en Juin(b)
・六月八日(月)
湊は土曜日曜ともどこにも行かず家で過ごした。気分は最悪だった。金曜日の、あの女の事が頭から離れず、少しヒステリックになっていた。イライラしている事を自覚していた湊は、こういう時は美味しいものを食べるに限るとケーキやお菓子を作ったまではよかったが、ついつい食べ過ぎてしまった。体重計に怖くて載れない。美琴が聞いたら遠慮なく笑い飛ばしてくれるだろう。嫌な事も全て。そして金曜日の自分の行動を思い出して、もう二度とあんな大胆な行動はできないし、そもそもあんな行動を取った自分が信じられなかった。何だか、一生分の行動力を使い果たしたようだ。湊はそう思う一方で、自分の行動力をどこかで誰かに誇りたい気持ちがあることを認めることができず、素知らぬふりをしたのだった。
・六月九日(火)
朝、湊はいつもと同じ時間に登校していた。教室に入ろうとしたところで、いきなり後ろから美琴にブラウスの裾を掴まれた。美琴は俯いたまま、湊の袖を掴んだままグイグイと引っ張っていく。湊は鞄を置くこと出来ず、廊下の端まで連れてこられた。美琴が振り返る。その大きな目からは大粒の涙がぽろぽろと零れていた。
「湊、どうしたの?何があったの?」
美琴は流れ出した涙を手で拭い、
「湊、変だよ。怖いよ、先週の終わりから変だよ」
そう言うのが早いか、ドンと湊に正面から抱きついて湊の胸に顔をうめた。湊は自分が変わってしまった事を自覚している。空印寺への恋慕、自分自身の中にある女の欲望、他人を心の底から羨み妬み憎む感情、悪意、それらを一気に知ってしまった。知らなかった自分と同じでいられるはずがない。
「それが顔に出ているのだろうか……、そんな事はないわ……」湊は今朝もスタンドミラーで自分の姿を映して、おかしな所はないかチェックし顔も髪も確認した。代わり映えしない自分の姿と顔があった。鏡の中には悲しいくらい平凡で普通の女の子がいた。「あの女だって、自分の大して変わりない女だ。きっと自分にもチャンスはある」そう考えると湊の気分は少し晴れた。
「それにしても、美琴は一体どうしたのと言うのだろう……、月曜日から少し様子が変だった。きっと美琴のいつもの勘違い……ほんとにこの娘はあわてんぼうだから……」湊はそう思うと庇護欲がそそられ、思わず美琴をぎゅっと抱きしめた。
「美琴、私はいつもの私だよ」
美琴はその言葉を聞いて顔を上げた。
「ほんとに?」
全身を使って小動物のような可愛らしさを表現しているみたい、溜息が出るほど愛らしく、頬ずりしたくなる誘惑に負けそうになった。そのかわりに湊は美琴の頭を撫でた。
「そうよ。私は何も変わってないわ」
美琴は大きな目で湊をじっと見つめた。そして、
「うん」
と一言頷いた。しかし美琴の疑念は完全に晴れたわけではなかった。
・六月十二日(金)
湊は空印寺のことをそっと見つめていた。ここ数日は今まで以上に彼を目で追っている。無意識に彼を追っている時もあれば、明らかに自覚を以って彼を目で追っている時もあった。自分の中で色々と変化があったと思ってはいる。今までのような、引っ込み思案だけの人間じゃない。生まれてはじめて人と喧嘩をした。湊にはその出来事が自分の変化の象徴になり、自分が変わっていく起点となると信じていた。人から見れば他愛のないことかも知れない。当の湊には大きな決心となると思えた。しかしながら、人はそう簡単に変われるものではない。湊自身、空印寺と接点を持ちたいと望んでいる。少なくとも普通に会話ができる程度の関係は築きたい。それを叶えるには自分から話しかけるとか自分から行動を起こさないと全く進展がない。空印寺が自分に話しかけてくるなんて夢のまた夢の話だ。
そう思いながら、湊は行動を起こそうとするが、空印寺に話しかけるにはまだ時間がかかりそうだった。昼休み以外の休み時間は自席で本を読み続ける空印寺に話しかけようと足を踏み出そうとする。しかし中々最初の一歩が踏み出せない。案外こういう事は「案ずるよりも産むが易し」という諺があるように話しかけてしまえば後は何とかなるものである。とは言うものの、今の湊には難しいものだった。
空印寺が真麗と話すように一週間余りが過ぎた。空印寺は真麗が傍にいることを、ごく自然に受け入れられるようになっていた。空印寺はあの事件以降憑りつかれている孤独という自己の内側を指していた矢が真麗によってわずかにだが、外界へと導かれていると感じていた。出会った頃は戸惑いと困惑の渦であった真麗の存在が、今では彼女が傍にいると感じる事が彼にとっては心地よく、さらに言えば、もっと彼女を感じていたいとも思えるようになっていた。空印寺はこれが恋と呼べるものか、それとも友情と呼ぶものか、今の彼がそれを理解するには、人との繋がりや絆、そう言った基本的な人間関係を実体験を以って知る必要があった。それくらい彼は孤独に溺れていた。ただそれが崩れ始めていることだけは事実であった。
放課後、空印寺は掃除当番に当たった為、普段より十五分ほど遅れて図書室に向かった。図書室のドアをゆっくり静かに開け、指定席になっている場所に目を向けた。真麗が教科書と真剣な表情をしながら睨めっこをしていた。空印寺が来たことに気づいてはないようだ。空印寺は真麗の横にある席まで足音を忍ばせ、そっとその席に近づいた。近づいてくる気配に真麗は驚いた顔をしながら振り返り、空印寺の顔を見ると、小さな声で
「もう、びっくりしたじゃない」
空印寺は肩をすくめ、真麗の非難の言葉を流した。真麗は拗ねたような口調で、
「もうっ」
握った手を空印寺の腕にポンとぶつけた。言葉のわりには、真麗の顔はどこか嬉しそうだった。
下校のチャイムが鳴り、二人は手際よく片付けをしてさっと下校した。空印寺は真麗と二人で歩くことに対して、もう何も戸惑いがなかった。今はこうしている方が自然のような気がする。空印寺の心はこの短期間で大きく変化を遂げていた。それも良い方に。
空印寺は自分の腕に触れるくらい近くにいる真麗の横顔をちらっと盗み見た。真麗はその一瞬の視線を見逃すことなく、空印寺の方に振り向き嬉しそうに微笑んだ。空印寺はバツが悪いのか、悪戯が見つかった子供ように真麗と反対側に視線を向け、素知らぬふりを決め込んだ。
そんな空印寺の仕草を真麗は口許に手を当て、肩をすくめながら小さく笑った。
高田駅の改札口を抜けたところで真麗は空印寺の顔にぐっと近づき、
「今度の日曜日、雁子浜に行かない?」
と耳元で囁いた。空印寺が真麗の顔を見る。真麗もその切れ長の眼で空印寺を見つめる。
