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en Juin(c)

・六月十八日(木)


 湊は昨日と同じように寝不足のまま登校することになった。二日連続の睡眠不足は若い肉体を持つ湊でもきつく感じた。体がどことなく疲れが溜っているように思え、特に足が重く感じてしまう。早寝早起きの健康優良児である湊には、今までに、例え試験期間中でも経験したことないことだった。でも、それはそれで良かった。湊は空印寺が今読んでいる本と同じ本を読むことで、彼を身近に感じることができたのだから。これで空印寺との心の距離が縮まれば言う事は何もない。

 湊は教室に入り、まず空印寺の席を見た。今日は残念なことに空印寺の席は空いていた。湊は知らなかった事であるが、今日は空印寺の通院の日だった。新発田市にある県立S病院の精神科にカウセリングを受けに行く。そこで今までの生活の振り返りを行い、あるべき自分の姿にどれだけ近づいているかカウセラーを通じて客観視する。今までは全くと言っていい程成果が挙げられなかった。そんな空印寺に対してカウンセラーは動じることもなく、ゆっくりと進めばよいと助言してくれた。空印寺はそれが有難がった。自分の性格がそんなに器用に変えることも出来ないし、無理をすることが怖かったのも事実だった。

 湊は空の席を見て、つまらなそうな顔をした。机のサイドフックに鞄を掛け、ストンと席に腰を下ろし、空印寺がするように鞄から文庫本を取りだして読書をはじめた。


 北浜奈美はクラスの女生徒の中ではヒエラルキーの上位に立ち、ボス的な存在だった。いわゆるカースト上位者である。押しが強い上にかなり気位が高い。それ故に取り巻きの連中以外ほとんど話をする事がなかった。本人はそれが気に入っていた。何だか、自分が特別ように思えたからだ。それが小さな世界の出来事であっても。奈美は最近湊があからさまに空印寺に言い寄っているのを見て、気に入らなかった。自分より格下の女が恋愛ごとに浮かれているのが癇に障ったのかもしれない。人を見下すことを覚えると、傲慢になり、見下した人が自分より良い思いや上手く事を運ぶのを見ると異常までに嫉妬心と敵愾心(てきがいしん)を抱く。奈美が湊に抱いた感情はそう言ったものかも知れない。そして、それ以外の感情があったのも確かな事実だった。奈美は湊に聞こえるように、

「袖野のようなブスには、空印寺ような全くしゃべらない根暗なヤツがお似合い」

 含み笑いをしながら呟いた。それを聞いて、いつも奈美と連れ立っている女生徒たちが、

「笑っちゃ、悪いわよ」

 と馬鹿にしたような笑い声をあげた。

「空印寺って、将来絶対犯罪やるタイプだよ。陰険ぽいし」

 さらに笑い声が大きくなる。

 湊は本から目を離し、奈美の方に振り返った。その顔は無表情であったが、眼だけが静かに怒りに煮えたぎっていた。奈美は湊が大人しい性格で自分が何を言っても言い返す事も出来ず、スゴスゴと逃げ出すと思っていた。その予想に反して、湊は自分を睨みつけてきた。反撃されないと思っていた格下の女の思いもよらない反撃に、奈美は湊に対して激しい敵意を抱いた。

「ブスなのに粋がるな……、こんなダサイ女に舐められてたまるか……、繖の引き立て役のくせに……」そんな思いに駆られ奈美は湊を睨み返した。湊は文庫本を机の上に伏せてから立ち上がり、その視線を平然と受け止め、ゆっくり奈美に近づいた。

 湊は殺意にも似た暴力的な感情が自分を突き動かしていると感じていた。その感覚は真麗と向き合った時に感じたものと同じように思えた。ただ違うのは、空印寺について互いに好意を持っていたことだった。ただ、もしこの場に空印寺がいたなら、湊はここまで怒りを持つことはなかっただろう。

「自分の事を何と言おうと構わない。そんな事はどうでもいい。だけど空印寺君の事をこんな風にバカにするヤツは許せない……」湊が奈美の前に来ると奈美も立ち上がり、上から見下ろすように、それは如何にもお前を下に見ているという事がありありと見える態度だった。湊は奈美の顔を睨みながら、さらに距離を詰めた。奈美はあざ笑うような口調で、

「汚い顔を近づけるな、このブス」

 と湊の肩を押した。

 真麗の場合、この時あっさり湊との距離を取り、全く湊を相手にしなかった。完全に湊をいなしてしまった。明らかに湊より真麗の方が一枚も二枚も役者が上だった。

 今回は違った。奈美は真麗ほどの役者としての力量はなかったようだ。湊の肩を押した瞬間、湊は何も言わずいきなり奈美の頬を平手で打った。大きな音が鳴り響き、奈美が大きく顔を背ける。そして顔を上げ、

「何すんだよ。このブス」

 声を怒らせ再び湊を睨もうとする。そこへ今度は湊の拳が奈美の顔に襲った。今度は鈍い音がして奈美は顔を押さえながら倒れ込んだ。湊は右手の指が折れたのでないかと思えるほどの痛みに襲われた。その痛みはさらに奈美への暴力へと転化される事になった。痛みが闘う相手への怒りとなって向けられるのは、人間が持っている本能のひとつなのかも知れない。攻撃的な本能に突き動かされるように湊は倒れ込んだ奈美の顔や胸、腹などをところ構わず蹴りはじめた。

「痛い、痛い」

 奈美は両手で頭と顔を庇い、湊の蹴りの痛みを少しでも和らげようと体を丸めた。その瞬間、湊の蹴り下ろした踵が奈美の顔を庇っていた両手の隙間をこじ開けて顔面に直撃した。声にならない悲鳴が上がった。口の中が切れ、鼻血が出、涙で顔がぐちゃぐちゃになる。

「もうやめて、許して」

 奈美が泣きながら大声を上げて懇願しても、湊はそんな事はお構いなしに蹴り続ける。そのあまりに無慈悲で暴力的な行動に周りのクラスメイトはただ茫然とその状況を眺めるだけで何もできなかった。学級委員長が居れば状況は違っていただろうが、またも陸上部の朝練でこの場にはいない。その状況の中でただ一人、この状況を止めようと動いた者がいた。美琴だった。美琴が教室に入ると、丁度湊が立ち上がり奈美の前へ行くところだった。朝の挨拶の言葉をするような、そんな雰囲気ではなかった。それから美琴は湊と奈美の一連のやり取りを不安気な目で見ていた。湊が奈美の頬を打った時、美琴は唖然とし、その後倒れた奈美を蹴り倒す湊の姿を、その変わり果てた湊の姿を見て美琴は思わず涙が溢れ出た。

「湊、湊、何が何だかもう解らないよ……」その時、奈美が泣き叫ぶ声が美琴の耳に届き、美琴は少しばかりの冷静さを呼び起こした。涙で顔を汚しながらも、「私が湊を止めないと……」その使命感だけが彼女を突き動かした。茫然と立ち尽くすクラスメイトを押しのけ、湊の背後に回り込んだ。美琴はそのまま抱きつくように湊の腰にしがみつき叫んだ。

「湊、もうやめて。もうやめてよ。北浜さん、死んじゃうよ」

 美琴の叫び声は最後には大きな泣き声に変わった。美琴の声が湊の耳に届いたのか、湊は暴力行為をやめた。奈美を見下ろす、全くの無表情、まるで人の形をしている何かだった。肩で息をしているのが唯一の人間らしさに見えた。

 周囲の連中は突然目覚めたかのように、

「担任を呼べ」

「保健の上杉先生も呼べ」

 などと口々に取り留めのないことを垂れ流し、誰が何をするのか全く分からない混沌とした状態になった。それでも冷静な者をいるようで、担任の手を引いてここまで連れて来た連中がいた。

 湊は自分に抱きつきながら小さな子供のように泣きじゃくる美琴の肩を抱き、教室の喧騒を眺めていた。

 教室に雪崩れ込んだ担任は、

「どうしたんだ?」

 担任が倒れ込んでくの字に体を折りお腹や顔を押さえて嗚咽する奈美を眺め、その横で無表情に立つ湊を眺め、何が起こったのか理解しようとしたようだが、それより先にやるべきことがある事に気づいた。

「北浜、大丈夫か?」

 すぐに保健医や他の教師も駆けつけてきた。

「北浜さん、大丈夫、立たなくていいわよ。誰かハンカチを濡らしてきて」

 保健医がそう叫んでいる横で、

「袖野、ちょっと、こっちに来い」

 生活指導をしている強面の教師、榊原教諭が湊を教室の外に出るように命令口調で言い放った。湊は自分にしがみつく美琴の肩を押し、自分から離れるように促した。美琴はそれに従い湊にしがみついていた腕を解いた。

「湊……」

 美琴が湊の名を呼んだ。まるで今生の別れような声だった。美琴はこのまま湊が消えてしまうのではないかと真剣に思ったのだ。湊は自分の声に応えることなく、先生たちに囲まれて教室を出ていた。またポロポロと涙が出てきた。

「元の湊に戻って……」美琴は湊の出て行った教室のドアを眺めながら、そう願わずにはいられなかった。

 湊は悪名高い生徒指導室から生徒相談室と名を変えた生徒を吊るし上げる説教部屋に連れていかれ、折畳式会議用テーブルに三人ほど並んで座る教師たちの前でパイプ椅子に腰掛けていた。

