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en Juin(a)

【主な登場人物】

空印寺建康/高校2年

冷泉真麗/高校3年

袖野湊/高校2年、空印寺の同級生

繖美琴/高校2年、空印寺の同級生、湊の友人

・六月一日(月)


 六月一日、衣替えの日。

 袖野湊(そでのみなと)は夏用のブラウスに袖を通し、生地の薄い夏用のスカートのホックを止めた。手際よく赤いリボンを襟に通し、襟元でリボンを締める。几帳面な性格が出るのか綺麗な二つの輪っかが並んだ。この上に薄手のVネックのセーターかベストでもと思ったけれども……何とくそれはやめておいた。ブラッシングケアのスプレーを髪先へ重点において丁寧に吹きかけた。タングルティーザーのブラシを手に取り、セミロングの髪を丁寧に梳かしだした。切れ毛をつくらないように髪に対して垂直にブラシを入れ、少しでも髪が絡まるとそこでブラシを止める。髪が絡まったところは手櫛で慎重に絡んだ髪を解く。そしてまたブラッシングをはじめる。時間をかけて髪を梳かし終え、今度は自分の姿を自分の身長より大きなスタンドミラーに映した。このスタンドミラーは湊が今通っているT高校、旧制中学を前進とする県立の進学校に合格した時に両親からプレゼントされたものだった。それまではおもちゃのような少し大きめの手鏡を使っていた。年頃になのだからもう少しまともな鏡が欲しいと思っていたところだったので、このプレゼントは本当に嬉しかった。

 湊がスタンドミラーの前に立つ。そんな湊との思いとは別に、これといった特徴のない女の子がそこに立っていた。このスタンドミラーをプレゼントされた時は飛び上がらんばかりに喜んで何度も自分の姿を映してはみたが、鏡は残酷なほど現実を見せてくれた。湊はほんとうに自分は平凡な人間だなと思ってしまう。自分が流行にのっているクラスメイトのようにお洒落などではなく、みんなが認めてくれるような綺麗な顔や周りの人に可愛がられるような愛らしい顔をしていない事を否が応でも自覚させられた。湊は再び鏡に映る自分の姿を眺めた。容姿についてはどうしようもない。けれども服装などに気を使うことは決して人から悪く見られるものではないと思い、湊は自らの服をチェックしはじめた。

 彼女は今恋をしている。その想い人には少しでも良く見られたいと思うのは、女ごころとして当然の事。正面から後ろまで服がキチンと整えられている事を確認すると、顔をスタンドミラーに近づけた。セミロングにした髪は黒く重い印象がある。明るい茶系に色に染めて軽い髪の印象にしたいと思う。その想いとは裏腹に、髪を染めることはしない。目立つことを好まない性格もあるが、父親の存在も大きかった。

 湊の家族は親子三人、湊は一人っ子である。湊の両親は早くから子供を望んでいた。その想いは通じず子供に恵まれなかった。夫婦は様々な不妊治療を施した。その結果は芳しなく、母親が自然出産を望んだ為、最終的には実施しなかったが体外受精を検討していたほどだ。それでも湊の両親は根気強く子供を願った。その努力も虚しく半ば諦めかけていた時に、湊を授かったのだ。その両親の喜びようは想像がつくだろう。

 湊が生まれてからの父親の親バカぶりは相当なもので、湊に歯がは生えたと言っては記念撮影を取り、湊が歩いたと言ってはビデオを廻し、湊が「パーパー」と言った時などは涙ぐんでいた。この親バカぶりはさすがに湊の母親も呆れさせていた。湊が成長しても極甘な父親のままでいると思いきや、突然厳しい父親に豹変した。と言ってもかなり激甘な部分は残したままではあるが、単に真面目に生きて欲しいと願ったからであった。多少行き過ぎた面もあるようだが。母親から見ると、湊は父親の過剰な愛情にめげず、ちょっと大人し過ぎるけれど、気持ちの優しい素直な娘になってくれたと思う。それが誇らしく嬉しかった。

 一方、湊は父親の表向きだけとはいえ厳しい言葉の裏をきちんと理解していた。父親に愛されていると実感もあり、自分も父親を愛してはいる。ただし湊は思春期真っ只中、もう少し自由が欲しいとも感じてはいた。

 湊は髪の状態を確認し終えると、すぐに鏡に映る自分の顔をまるで点検するかのように眺めた。眠たそうだけど二重瞼の眼、少し下がり気味でちょっと困ったような表情をしている眉、低く小さい鼻、薄い唇、この唇が顔のパーツの中で一番まともなパーツかもしれない。頬も少しピンク色、ふっくらとした丸顔。全体をまとめると、野暮ったい顔になる。湊は少しでも自分の顔を良く見せたかった。引き出しから親に内緒で買った化粧品を取りだし薄く化粧をした。実際には化粧と言う程のものではなく、下地になるSK-2の乳液を薄く塗っただけでルージュを引く勇気はなかった。唇に色を付けるのは、子煩悩な父親はまだ早いと怒るかもしれない。それよりもクラスの口煩い女子たちに何か言われるのが嫌だった。湊は彼女たちの事を正直に言えば好きになれず、はっきり言えば怖かった。出来る事なら彼女たちに目を付けられたくはない。目立つことは慎まないと思う。