空白の記憶、あの事があって以来、雁子浜どころか海に出かけたことがない。空印寺はその瞳を見ている内に、雁子浜に行ってもいいような気がしはじめ、それから行くべきではないかと考えが変化していった。あの気持ち悪い記憶、あるいは妄想の事が一瞬頭をよぎった。それでも自分は一度雁子浜に行くべきだと、そう強く思えてきたのだ。空印寺には珍しい前向きな心持ちだった。
空印寺は真麗の言葉に頷いた。真麗は嬉しそうな顔をして、
「そうね、直江津駅がいいわね。改札口ひとつでしょう」
空印寺は小さく頷き同意した。
「じゃ、その改札口付近、構内にいるわ。そうね、時間は九時半ね」
空印寺は二度ほど首を縦に振った。真麗はそれを確認すると、
「バイバイ、日曜日ね」
空印寺に大きく手を振った。真麗の手を振る姿を見て空印寺が嬉しそうに微笑んだ。真麗の目が大きく見開き、一瞬手を振ることを忘れてしまった。それから思い出したようにまた手を振り、空印寺の姿が見えなるまで手を振り続けた。
空印寺が見えなくなり、真麗は足許に視線を落とした。その横顔には込み上げてくる嬉しさを抑えきれず、幸せいっぱいの笑みがこぼれ落ちていた。
・六月十四日(日)
空印寺は直江津駅南口の階段上がっていた。この階段を学校と病院に行く以外で上がるのは滅多にない。それくらい空印寺はどこかに行くと習慣がない。いつもと違う感覚に、どこか戸惑ってしまう。そして誰かが自分を待ってくれている、誰かを自分が待つというというシチュエーションの経験がなく、少しばかり恐怖心を抱いた。空印寺は相手が真麗とは言え、完全に心を開いているのではなかった。空印寺の闇は深い。自動改札の先に真麗が窓の外を眺めなら立っていた。小さなバスケットを手にしている。空印寺は改札を抜け、真麗の許へ足を運んだ。真麗は近づいてくる足音に気づき振り返り、
「空印寺君、おはよう」
それまで消していた表情がぱっと明るくなった。空印寺は少し照れたように、小さく頭を下げた。真麗は空印寺の手を取った。空印寺はその少し体温の高い手を一瞬でも放したくと思った。
「丁度、九時四十七分に各停があるの、それに乗りましょう」
二人は手を繋ぎ、三番線のホームに降りた。まだ発車時刻まで十分以上あるが、始発駅の特権、既に電車はホームに入っていた。電車の込み具合はガラガラで乗客は半分もいない。空印寺たちは余裕を持って座席についた。四人掛けのワンボックスを二人で占領した。
雁子浜へは直江津駅から各停で四駅先にある潟町駅で下車し、少しばかり歩くことになる。二人は電車に揺られること十五分、潟町駅に着いた。この駅で下車したのは、空印寺と真麗を含め十人ほどだった。駅員が立つ改札を通り、綺麗にリニューアルされた駅舎を出たところで真麗は足を止めた。真麗は振り返り、視線だけで駅のプレートに空印寺の意識を向けさせた。そこにはデフォルメされた人魚のレリーフがあった。空印寺は真麗が何を言いたいのか解らないな、という風に首を少しかし傾げた。真麗は不思議そうにしている空印寺の顔を覗き込み、ニコッと笑った。それからすぐに真麗は空印寺の手を引くように歩きはじめた。
潟町駅から日本海に面する浜までは十五分も歩けばたどり着く。残念ながら、そこは雁子浜でなく鵜の浜である。雁子浜は鵜の浜の北側約二百メートル先にある。雁子浜は四百メートル程の大きさでその先は上下浜と名を変える。
空印寺と真麗はスマホをおろか携帯電話すら持っていなかった。そもそも二人ともIT機器には全く興味がなかった。それは便利な地図がないことになる。スマホの便利さを知る者には信じられないことだろう。しかし二人とも海の方に向かえば浜に着くだろうと、そんなお気楽な気分で散歩を楽しむように歩いた。地図がなくとも簡単に行けるような場所だったらしく、二人はあっさりと鵜の浜に着いた。そこで空印寺たちはテトラポットを抜け砂浜まで足を伸ばした。
空印寺は海を眺めた。海を覆う空は青い絵の具を溶いて、そのまま空に流し込んだように澄んだ色をしている。白い雲など入り込む余地などない。海も風がないせいか、日本海に直面しているにも関わらず信じられないくらい波が穏やかだ。その海辺の風景以外何も見えず、波の穏やかな音しか聞こえず、潮の匂いがするだけで、それ以外はこのキャンパスに描かれていない。
空印寺は何かあると少しは期待したものの、海を見ても何かを感じる事も何かを思い出すこともなかった。意外にも落胆する程でもなく、ただ海を眺めただけだった。その間、真麗は空印寺の顔をじっと眺めていた。空印寺がそっと目を伏せた時、真麗が空印寺の腕を取り、
「行きましょう」
と空印寺を誘った。二人は鵜の浜に出て海岸沿いの小路を歩き、目的の雁子浜に着いた。と言っても何の変哲もない浜辺が広がっているだけで、下調べをしないで来た人がここを通っても、この浜が雁子浜だとは気づくことはまずないだろう。
二人は階段状になっている防波堤に腰を下ろした。真麗は空印寺に体を寄せ、絡めた腕を一層強め、空印寺の手を握った。空印寺は幼い時、行方不明になった数日後この浜で発見された。この浜にどうやって来たのか、それまでどこにいたのかは知らない。記憶はない。鵜の浜で海を見た時何も感じなかったように、やはりこの雁子浜でも結果は同じ、何も思い出せない。それでいいのかも知れない、と思う。無理に思い出す必要などないのだろう。空印寺はその事を再認識した。そして意外にも、思い出さなくてもいい認識した事で何か引っかかりを覚えた。空白の過去の一端が開いていく、そう感じ取った。
「真麗によく似た小さな女の声を聞いた……」おぼろげに浮かんでくるその女の子の顔。その眼。そうその眼。特徴のある切れ長の目。「もしかしたらあの少女は真麗に似た子ではなく、真麗本人だったのじゃないか?その昔、自分は真麗に出逢っていたのだろうか?」空印寺の思考は目的を持たず、始点と終点を持たない円となりくるくると回り始めた。結局一時間ほど二人は座り込み海を眺めていた。空印寺が思考の無限ループに落ちている間、真麗は空印寺の顔をじっと見つめ、まるで空印寺の心を読んでいるかのように時折表情を動かした。空印寺が真麗を幼い頃に出会ったのではないかと思った時、真麗の顔が少しほころんだことに空印寺は気づくことはなかった。
空印寺の無限ループを解いたのは、真麗が空印寺に絡めた腕を解き、その手を空印寺の頬に当てながら立ち上がったからだった。そして真麗は空印寺の前に立ち、真っ直ぐ海を見つめながら、
「空印時君、知ってる?人魚の肉は不老不死の秘薬だって」