「今回の喧嘩の原因は一体なんだね」

 右端に座る化学の教師が詰問するように湊に問いかけた。湊は質問した教師の方を一瞥したが、その後は下を向き、ダンマリを決め込んだ。時間の流れを感じさせない緊張を伴った沈黙の時間が過ぎていく。湊は呼吸をする動作以外一切体を動かさなかった。今ここにいるのは人間ではなく人形であることを主張するかのように。

 実際、湊は心を殺していた。何も考えず、何も思わず、聞こえてくる言葉は音として意味のあるものではなくただの音として捉え、目に映る物も、ただ目の前にあるものとして見ているだけ。その徹底した無口ぶりに、気の短い教師が恫喝するように、バンと大きな音をたて机を叩き、

「黙っていたら、分らんだろうが」

 大声で叫んだ。湊にはそんな脅しは効果がなく、恫喝に委縮することなく平然と沈黙を守り続けた。真面目で大人しいと教師から見られていた湊がここまで頑な態度を取るのは、余程の事があったのだろうと教師たちは考えはじめていた。その時、クラスメイトから事情を聞いていた教師たちが生徒相談室に入ってきた。何か話している。その声は湊の耳までは届かない。話し込んでいた教師たちが湊を見た。

「袖野、北浜がお前をからかったのが原因か?」

 右端に座る化学教師が湊に問いかける。湊は下を向いたままやはり何も語らない。教師たちの大袈裟な溜息が漏れる。化学教師は席を立ちながら、

「戸田先生、すいませんが袖野ことをよろしくお願いします」

 一番年若な数学の女性教師に湊の世話を押し付けて、

「袖野、お母さんが迎えに来る。それまで戸田先生とここに居なさい」

 と言い残して、他の教師たちと生徒相談室を出た。

 湊と残った教師、戸田教諭は今年大阪の国立大学を一年遅れで卒業し、地元であるこの上越市の高校に赴任してきた。彼女はここの高校の卒業生ではない。T高校の北一キロ先にあるT城北高校の出身である。湊のクラスを受け持ったことがない為、戸田は湊とほとんど面識がない。じっと湊の様子を伺っていたかと思うと、

「袖野さん、決して誰も言わないと約束する。何があったのか教えてくれない?」

 と優しく湊に言葉をかけた。教師としての使命に駆られたのか、それともこの大人しそうな女生徒に起こった事に対して何かしら思う事があったのか、他に理由があるのかは本人以外知るよしもない。ただ戸田は湊の暴力行為が誰かの為であることを直感で見抜いていた。女の勘の鋭さは、多くの男が実感するものだ。今回もその鋭さはいかんなく発揮された。「この娘は自分の為ではなく、誰かの為になら捨て身になれる……」

 湊は俯いたまま何も応えない。姿勢正しくパイプ椅子に座り握った両手を膝の上にのせて、何を言われても微動だにしない。「その態度が自分の勘が正しいを物語っている……」と戸田は思う。そして湊に何を言っても何も応えてくれないと確信した。戸田は湊に語りかけることを断念した。湊の手を握る。冷たくひんやりとした手だった。やっと湊が戸田の顔に視線を移した。湊の目には後悔の色もなく、何かを挑むように鋭く固い意志があった。

 戸田はそんな湊に対して、湊の意思の強さが生半可なものでないことを感じ取った。「……自分の手に負えない……」そう感じると、その意思の強さを纏う湊がそこにいるだけで威圧感を感じはじめた。それから戸田は湊と少し距離を置いた。


 生徒相談室に連行されてから、湊はどれだけ時間が経ったのか判らなかった。十分と言われればそうだと思うし、二時間と言われればそうだとも思う。その曖昧な時間感覚で三十分ほど経った時、化学の教師と共に湊の母親が現われた。手にはハンカチを握りしめ、真っ赤な目をしていた。

 湊の母親は湊の前まで来て、ポロポロと涙を流しはじめた。そして湊の頭を強く抱えて小さな子供にするように優しく髪の毛を撫でた。湊は母親にされるがまま身を任せた。母親の体は温かく、そこから仄かに匂う香りは湊が幼い頃に感じたそれと同じ、とても心が落ち着いてくる。何だか、教室で怒りに任せて暴力を振るったことが夢のような、非現実的な出来事だったような気がする。

 化学の教師は、

「今日はこのまま袖野さんを連れて帰宅して下さい。ここに荷物を持ってきてあります。尚、今回の件に対しての処分については、追ってご自宅にご連絡いたします」

 と何の感情も籠らない平坦な口調で言った。そんな事務的な態度であっても湊の母親は恐縮した態度で何度も頭を下げていた。

 湊は母親に促されるように立ち上がり、小さく一礼をして生徒相談室を出た。まだ授業が行われており、学校は静まり返っていた。母親と湊の足音が廊下に響く。その音は今からどこかの舞台に向かう役者のような気分にさせた。それは湊が初めて模範的な生徒から足を踏み外したことによるものだった。謹慎処分など自分には無縁で、そんな事をするのは自分とはかけ離れた世界にいる不良だと思っていたのだ。湊は自分が無縁だと思っていた世界に踏み入れてしまった。その考えがそのような気分を引き起こしたのだった。

 湊は母親の横顔をちらっと盗み見た。母親は湊の視線に気づき振り返った。そして、

「お昼、何か食べたいものはある?」

 と湊に問いかけた。湊は無言で首を二度ほど振った。

「そう。せっかく車で来たのだから、直江津のイトーヨーカドーに行くけど、いいわね」

 二人は高校の駐車場に停めてあった自宅の車に乗り込んだ。母親は今日の出来事など全く関心がないようにレクサスのセダンを優雅なハンドル捌きで発車させた。湊はそんな母親を見て、初めて涙が込み上げてきた。


 夕食前の午後七時に学校から湊の処分についての連絡が来た。明日六月十九日から一週間の停学となった。退学になってもおかしくない事件だった。意外にも停学で済んだのは、湊が大人しく模範的な生徒であると教師の受けが良かったことと、奈美が今時の女子高生のようにどこか大人を小馬鹿にした態度があり、教師の心証が悪かっただけでなく、そんな奈美から湊に絡んだと言う事が要因だった。心証で判断されるのは、この教師たちに悪意や贔屓があった訳ではない。陪審裁判で見られるように、言動の一つで陪審員の心証を悪くして、無実であるにも関わらず刑が確定することなど掃いて捨てるようにある。人は見かけの言動や好き嫌いで判断する。それは避けられない現実なのだろう。

 停学期間中は、学校から課題が言い渡され、それを自宅で黙々とこなすこととなる。また定時連絡が朝九時、昼十二時と三時、夕方六時、夜の九時と三時間ごとあり、それに必ず湊が出なければならない。定時連絡時にいない場合には、停学期間が延長されることになってしまう。

 湊は自宅で勉強することも定時連絡についても別段苦痛でもなければ問題でもなかった。それよりも空印寺に会えない方が今の湊には堪えた。せっかく、念願の空印寺と話せるようになったのだ。それが出来ないのが残念で仕方なかった。だが、こればかりは自分のした事。誰かの所為にすることはできない。湊はそう思いながら、空印寺のお気に入りである「豊穣の海」を手に取った。空印寺はこの本を読んでいる。この本を読めば、空印寺にぐっと近づくことが出来る。それはこの本を読みはじめてからいつも感じることだった。そして、もっと熱心に読めば読むほど、もっともっと空印寺に近づいていくことが出来るとそう思えるのだ。錯覚であろうと構わない。湊は空印寺を感じるものが欲しいのだ。厄介な恋心だと思う。湊は大きく息を吐いて肩の力を抜いた。

「豊穣の海」に挟んでいた栞のページを開き、続きを読みはじめた。「やっぱり三島由紀夫の言い回しは堅苦しいな……」とつい愚痴りたくなり、ちょっとばかり笑いが込み上げてきた。そんな時、スマホの電子音が鳴った。美琴からの電話だった。湊はタッチパネルをたどたどしい手つきで操作しモードを通話にした。

 美琴は心配そうな声が聞こえ、湊が言葉を返すと、すぐに美琴の声は泣き声になった。湊は美琴に尽きぬ感謝の念で一杯になった。

「心配してくれてありがとう……」

 それを言葉にすると、後は美琴のすすり泣く声しか聞こえなくなった。それでも湊は通話を切ろうとは思わなかった。それから十分ほど心地よい沈黙が続いた後は、いつもの二人の会話になった。そこはやはり感情がコロコロと変わっていく年頃の女の子、取り留めのない話が続いた。それでも終わりがあるもの、美琴が欠伸をしたのをきっかけとなり、この会話は終了した。

「また明日」

 美琴の声が湊の耳にいつまでも響き残った。


・六月十九日(金)


 空印寺が教室に入り、いつものように誰とも言葉や挨拶を交わさず自席についた。それは習慣化された行動だった。しかし空印寺は何となく落ち着かなかった。何気なく振り返り、湊の席の方に目が行った。昨日は県立S病院にカウセンリグに行っていた為、学校は一日休んだ。空印寺は昨日の湊の大立ち回りを知らない。そう言った情報を回してくれる友人もいない。唯一、交際している真麗は三年生であり、その真麗もあまりにも身の回りの事に無頓着だ。空印寺は学校の噂話については噂話が廃れはじめた頃にやっと耳にする程度でしかなかった。