 湊は再び自分の姿を姿見に映した。まるで少女漫画に出てくるその他大勢の名もないクラスメイトのようだ。それでも彼の前では可愛い女でいたい。少し微笑んでみせた。これが自分で精一杯の可愛くみせる顔。湊はそれで今日は満足することにした。

 マイナーなゆるキャラとロンシャンのキーホルダーをぶら下げた鞄を持ち、玄関で学校指定のローファーを履きながら、

「行ってきます」

 キッチンで朝食の後片付けをしている母親に声をかけ、玄関の扉を開けた。

 湊はT高校まで徒歩で通学している。高校の東側、妙高はねうまラインとは反対側に自宅がある。高校までの距離は約二キロ、ゆっくり歩いても三十分もあれば高校に着くことが出来る。湊の自宅は自転車通学が可能な区域に指定されていたが、湊は自転車通学をしなかった。自転車に乗れる自信がなかったのだ。正確に言えば、小学校に入る前に父親と一緒に練習をして一応は自転車には乗れるようにはなった。しかし自転車に乗るよりも歩く方が湊の性に合っているのか、その内に自転車は乗らなくなってしまった。自転車が無くても湊の日常には不便なことがなかったのが大きな理由だった。この七年、自転車に乗ったことがないどころかまともに触った事すらない。湊にとって自転車という乗り物は、自分の行動と共にする存在ではなかった。

 湊が教室に入る。まず窓際の一番前に座る男子がすでに登校しているか確認した。その男の子の存在を確認するのは、高校二年になってからいつ何時しか日常化していた。彼はいつも本を読んでいて、ほとんど誰とも話をしない。他人にまるで興味がないみたいだ。口悪く「ボッチ」と陰口を叩かれているのも知っている。湊は何故こんなに彼に惹かれるのか理解できなかった。ラブコメの王道のように、怪我をした仔犬や仔猫を助けるような彼の隠された心優しい人間性を見たわけでもなく、過去に彼が負った心の傷を見たわけでもない。廊下で派手にぶつかったとか、劇的な出会いがあったわけでもない。全く接点などないのに、この眼は彼を追う事をやめない。それにいつから彼を目で追うようになったのかさえ覚えてもいない。気がついたら彼に恋していた。

 恋愛小説では間違いなく編集者からダメ出しを貰うような全く面白味のない展開だ。

 湊は自分が物語に出てくるようなヒロインにはなれないのだと半ば諦めに近いものを感じ取っていた。

「湊、おはよ」

 突然後ろから声をかけられ、湊は彼を見つめているのがバレたかと思い、肩が一瞬にびくっとなった。何気ないように装いながら、

「美琴、おはよう」

 と返した。美琴はニヘラという言葉が似合いそうな崩れた笑顔を見せた。彼女の名は繖美琴(きぬがさみこと)。湊の中学からの友人で、かなり間の抜けたところがあり、よく何事もヘマしては他人に迷惑をかける。しかしそれを上回る愛嬌と可愛らしさがありどことなく憎めなかった。彼女は愛玩動物的ではあるものの、この教室でも男女問わず誰からも気に入られ可愛がられていた。不思議な人徳がある女の子だった。

 湊は美琴と話す度いつも思う。

「自分も美琴のように可愛らしく愛嬌のある娘になりたいな……」美琴は湊が自分の顔をじっと見つめるので、不思議そうに、

「どうしたの?」

 湊に問いかけた。

「美琴、まだ冬服を着るの?」

「えっ?……、あっ、そうか……」

 自分の服と湊の服を見比べて、

「もうそんな時期なんだね」

 なんでもないような顔をしながら、やはりニヘラと笑う。そして湊が今まで見ていた視線の先を追って、今度はニヤリと言う言葉が似合いそうなちょっと意地悪な顔をした。

「湊、可愛いね」

 美琴は視線を空印寺の方に向け、

「湊の気持ち、きっと空印寺君に……」

 湊はとんでもない事言い始めた美琴の口を慌てて手でふさぎ周りを見た。一瞬心臓が止まるかと思うほど驚いた。

「突然何を言い出すのよ、この天然娘は……」心臓がどきどきする。おそるおそる空印寺の方に目をやる。空印寺はいつものように文庫本に目を落としていて、こちらに気づく様子はない。湊は胸をなで下ろした。

「もう」

 こつん。美琴の頭にゲンコツを落とす。

「いたぁい」

 美琴は笑いながら湊にじゃれつく猫のように体を寄せた。またもや意地悪そうに目を細め、湊にだけ聞こえるような小さな声で、

「空印寺君、前髪で顔を隠しているけど、めちゃくちゃ綺麗な顔しているよねぇ、隠れファンもいるみたいだよぉ」

 湊の頬を指で突いた。

「湊は面食いだよねぇ」

 今度は湊の頬を指先でくるくるとこねた。

「もうぉ」

 湊は顔を赤くしながら拗ねたように顔を美琴から背ける。

「空印寺君のどこが良いのかなぁ、ほらほら、おねぇーさんに言ってごらんなさい」

 まるで安っぽい漫画に出てくるお約束のキャラのような口ぶりで湊に畳みかける。それから朝のホームルームが始まるまで、美琴の湊いじりは続いた。


 休み時間になれば、美琴がトコトコと湊のところにやって来て無駄話をしていく。小さな体を派手に大きく動かして話す姿は本当に可愛らしい。男女問わず美琴を可愛がる気持ちが良く解る。しかし当の美琴は子供っぽい容姿が気に入らないらしく、もっと大人の女性に見られたがっている。湊からすれば贅沢な悩みだと思う。