空印寺は何も応えず、真麗の後ろ姿をじっと見つめた。綺麗な長い髪だなと、空印寺はふとその髪に触れたくなった。「手を伸ばせば、その髪に触れられる……」その誘惑に負けそうになった。
真麗は空印寺の心が読めるのか、勘が異常に鋭いのか、突然振り返り、口づけをするようにその顔を空印寺の顔に近づけた。それから自分の髪をそっと掴み、空印寺の前に差し出した。
「人魚の肉が不老不死の秘薬になるのはね。人魚が人を喰らうからなの。人の魂を喰らうからなの。だからその肉に不老不死の力が宿るの」
空印寺の手がそっと真麗の髪に触れる。
「私、実は人魚なの。空印寺君、不老不死になりたいのなら、私のこの体をあげるわ。私はあなたの血となり、肉となり、そしてあなたの魂の中に宿り、永遠にあなたと共に生きるの。素敵な話でしょ」
真麗は空印寺の頬に自分の頬を寄せて、空印寺の背中に自分の腕をまわした。空印寺は真麗を人魚のように綺麗だと思い、自分を人魚に例える真麗を多くの芸術家に愛され描かれた人魚と重ね合わせた。真麗は上半身を屈め、その上半身を空印寺に預けながら空印寺を抱きしめる形になった。十秒か、一分か、十分か、時間の感覚はない。どれだけ時間が経ったか判らない。そんな些細な事を無視するように、真麗は空印寺から体を離した。
空印寺は真麗に抱きしめられ一気に緊張のゲージが上がった。そして、心が、体が、真麗の体の感触を心地良いと感じ取った。それは空印寺がこの浜で発見されて以来失い忘れていた、母親が赤ん坊に与える人肌の温もりに似た原始的な感情が求める快感だった。空印寺が少し顔を赤くして、足許に視線を落とした。何となく真麗の事を見るのが気恥ずかしかった。真麗は小さな子供を優しく見るように口許を微笑ませ空印寺の手を取り、少し力を入れて空印寺を引っ張り上げた。空印寺はその力に押されるように立ち上がった。
空印寺は立ち上がり、この海岸線に再び目を向けた。真麗に抱きしめられ、その鼓動、その呼吸までも感じられた。その事がきっかけとなり、再びあの時の小さな女の子が真麗であるか考え出したのだ。確かにあの小さな女の子には真麗の面影があるように思える。同時にそれは自分が勝手にそう思い込んでいるのでは、と否定する自分もいる。また思考の無限ループに陥りそうだ。
真麗はまた空印寺の顔をじっと見つめた。空印寺の顔が少し悩むように口許を歪めた。真麗はその表情を見た途端、一気に空印寺の頬に自分の唇を押し当てた。頬に当たる柔らかく少し濡れた感覚にびっくりして空印寺は目を丸くした。
真麗は悪戯を見つかっても反省する気のない子供ように、空印寺に対してそっぽを向いた。その態度とは対照的に真麗の手が伸び空印寺の手を掴みしっかりと握った。
「水と森の公園に行かない?」
真麗の問いかけに空印寺は真麗の手を少し握り返し、小さくその手を二度振り応えた。真麗が頷き、空印寺に体を寄せた。空印寺は真麗が置いていたバスケットを手にした。すると真麗がそのバスケットを掴み、
「これは私が持つの」
と口を尖らせながら甘えたように言い、空印寺は「そうなの?」と言う顔をしながら真麗にバスケットを渡した。
水と森の公園は潟町駅の南側、空印寺たちが歩いた海岸の方とは反対に位置する。朝日池と鵜の池というふたつの池がある比較的大きい県立の公園で様々な施設が揃っている。暖かい日の休日には家族連れなどが多く訪れる。空印寺たちのように鉄道を使う人より自動車やバスで来園する人の方が多いようだ。
空印寺と真麗は来た道を、海岸線沿いの小路を歩き鵜の浜を抜け潟町駅まで戻った。そこで水と森の公園までの道のりを駅の案内板で確認した。ここからだと徒歩で十分ほどの距離のようだ。二人は道を迷わないように県道を使い、直江津側に少し戻り、公園への行き先を示した看板を頼りに歩いた。ゆっくり歩いた為、予想したより幾分時間がかかったが、そんな事は今の二人には何の問題でもなかった。まず空印寺と真麗はお休み広場ゾーンと名付けられたエリアに向かった。きれいな芝生が一面広がり、親子連れが何組もシートを広げ楽しそうにお弁当を食べ笑っていた。少し丘になったところで、真麗は空印寺の服を引っ張りここに座るようにと合図を送った。数少ないベンチは既に完売状態だった。バスケットから小さなシートを取りだし広げ、真麗はその右端に腰を下ろし、その左側に空印寺に座るように手招きした。空印寺はちょっと戸惑ったような顔をしながら真麗の左側に座った。真麗はバスケットから小さな箱をいくつか取り出し、
「あの、お弁当作ってきたのだけど……私、料理は得意でないから……」
心配そうな顔をしながら空印寺の方を振り向いたが、すぐに俯きがちになった。空印寺は真麗が体の前で組んだ手の上に自分の手を置いた。真麗が再び空印寺の方に向き直る。空印寺は小さく首を縦に振ってお弁当箱のひとつを手に取った。真麗の顔が輝いたことは言うまでもない。そんな真麗だが、ひとつど忘れしていたことがあった。飲み物を買い忘れていたのだ。それに気づいたのは、弁当箱がほとんど空になってからだった。
二人は弁当を食べ終えると、そのまま肩を寄せ合うように座っていた。空印寺の右手と真麗の左手は組み合うように、いわゆる恋人繋ぎで握りあっていた。空印寺は真麗の温かい体温を感じて心地よくなり、目の前に見える鵜の池を頭を空にしてぼうっと眺めていた。一方真麗は時折空印寺の顔を見ては何か言いたそうだった。そして何か思い詰めたように、
「空印寺君、眠たかったら私の膝を使っていいよ」
空印寺はその言葉で目が覚め、その言葉の意味を咀嚼して驚いた。真麗に腕を取られたり、手を繋ぐ事は慣れもあって少しは耐性はついた。それでも真麗に首に抱きつかれた時には十分緊張した。そして膝枕はさすがに空印寺にはハードルが高かった。空印寺は下を向き照れたように頬を赤くした。それから体を前に傾け立ち上がる姿勢を取った。真麗と手を繋いだままだったが、空印寺は立ち上がり、少し握る手に力を入れ、真麗にも立ち上がるように促した。
「うん」
真麗は空印寺の手を引いて立ち上がった。空印寺はちょっとふらついたが、何とか男のメンツを保つ程度の事はできた。
「あっちに行ってみない」
今度は真麗が空印寺の手を引いて歩きはじめた。二人が向かったのは古墳跡だった。整備された綺麗な小路を歩いて到着した古墳跡は、ただの小さな丘だった。案内板がかろうじてここが遺跡だと主張しているだけで、もし案内板がなければここが古墳跡だろとは誰も思わないだろう。