 朝のチャイムが鳴った。空印寺は再び湊の席に目を向けた。その席には誰も座っていなかった。不思議な事に、空印寺はそれがとても残念だった。つまり、がっかりしたのだった。


 美琴は昨日湊に電話をして少し話した。湊はさすがに元気がなかったが、酷く落ち込んでもいなかった。それを確認できただけでも良かったと思う。

「それにしても、何が原因であんな事をしたのだろう……」その事は聞くに聞けなかった。もし喧嘩の原因を湊に尋ねたとしても、おそらく湊は何も言ってはくれないだろうと美琴は思っていた。普段の湊は気弱で頼りないけれど、一旦心が決まったなら意固地なくらい自分を曲げないところがある。特に最近の湊は後者の部分が面に出てきているように美琴の目には映る。美琴自身の気持ちを言えば、意固地な湊はあまり見たくない姿だった。

 美琴は湊の想い人、空印寺の方を見た。彼は何故だか振り返り湊の席の方を不思議そうな顔をして眺めている。「そうか……湊の事を知らないんだ……」美琴は何故だか空印寺に昨日起こった事を教えることが癪に障った。湊の事を考えるなら、自分が伝えないといけないと思う。だがそれはしたくなかった。美琴は下唇を噛みながら空印寺を見、本来いるはずの湊の席、空席になったその場所を見てそっぽを向いた。美琴はこれで何度目かの空印寺に対して子供っぽいやきもちを焼いたのだ。今までは湊を独占していた。それが今、湊は空印寺に心を完全に奪われている。それが面白くないのだ。

 美琴は意地悪な気持ちになり、「絶対、空印寺君には湊の事を教えてやるもんか……」そんな事を黒板に上に取り付けられているデジタルの電波時計を見ながらそう口の中で呟いた。

 実際のところ、湊の事件は学校全体とまでは言わないまでも、少なくとも二年生の間はかなり知れ渡っていた。やはり同学年の噂話の広がる速度は半端なものではない。それにどう見ても、女子間のヒレラルキーを考えれば、完全なジャイアントキリングなのだ。二年女子の間でも、北浜奈美と言えば、それなりに名が通っていたボス的な存在。それが大人しいの代名詞と言えるようなひ弱な袖野に手酷くやられたのだ。暴力的な争いとは言え、完全な敗北を喫したのだ。これで噂にならないと言うのは嘘である。

 これもよく言われている事であるが、普段大人しいヤツほどキレルと恐ろしいという事を序実に示した例として、二年生の間で言われる事になる。


 放課後になり、空印寺は図書室に向かった。静かに図書室のドアを開ける。真麗がこちらを見た。目が合う。真麗が嬉しそうに微笑んだ。空印寺は真麗に小さく頭を下げ、図書室に入り、指定席となったいつもの席、真麗の隣に座った。珍しく真麗は勉強をしておらず、文庫本を広げていた。学校の図書であることを示す朱印が押されいるその本は、三島由紀夫の「豊穣の海」だった。真麗も湊と同じ事を考えたのだろうか、それとも単なる気まぐれなのか、空印寺が、

「どうしたの?珍しいね」

 と周りに気を使うような小さな声で真麗に訊いた。真麗はただ微笑むだけで何も言わず、口許に右手の人差し指を当て「何も言いません」とジェスチャーをした。 真麗のふざけた姿を見て、空印寺は思わず吹き出しそうになった。それから二人は十秒ほど見つめ合い、その後は人目もはばからず二人の世界に入ると思いきや、意外にも淡泊なことに、二人はそれぞれの本に集中した。

 下校のチャイムが鳴り、学校全体が帰宅の準備に追われ慌ただしくなる。特に部活連中の騒がしさはひとしおだ。喧騒の中を空印寺と真麗は学校を出た。六月の日は長い。午後七時前というのにまだまだ明るい。真麗は空印寺に、

「ねぇ、ちょっと行ってみたいところがあるの?付き合ってくれる?」

 と問いかけた。空印寺は近くの公園にでも行くのだろうと思い、快諾の意味を示すように微笑み返した。

真麗は空印寺の手を取り、つかつかと歩きはじめた。いきなり信号のある交差点を左手、T南城高校に向かう、明らかに公園とは違う方向だった。さらに真麗は空印寺の手をぐいぐい引っ張りながら歩く。結局たどり着いたのは、高田駅だった。空印寺の頭に「?」の文字が浮かぶ。さらに真麗は空印寺の手を引き、高田駅の入口を通り過ぎ、すぐ横にあるカラオケボックスの入口で足を止めた。激安カラオケボックスVANと書いている。

「ねぇ、わたし、カラオケに行ったことがないの。行ってみたいの。空印寺君、いいかな?」

 空印寺はその綺麗な顔の眉根を寄せ考え込みはじめ、言いにくそうに、

「人前で歌うのは、その、上手くないし。それに、流行りの歌は全く知らない。だから……」

 真麗は空印寺の言葉を遮る、

「大丈夫よ、わたしも流行りの歌なんて知らないわ」

 空印寺は真麗の言葉が聞こえていないのか、ずっと思案顔になり考え込んでいる。それを見た真麗は、

「お金のことなら心配ないわよ」

 空印寺は真麗の言葉に対して「そうじゃないよ」と言う顔をして首を横に振り、言い難そうに口を開いた。

「その、やっぱり人前で歌を歌うことは、上手い言葉が言えないけど、今は、その、ごめん」

 真麗はずっと引っ張っていた空印寺の手を握り直した。

「じゃ、何か食べよう。わたし、ハンバーガーって食べたことがないの。意外でしょう。ちょっと歩くけど、そこに行っていい?」

 空印寺は確かに意外だと思った。しかしよくよく思えば、自分もハンバーガーなんて殆ど口にした事がない。あの事件の前なら両親に連れられてハンバーガーなどのファーストフード店に行った事があるのかもしれない。あの事件以降、店で食事をすることなど全くなく、それどころか買い食いさえ全くしていない。空印寺も真麗に同意するように、

「ぼくもハンバーガーなんて食べたことがないな、でも夕食や時間は大丈夫?」

 心配そうに空印寺が真麗に言うと、

「大丈夫よ」

 空印寺の表情が緩んだ。

「じゃ、二人で初挑戦だね」

 真麗は面白うそうに笑い、握っていた空印寺の手を子供が親におねだりするように小さく振った。重苦しい顔をしていた空印寺も真麗につられからっと微笑んだ。二人は高田駅から東に伸びる県道38号線を歩きはじめた。駅から十五分ほど歩いたところあるハンバーガーショップに向かったのだ。特に空印寺と真麗の間には会話はなかったが、二人を包む空気は彼らが親密な関係であることを周りの人々に知らしめていた。絵に描いたような美男美女の高校生カップルを微笑ましい目で見る者もいれば、ませたガキと嫉妬混じりの険しい目で見る者もいた。その数は半々と言ったところか。

 高田駅入口と書かれた標識のある交差点を左折し、ほどなくハンバーガーショップの看板があった。広い駐車場の奥に洋風の小ぎれいな店舗が彼らの目指す場所だ。店に入り空印寺と真麗が最初にしたことはメニューを見ることだった。悲しいかな、この二人、ハンバーガー以外に何を売っているのか知らなかった。今時の高校生を考えれば、天然記念物を通り越して絶滅危惧種並みの物の知らなさだった。結局、空印寺と注文したのはハンバーガーとアイスコーヒー、真麗が注文したのは空印寺と同じハンバーガーで飲み物はアイスティ、フレンチポテトLサイズを二人で食べる事にした。店はそれなり混雑していたが、運良く二人用テーブルが空いていて、すんなりと座ることができた。

 壁際の席に真麗が座り、その反対側の空印寺が座った。真麗は周りを見て動きが止まった。

「空印寺君、これ、かぶりついて食べるの?」

 真麗が不安気な目で空印寺を見る。空印寺は頷いた。真麗は俯きがちに、

「空印寺君、その……あまり見ないでね」

 空印寺は不思議そうな顔をした。見るなと言われても、何を見るなと言われているのか全く見当がつかなった。空印寺が首を傾げると、真麗は、

「だって、口を大きく開くのを見られるのは恥ずかしいよ」

 空印寺が感心したように頷いた。女の人がそんな事で恥ずかしがるのが不思議だった。同時に自分とは感覚が違うことに感心したのだ。空印寺にはそういう人とのコミュニケーションよる経験が決定的に不足があった。いくら読書好きで登場人物に感情移入することがあっても、それはあくまで彼自身の心の中で行われる架空の会話でしかない。話す側も話される側もどちらも自分自身の分身でしかない。その会話では齟齬という会話の行き違い、捉え方の違い、意思不通になり相手との内容ズレを手探り埋めていく作業は存在しない。それではコミュニケーションとは言えない。

 空印寺は遠慮気味な態度で真麗から視線を外した。すると、今度は真麗が怒ったような口調で、

「何だか、避けられているみたい……」

 空印寺が真麗の方へ顔を向けた。真麗が口を尖らせている。真麗の拗ねた顔を見た空印寺は眉をさげるように困ったなとした表情をした。実際どうしたらいいのだろうと思ってしまったのだ。見るなと言われ見ずいると、今度は避けていると非難される。進退窮まった状態だった。