「こんな悩みならいくらあっても構わないな……」美琴を羨ましそうに見ていると、美琴は湊の視線に気づき、にこっと笑顔を送る。その笑顔につられて湊も笑顔を返す。それだけで湊の心は優しさで満たされていく。美琴は湊にとって憧れの存在と同時に気を許せる大切な友人だった


・六月三日(水)


 朝、西の空に灰色の雲がぽつぽつとあったものの、それ以外は青空一色だった。時間が経つにつれ、青色の勢力範囲は灰色に浸食され、昼過ぎには一面灰色一色になった。それでも雨が降るような空模様ではなかった。放課後を一時間ほど過ぎた頃、その予想は裏切られることとなる。

 空印寺は玄関先で空を見上げていた。「雨が降ってる……」朝の天気予報では曇だった。降水確率10%、傘は要りませんとお天気お姉さんはそう断言していた。「なのに、結果はこれ……」

 下校時間にも関わらず、玄関先の人は疎ら。校外で活動する運動部の連中はこの雨で早々に練習を切り上げたのだろう。いつもなら、この時間帯は運動部のむさ苦しい連中がたむろしているはずだ。空印寺はもう一度空を見上げた。「ついてないな、傘を持っていない……」

「空印寺君、どうしたの?」

 自分の名を呼ぶ、女の人の声が聞こえた。その声に聞き覚えはなかった。そもそも自分に声をかける女生徒は皆無に等しい。訝しげに声をした方を振り返った。声の主は図書室で挨拶をする上級生の女生徒だった。この時初めて、空印寺は彼女の顔をじっくりと見た。今まで何度も顔を合わせている。その割には、彼女の顔は全く印象になく記憶に残っていなかった。空印寺は他人に興味がない。いや持てなかった。

 一般的に失礼にあたる態度になるのだが、空印寺は彼女の顔を無遠慮に眺めた。北欧系の血が混じっているのか純粋の日本人には見えなかった。中性的な顔をしている雰囲気がどことなく自分に似ているように思え、あまり話したくと思った。ただ切れ長の眼が不思議とどこか人を惹きつける魅力があること認めた。空印寺も惹かれるように、その切れ長の眼をまたも無遠慮に見つめた。

 その女生徒は空印寺の失礼極まりない視線を特に気にする様子もなく受け止め、まるで恋人に向けるようにゆっくり親し気に微笑んだ。

「空印寺君、傘は持っていないの?」

 空印寺は首を縦に振ってその問いに答えた。同時に気安く声をかけてくる女生徒に対して一種の警戒心を抱いた。空印寺にはこの学校では友人と呼べる人は居ない。そして友人をつくろうともしない態度を取り続けている。このような態度から周りの連中に良い印象を持たれていない事や陰口を叩かれている事も知っている。そんな自分に対して遠巻きに珍獣を見るような眼で見られる事はあっても、こんな風に気安く声をかけられる事はなかった。その為、反射的に警戒心を抱いたのだった。

「傘持ってないのなら、私の傘に入ればいいよ」

 彼女は長傘を小さく振りながら、さもそれが当然ように言葉にした。空印寺の警戒心はその言葉で困惑に変わった。そもそも彼の感じた警戒心は戸惑いに起因するもの、困惑へと変化するのは当然の流れとも言える。そんな空印寺の困惑も余所に、彼女は一気に空印寺の距離を詰めた。

 空印寺は彼女の突然の行動に呆気にとられ何もできず、ただ茫然と立ち尽くすだけだった。空印寺の顔に彼女の顔が迫る。彼女の切れ長の眼が空印寺の目の前に近づいた。彼女の黒い瞳に空印寺の視線が集中する。それはまるで彼女の瞳が彼の視線を引き寄せて離さないようだった。空印寺はただ何も出来ず彼女の思うがまま操れているように感じた。

 その時、空印寺は幼い時に見たような、それはもしかしたら夢の中の出逢ったのかもしれない、彼女の、その切れ長の眼を見た記憶がおぼろげに蘇った。しかし、そのイメージは掌で掬った水のように瞬く間に彼の脳裏から零れ落ち、再び忘却の中へ埋もれていく。

 彼女が耳元で、

「空印時君、傘に入れてあげる。一緒に帰ろ」

 空印寺は黒い瞳に逆らう事が出来ず、大きく頷いた。彼女は空印寺から一旦体を離し、幸運のクローバーを偶然に見つけたような顔をして、再び空印寺に体を寄せ腕を取った。

 二人が玄関先に出るなり、彼女は恨めしそうな顔をしながら空を見上げた。今し方まで降っていた雨が止んでいたのだ。彼女の顔はにこやかな晴模様から一転不機嫌な曇天の模様だ。

「残念」

 彼女は口を尖らせながら、そう呟いた。それでも空印寺の腕は離さない。傘に入れるという大義名分はなくなったが、一緒に帰るという事までは不履行にするつもりはないらしい。空印寺は彼女に腕を取られたまま歩き出した。空印寺は何をどうしたら良いか正直解らず、ただただ彼女のする事に従う事しか出来なかった。