二人は案内板を見て、小さな丘を見て、それから互いを見て、思わずくすっと笑った。珍しいことに、表情が乏しい空印寺が笑顔を見せたのだ。真麗はその笑顔を見て、さらに笑顔を加速させ、嬉しさの余り思い切り空印寺を抱きしめたくなった。もし近くに小さな子供たちが遊んでいなければ、そうしたかも知れなかった。その後、二人は野鳥の観察できるエリアに向かった。そこは木々が立ち並び、鳥たちが巣くうのに適しているような場所になっており、二人には判らなかったが、数種類の鳥の鳴き声が聞こえていた。
空印寺と真麗は運良く空いていたベンチに腰掛けた。真麗は空印寺の横顔じっと眺めた。そして周囲を見回して人の気配がないことを確認した。すっと空印寺の前に体を寄せ、一気に空印寺の顔に自分の顔を近づけ、今度は頬ではなく唇と唇を重ねた。ソフトな口づけだった。それを受けた空印寺は驚き目を丸くし顔を赤らめ真麗を見ている。
真麗は空印寺が落ち着くのを待った。その間、じっと空印寺の顔を見つめている。それから一分ほどして空印寺の顔に落ち着きの色が戻った。真麗は空印寺の手を包み胸に持っていった。
「今さらだけど、空印寺君。あなたが好きです。あなたを愛しているの」
空印寺の目を見ながら告白をした。空印寺もじっと真麗の目を見たままだった。空印寺自身も彼女が自分に好意を持っていることくらい理解している。あれだけあからさまな好意を示されれば、人付き合いが悪く、コミュニケーション能力に劣る人間でも十分に伝わるものだ。これで彼女の好意が解らないのであれば、もはや人として何かが欠けているとしか思えない。
空印寺は彼女の好意を知りつつも、それにどのように答えたら良いのか解らず、つい曖昧な態度を取り続けていた。つまり彼女の好意に甘えていたのである。空印寺は今まで他人に興味が持てず人との接触を極力避けていた。その為この歳になっても尚、彼は恋をしたことがない。それがいかに不自然な事か、彼自身も十分理解している。一方で彼は読書を好み、恋愛を題材にした書籍を多く読んでいた。それらから得た恋愛についての知識はある。ただそれらの知識が自分の体験と結びついていないのも事実だ。
空印寺は真麗から人のあたたかさや温もりを知ることができ、それらがもたらす安堵、安心感、やすらぎ、と言った人として大切なものを感じ取ることができた。真麗は自分にとって大切な人だと思う。しかしそれが恋愛感情なのかが解らない。空印寺は今までの事から真麗に対して嘘は吐きたくはないと思った。
「好きと言う感情がよく解らない。でも冷泉さんのことを大切な人だと思っている」
空印寺は小さくとも、意外と高く澄んだ声で言った。真麗はその言葉を聞いて、あなたの事はちゃんと理解しているのよ、と言う顔をしながら何度も頷いた。空印寺はそれだけ言うと俯いたままになった。真麗は空印寺の顔を見ながら「今は忘れているけど、きっとあなたはあの時の約束を思い出すわ……、小さい頃の約束だけど、わたしには大切な宝物なのよ……」そして空印寺の腕を取りながら立ち上がった。
「もう少し、公園を見て回りましょう」
空印寺は救われたような顔をして頷いた。
二人は野鳥観察できるエリアを一回りした。その後、公園の案内板を見ながら自然観察のエリアに行ってみることにした。そこも木々が立ち並び、その足許には草花が咲いている。二人とも残念ながら花の名には明るくない。名を知らない花たちであったが、二人ともその美しさを堪能した。鳥の鳴き声も聞こえた。野鳥の観察エリアで聞いた鳥の鳴き声と同じなのか、別の種類のものか、二人とも判断がつかなかった。空印寺も真麗も判らなくても良いと思った。鳥の鳴き声が耳に心地良かったからだ。目を閉じ、耳を澄ませば聞こえてくる鳥の鳴き声は音楽に似ていた。クラシック音楽、それもバロック調の、まるでチェンバロが奏でる心を落ち着かせるような優しい音色だった。
鳥たちの演奏も無限ではない。終わりが存在する。その演奏が突然終わりを告げた。二人は顔を見合わせ互いに微笑み、またゆっくりと歩きはじめた。野鳥観察と自然観察のエリアを一回りした。真麗が腕時計で時刻を確認した。チプカシのアナログ時計の針が四時を指していた。ずっと、こうしていたい気もする。真麗は空印寺の顔を見た。何となく、疲れているような感じがする。そんなに歩いたと思えないけど、空印寺にはきつかったのかも知れない。そう思いはじめると、真麗の気持ちは空印寺ともっと一緒にいたいから空印寺の身を案じ労わりたいに変わっていった。
「十分見て回ったし、今日はもう帰ろうか」
空印寺は真麗に顔を向け、少し思案顔になった後、小さく頷いた。
二人は公園を出て、来た道を戻った。公園に来た時と同じように二人は手を繋ぎ歩いた。ただ違うのは、公園に向かう時には真麗が空印寺に寄り添うようにしていたが、今の二人はそんな一方的な雰囲気はない。空印寺は真麗に惹かれている事を気づいてはいた。彼は今まで女性を恋愛対象として見たことがない。それくらい彼の心の傷は深かった。それが今、話しはじめてたった一週間程度の女性に心惹かれる事が不思議でならなかった。空印寺自身、今自分の心が急激に変化していくことを認めざるを得ない。
空印寺は真麗の顔を横目でちらりと見、また前を見た。彼はここに来て、やっと真麗の告白に対して自分が言った言葉を訂正したくなった。しかし空印寺はそのことを口にしなかった。照れがあった事は確かだ。それ以外にも、何か心に引っかかりが確かにあった。空印寺は心の引っかかりを敢えて無視をした。
「もう過去に縛られるのはやめよう……」PTSDのリハビリを受け始めてから、これで何度目かになる決心した。
二人が潟町駅に着いた。運悪く直江津行きの電車が出た後だった。半時間以上待ち時間がある。真麗は駅のすぐそばにある小さな公園に空印寺を誘った。その公園には東屋があり、二人は東屋のベンチに腰を掛けた。空印寺は真麗の手を少し強く握り、真麗の方に向き直った。そして、その顔をじっと見つめた。真麗は空印寺の視線を真剣な面持ちで受け止めた。
「冷泉さん。実は、その、過去に色々な事があって、人と付き合う事や話す事が苦手なんだ。だから、その、上手くは言えないけれど、さっき冷泉さんの大切な人だと言った。それだけはないと思う。冷泉さんのことをどんどん好きになっている……」
真麗は空印寺の唇に人差し指を立て、それ以上言葉を紡ぐのを防いだ。それから空印寺の首に腕を回し、自分の想いをぶつけるように唇を合わせた。情熱的に、心が望むままに、体が欲するままに。真麗は今まで心に押しとどめいていた感情を一気に吐露する。
「空印寺君。空印寺君、愛しているわ。初めてあなたを見た時から」