 困り果てた空印寺を見て、今度は真麗が左手で握り拳をつくり、その手で口許を隠しながら笑いはじめた。さすがに、真麗の態度に対して空印寺はちょっとムッとなった。本気で怒ったわけでない、からかわれたのがちょっと癪に障ったのだ。

「ごめんなさい」

 真麗は笑いを噛み殺しながら、誠意のない欠片もない口調で謝罪の言葉を口にした。それから真麗は表情を少し引き締めて、

「ハンバーガーやポテトが冷めてしまうわ。早く頂きましょう」

 真麗は口を大きく開けるのが恥ずかしいと言っていたわりには、パクリとハンバーガーにかぶりついた。

「おいしいね」

「うん」

 弾んだ空印寺の声が返ってきた。実は空印寺の方がリスが齧るような可愛らしい食べ方をしていた。その事に気づいた真麗は心の中で何だか釈然としない気持ちになった。

 空印寺と真麗の食後の感想は、ハンバーガーもフレンチポテトも合格、とても美味しく頂くことが出来た。ただアイスコーヒーもアイスティもどちらも味が薄くかった。それが不満と不満と言えるが、文句が言いたくなるようなものではなかった。

 ちなみに、ここの支払いは両者折版だった。真麗は空印寺の分を払うつもりでいた。しかし空印寺がそれを拒否した。お互い学生なのだからという理由で。その結果、折版という形になったのだ。空印寺は本を買う以外全く小遣いを使うことがない。実は結構貯め込んでいるので、真麗に金銭的なことで迷惑をかけたくなかったのである。空印寺は真麗の分まで支払っても良かったが、それは逆に真麗の負担になると考えたのだ。コミュニケーション経験不足の空印寺には気の利いた心遣いだった。

 三十分ほどハンバーガーショップで話し込んでいた空印寺と真麗は、真麗が一方的に話していただけだが、会話の流れが止まったとのを契機にここをいとま暇にすることに決めた。

「もう、帰ろうか」

 真麗の言葉に空印寺は頷いた。来た道を引き返しながら真麗は空印寺の横に並び、顔を近づけ、

「空印寺君、知ってる。袖野さんの事?」

 空印寺は何の事か分からないと言った顔をした。

「袖野さん、空印寺君の為にあんな事をしたのよ」

「えっ、あんな事?」

「知らないの?誰かと喧嘩をしたそうよ。それも取っ組み合いの喧嘩を」

 空印寺は驚きに口を半開きにした。あの大人しそうな袖野がそんな事をするなんて想像できなかった。

「袖野さんは空印寺君のことがお気に入りのようね」

 真麗は敢えて、愛とか恋とかの言葉を避けた。その言葉を使うことが何かしら不吉なモノを呼び込んでしまうような気がしたのだ。真麗は空印寺の顔をじっと見つめた。空印寺は真麗の視線に気づかず、俯きがちに何か考え込んでいる。

「空印寺君、どうしたの?」

 空印寺は真麗の言葉で我に返り、ぎこちない笑みを真麗に返した。真麗はそんな空印寺を見て、胸騒ぎがした。真麗は空印寺を空いている手を取り、人目も気にする様子もなく、

「ねぇ、わたしの事、好きよね」

 空印寺は突然の真麗の言葉にびっくりした。こんなところで恥ずかしいと思う反面、真麗の真剣な目を見ていると、恥ずかしいとか口にするのは憚られた。空印寺も真麗の真剣な表情に応えるように表情を引き締めた。

「うん」

 はっきりと言葉にした。真麗は小さく息を吐き、引き締めた表情を緩め、ほっとした表情と安堵からくる笑みを混ぜたような複雑な表情をした。駅のホームで二人が別れる時、真麗が空印寺に向かい、

「ねぇ、今度の日曜日、学校の近くの図書館に行かない?」

 空印寺は快諾の意味で頷いた。

「じゃあ、朝から期末試験勉強ね」

 真麗は笑いながらそう言うと、

「バイバイ、また明日」

 と手を振った。空印寺は恥ずかしそうに小さく手を振り返し、踵を返し歩き出した。空印寺の顔が困ったようで、笑っているようで、はにかんでいるようで、ちょっとにやけていた。


・六月二十一日(日)


 湊が朝食の準備をしていると、父親が台所にやってきた。湊が振り返り朝の挨拶をする。

「お父さん、おはよう」

「おはよう」

 テーブルから椅子を引き座った。

「もうすぐ朝ご飯の準備ができるから」

「母さんは?」

「買物に行ってるわ」

「そうか……」

 湊の父親は娘が暴力事件を起こして停学になったと聞いた時は一瞬気を失いそうになるくらい衝撃を受けた。立っていられたのが奇跡だった、と今になってそう思えてしまう。混乱した頭で娘に会えば頭ごなしに怒鳴りつけるのではないかと自分ではそう思っていたが、実際は何も言えず、

「ごめんさない」

 と娘が頭を下げると、思わず涙ぐんでしまった。親バカだと自分でも思う。だが、こんな大人しい娘が暴力を振るうのだから、余程のことがあったのだろう。当の本人が全く理由を話さないのが、その理由だ。人に言えないくらい腹を立てのだろう。だからと言って、暴力を振るい相手に怪我をさせたのも事実。とにかく相手の親御さんに真摯に向き合い、これ以上事を荒立てないことだ。娘の将来に疵を残すようなできない。それが親の、父親の努めだ、と心の中で握り拳を固めた。

「今日、昼過ぎから北浜さんのところ行く。湊は留守番をしなさい」

 敢えて謝りに行くではなく、ただ行くと伝えたのは、娘にこれ以上罪悪感を感じさせたくなかったのと娘の事を心の底では信用しているからであった。

「うん」

 湊がなんとも言えない悲しそうな声で応えた。父親はその声に庇護欲をそそられた。しかしそれを声にすることはなかった。何か言葉をかけてやれば良いと思うかもしれない。言葉はコミュニケーションとして最も重要で最も誤謬が少なく、自分の意思を相手に伝える最も有効な手段である。それゆえに、言葉にすると思いを伝える側と受け取る側の心の距離を壊してしまい、その関係をギクシャクさせてしまう危険性も含んでいる。よく言葉にしたら白けた、という場面に陥ったことを誰しも経験があるだろう。今この父娘はその場面に陥る寸前で足を止めた状態だった。父親は年の功でその危険性を肌で感じ取り、故意に何も語らなかった。手に持っていた日経新聞をわざとらしく開いた。

 湊も安心して朝食の準備に再び取りかかった。それから十分ほどして、母親が日川白桃と夕張メロンを買って戻ってきた。

 昼過ぎ、湊の父親と母親はちょっとそこまで知り合いに会いにいくような気軽さで、湊に北浜奈美のところへ行ってくると告げた。父親の手に朝に買ってきた日川白桃と夕張メロンがあり、さらに母親の腕には春夏秋冬のプリンの詰め合わせもあった。

 湊は春夏秋冬の定番プリン、まろやかクリミーは置いていって欲しい、なんて食い意地の張ったことを考えていたのだった。この時、湊は北浜奈美の事を意図的に考えないようにしていた。湊自身も時間が経ち冷静さを取り戻しはじめると、暴力を振るったことは自分に非があると自覚していた。一方で未だに空印寺を小馬鹿にした言いようには許すことができなかった。そんな心理状態であった為、自分の気持ちが暴走させないようにしていたのだった。

 湊は両親を見送った後、自分の部屋に向かい、謹慎中の課題に手をつけた。


 空印寺と真麗は高田駅で待ち合わせをしていた。九時半過ぎに丁度同時刻に到着する電車があったのだ。いつもとは違い跨線橋を渡るのは真麗だった。自動改札を出たところで空印寺が真麗を待っていた。真麗は空印寺に会う前にもう一度自分の髪が跳ねていないか確認したかった。今朝髪を梳かした時、全く髪が言う事を聞いてくれなかったのだ。女性としては、好きな男の前でみっともな恰好は出来ない。レストルームに行きたいのだが、露骨にそういうところに行くのは憚られる。真麗は手櫛で髪を梳きながら、はやる気持ちを抑えながらゆっくり歩いた。それでも空印寺の姿を見た途端、思わず駆け足になってしまった。

 二人が向かう市立図書館は二人が通うT高校の北の公園内にあり、高校から直線距離では三百メートル、開館は十時からだった。今の時刻は九時四十分、彼らの足では十時前に着く事が出来る。空印寺と真麗は下校時にするように、肩がぶつかるくらいの距離を保ちながら歩いていた。真麗は空印寺の顔をそっと盗み見た。真麗は少し不満があった。今は学校帰りではない。いつもは自分から空印寺に積極的に触れ合っていくけれど、完全なプライベートな時間なのだから、もう少し彼の方か積極的になって欲しいと思ったのだ。

 空印寺が真麗の視線に気づき、振り返り、優しく微笑んだ。真麗は空印寺のそんな表情を見て、「これはこれで悪くないな」と心の中で頷いた。

 開館五分前に図書館に着いた。明らかに勉強をしに来ましたという顔の人たちが十名ほど入口の大きなひさしの下で立っていた。空印寺は意外なことに一度もこの図書館に行ったことはなかった。文庫本を買うのでさえ、通販を利用しているくらいなのだから、外出自体をすることが殆どなかった。真麗と出会うまでは全くと言ってもよいほど、他人と精神的なものでなく物理的肉体的な接触を拒んでいた。空印寺が幼い頃に何があったかは判らないが、そのダメージの大きさは計り知れないほどものだと理解できるだろう。