「空印寺君は高田駅だよね」

 二人は学校を出るとそのまま北に向かい、陸上競技場の横を通る県道38号線を使い高田駅に向かった。その間、彼女は空印寺の腕を組んだままだった。空印寺の方は戸惑い続け、露骨なまでに困惑の色を隠さなかった。彼女とは今日初めて話をしただけで、恋人でも何でもない。何度か彼女に腕を離して貰うかと思い、彼女に向け話しかけようとした。その度彼女はただ嬉しそうに微笑んで空印寺の口を封じた。最後には空印寺は諦めの境地になった。高田駅に近づくにつれ視線を感じる事が多くなってきた。気恥ずかしさを感じる。何だか晒し者されている気分だ。

 この年頃の男の子なら嬉しがるシチュエーションだろうが、空印寺は異性に、というより他人に殆ど興味を持っていなかった。それに人との交流が極端に乏しく、人と触れ合うような関係など皆無に等しかった。

 二人が高田駅に着く。

「わたし、新井駅なの。空印寺君は直江津駅よね」

 改札口を抜けたところで彼女はようやく空印寺の腕を離した。空印寺は下り方面のホームへの跨線橋に向かって歩きかけた時、

「空印寺君、バイバイ」

 彼女が手を振った。律儀にも空印寺は小さく頭を下げて応えた。彼女と別れてからは下りホームで本を読みながら電車を待った。ふと視線を感じて顔を上げた。すると対面のホームで彼女が自分を見ていた。彼女と目が合う。彼女は笑顔を見せ、また手を小さく振りだした。

 空印寺は本を閉じ、彼女を眺めた。彼女の行動に少しは慣れてきたのだろうか、戸惑いよりも、つい口許がほころんでしまうような感情、それは長らく自分が置き忘れてしまったものかもしれない感情が、今そういう気持ちが自分の中にあることを自覚することになった。自分が失っていたものを少しではあるが取り戻したような気がしたのだ。

 上下線ともほぼ同時に電車がホームに駆け込んできた。彼女の姿はかき消され、空印寺は持っていた本に栞を挟むことを忘れていた事に気づいた。

 雨上がりの人気の少ない放課後とは言え、この意外な男女の組み合わせを好奇の目で見る者が少なからずいた。


 湊は美琴と放課後の教室で他愛もない雑談をすることはあっても、どこかに寄り道することは少ない。二人ともT高校の近くにあるJ中学出身だった。同じ校区でも、湊の自宅は高校から東の方にある子安新田に対し、美琴の自宅は北側の北城にあった。高校の通学路は数百メートル重なるだけで、そこには二人が立ち寄れそうな店はない。またひら開けている西側、高田駅方面に行くには湊の自宅と正反対方向になり、しかも湊は徒歩通学、おのずと足は遠のく結果となった。

 今日も湊は美琴と放課後一時間足らずおしゃべりを楽しんだ。いつもの上越地域振興局と標識のある交差点で別れた。その時、湊は足許のアスファルトが一面艶のある黒色に変わっていく事に気づいた。慌ててセリーヌの折畳傘を取りだす。この折畳傘は母親のお下がりで、無理を言って湊が譲って貰ったものだった。薄いピンク色がとても綺麗で上品なのがお気に入り。雨足はすぐに強くなり、湊は傘を差すことを楽しみながらも足早に家路を急いだ。

 湊が帰宅する頃には雨足はさらに強くなっていた。自宅の玄関先に着くと傘についた雨を丁寧に払った。

「ただいま」

「湊、雨に濡れなかったの」

「大丈夫よ」

 ローファーを脱ぎ、濡れた靴を乾いた布で軽く拭いた後、靴の中が濡れていないか確認した。靴の中には水は沁みていない。一応、乾燥剤を入れておくことにした。二階の自室にあがり、制服を脱ぎ部屋着に着替えた。制服が濡れたところを丹念に乾いた布で水分を取り、ブラウスと靴下は洗面台にある洗濯機に入れた。そうしている内に三十分ほど過ぎた。母親がキッチンで自分を呼んでいる声が聞こえた。湊はいつものようにアームボーテの可愛らしいエプロンを手にしてキッチンに向かった。湊は母親の家事の手伝いをすることが楽しみのひとつだった。色々な料理を作りそれを母親と批評しながら食べるのも楽しいし、洗濯や掃除は綺麗になった洗濯物や部屋を見ていると清々しい気分になれる。今日は父親が遅くなるので母親と二人の夕食となる。いつもは父親の意見が優先され和食がメインだけれど、偶には洋食に凝ってみるのもいいかもしれない。

 それで出来上がったのは、ペペロンチーノとグラタン。それをメインにちょっとイタリア風にトマトと生ハムのサラダをつけてみた。パンはフォカッチャ、これは湊のリクエスト。本場イタリアではマナー違反らしいが、オリーブオイルを付けて食べるとすごく美味しい。

「お父さんには内緒よ」

 と母親がメルローの赤ワインを一口ついでくれた。湊は自分が母親同様お酒に弱いと思っていた。それなのに自分でも意外な事に赤ワインがすっと喉を通ったのだ。

「ワインっておいしいかも……」そう思ったけれども、お代わりをすることは止めておいた。母親に叱られるのは間違いない。こうして母親と二人で食べるちょっとした贅沢な夕食も悪くはない。父親には少し悪い気がするかも……