空印寺は真麗の想いをぎこちなく、それでも真麗の気持ちを精一杯受け止めようと真麗を抱きしめた。
・六月十五日(月)
土曜日曜を挟み二日ほど空印寺の顔を見ることが出来なかった。その空白の時間が湊に後押しをすることになる。この一週間余り、湊はベッドに入ってから眠りつくまでかなり時間がかかった。本来寝つきは良い体質なのだが、全く寝つきが悪かった。目を閉じ眠ろうとしても、色々な思いや感情が湧き上がってきて頭が冴えてしまう。その内容は一点に絞られる。空印寺関する事ばかりだ。
学校にいる時は、空印寺を見ているだけでも心がぽっと温かくなり、それだけで幸せな気分に浸れる。今自分が望んでいるものはそでだけでない。何とか空印寺と言葉を交わせる程度の関係を築きたいのだ。本音を言えば、空印寺と心を通わせ、相思相愛となりたい。しかしその割には中々行動が移せないでいる。湊の思考は空印寺の事を考えているうちに彼の傍にいる女へと流れていった。自分より先をいく女が、空印寺により近くにいる女がいることを認めたくなどない。そう言った都合の悪いことは目を伏せるのは人間の性かもしれない。だが、現実は湊に淡い夢を見る事を許さなかった。
湊の頭にあの女の後を追ったことが蘇ってきた。あの女の後を追い突き飛ばされ、その時生まれて初めて明確な敵意を持った。今もその敵意がまざまざと感じることができる。それからはあの女とは全く会ってはいない。
「はっきり言ってあの女なんか見たくもない……」先週は空印寺に話しかけることばかり考えていて、肝心な事を見落としていた。空印寺をあの女に取られるのではないかと言うことだった。こんな当たり前の事を忘れているなんて、湊は自分が心底バカなのではないか疑いたくなった。
湊はベッドから身を起こした。横になって考えを巡らせている事が、何だか不安になり、居ても立っても居られない感じがしたのだ。そして、一気に湊の考えは飛躍した。
「空印寺君に好きです、と告白した方がいいのかな……」湊は自分がまともに空印寺と話すことすら出来ていない事をすっかり頭から追い払っていた。夜、物思いにふけると不思議なくらいその考えは暴走していく。夜に書くラブレターが朝読み返すと、人に見せられないくらい恥ずかしいものになっていることがある。それと同じ心理状態に湊はなっていた。さらに言えば、湊はその暴走気味の心理状態に陥りやすいようだ。
空印寺の顔を思い浮かべる。湊は自分の心と体が濡れていくことを触れることなく感じられた。同時に胸が苦しくなるくらい、空印寺に触れていたいと強い気持ちに囚われた。今までに人を好きになった経験はある。その時はこんなに苦しい思いをすることはなかった。その時好きな男の子が他の女の子と仲良くしても、少しは妬いたかもしれないが、ここまで胸を焦がすまではなかった。今となっては、あの頃の好きだった気持ちは嘘ではないと思うけれど、どこか恋に恋していたと思えてしまう。本当の意味で好きな男の子を愛してはいなかったのだろう。
「恋することと愛することは違う……、きっとこれが恋する事と愛する事に違いなんだ……」湊はそっと自分の体を手で触れ、ゆっくり体をベッドに倒した。そして、その手が空印寺の手である事を夢想した。
朝、目覚め時計が鳴る前に目が覚めた。いつも通り。湊は朝の準備に取りかかった。習慣化された日課は自分の意思とは関係なく体が勝手に動いてくれる。流れるように朝の支度が整う。
「行ってきます」
湊は家を出た。歩きながら昨晩の事を思い出し、自分の気持ちを確かめた。それだけなく、夜に酔った想いから目が覚め、自分の足許へと視線を向けさせた。その心のありようは明らかに先週までの湊と違っていた。
「ただ想っていても、相手には想いは伝わらない。そんな簡単な事を気づいていなかった……、違う。気づいていても知らない振りをしていたんだ……、気持ちを伝えて、それが叶わなかった時、自分が傷つくことが怖かったかもしれない……」
「そんな現実は認めたくないと思って逃げていた……わたしが欲しいのは、空想の空印寺君ではなく、現実の空印寺君なんだ……」湊の足音が強くなり、歩む速度が増した。そして胸の鼓動が速く打つのを感じた。
人間という生き物は不可解な生き物である。ある一面では強引にまでに押しが強く他人に対して高圧的で攻撃的になったかと思うと、同じ人間がまったくの腑抜けで弱腰な、他人の言動にびくびくと震えあがってしまう。そんな両極端な一面を持つ。もしかしたなら、その源となる行動原理は同じものかもしない。しかし表面に顕れる言動には一貫性を欠くとなる。無論、終始一貫自分の言動を一致させる人がいることは間違いない。ただそういう人物は英雄、偉人などと呼ばれ歴史上稀に見る人たちしかいない。言い換えれば、ごく普通の人は自分の言動に一貫性を持たせているようでいて、実はふらふらとその価値観は揺らめいているものである。つまり、湊はごく普通の女の子だった。
いつもより少し早く教室に来た湊は自席につきながら胸に手を当て何度も深呼吸を繰り返した。そうしないと、全力疾走した後のように息が荒くなってしまうからだ。ガラッと教室のドアを開ける音がする度、湊は驚いたように両肩がびくっとする。誰が入って来たのかを横目で確認する。
「違った……」それからすぐに空印寺は教室に現われた。いつものように無言で誰とも挨拶を交わそうとする意志が全く見られない。空印寺は無言のまま席に着いた。鞄から文庫本を取りだし、鞄を机のフックに掛けた。パラパラと文庫本をめくった。栞を見つけ、その箇所を確認すると、そのページに目を落とし読みはじめた。
湊は席を立った。自分でも足が震えているのが判る。朝の決意を翻したくなった。それでも「空印寺君と話すんだ……」と自分に言い聞かせ、空印寺の前まで足を運んだ。
空印寺は自分の前に立つ人の気配に気づき顔を上げた。自分の眼の前に顔を赤くしながら立っている女生徒がいた。彼女の名は確かソデノとか言ったはずだ。当然の事だが、自分とは全く接点もなければ言葉をおろか挨拶すらしたことがない。何用なのだろうと、空印寺が不思議そうな顔をした。すると湊は、
「空印寺君、おはよう」
と声をかけてきた。以前の自分だったら、無視をするか、聞こえないふりをしてやり過ごしていただろう。空印寺は真麗とのこの一週間の関係で、少しばかり人との付き合いについて変化が起こっていた。自分の殻に閉じこもり、人と接することを拒む気持ちが薄れていったのだ。空印寺は湊が自分に挨拶してくれたことを何となく嬉しく思った。空印寺は湊に対して、小さく頭を下げた。.