 開館時間になり玄関の扉が開けられた。空印寺と真麗は適当なところを見つけ、そこに荷物を置いた。ここで二人は意外な事に出くわした。何と、机上に「学習禁止」の張り紙が貼ってあったのだ。空印寺と真麗は二人顔を合わせ、苦笑いを通り越して、面白そうに微笑んだ。それじゃと言うことで勉強は中止して、二人は読書にすることにしたのだ。真麗としては空印寺と二人ふらふらと公園を散歩しても良かったし、もっと言えば、空印寺の綺麗な顔をぼけっと眺めていても構わなかったのだが、空印寺の趣味を優先させたのだ。

 空印寺と真麗は完全に見落としていた。開館前に並んでいた連中の事を。この「学習禁止」の張り紙を無視して勉強する輩は多い。そういう意味ではこの二人は善良な心の持ち主だった。

 昼になり、二人は図書館を出た。今日はカラッとした晴れた天気ではなく、どんよりとした曇空だった。日差しは強くはないものの、その分湿度が高く蒸し暑い。特に冷房が効いて図書館にいた分、その反動が大きかった。二人は広場のベンチが空いていたので、そこに腰を下ろし、先週雁子浜に出かけた時ように真麗が持参した弁当を広げた。空印寺は若い男性と思えない程小食で、もしかしたら普段の食事の量であれば、真麗の方が多いようだった。真麗はその事に気づいた時、ちょっとばかり乙女心が傷ついた。

 昼からの行動は二人には意外な展開となった。空印寺が映画館で映画を見た覚えがないと言う話になり、真麗も映画館で映画を見た経験がない事を告げ、それならと映画館に行ってみようとなったのだ。空印寺は自分の事は当然だとしても、ハンバーガーの時もそうだが、真麗が映画館に行ったことがないのが意外だった。

「冷泉さんは何とく周りにいるような女生徒とは違い、流行とかに興味がなく、思春期の少女の特有なフワフワした感じがしない大人っぽい女性だ。そういう女性でないと、自分と付き合ってはいられないだろうな……」と空印寺は真麗を見ながらそう思ったのだった。

 映画を見行くと決めたのは良いが、公園から映画館までの交通機関、何を使えば良いのかよく判らなかった。空印寺は全くと言っていい程外出をしないし、おまけに真麗も今年の春、新潟に引越ししてきたばかりであり、この辺の土地勘はない。追い打ちをかけて、この二人はスマホどころか携帯電話すら持っていなかった。二人が行こうとしている映画館は、空印寺の自宅の近隣にある。空印寺が、

「直江津駅から簡単に行くことができるけど……」

 と済まなさそうに話した。真麗は段取りの悪さを気にする様子もなく、

「一旦、直江津駅に行って、映画館に行きましょう」

 空印寺の手を取り、真麗は微笑んだ。

「あっ」

 その時、空印寺は直江津駅から路線バスで映画館に行くのだが、その路線は高田駅を結ぶ路線であることを思い出した。

「バスで行けるかも知れない」

 二人はすぐそばにあるバス停留所の標識柱に足を向け、そこに掲載されている時刻表を見た。後五分もすればバスが来るようだ。予定は変更、ここからバスに乗車することになった。路線バスは案外混んでいて、二人は座ることが出来なかった。バスは約二十分ほどで目的の停留所に着いた。バスに乗っている間、真麗は空印寺の手を放さず、じっと下を向いたままだった。バスを降りると真麗は第一声、

「気持ち悪くなった……」

 と胸を押さえた。空印寺が心配そうに、

「酔ったの?」

 真麗は不思議そうな顔をした。「酔ったの?」と聞かれ、何を指しているのか理解できていないような顔をした。

「すぐそこが映画館だから、何か冷たい飲み物で買おう」

 今度は空印寺が真麗の背中に手を回した。真麗は空印寺の方に体を預けるように寄せ、空印寺が自分に気を使ってくれたことが単に嬉しかった。

 映画館は混んでいた。日曜日の昼下がりなのだから当然と言えば当然だった。真麗はアイスティを飲み、取り敢えず一息吐きバス酔いからかなり復活しつつあった。そしてこの後、二人は今時の高校とは思えない事に、二人とも高校の学生証明書を持っていなかったのだ。売り場のおばさんは、「本当は駄目なんだけどね」と言って二人が持っていた電車の定期券の学割を見て、高校生料金にしてくれた。

 空印寺はいかに自分が世の中に背を向けて生きてきたかを実感させられた。そして、真麗が見せる時々見せる、まるで自分と同じように世間一般の知識に疎いのが意外だった。二人が見た映画は、オーストラリア映画のアクション映画、今日まさに日本公開された映画だった。シリーズもので本作が第四作目となるが、過去三作品を知らなくても十分楽しめる構成になっていた。荒廃した世界の中、暴力が支配する社会。そこに現われるダークヒーローと言った粗筋だった。

 座席は中央左よりに運良く二席並んで空席があった。空印寺と真麗は初めて見るスクリーンの迫力と効果音の重量感に魅せられた。ストーリーはお世辞にも面白いとは空印寺は思わなかった。文字ばかりの世界で愉しみ、それが一番素晴らしいものと信じ込んでいた空印寺ではあったが、映像による迫力と音響の効果を認めざるを得なかった。一方真麗の方は、スクリーンを食い入るように見て、笑ったり、はらはらしたり、忙しそうに表情をコロコロと変えていた。つい先ほど真麗の事を大人っぽい女性だと思ったのだが、年相応のところがあることを見て、空印寺は少しほっとした。

 空印寺は真麗より一つ年下であること、真麗が落ち着いた大人っぽい女性であること、さらに自分はほとんどコミュニケーション経験のない子供であることを実は気にしていたのだ。空印寺も思春期の男の子である。その他の男と同じように、好きな女性の前では恰好のひとつでも付けてみたいもの。しかし現実として、空印寺は真麗に引っ張られている。このまま今のように自分が頼りない状態であれば、その内に真麗が自分に愛想を尽かすのではないかと不安になったりすることもある。このような心境になるのは、空印寺が今まで心を閉ざしていた事を考えれば当然であろう。彼自身はっきり言えば自分に対して自信もなく、真麗が自分に好意を持つのは何か思い違いをしているのではないかと不安なり落ち着かなくなってしまう。そしてこれが一番の原因となる。人と接触すること拒み続けていた空印寺にとって真麗が初恋の相手なのだ。初めて恋をした時の事を思い出して欲しい。誰しも相手の何気ない言動に一喜一憂する。今の彼は、そう言う状況に置かれている。

 空印寺は映画を見終わった後、近くの書店に行きたいと希望を出した。真麗は空印寺と一緒に居られればそれで満足だった。もちろん快く頷いた。空印寺は本好きではあったが、書店にも年に一度足を運べばいい方だった。図書館、映画、書店、今日はここ十年出来なかったイベントをたった一日でやってのけたような感覚になった。もし真麗が他人との壁を造り自分の殻に閉じこもっている空印寺をこういう風に、精神的にも肉体的にも、外に連れ出してくれなかったなら、こんな心開くことも、様々な経験をすることもなかっただろう。

 空印寺にとって、真麗は初めて恋した女性というだけでなく、自分を救い出してくれた恩人でもあった。

二人は書店で買物を済ませた後、ショッピングセンターでドーナツショップに入った。これも二人には初めての経験だった。席が空くまで少しばかり待った。二人が頼んだのは、空印寺がシンプルなドーナツとアイスコーヒー、真麗は見た目が美味しそうという理由でクルーラーとアイスティを頼んだ。恋人同士らしくドーナツは半分づつ分け合って食べた。人が混んでいたので、すぐに店を後にした。その後、二軒ほど雑貨店を見て回った。真麗は前髪を止めておくヘアピンが欲しかった。どれにしようかな、と迷っている時、空印寺が興味深そうに手にしていたのは、べっ甲柄で作られた薄茶と濃い茶のまだら模様のスリーピンだった。

「空印寺君、これが気に入ったの?」

 空印寺は頷きながら、

「綺麗」

 そう答えた。真麗は空印寺からそのスリーピンを受け取り、足取りも軽くレジに向かった。それは一個二千円ほどする商品で、雑貨店のスリーピンではかなり高価なものだった。

 夕刻も過ぎ街灯が点いてもおかしくない頃、

「そろそろ帰ろうか」

 と空印寺はそう言った。本心はもっと真麗といたいのだが、試験勉強も事もあるし何より女の子を遅い時間まで外出させておくのは良くないと、まるで昭和の頃のような事を考えていた。間違いなく昭和時代の純文学を好んで読む影響だろう。

 真麗としては、母親は看護師として働いており、父親は離婚して既に亡くなっていると聞いていた。別に急いで帰る必要はない。そういう事は空印寺から誘って欲しいと思う。真麗自身の中では身も心も空印寺に捧げているつもりでいる。後は空印寺が求めてくるだけ。しかし当の空印寺は人付き合いが苦手な上に、恋愛に戸惑っているだけでなく、基本的に奥手のようである。真麗はそう感じており、そこが空印寺に対して不満と言えば不満になるが、実際はほんの些細な取るに足らないようなものだった。