「お父さんはちょっと贅沢なお酒でもつけておこうかな……、確かブランデー、カミュがあったはず……」湊はそう思いながら夕食の片付けをはじめた。夕飯の片付けを終え、部屋に戻る。きれいに整理整頓された部屋は湊の性格をそのまま著わしているようだ。しかし決して殺風景な部屋ではない。そこは年頃の女の子、ぬいぐるみや小物類は売るように並べられている。ぬいぐるみの多くは父親が小さい頃に買ってくれたものが多く、その他の小物類は美琴と買物に行った時などに購入したものが多い。それらを眺めて、「可愛いものが増えるのは何だか幸せな気分になる……」と自分でもお手軽な幸せだなと思わず笑いたくなった。それからじっくり勉強をして、気がつくと時計は二十二時を越えていた。もう眠る時間になっている。テネリータのパジャマに着替え布団に入ろうとした時、美琴からメールが届いた。

「みなと、たいへんだよ!」

 メールの件名にはそう書かれていた。

 湊は極端な機械オンチな為、スマホとかあまり使わない。メールを利用するくらいでSNSなんてとても手が出ない。スマホを購入した時に、美琴から色々とスマホの使い方を教えてもらった。メールは元よりLINEやFACEBOOK、無料の便利アプリやゲームまで、湊はただただ混乱するばかりで何も使いこなすことが出来ず、美琴の結局その努力も無駄にしてしまった。だけど美琴は気にするわけでもなく、湊の機械オンチを笑って、

「じゃ、メールだけでも使えるようになろうよ」

 と根気よく湊に付き合ってくれた。その甲斐あって、何とかメールだけは使えるようになった。スマホの機能を考えれば、宝の持ち腐れであることは間違いないが。美琴のメールの内容を見て、湊はまるで別世界の事が書かれているように思えた。

「空印時君が女の人と腕を組んで下校したなんて……」湊はどうしてもそのシーンが思い浮かばなかった。空印寺には悪いが、彼には全く女気がなく、隠れファンみたいのはいるらしいが、彼に好意を寄せるのは自分くらいしかいないと思っていた。突然の出来事に何をどう思って良いのか判らない。何かもやもやしたモノが心に広がって嫌な気分になる。湊はその日、いつもよりかなり遅く眠りにつくことになった。


・六月四日(木)


 湊が目を覚ます。ベッド脇にあるサイドテーブルに目をやり、その上にのっている目覚まし時計を見た。デジタルは「7:15」を表示している。目覚まし時計をセットし忘れている。

「うわぁ、たいへんだ……」今までこんな事は一度もなかった。慌てて身支度を整え台所に向かう。もう母親が朝食の準備を終え、湊のお弁当を作り終えていた。

「あら、湊、おはよう。今日は珍しく遅いわね」

 母親が湊の方に振り返る。すると湊の姿を見て驚いたように、

「湊のどうしたの?」

 湊は肩をすくめ、

「ごめんなさい」

 と小さく頭を下げた。

「ごめんさいって、それより湊、今日は学校をお休みしたら?顔色が悪いわよ」

 湊は小さく首を二度ほど振り、

「大丈夫」

 としょんぼりとした口調で答えた。母親はそれ以上何も言わず、朝食を済ませた湊を玄関まで見送り、

「湊、調子が悪ければ、学校は早引けしても構わないわよ」

 湊に学校を休んで欲しそうな口ぶりで声をかけた。 湊はローファーを履き、鞄を手に取りながら、

「ありがとう、お母さん」

 と呟くように言い、

「行ってきます」

 玄関の扉を開けた。

 いつもならあっと言う間に着く高校までの距離が今日の湊にはとても長く感じられた。


 空印寺が高田駅に降りる。昨日、図書室で挨拶を交わす上級生とここまで一緒に歩いた。それも腕を組んで歩いた。自分が女性とそんな事をするなんて夢にも思っていなかった。女性と腕を組むことなど自分には無関係などこか別世界の出来事のように思っていた。それが現実として降りかかってきた。

 空印寺は幼い頃に数日間行方不明になったことがある。しかもその間の記憶が全くない。その所為だろうか、行方不明になった後から、人と会話する事、触れ合う事が億劫になり、他人と接触をすることを拒みはじめ、声をかけてもまるで反応がしない状態までになった。それは両親とて例外ではなかった。孤独に引き込まれるように他人を拒み自分の中に閉じこもる空印寺の心を家族は必至になって引き止めようとした。両親は空印寺を連れ、心療内科、精神科などを訪ねて回り、最後にはPTSDの専門のクリニックまでたどり着いた。PTSDの専門医は空印寺が封印している記憶を無理に掘り起こすことをしなかった。通常の加療では、トラウマになった心理的外傷に少しずつ向き合い、それを克服することになる。しかし幼い空印寺がトラウマに向き合う事は、心の負担が大き過ぎると判断されたのだ。代わりに、他に何か興味を持たせることで外界への眼を開かせようとした。色々な事が試された。絵を描くこと、楽器を弾かせること、走ることなど、その中で空印寺が最も興味を示したのが読書だった。彼は読書をすることでかろうじて自分の殻に完全に閉じこもることなく、そのぎりぎりのところで踏みとどまった。しかし踏みとどまっただけで、彼自身、他人への興味を持てたわけではなく、他人がそこに居るという感覚しか持てなかった。

 両親からしてみれば、心をどこかに置き忘れてきたように虚ろ目でただ生きる屍と化していた息子が、少なくとも話しかければ反応するようになったのだ。昔のようにじっとしていることが出来ないやんちゃ坊主の面影は全く見られなくなったが、最早そんな事を望む事さえ思いつかないくらい安堵の溜息を吐き、息子の回復の喜んだ。しかし、それも束の間、好奇の目に晒された空印寺は再び孤独の闇に堕ちてしまう。

