてきた。
空印寺もハーレム漫画やラノベのような唐変木な鈍感な主人公ではない。己惚れるわけではないが、湊が真麗と同じように自分に好意を持っているのは判る。湊は真麗の時とは違い、全く体に触れようせず、スキンシップ的な事を求めてこない。ただ湊から送られてくる視線。その熱を帯びた視線は空印寺を突き刺さるように、それでいて温かかく包み込んだ。空印寺は真麗によって少しは虚無から解放されたとはいえ、未だ虚無と空虚に囚われている部分はある。そして湊から送られてくる視線の先には空印寺の心に袴形の赤い蝋燭のように、その場所に、空印寺に自分の行くべき先があることを示しているようだった。
その時、空印寺は気づいた。気づいてしまった。自分は確かに真麗に好意を持っている。その気持ちに嘘や偽りはない。心から彼女を慕っている。そして彼女は自分を愛してくれている。その中に含まれるもの。彼女は自分を独占したがっているように見える。その気持ちは愛するが故の愚行である。彼自身体験はないが、本の健啖家として知識では知っている。しかし彼には何故かそれが恐ろしく感じてしまった。まるで殺生与奪を彼は彼女に握られているように感じ……その感覚は、昔同じ事があったように思えるのだ。記憶として残っているわけでない。なのに、その残滓がしっかり脳裏に残っているのだ。
空印寺は思わず胸を押さえた。動悸が激しくなり、胸が苦しくなったのだ。命を握られる恐怖が実感としてこの身に襲う。縦長の瞳孔、まるで爬虫類のような瞳に見つめられる恐怖、そこで空印寺の恐怖は突然幕を下ろした。これ以上思い出す事、考える事を強制的にシャットアウトしたように。空印寺は浅くなった呼吸を少しずつ深くしながら、時間をかけ呼吸を整えた。
「大丈夫?」
湊が空印寺の背中を優しく擦っている。今はT高祭で行う喫茶店の衣装合わせをしている最中だった。空印寺は今自分が置かれている状況を確認した。
真麗は校舎の玄関先で空印寺を待っていた。時折一年の女子がこちらを興味深そうに見ていくようだが、気づかないふりをして無視を決め込んだ。一年の女子はこちらを見るだけで、それ以上近寄ってこない。真麗はそれが有難かった。空印寺と会う事を邪魔されるのが何より気に入らない。それでなくても、空印寺はクラスの手伝いをして帰るのが遅い。最近不満だらけだ。それに今日の事、真麗は空印寺とあの女が一緒にいるのが一番の不満であり、そして少しばかりの不安を感じる。真麗は自分が空印寺の事で気に揉み、気に病んでいる事を知って欲しかった。その感情は愛する人に自分の気持ちを理解して欲しいという、ごく当然の感情であった。
空印寺が真麗の待つ玄関先に現われた時、真麗の顔が綻んだのも一瞬、一気に不機嫌な顔になった。空印寺が真麗のところに来て、
「ごめん、待った」
真麗は空印寺の言葉など聞こえていないように、スタスタと歩き始め、空印寺が真麗の背中を追う。ツンとした真麗の態度に空印寺は戸惑い、何を言って良いのか判らなかった。そもそも何故真麗が怒っているような態度を取るのか判らないし、怒らせるようなことなど身に覚えもない。空印寺はただ真麗の後を付いて行くしかなかった。
真麗はT南城高校の前を通り過ぎ、579号線を北へ向かい、38号線との交差点でやっと足を止めた。空印寺が真麗の横に立ち、そっと真麗の顔を覗った。真麗はその視線に気づき、すぐ顔を伏せた。
「空印寺君、袖野さんと仲が良かったわね」
一瞬、空印寺の顔が照れたようにはにかんだのを真麗は見逃さなかった。真麗はキッと唇を噛みしめ、下から空印寺を睨むように見つめ、
「空印寺君、覚えておいてね。人魚にとって最高の御馳走はね、愛する人の肉なの。それも生きた肉なの」
空印寺のワイシャツの脇を強く握り力任せに引き寄せ、人目も憚られず空印寺の胸に顔をうずめた。
「空印寺君、わたし、あなたの事が本当に好きなの。解って……」
空印寺は真麗が自分と触れ合い愛情を示してくれる事に対して、今までは戸惑いながらも彼女の好意を少しずつ受け入れてきたと思っていた。しかしここに一週間の間で大きな変化があった。真麗が自分に寄せる好意と自分が真麗に寄せる好意には、その感情に微妙な差があることを感じ始めていた。特に袖野湊と会った後、真麗に会うとそう感じてしまう。その違和感は、最初の頃は彼の心に小さな楔となって刺さっていた。それが少しずつ決壊する防波堤のように一気に彼の心を食い破りはじめているのを空印寺は今自覚した。真麗が自分に身を寄せている、この状況がその違和感を際立たせている。
空印寺は真麗の肩をゆっくりと押し出すようにして、少し自分から離れるようにと無言で示した。真麗は空印寺の顔を見上げ、その切れ長の目で空印寺の顔を探るようにみつめた。その眼は明らかに空印寺が何かを気づいたのではないかと疑っていた。それが数秒間続いた後、真麗は何事もなかったような顔をして空印寺の手を握った。
「空印寺君、私の手、冷たい?」
真麗は体温が高いのか、空印寺にはその肌はとても暖かく心地よかった。真麗の問いに空印寺は首を振って答えた。
「そう、ありがとう」
真麗は空印寺の手を放し、軽やかな足取りで空印寺から離れた。それからまた空印寺の傍に来て再び空印寺の手をしっかり握った。
「帰ろうかっ」
空印寺は少し微笑みながら頷いた。それから空印寺の手を引くように真麗は歩きはじめた。