 空印寺はバスに乗って直江津駅行くつもりだった。そう伝えると、真麗は珍しく空印寺に対して我儘を言った。

「バスは乗りたくない。歩きたいわ」

 真麗は少しでも上手い口実をみつけて、空印寺と居たかった。もちろんバス酔いが嫌だったのもあるのだが、気持ちの重みで言うと前者の方が圧倒的に重かった。空印寺は口許を緩めながら二度ほど頷いた。県道43号線沿いの広い歩道を二人で手を繋ぎながら歩いた。真麗は出来るだけゆっくり歩いた。それでも歩いていると、必ず目的に着いてしまうもの。春日山駅に着いてしまった。朝と夜間は無人駅となるこの駅は単線でホーム一面の小さな駅だった。後数分で午後八時前の電車、真麗が乗車する上り電車が先にくる。ホームに出ても真麗は空印寺の手を放さなかった。もっと二人で居たいと思えば思うほど時間の流れは速くなるもの。真麗の体感時間では数分ではなく一分も経っていない内に電車が体を揺らしながらやって来た。プシューと空が排気される音と共に扉が開いた。

 空印寺が真麗の手を放した。その瞬間、真麗は空印寺の唇を奪った。あっさり真麗は背を向けて電車の中に乗り込み振り返り、電車の扉が二人を分かち閉まった。

「バイバイ」と真麗の唇が動く。顔を赤くした空印寺も右手を小さく振り応えた。


 夜七時、いつもなら湊は夕食の片付けを終え勉強に精を出している。今日の夕食は、自宅謹慎中を受けた身の湊ではあるが、父親の一言で外食に決まった。実は母親が外食を提案していたのだった。全く外出をしない湊を気遣ったのだ。そして向かう店は、母親が習っている生け花教室で話題になっている割烹料理の店で、高田駅の近くの、一方通行の商店街の中にある店だった。湊はよくこの辺りを美琴とぶらつくが、そんな店があった事は知らなかった。それは大人を相手にする店の事などごく普通の女子高生が知る由もないのは当然と言えば当然だった。お酒を出す店と聞いていたので、湊は少しだけ不安になった。だらしなく酔っ払った中年オヤジが店をうろついているイメージを持ったのだ。

「そんな店だったら嫌だな……」車で十分ほどでその店に着いた。湊の父親を先頭に店に入った。暖簾をくぐった湊はその店が思った以上に小綺麗で、イメージしていたようなだらしなく酔っ払う人がいるような雰囲気は全くなかった。湊は少し背伸びをして自分が大人になったような気がした。

 父親が店主のお薦めの日本酒を呑み、母親はお酒を呑まないので、女性陣はウーロン茶を飲んでいた。料理の方は板さんのお任せだった。小鉢に上品に盛られた料理は食べより眺めている方が良いくらいだ。湊は次々と出される料理に魅入られついつい食べ過ぎてしまった。父親はホロ良い気分で機嫌が良く、母親と湊は美味しい御馳走を食べられてご機嫌だった。湊は両親の心使いが嬉しくて感謝の気持ちで一杯になった。しかし言葉にするのは何だか照れ臭いくさくて、心の中で呟いておいた。

「お父さん、お母さん、ありがとう」

 そして今、丁度店から帰ってきたところ。机の上に置いてあったスマホに着信履歴があった。美琴だった。メールをするより何となく言葉を話し聞きたくて、美琴の自動ダイアルを押す。二度目の呼び出し音で美琴は出た。

「湊、元気してた?」

「お昼も話したじゃない?」

「今は今なの、だから今元気?」

「元気よ」

「一時間前にメールを入れたけど返事がないから心配してんだよ」

「ついさっきまで、外食していたの。割烹料理の店に」

「割烹料理?」

「そう、お酒とか小料理を出す店」

「湊、大丈夫なの?謹慎中にそんなところ行って」

「大丈夫よ、お父さんとお母さんも一緒にいたし」

「そうよねぇ、一人では行けないよね」

「えっ、まさか美琴はわたしが一人で行ったと思ったの?」

「えー、えー、そんな事ないよ。うん」

「ほんとかなぁ」

「ほんとだよ」

「怪しいなぁ」

「ほんとだよぉ、もう」

「はいはい、解っているわよ」

「湊、信じてない!」

 このような会話が半時間も続き、湊に眠気が襲ってきたので会話を終えることにした。丁度二十二時だった。お風呂に入り、歯を磨き、眠る準備が整った時は二十三時を過ぎていた。湊が布団に入る時、そう言えば、先生から自宅謹慎確認の電話がなかった事に今気づいた。こちらから電話をしなくてもいいのだろうかと心配になったが、眠気に弱い湊はあっさり眠りの中へ落ちていった。朝起きた時、謹慎が延びたらどうしようと真剣に悩む事になった。

 自宅謹慎確認の電話がなかった、その理由は実に簡単で、事前に湊の両親が先生に今日の事を法事だと嘘を伝えていたからだった。


・六月二十四日(水)


 試験前で混み合う図書室をいつものように下校時間ぎりぎりまでいた空印寺と真麗は珍しく南高田駅へと歩いていた。特に南高田駅方面に用事があるのではない。ただ何となく行こうかと話がまとまっただけで他意はなかった。面白い事に、空印寺は直江津駅から南高田駅までの定期券を購入しており、真麗は新井駅から高田駅までの定期を買っていた。どちらの駅に行っても特に問題になることはない。真麗は南高田駅を登校時に使用し、空印寺と一緒に帰る時は高田駅を使っている。空印寺は登下校高田駅を使用している。南高田駅へは校門を出て右に折れると一本道で着く。

 もう期末試験一週間前、強制的に部活は禁止されている。その為、図書館や教室で勉強していた生徒しかおらず、クラブ帰りの連中の騒がしい雰囲気はない。二人は肩を寄せ合うように歩いていた。空印寺と真麗の会話は話し手が真麗、聞き手が空印寺である。先日買ったべっ甲のヘアピンを顔の左側で流した髪を留めていた。実際に買ったのは真麗であったが、これを気に入ったのは空印寺だった。真麗からすれば空印寺からの贈り物と何ら変わりがなかった。何かの形でお礼をしたいと思うけれども、なかなか良い案が浮かばない。そう言えば、誰かが誕生日にプレゼントをするとか、そういう事を言っていたことを真麗は思い出した。きっかけは、前を歩いていた三人の会話が聞こえた事だった。彼女らの内の一人が彼氏の誕生日に何をプレゼントするか話し合っていたのだった。

「空印寺君、誕生日はいつ?」

 空印寺はちょっと考え込むように、

「六月一六日」

 と答えた。真麗は驚いた顔をして、拗ねたようにポンと空印寺の腕を叩いた。

「もうっ、一週間以上も過ぎているじゃない。何故言ってくれなかったの?」

 空印寺はバツの悪そうな顔をして、

「その、忘れてた」

「そうなの?」

「うん」

 真麗は良い事を思いついたように嬉しそうな顔をして、

「じゃあ、期末試験が終わったら。プレゼントするわ。期待していてね」

 空印寺は真麗の言葉が自分の心を温めてくれるのを感じた。誕生日プレゼントなんて、全く記憶がない。あの事件以来、自分は他人に対して、家族を含め、壁を造り拒絶していた。そしてその影響で家族は絆を失ってしまった。両親も辛かったはずだ。空印寺は両親を恨む気持ちはなかった。

 空印寺は自分の好きな女性からプレゼントを貰えることが嬉しかったと同時に気恥ずかしさを感じた。少し照れたように、そしてそれを隠すように故意にぶっきらぼうな口調で、

「ありがとう」

 真麗はそんな空印寺を見て「可愛い人だな……」と思うのだった。

 あっと言う間に南高田駅に着いた。この駅はT高校だけなくT商業、T農業、私立高校の生徒も多く利用する。列車の到着時間まで多くの学生は駅のすぐ側にあるコンビニエンスストアに用もなくたむろしている。空印寺と真麗はその流れに乗らず、そのまま無人駅に向かった。駅のホームにも学生はそれなりの数がいた。この南高田駅はプレハブの駅舎の小さな無人駅でしかも単線一面ホームである。日曜日の時とは違い、空印寺が乗車する電車が先に来るようだ。二人は手を繋いでいたが、特に会話することもなく見つめ合う事もしなかった。その分、繋いだ手に全神経が集中していた。電車がホームになだれ込むように到着した。二両編成の電車に学生が多く乗り込んだ。空印寺は学生の群れに押されように電車の奥の方に行った。車窓から空印寺が見える。真麗は空印寺に手を振った。空印寺は周りを気にするように小さく、それでも真麗にはっきり判るように手を振り返した。真麗がそれを見て微笑んだ時、電車は警笛をならし走りはじめた。あっと言う間に空印寺の姿は見えなくった。

 真麗は走り行く列車を見ながら「幸せ」という言葉を噛みしめていた。幼い時、空印寺を初めて見た瞬間恋に落ちた。完全な一目惚れだった。それから空印寺だけを想い続けている。その頃は、こんな風に空印寺と一緒にいられるなんて想像できなかった。