 空印寺はそれ以降、極端に人と関わらない生活をしてきた。医師からも、心の負担にならないように無理はするなと言われていた。積極的に人と関わらなかったのは、それを理由にした部分はある。しかしその長い生活環境が、あの上級生とのたった一日の接近ではあるが、少しずつこれから変化していくように空印寺には感じられた。それが良い事なのか、悪い事なのか、空印寺には判らなかった。

 空印寺はあの上級生の顔を思い浮かべた。

「はっきりと言えないが、どこかで会ったような気がする……、そう、どこかで……」それが胸につっかえて、どことなく空印寺はもやもやした気分を味わった。そんな気分も教室に入るまでだった。空印寺が教室に入ると、一斉に教室にいる連中の視線が彼に集中した。空印寺はその無遠慮な視線に晒されて少し怯んだ。それでも何も気づかぬ振りをしていつものように無言で自席に着き文庫本を手に取った。教室いる連中の視線がまだ自分に集まっているのが判る。居心地の悪さは半端ではない。どこかへ退避しようかと考えた。何だかそれは癪に障った。

「自分は何も悪い事などしてない……」そう思うと、ここに居いるという事が正当な事に思える。空印寺は半ば意地になって席に座り続けた。文庫本の内容は頭に入ってこなかった事は言うまでもない。


 湊が教室に入ろうとした時、美琴が湊の背後からまるでお岩さんが皿を数えるような口調で声をかけた。

「みぃ、なぁ、とぉ」

 びっくりして、湊は鞄を落としそうになった。すぐに美琴の悪戯と判ったけれど、今日は何だか相手にする気がしない。ゆっくり美琴の方へ振り返る。美琴は湊の顔を見るなり、眉をへの字にして情けない声を出した。

「湊、ごめんね。昨日、変な事言って」

 いつも綺麗に手入れされたセミロング髪はぱさぱさでブラッシングした後がない。やや眠そうだけど優しい眼はどこか疲れていて覇気がない。目の下の隈も寝不足の為、黒ずんで腫れぼったい。いつも隙が無いほどのきっちりした制服姿は、その面影が全くなく、どこかくたびれている。明らかに昨日寝ていませんと、全身で訴えていた。その原因は明らかだ。美琴は自分の無神経な言葉が湊を傷つけた事を知り、自分のした事の大きさに後悔の念にとらわれた。小さな体を震わせはじめ、くるくるとした大きな瞳に涙がたまりはじめる。

「湊、ごめんね」

 美琴は湊の胸に顔をうずめるように体を寄せ、小さく呟いた。湊は美琴に感情的になられて、逆に冷静さを取り戻した。先に酔われると後から酔うことが出来ないと同じ心理状態だった。湊は空印寺の噂にショックを受けたのだ。それを今ありありと自覚した。

 半泣きの美琴の肩を抱くようにしながら教室に入る。何だか雰囲気がいつもと違う。あからさまに空印寺の方にちらちら見ながらヒソヒソ話をする。女子だけでなく男子までも。湊は空印寺が無言の吊るし上げをされているようで、それが自分の事にように胸が傷んだ。

「みんな、やめて」そう大きな声で叫びたがった。無論そんな事をする勇気はひと欠片もなく、美琴の肩に置いた手に力が入るだけだった。


 朝からずっと空印寺は好奇の目に晒され、すこぶる気分が悪かった。誰も何も言ってはこない。ヒソヒソ話をしながらチラチラと自分の方に目をやるだけだ。今まで教室で、こんな風に晒し者にされる事がなかった空印寺は、こういう時にどうしたらよいのか判らなかった。その事を相談する友人もいない。そうなると、いつもやっていることをする以外に何もない。それにいつもと違う行動すると言っても、何をすれば良いのか思い浮かばなかったのも事実だ。

 空印寺は集中力に欠けるもののいつも通り読書に耽るまでに気持ちが回復することができた。残り数ページだった三島由紀夫の「豊穣の海」奔馬の巻を読み終え、次巻の暁の寺に手にした。この巻はシャムの王女が日本人からの転生であると主人公に告げることからはじまり、その後、成長したシャムの王女と主人公が再会を果たすが、王女は転生の事をすっかり忘れてしまっていた。しかし主人公は落胆するのも束の間、美しく成長した姫に自分の年齢を忘れ恋に落ちる。王女が同性愛であることを知り、その時に転生の証拠を見つける。それから十数年後、再び主人公は王女に出会うのだが、その人は出会ったのは主人公が恋をした相手の双子の姉であった。主人公が愛した王女は既に亡くなっていた。

 空印寺は奔馬のような心を打ち胸を熱くするような展開ではないものの、運命、宿命、縁、そう言った人の力の及ばない超越した何かの存在を遺憾なく表現しているようで、これはこれで十分面白い。空印寺は周りの目も気になりながらも、徐々に三島由紀夫の魔力に憑りつかれていった。


 放課後になり、空印寺はいつもように図書室に向かった。廊下を歩いても、誰かに見られている気がする。実際誰かに見られているのだろう。その視線の源を確認したわけではないが、視線は微細な圧力があり、それを感知する機能が人には備わっているのかもしれない。空印寺は幼い頃に同じ経験をしたことを思い出した。何とも嫌な思い出だった。行方不明になった後、見も知らぬ大人たちの見下した好奇と憐みや嫌悪、様々な感情の混じった視線が遠慮なく子供の頃の空印寺を突き刺した。その大人たちの視線は小さな子供には刃物と同じ凶器でしかなかった。