湊は明らかに緊張した顔をしていた。そして空印寺が挨拶を返してくれたことで、さらに一気に舞い上がってしまった。何故か、湊はまるで謝罪をするように体を大きく折り頭を下げた。そして無言で、くるりと体を反転させ、駆け足で教室の外に出て行ってしまった。空印寺はそんな湊の背中を不思議そうに眺め、幼い子供が行う可愛らしい悪戯を微笑ましく眺めるように、その笑みを口許に無意識の内に浮かべていた。
湊は洗面所の鏡の前にいた。鏡に映る自分の顔を見て、なんとも言えない表情になった。顔ばかりか、首筋まで真っ赤になっている。これでは自分が空印寺に対して気があると皆に宣伝しているようなものだ。人の感覚として裸体を人前で晒すのが恥ずかしいように、自分の心持ちを人に知られるのは恥ずかしいもの。特に自分の片思いの相手には……
湊は人に自分が空印寺の事を好きだと知られるより空印寺にその気持ちを知られるのが恥ずかしく、少しばかり怖かった。
朝のチャイムが鳴った。教室に戻るのがちょっと怖い。自分の意思とは無関係に教室には戻らないといけない。湊は一大決心をしたような顔をしながら教室に向かった。足を止めてしまうと二度と歩けないような気がして、勢いをつけ教室に飛び込んだ。朝の慌ただしい教室では、湊が教室に入ってきても特に誰かが気にする様子もなかった。
湊はほっとしながら席についた。なんだか、一大決心をして教室に来た自分が間抜けなように思えて恥ずかしかった。空印寺の方に目がいった。相変わらず本を読んでいる。その背中を眺めながら、湊は自分が空印寺にはじめて声をかけたことを思い出し、また顔が赤くなった。
・六月十六日(火)
湊は朝教室に入り、まず最初に空印寺の席を確認した。いつもの習慣化された行動だった。今日は昨日と同じように胸が高鳴った。空印寺が座っていたのだ。彼はいつものように本を読んでいる。湊は昨日と同じように緊張した面持ちで空印寺のところまで足を運んだ。
「空印寺君、おはよう」
空印寺はその声で顔を上げて、昨日と同じように小さく頭を下げた。やはり昨日と同じように湊の顔が真っ赤になった。
「あ、あのう、空印寺君。い、いつも本を読んでいるよね。その本は、あの……」
もし誰かがこの湊の様子を見ていたなら、思わず自分も手を握り腕を振り、湊のもどかしさにイライラするだろう。空印寺はそんな湊の様子を見て、思わずどこか心が和んだ。他人に興味を持たなかった頃にはなかった感情の動きだった。空印寺は文庫本を持ち上げ、カーバーの題を湊に見えるように向けた。湊はその本を覗き込み意外な顔をした。
「豊穣の海、三島由紀夫……空印寺君は三島由紀夫が好きなの?」
空印寺はさも当然な顔をしながら頷いた。湊は空印寺のことを知りたいと思ってはいたが、実際には全く会話することがなく、噂話や自分が目で見た限りの事しか分からなかった。それが今はこうして話をして、空印寺のことをひとつ知る事ができた。読書好きの彼が好む作家を知ったのだ。他人から見たら、取るに足らないことかもしれない。しかし湊にとって宝物を手に入れた気分だった。そして湊の気分は一気に昂揚した。
「ねぇ、色々三島由紀夫の作品について教えてくれる?」
空印寺はちょっと考え込んでから、軽く頷いた。空印寺が自分と話してくれることを嫌っていない、湊はそう思いながら、つい暴走気味に自分が空印寺と仲睦まじく話す姿を想像してしまった。一気に湊の心臓がバクバクと音をたてて早くなる。湊の顔が緊張のあまり引きつってくる。それでも何とか笑顔で応えようとするが、そうしようとすればするほど緊張が高まる。そんな時、空印寺が湊に一言声をかけた。
「そんなに緊張しなくていいよ」
空印寺特有の高く澄んだ声が小さく響いた。空印寺は極端なまでに無口で、友人をつくる事もせず、じっと一人で読書をしている。授業で当たられて時以外口を開くことがない。一声もしゃべらない日があると思えるほどだ。その空印寺の声は湊の耳には優しかった。不思議なもので、空印寺のたったひとこと言葉をかけられただけで、湊はあっさり平常運転までに気持ちが戻った。
湊は空印寺に声をかけられたら、もっと舞い上がってしまうと思っていた。意中の人の事で緊張したりすることは無理からぬ事、自然の成り行きだが、その一方で相手の言動によっては心を落ち着かせ、緊張を解く効果もある。特に女性には意中の男性の優しい言葉は安らぎを与えたり、心を落ち着かせる効果が高い。無論その正反対の効果をもたらす事も多いのだが。
湊は空印寺には笑いかけた。今度は上手く微笑むことができた。
「ありがとう」
そして続けて湊が何か話そうとした時、あっさり時間切れとなった。朝のチャイムが鳴りはじめたのだ。
「それじゃ」
と湊が小さく頭を下げ、空印寺も同じ様に頭を下げた。その様子を美琴はじっと眺めていた。実は湊より美琴の方が先に教室に来ていたのだった。なのに湊は美琴の事に気づかなかった。その事が面白くないと言えば嘘になる。だけど美琴は湊が空印寺との関係を動かしはじめたことはとても良いことだと思ってもいた。「恋をすれば女の子は変わる」と言うけど、最近の湊を見てそう思う。
「ちょっと不安なところがある。それが心配だけど……」もうひとつ美琴は感じた事があった。「女の友情は脆い」というありふれた言葉だった。美琴は湊にこれだけでは言いたい。
「空印寺君の事もいいけど、もっと友達を大切にして……」美琴は思春期に見られる女の子同士の恋愛にも似た友情を以って空印寺にやきもちを焼いていた。
今の湊としては、ただ空印寺の傍にいられれば、それで良かった。でも彼女でもなければ、友達としての地位も築けていない自分が空印寺の傍らに居ることはできない。少しでも空印寺の傍に居続けるには、彼に話しかけていくしかない。湊は元々人と積極的に話す方ではない。美琴とはよく話すが、逆に言えば美琴以外とはあまり会話をしないという事である。一方の空印寺は沈黙の人。空印寺との会話は、湊にはかなりハードルの高い試練になるようだ。湊はその事を自覚していた。たった二回の会話で次に何を話せばよいか判らなくなった。湊の用意した話題は、そもそも話題をいくつもあったわけではないが、尽きてしまった。これではほとんど何も話せないと同じレベルである。