「ずっとこの幸せが続きますように……」神を信仰してない真麗だったが、そう祈らずにはいられなかった。


 夜八時半を過ぎた。湊は課題を片付け、期末試験に出題されそうなところを復習していた。美琴からメールが来た。彼女は湊に授業の範囲を教えてくれている。翌日、湊はその範囲を自習するのである。そんな一連の作業が出来つつあった。湊は家事の手伝い、課題と授業範囲の自習、その合間を縫って読書、空印寺のお気に入り「豊穣の海」を読んでいた。空印寺に会えないのは寂しいのだが、この状況では仕方がない。学校に行けないのだからどうしようもない。それでも、この本を読んでいる時はいつも空印寺が側にいるように感じられる。とにかく何でも良いから、空印寺を感じていたかった。別に空印寺が読んでいる同じ本でなくても、空印寺の使ったシャーペンや消しゴムであっても。空印寺に会えない事でその恋心が少しでも落ち着くかと湊自身考えていた。

 しかしその想いは会えない時間に反比例してどんどん大きくなっていく。湊がよく読む恋愛小説などでヒロインが想い焦がれるシーンを感情移入して同じように胸を痛めたと思っていた。それは大きな間違いだった。人を心から想う事は物凄く心にも肉体的にも負担がかかる。それも生半可なものではない。人が恋愛ごとで人を殺すことさえある事がある。その理由を、本当の意味を湊は知ったような気がした。


・六月二十六日(金)


 湊が一週間の停学を終えた。いつものように身支度を整え、朝食の手伝いをするために階下の台所に降りた。この一週間余り、朝食の手伝いをする時は身軽な部屋着にエプロンだった。今日は少々勝手が違う。夏休みや冬休みような長期の休み明けみたく何だか制服を着ることに違和感がする。正規の休みではなかった為に、特にその違和感は大きい。父親が朝食を済ませた。父親は特に何も変わらず、通常運転だった。台所に来ては朝の挨拶をして朝刊を読み食事を済ませると、「行ってきます」と言い残し家を出た。一言も湊の謹慎処分について何も言わなかった。湊は父親があからさまに気を使って、いつもと同じように振舞ったことが逆効果になってしまった。湊は教室に入るのが、不安になった。

「誰も彼もが、自分に敵意を向けてくるのではないかと……」空印寺と美琴の顔が浮かんだ。この二人がいれば大丈夫。湊は鞄を取りに二階に上がった。

 湊は久しぶりの通学路は長く感じた。大丈夫と自分に言い聞かせても、一抹の不安はある。学校に着き、まずは職員室に向かった。昨日担任から顔を出すように言われたのだ。

「失礼します」

 湊が職員室のドアを開ける。誰も湊の事など気にかけていない。湊はほっとしながら担任の席に向かった。担任は湊に必要事項を述べただけで、説教臭い事など全く言わなかった。空印寺はこの教師をサラリーマンと評したが、この教師はサラリーマンと言うよりは最小限の仕事しかしない小役人ようであった。面倒ごとに関わりくない、その態度を敢えて隠そうとはしないあたり、良くも悪くも潔いのかもしれない。

 湊は課題を提出し担任から必要事項を聞いた後、さっさと職員室から引き上げた。二年生の階である三階まで上がるまでは良かった。しかし自分の教室に向かう廊下を歩きはじめると、突然不安の波に呑まれた。何度も大丈夫と自分に言い聞かせはいるが、一旦心が落ち着いてもまた不安になる。

「この繰り返しをするのはこれで何回目だろう……」湊は教室のドアの前に立った。ここで躊躇したらいけない。二度とドアが開けられなくと思い、唇を固く結び「えぃ」と心の中でかけ声を出して教室のドアを開けた。

 湊が教室に足を踏み入れた時、教室には微妙な空気が流れた。誰もが湊の姿をチラッと盗み見するだけで、誰も湊には声をかけようとはしない。湊にはいたたまれない雰囲気がそこにあった。以前の湊ならそこで足が止まり、すぐにでもここから逃げ出していただろう。

 湊はその視線に顔を隠すように下を向きながらではあるが、一歩一歩確実に教室の中へ入っていった。親しい間柄の友人は湊には美琴しかいない。それでも挨拶程度は交わすクラスメイトは幾人かいた。彼女たちは湊と話すのをためらっているようで、あからさまに湊から目を逸らしていた。湊が自席につく。やはりちらちらと視線を感じる。決して友好的ではない視線が……

 湊は鞄から英語の教科と英和辞典を取りだした。じっと何もしないでいるのは重苦しい沈黙に耐える事になる。この纏わりつくような視線を無視するには、何か作業に集中するのが一番良いと考えた。一時間目から英語の授業があることだし、英語の予習でもしようと思った。

「今日の授業の範囲はおおよそ予測がつく……、あっ、そうだわ……」よく考えれば、昨晩、今日一日の授業の予習を終えてあることに気づいた。このまま教科書を閉じるのは居たたまれない気がする。「それでは」と湊は前日予習をした時に、自信がない箇所を再度予習することにした。そして周りのことが気にならないように英語の教科書にしっかり集中した。

 湊が英語の予習に集中し、その集中力が高いレベルで維持されている時、空印寺が教室に入ってきた。空印寺は一瞬足を止めて湊を見つめた。すぐに湊から視線を外し自席に向かって歩きはじめた。真麗とは会話するようになったとは言え、やはりクラスメイトと会話するのはハードルが高そうだ。この時、もし空印寺が誰かと挨拶でも交わしていれば、目ざとく湊は空印寺の存在に気づいただろう。湊は空印寺が教室に入って来たことに全く気がつかなかった。

 空印寺は自席に着き、真麗の言葉を思い出していた。「袖野さん、空印寺君の為にあんなことをしたのよ……」袖野さんと北浜さんとの喧嘩の原因は北浜さんが袖野さんをからかったのが原因だと、教師たちが言っているのを耳にしていた。さらに真麗の言葉を加味すると、

「袖野さんは自分自身がからかわれて怒ったのではなく、北浜さんがぼくの事をからかい、それに対して袖野さんは怒ったことになる……」真麗のこの言葉を聞いて、空印寺は何度も考えてはみたが、やはりこの結論に落ち着く。空印寺は自分なり考えて抜いて、自分が成すべきことは何か自問し続けた。実は一般の人ならそれほど大層な事はない。湊が自分の代わりに怒ってくれたことに、感謝の言葉を言えばそれで良いだけである。しかし空印寺の境遇を考えるとそうは行かない。この十年ほど、他人と壁を造り、コミュニケーションを全くしてこなかったのだ。真麗とは会話をすることが出来るようになり、停学前の湊とも少しは話せるようになったとは言え、実際の会話の内容は、真麗や湊が話し手であり、空印寺は聞き手役であった。空印寺が自分から自分の言葉で話すことは、まだまだ彼のコミュニケーション能力では難しい。

 今までの空印寺ならここで何もせず、じっと時間が過ぎるのを待っていただろう。空印寺は真麗との会話を思い出しながら「言葉を伝えないと自分の思い、気持ちは伝わらない……、冷泉さんを好きになったのも、交際することができたのも、冷泉さんが自分に想いを伝えてくれたからだ……」空印寺は立ち上がった。

「一歩を踏み出す……」そう決心しながら空印寺は、湊の席までゆっくりとした足取りで向かい、湊の前まで足を止めた。その時、湊は自分の前に立つ人の気配を感じ顔を上げた。

「空印寺君……」

 湊は空印寺の顔を見られることを素直に喜んだ。そして高鳴る胸の音が彼に聞こえるのではないかと思うほど緊張した。「私はこの人のことを心から愛しているんだわ……」」湊はそう自覚せずにはいられなかった。空印寺は体を少しか屈めた。空印寺の顔が湊に迫る。湊の顔が一気に赤くなる。

「ありがとう」

 小さな声だが、しっかりと湊の耳に届いた。湊は目を見張り空印寺の顔を眺めた。空印寺は湊に一言言葉を伝えると、もう用は済んだとばかりに踵を返し自席に向かった。空印寺の素っ気ない態度とは違い、湊の方は、心が、体が、全てのものが狂わんばかりの悦びに満ち溢れ、今迄にこれほど感動的な言葉があったのだろうか、と思えるほどの衝撃を受けた。強く両手を握った。右手はまだ痛んだ。その痛みさえ、湊には感動の余韻を引き立たせる以外なにものでもなかった。思わず涙が出てくる。

「空印寺君は私のことをちゃんと解ってくれている……、私のことを見てくれている……、わたしのした事は空印寺君の為になったんだ……」湊は左胸を右手で押さえた。物凄い勢いで鼓動が打っている。息も浅い。ぽろっと涙が一粒零れた。それがはじまりの合図かのようにして、後から後から涙が溢れてくる。嬉しくて嬉しくて。そういう時にも涙は出るものだと、湊は身に染みて感じた。

 そんな湊をクラスメイトは少しばかりの驚きとはっきりと判る壁をつくりながら遠巻きに見ていたのだった。


 美琴はいつもより学校に行くのが少しばかり遅れた。目覚ましを半時間ほど早くセットした甲斐もなく遅れてしまったのだ。朝、鏡を見ると、左右両側の髪がそれぞれ一房ほどピョンとはねていた。簡単に寝癖が取れると思っていたのに、敵もなかなか手ごわく綺麗に髪が決まるまで時間を費やしてしまった。今日は湊が学校に来る日。早く家を出たかったのに、こういう時に限って遅れてしまう。