 この頃、空印寺は閉ざしかけていた心を何とか引き止めている状態だった。その凶器のような視線は空印寺の心の動きを止めるのに十分に事が足り、それから今まで以上に彼の苦しめることとなった。彼は辛うじて繋ぎとめていた心の糸が切れ自分の深い闇へと堕ち、周りの人間への不信という壁を造り、外出することさえ拒んだ。それから長い時間をかけた加療とリバビリを受けた。その長期に渡る加療は家族に大きな負担と多大な犠牲を生み、家族の絆との引き換えるように空印寺は同年代の通う学校に通学できるようになった。空印寺の両親や姉が彼への愛情を失った訳ではない。また空印寺も両親と姉への親愛の情を失ったわけでもない。ただ歯車が狂っただけだった。世の中にはたったひとつの言葉や何気ない仕草で互いに愛情を持っていても人間関係が上手くいかないことなど五万とある。空印寺の家族の関係はそのひとつの例だろう。

 空印寺の復学は中学二年生の春だった。空印寺は読書だけは続けていたことが功を奏し、思った以上に学業の復帰は順調だった。本人の多大な努力も無論見逃せない。たった一年で周りに追いつき、さらに追い越すまでになった。今彼は高校に、それも県内有数の進学校に通っている。心を閉ざしている頃の空印寺を知る者にとっては、彼の社会復帰はコミュニケーションにまだ問題を抱えているとはいえ、目覚ましいものに見えるだろう。

 図書室のドアを開け、指定席に座る。いつもは他人に無関心なここの住人たちも一瞬ではあるが、空印寺の顔を確認した。ただ教室や廊下で遠巻きに見る連中とは違い、すぐに自分の世界に没頭した。

 空印寺はいつものように隣の机に座る女生徒を見た。彼女はもう席についていて、空印寺を見ると嬉しそうに微笑んだ。そして机に置いてあった彼女の勉強道具一式を抱きかかえ、それを持って空印寺の隣に座った。彼女は一度空印寺の方に顔を向けて再び嬉しそうに微笑み、すぐに勉強道具一式を広げ勉強をはじめた。先ほど見せた空印寺への好意など微塵も感じさせないほど集中している。

 今日一日、嫌な目にあった事を穴埋めするように、空印寺も再び読書に集中した。三島由紀夫の「豊穣の海」は自分の心を湧きたてくれる。何度読んでも、その度、新たな感動を引き出してくれる。これほどの書物が世界にふたつとあるのだろうか、そんな事を思いながら読書が進む。夢中になって本を読んでいると、左肩に何かが触れた感触があった。振り返ると、隣に座っているあの女生徒が、

「もう下校のチャイムが鳴ったわよ」

 と勉強道具を片付けながらそう言った。空印寺は「豊穣の海」に集中する余り下校のチャイムが耳に入っていなかった。再び彼女が空印寺の顔に自分の顔を寄せる。彼女は自然に空印寺の腕を軽く掴みながら、

「また一緒に帰ろ」

 空印寺が文庫本を鞄に入れた途端、彼女は空印寺の手を取った

「早くしないと、先生に怒られるよ」

 空印寺を急かす。図書室を出ると、彼女は空印寺の手を取ったまま廊下を駆け出した。階段を勢いよく降りていく。玄関まで全く休むことがなかった。これは文科系体質の空印寺にはかなり堪えた。息が完全にあがっている。一方、空印寺の手を引いていた彼女は特に息もあがっておらず、この程度の運動など運動の内に入らないような顔をしながら、

「わたし、こっちなの」

 上級生がある下駄箱のエリアを指さし、

「ちょっと待ってね」

 とタタタと擬音を残して消えていった。残された空印寺は彼女の言いつけ通り、上履きから靴に履き替えると、その場で彼女を待った。空印寺は完全に彼女に振り回されていると思ってはいたが、意外にもそれは不快にもならず、昔のように億劫になる事もなかった。照れ臭くはあったものの、何となく気分は良かった。

 空印寺は彼女が強引なまでに自分に関わってくることを、初めは戸惑うばかりで何をどう考えて良いものか判断できなかった。昨日からたった一日しか経過していないのにも関わらず、空印寺は彼女との触れ合い、人と触れ合うという彼にとって長らく忘れ去っていた感覚を呼び起こさせて、人との触れ合うことに得られるあたたかな手の温もりや安心感と言った人の愛情の根源となるものを彼女から空印寺は少しだけだが得ることになった。それは飢えていることさえ気づかずいた者に、温かく美味しい食事を与える事で自分が飢えていたことを気づかせ、その食事が人生で最高なのもだと思わせる事に似ている。

 空印寺は彼女が困惑をもたらす者から、人のあたたかさをもたらす者へと変化していくことを自覚した。そして彼女がまるで自分にとって今まで出会ったことない、とても大切な人だと空印寺はそう思いはじめた。

「お待たせ」

 彼女は空印寺の正面に立った。またあの瞳が空印寺を捉える。空印寺が歩きはじめると、彼女は彼の横に寄り添うように並んだ。二人はそのまま駅まで、昨日と変わることなく仲の良い恋人同士のように体を寄せ合いながら歩いた。