昼休みになった。湊の本音では図書館に追いかけてでも空印寺の傍に、彼に話しかけたかった。それをすることはあの女に会う事でもある。湊はあの女に会う事、空印寺の傍にあの女が居座っているところを見たくなかった。湊は心に強制的にブロックを掛け、昼休みは別の事を考える事にした。湊と美琴は、湊の席とその隣の席を借り、机を向かい合わせにして弁当を広げていた。昨日もそうだったが、今日も湊の箸は進まない。握り箸で上手くご飯やおかずを掴めず、それでもきれいに食べようとする美琴より食べる速度が遅いくらいだった。
湊の箸が完全に止まった。
「ねぇ、美琴。わたし、何を話せばいいのかなぁ……」
一瞬、何を言っているのか判らなかった美琴の頭にはクエスチョンマークが舞った。湊が溜息を吐いた。それで美琴は湊の言っている意味をあっさり理解した。
「空印寺君てさぁ、いつも本読んでいるよね。本の話をすれば良いよ。空印寺君も話しやすいだろうし。湊も本読むの好きなじゃない。変に話のネタを振るより自然だよ」
美琴の言葉で湊は考え込んだ。「美琴の言う事も最もだと思う。無理を続けても、すぐに綻びが出て破綻するのがオチ。自分に合ったやり方をしないと、あっさり全てを失ってしまいそうだ……」
「そうね、美琴の言う通りだわ。ありがとう、美琴」
美琴に微笑みかけ、食事のマナーのお手本になるような綺麗な姿勢と箸の持ち方で弁当を食べはじめた。
「それでね、今日の放課後、本屋に行くけど、美琴はどうする?」
「行く!」
美琴は即答した。
「また漫画を買うの」
「えっ、そうだよ。王家の紋章はわたしの今のお気に入りだよ。まだ四十巻までしか買ってないし。読み終わったら、また湊に貸してあげるよ」
「ありがとう。でも、この漫画は完結するのかな」
「しなくても良いんだよ。永遠に終わらないのが王家の紋章なんだよ」
美琴はしたり顔で言ってのけたが、湊には言葉の意味があまり解らなかった。
放課後、湊と美琴は高田駅から妙高はねうまライン線を一駅直江津側に移動した。春日山駅で下車し、東へ一直線に二十分ほど徒歩の距離にあるショッピングセンター内の大型店舗の本屋に足を運んだ。実は路線バスを使った方が便利なのだが、湊も美琴もバス特有の揺れに弱く、バスの利用は極力避けていた。
店内に入った途端、美琴はおもちゃ売り場に向かう子供のように走り出し、その後を湊が子供の母親のようにゆっくりとした歩調で追う。美琴は目的の場所にたどり着き、目を輝かせながらお目当てのコミックを探す。しかし、しばらくすると、
「四十一巻だけがないよぉ」
見る目にも落ち込んだ様子で湊の方に顔を向けた。湊は苦笑しながら、
「その巻をとばしたら駄目なの?」
「駄目だよ。王家の紋章に失礼だよ。ちゃんと順番に読まないと」
美琴はぷくっと頬を膨らませながら湊に力説した。湊は再び苦笑しながらコミックが詰まった本棚を見た。きれいな装飾された背表紙の本が並んでいる。ある本は一巻がなく二巻から置いてあり、またある本は二十巻まであるのになぜか七巻だけがない。湊は何となく腑に落ちなかった。
「もし順番に読み進めるなら途中の巻だけ欠落しているのはなぜなのだろう……」湊は落ち込んでいる美琴の横で思案顔になり、そしてすぐに納得顔になった。「なんだぁ、別の店とかインターネットで買ったかもしれない……」
それから今度は美琴が湊に付き合う番になった。二人並んで文庫本のコーナーへ向かう。湊のお目当ての本は、三島由紀夫の「豊穣の海」。空印寺が読んでいた本だ。四冊まとめて買えば三千円近くになる。月のお小遣いは五千円。父親の教育方針でお小遣いの追加は絶対認めてくれないことになっているのだが……おそらく例外の方が多い……ただ書籍に関しては、教養という大義目分で別途貰っている。
果たして、お目当ての「豊穣の海」は全巻揃っていた。湊はそれを嬉しそうに手に取った。美琴は湊が嬉しそうにしているのを見て、自分の事のように嬉しく思えた。しかしその感情も束の間、すぐに悪戯心が芽生える。
「ねぇ、湊。それ空印寺君が好きな本なの?」
「えっ」
湊は美琴の図星の言葉に一瞬言葉を詰まらせ、俯きがちに頬を染め、
「うん」
と答えた。今度は美琴が言葉を詰まらせることになった。こんな返しをされたら、これ以上湊をいじれなくなったのだ。
「あっ、そうなんだ……」
美琴の歯切れの悪い言葉が響いた。湊は手にした本を見つめ、
「そうなんだよ。美琴」
まるで自分に言い聞かせるように呟き、小さく頷いた後、
「ねぇ美琴。この後、何か食べない?」
いつもの湊の顔になった。美琴はぱっと嬉しそうな顔をして湊の手を掴んだ。
「イチゴパフェ!」
「じぁ、近くの喫茶店にでも入ろうか?」
「うん!!」
会計を済ませるべく湊は早足で歩きはじめ、その背中を美琴が追った。
湊は帰宅するとすぐに買ってきた「豊穣の海」を読みたかった。しかし家事の手伝いをするのが日課になっている。それを疎かにすることは湊にはできなかった。ちょっとだけ自分の性格が融通の利かない事を恨んだ。そういう時に限って、いつもより半時間ほど遅い九時半過ぎに家事から解放された。普段なら、ここで勉強をはじめるところだが、早速買ってきた本を開いた。
実は湊は美琴が言うほど本を読んではいなかった。月に一二冊文庫本を読む程度で、とても読書好きとは言えないレベルだった。その本も一般文芸ものではなく女性向けの恋愛小説ばかり。三島由紀夫のような純文学を読むのは、去年夏休みの読書感想文を書く為に読んで以来だ。その時は、夏目漱石の「こころ」が課題本だった。そんな湊だったが、空印寺が好きだというだけでこの本を開くのがとてもワクワクとした気分になった。だが、湊の期待は虚しく裏切られた。三島由紀夫独特の癖のある文章は、日頃ライトな現代文に慣れた湊には取っつきにくいものだった。それでも人間は不思議なもので、不慣れで読みにくい文章も三十分も読み続けていれば、案外それなりに読めるようになるもである。
一時間ほど過ぎ、切りの良いところで読書をやめた。本当はもっと読んでいたかった。この本を読むことで何となく空印寺との距離が少しずつ縮まっていくように思えるからだ。しかし明日の予習もしておきたいとも考えたのだ。英語Ⅱの久松先生は出席番号が日付と同じ生徒に英文を訳させる。その生徒が自分の前の席にいるのだ。後は順番に英文を訳させていく。つまり湊が英文を訳させられるのは必須となっている。英語Ⅱの授業で当てられるのが判っていて、予習をしない事は湊には考えらない事だった。