 美琴は自分の鈍くささを呪いたくなった。小さな体を揺らしながら、美琴はトコトコという擬音が似合いそうな駆け足で学校への道のりを急いだ。美琴は湊を教室で迎えたかった。そうすれば、湊は以前のように優しく笑ってくれると美琴は何の根拠もなく信じていた。

 教室に入って真っ先に目がいったのは湊の席だった。湊はもう席についている。美琴はがっかりと肩を落とした。

「湊を迎えたかったのに……」美琴は落胆した気持ちを切り替えようとした。「せっかく学校で湊に会えるのだから、笑わなきゃ……」そう思い湊を再び見やると、その湊は俯いて肩を小さく震わせている。思わず息を呑む。「もしかして、誰かに何か嫌味を言われたとか……、心無い言葉を言われたのだろうか……」

「湊、どうしたの?」

 美琴は湊の肩に手を置き、湊の顔を覗き込もうとした時、湊が小さな声で応えた。

「嬉しいの」

「嬉しい?」

「美琴、私、嬉しいの、とっても嬉しいの」

 湊は顔を上げ、美琴の方に顔を向けた。湊は確かに涙を流している。しかしその表情に悲しみの欠片などどこにも見当たらず、満面の笑みを浮かべ喜びに満ちている。

「湊、何かあったの?」

 湊は美琴の問いかけに、恥ずかしいそうに俯いて、

「空印寺君が、ありがとう、って言ってくれたの」

 美琴は「それで?」と言う顔をして、湊の次の言葉を待った。しかし、それからの湊は本当に嬉しそうに笑みをたたえながら喜びを噛みしめ何も言えない状態になった。美琴は湊の喜んでいる姿を見ながらこの状況での齟齬を感じた。空印寺の方に目を向けた。空印寺はこちらの様子に全く興味がないのか、読書に耽っている。

「湊がこんなに喜んでいるのに知らんぷりって、どういう事よ!」美琴は空印寺のその無関心な態度に腹が立った。美琴は湊を再び見やった。湊は本当に幸せそうな顔をしている。

「湊、空印寺君は湊を見てないよ……」美琴は喜んでいる湊の横にいることが無性に悲しかった。そんな美琴の思いなど知らず空印寺は文庫本に目を落としていた。しかし実は空印寺も湊の様子が変なことは気づいていた。湊の様子を覗う為に席を立とうとした時、美琴が現われたのだ。

 美琴が湊を労わるように寄り添った。空印寺はこれを見て、湊の友人である美琴に任せておけば良い、人話すのが苦手な自分より遙かに湊の気持ちが落ち着かせることができると考えたのだった。湊からすれば、何ともタイミングの悪い話ではあった。


・六月二十七日(土)


 土曜日は半ドン授業、試験前の最後の授業となった。いつになく生徒たちは教師の言葉を聞いていた。授業が終わり、三々五々生徒が散っていく。グループを作って勉強する者、一人部屋に籠って勉強をする者、図書館や迷惑な客となって店に居座る者、空印寺たちが通うこの高校は県内では自由な校風で知られ課外活動や部活も盛んであり、同時に進学校であると知られいる。当然、試験となれば皆必死なる。この切り替えができるからこそ、自由な校風であっても進学校としていられるのだろう。

 空印寺と真麗は図書室に行かず、公園を散歩することにした。他の生徒が必至になって試験勉強している最中、信じられぬくらいの余裕である。空印寺の試験勉強の仕方は、まず授業に集中し、最後の確認に復習をする程度で、試験勉強をしても一教科一時間程度である。ただし集中力が半端でない。その集中力を維持する為には、一人になって他人の気配を断ち全く無音状態になることが必要となる。その為、真麗に一緒に勉強をしようと誘われたが、こればかりは断った。

 真麗の方は放課後図書室に残り勉強に励んでいる。空印寺と言葉を交わすようになっても図書館での勉強は続けている。それ故に、真麗の成績も空印寺同様意外と良く、四月にあった模擬試験では理数系を合わせて学年丁度十番だった。真麗も空印寺同様定期試験の準備に特に追われることがない。

 二人は一週間前のデートした時のように高校の北にある公園を歩き、そのまま公園を北へ抜けた。そこは先日ハンバーガーショップへ行った道だった。空印寺と真麗は顔を見合わせた。どちらともなく、またそのハンバーガーショップへと足が進んだ。前回来た時よりも人は少なかった。昼時を過ぎていたのと学生たちは学期末試験勉強が忙しくなる時期だ。丁度、時間的にも時期的にも良かったことになる。前回来たときは色々と戸惑ったことが多かったが、今回はスマートに出来たと二人はそう感じ、何だか笑いが込み上げてくる。真麗だけなく空印寺も。

 二人は四人掛けのテーブルに向かい合わせに座った。空印寺はチーズバーガーと飲み物はアイスコーヒーでなくバニラシェイク。真麗は照り焼きバーガーとアイスティを頼んだ。そして二人で一緒に食べようとまたフレンチポテトを頼んだ。前回食べた時、空印寺も真麗も、この味の濃さと塩味に魅了されてしまったのだった。

 空印寺と真麗はハンバーガーを食べ終わっても、店内の客が少ないことを理由に、足に根が生えたように腰を下ろしていた。特に会話もなく、ただお互いの顔を眺めているだけだった。それはそれでお互い何の不満もなかった。空印寺はもっと真麗に近づいてみたいと思うようになってきた。以前の空印寺では想像もできない考えだった。そんな考えを持ってしても、空印寺は自分から真麗に触れることが怖かった。真麗が自分に好意を持っている。しっかりと言葉で「好きです」と言われている。しかしそれとは別に、自分の中に何かが引っかかっている。空印寺はその引っかかりを今まで人の触れ合いに対して免疫のない自分が単に気おくれしてだけと思っていた。そう思ってもその引っかかり、違和感は拭えない。空印寺はそれ以上その事を考えるのを放棄した。何も答えを出せないと思ったからだ。

 真麗はただただ空印寺を見ているだけで幸せな気分になれた。本気でこのまま時間が止まればよいと考えたほどだ。結局二人はほとんど会話もなく、二時間ほど見つめ合っていた。さすがに座っているのも飽きてくる頃、少しばかり運動を、歩きたくなり、二人はハンバーガーショップを出て、また公園を今度は南へと歩き出した。十数基あるブロンズ像があるところで真麗は足を止めた。そこは女の人のブロンズ像があり周りを竹で囲われていた。真麗は物欲しそうに空印寺の顔を見た。この周辺には人の気配がしない。真麗が目を閉じた。いくら鈍い空印寺でも、真麗の心は理解できた。空印寺も目を閉じた。ゆっくり顔を近づいていく。相手の肌の温もりが感じられるくらい近づいた時、互いの唇が重なった。

 その後、二人は手を繋いだまま高田駅まで歩いた。全く言葉を交わす事がなかった。互いに言葉にしたいことは山ほどあったのだが、言葉にしてしまうと、この独特の甘い空気が壊れてしまうように思えたのだ。二人はその甘い空気を壊したくなかった。繋いだ手をしっかり握ることで、言葉ではなく、その温もりで伝え合っていた。


 空印寺は布団に入りながら二週間前に雁子浜に行った時の事や今日の出来事を思い出していた。空印寺は女の人とキスをするなんて考えたこともなかった。キスは自分とは無縁で、どこか空想じみたものに考えていた。それが現実となった。ただ驚愕する以外することがない。まるで空印寺は自分が読んでいた主人公になった気分だった。今日は何だか興奮して眠れそうにない。しかし時間が経つにつれ、そんな幸せな気分を少しずつ蝕むことが起こりはじめていた。真麗に感じた、言い知れぬ違和感、引っかかりが徐々に膨れ上がってきたのだ。言い換えれば、その違和感は空印寺の心の中で小さな染みのようなものだった。それが一気に心全体を覆うようになってしまったのだ。

「何か……、そう、何かがあったんだ……あの時だ、十年前の……」空印寺は突然飛び起きて、洗面所に走った。激しい嘔吐に襲われたのだった。


 空印寺は夢を見てうなされていた。それは真麗と話しはじめた頃に見た幻覚にも似た白日夢のようなビジョンだった。人が死ぬ。それもただ死ぬのではなく。人が人に喰われるのである。その状況をリアルに感じる。それが現実だと心が訴える。そして真麗に似た声。切れ長の眼。その声の主の顔が浮かびそうで浮かばない。もどかしくもあり、知りたい気持ちもあり、知りたくないと言う気持ちもある。目の前に近づいてくる蛇のような縦長の瞳孔。間近に迫る死。全身を覆う恐怖。

「わたしのこと好き?」

 空印寺は凄まじい嘔吐感に襲われ目を覚ました。今度は洗面所に行く余裕などなかった。枕許に激しい嘔吐を繰り返した。空印寺は内服薬の袋から抗精神病薬と睡眠導入剤をと一粒ずつ取り出し、口に水を含まずそのまま呑み込んだ。最近、抗精神病薬や睡眠導入剤を呑むことはなかった。出来るだけ薬に頼りたくないが、今夜はそんな悠長なことは言ってられないくらい最悪の状態だ。空印寺は吐しゃ物を片付ける気にもなれず、そのまま部屋を出て廊下で掛布団に包まり身を小さく丸くして眠りが訪れるのを待った。

 もう夢をみたくはなかった。


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