英語Ⅱの予習が終わり、このままベッドに入ろうかと思ったけれど、今一つ自信がない数学Ⅱの今度は予習ではなく復習をすることにした。SINやCOSを考えていると頭がこんがらがってくる。湊は一般女性がそうであるように空間認識能力、図形に対して不得意であった。彼女自身自覚はあるものの、そこは学校の授業である。何とか対応しようとするが、あまり良い結果は得られそうにはなかった。得意でない事を無理に続けても頭と気分が持たない。湊は溜息を吐いて、ペンを置き背もたれに体を預け伸びをした。
「うぅん」
と思わず声が出た。
「いつもより遅いし、今日はもうここまで、もう眠ろう……」湊は寝間着に着替えベッドに入り込み目を瞑った。寝つきの良い湊はベッドに入ると五分も経たずに眠りに落ちる。しかし空印寺が女生徒と一緒に下校したと知らさせた時と同様に、湊は目が冴えて眠れなかった。「豊穣の海」の事が気になったのだ。三島由紀夫の作品に魅せられたと言うより、「豊穣の海」を読むことで感じた空印寺への近づきたいという気持ちの方が大きかった。湊は何度目かの寝返りをうった。気になって気になって仕方がない。ついに湊は体を起こした。
「本当はいけない事なんだけど……」湊は机に置いてあった「豊穣の海」を手に取って、再びベッドに入り、ベッドサイドランプの灯をともした。そしてワクワクする気持ちを押さえながら湊は寝落ちするまで読書を続けた。
翌朝目覚め時、湊は昨晩夜更かししたことをかなり後悔したのだった。
・六月十七日(水)
眠い目を擦りながら湊は教室に入った。日課になっている空印寺が席にいるか確認をした。今日はいつもより早く教室に来たのだが、それ以上に空印寺の方が早く教室に来ていたようだ。湊は机のサイドにあるフックに鞄を掛け、自分に意思を確かめるように唇を結び頷いた。それから、ゆっくり空印寺の方に向かった。
「空印寺君、おはよう」
空印寺は湊の声を聞くまで、湊が側にいることを気づいていなかった。少し驚いた表情をしながら、頭を小さく下げ会釈のようなものをした。湊は精一杯笑顔をつくり、
「昨日ね。空印寺君が教えてくれた三島由紀夫の豊穣の海を買って読んでみたの。それでね、その、わたしも面白いと思ったの」
実際のところ、湊はこの本の面白さがよく解らなかった。何かを成し遂げようとするのは解らなくはない。だけど、そこまで命を賭けるものなのかと疑問に感じたのだ。もっと手の届く幸せを感じても良いような気がする。湊の感性は女性的であり、その感性から抜け出せないのが彼女の特徴だった。空印寺は小さく通る声で、
「良かった。この本が好きな人が出来て」
湊は空印寺の言葉を聞いて過剰に反応した。「好きな人……」空印寺が好きな人と言ったのは自分の事だ。もちろん愛の告白ではないことくらいわきまえている。「好きな人」と言われたことが、例え錯覚であっても嬉しいものは嬉しい。湊はだんだんと顔をにやけていくのが自分でも判る。思わず俯いてしまう。
意外なことに空印寺はこの初心な女の子を優しい気持ちで眺めていた。以前の空印寺なら邪険とまで言わないまでも、出来るだけ関わらないように避けるような行動を取っていただろう。この心の変化は、空印寺が真麗と関わる事で自分の中にあった他人への壁が少しずつ崩れてきたからであった。そして空印寺はその事を湊を通じて自覚することになった。
この後、会話が途切れた。空印寺が少し口許に笑みをたたえながら静かに湊を見、湊は俯きながら何かを言いかけるが、上手く言葉にできない状態だった。二人の間に沈黙が横たわる。湊は何か話題を振ろうと焦っているものの、空印寺にはこの沈黙は全く不快なものでなく、何となく心落ち着くものだった。
進退窮まった湊は一昨日と同じように、ペコリお辞儀をして踵を返した。空印寺はその背中を呼び止めようとした。その言葉を発するまでもなく湊は教室を出てしまった。空印寺は湊のその真っ直ぐな好意を真麗の時とは違う好意として受けて止めていた。
空印寺と湊のやり取りはここに来てかなり注目されるようになった。さすがに三度目ともなれば、衆目を集めることになる。空印寺は無口で不愛想として名が一番挙げられるほどのある意味有名人であり、そして女性的な綺麗な顔をしている事でも知られていた。その彼に言い寄る女生徒が袖野である。彼女は大人しい人間の代表格で恋愛ごとは無縁だと見られていた。それだけではない。空印寺には三年の女性徒、美人で変わり者の転校生、何かと噂になる冷泉真麗と交際しているというまことしやかな噂が流れている。これだけの条件を出されては、噂話に敏感な連中、特に女生徒たちが口を挟まないのがおかしいくらいだ。
一気にLINEを通じて、湊が空印寺を口説いているという話は広がった。その噂は真麗の耳にも届くことになった。陸上部の後輩から空印寺と袖野の噂を聞きつけた三年の蛇塚が、仲の良い梶実と話しているのを真麗は小耳に挟んだのだ。空印寺の事が噂になるのはその顔の秀美もあるが、それだけはない。何より三年の間では、冷泉真麗が空印寺に言い寄っていることは噂の域を出て、周知の事実となっているからだ。他人の恋愛ごとほど年頃の女性にとって面白く興味を引くものはない。それが修羅場となることが予想されるとあればなおさらだ。身近なスキャンダラスな事は、彼女たちには欠かせない娯楽でもあった。
真麗は放課後になり、空印寺と暗黙の内に待ち合わせ場所となっている図書室に足を運んだ。そしていつもの席に着いた。最早習慣となっている勉強道具一式を鞄から取りだし机に広げた。元々こんなに勉強などするつもりなどなかったのに、意外と勉強をすることは面白い。知識を広げることに興味を持つとは自分でも思ってもない嬉しい誤算だった。真麗は来春高校を卒業することになる。この先の進路は何も決めていない。そもそも、そんな事など全く興味がない。一応進路指導の時には進学とは言ってある。本音を言えば、このまま空印寺とずっと一緒に居たいだけ。それ以外は本当にどうでもいい。そう思いながら、小さい頃の事を思い出す。
「空印寺君、可愛かったな……」 真麗は机に両肘を付き両手で頬を支えながら、ついつい口許がほころんでしまった。
小さくドアが開く音がする。空印寺が図書室に入ってきた。真麗はすぐに空印寺を気づき、彼の顔を見つめた。空印寺が真麗の視線に気づき、照れくさそうに微笑む。
真麗は今日は一段と綺麗な笑顔で空印寺を迎えた。