「空印時君、私の名前言ってなかったわね。冷泉真麗(れいせんまれ)。変わった名前でしょう。れっきとした日本人よ。また明日ね」

 改札口を抜けると、上り方面ホームに渡る跨線橋に歩きはじめた空印寺の背中に、真麗は昨日と全く同じ仕草をして、

「バイバイ」

 と振った。その声で空印寺は後ろへ振り向き、小さく頭を下げた。

「バイバイ」

 二度目の別れの挨拶は、一度目より遙かに弾んでいた。上りホームに着くと、空印寺は向かいのホームに真麗の姿を探した。小さな駅のホームなので真麗の姿はすぐに見つける事ができた。真麗は足許を見るように俯いて立っていた。空印寺の視線を感じたように、すっと顔を上げ、空印寺の方に顔を向けた。遠めでも判るくらい真麗は微笑んで、空印寺の方に手を振りはじめた。

 昨日と同く上下線のホームに二両編成の電車が到着した。真麗の姿はあっさり電車にかき消された。空印寺が電車に乗り込み、対面の電車側の扉まで行き、大きな扉窓から下り電車を眺めた。真麗も同じ様にこちら側の扉に張り付き、上り電車を見ていた。

 二人の目が合う。

 空印寺はいつ先ほど同じように軽く頭を下げた。真麗は空印寺の全く芸のない上に素気ない態度に気を悪くすることなく、また笑顔を見せた。それから息を吐く暇もなくお互いの電車が発車し、車窓から見える真麗の姿は小さくなり、やがて窓の中に溶け込むように消えた。空印寺は真麗の姿が見えなくなるまで、真麗をみつめていた。

「冷泉真麗……」つい先日まで、簡単な挨拶をする程度とは言え彼女の顔を全く覚えてもいなかった。それが今親し気に、彼女が一方的に話すだけだが、会話をするようになり、彼女の顔をしっかり覚えた。彼女の顔を思い浮かべた時、空印寺はどこかで、おそらく以前に会った事があるような気がするのだ。昨日も今朝もそのことを感じた。あの特徴的な切れ長の目、あの目を見たことがある。空印寺はその記憶の糸を手繰り寄せるように過去へと自分の意識を集中させた。

「何かがあった。誰かがいた。そう、誰かが……」もっと深く自分の記憶を呼び起こす。断片的に映像が浮かび上がる。それはとりとめもなく乱雑に浮かび上がる映像だった。まるで様々な写真を一気にばら撒いたよう。空印寺はその一枚でも拾い上げようと意識と言う手を使って、ひらひらと気まぐれな風に舞う写真に翻弄されながらも追いかけることをやめなかった。やっとのことで一枚を拾いあげ、その記憶という写真を確認した。空印寺は蘇った記憶の一片を思い浮かべた。それは……冷泉真麗に似た五、六歳の女の子の顔だった。ただ空印寺自身もその記憶の女の子が冷泉真麗と同一人物なのか、他人の空似なのかまでは判断がつかなかった。さらに空印寺は記憶を呼び起こそうとした。しかし突然空印寺は記憶を探るのをやめてしまった。これ以上記憶を掘り起こしてはいけないと、自分自身がブレーキをかけたのだ。理由は判らない。

 再度空印寺は記憶を手繰り寄せようとした。その瞬間、今度は体が変調をきたした。吐き気と悪寒が一気に襲ってきたのだ。立っているのが苦しくなる。思わず扉の横にある手すりにしがみついた。運良くすぐに直江津駅に電車は到着した。空印寺はトイレに駆け込み、便器に胃の中のものをぶちまけた。肩で息をしながら、空印寺は自分が失った幼い時の記憶、その時自分が何を見たのか、それがどういう事のか、その一端を知った気がした。そして容易に触れることは危険なものだと理解した。


 湊は良くない事だと思いながらも、授業が終わると、席を立った空印寺の背中を追った。湊は彼が放課後になるといつも図書室で本を読んでいることを知っていた。想い人の事を知りたがるのは男女問わず世の常である。湊は空印寺が図書室に入るのを確認した後、自分が図書室に入る事を少し逡巡した。まるでストーカー行為のように思えたのだ。だけど湊は意を決して図書室に入る事にした。人は都合の悪い事をその事実を捻じ曲げて自分の都合の良いように考えるもの。湊もそう言った心理が働いた。「きっと、何かの間違いよ……、空印寺君はそんな人じゃないわ……」湊はゆっくり図書室のドアを開け、足を図書室に入れようとした瞬間その足が止まった。空印寺の横に女生徒が寄り添うように座っていたのだ。

 湊は貧血に似た眩暈に襲われた。おまけに体が硬直したように動かない。その時、空印寺の隣にいる女生徒が入口のところで棒立ちになって見ている湊に気づいた。

 湊と彼女の目が合った。切れ長の眼が特徴的だった。同時に何か得体の知れない、それはまるで人間の手には負えない、そう上手くは言えないが……、まるで魔物のような眼だと感じ取った。そして、その中にある敵意、憎しみ、と言った感情が湊に容赦なく突き刺さる。負の感情を伴った視線に晒される事と得体の知れないものへの湧き上がる恐怖、それに加えて空印寺に寄り添う女の存在への自覚のない嫉妬が、固まった湊の足を動かした。湊は踵を返し小走りにその場を逃げだした。それから、どの様にして帰宅したのか、よく覚えていない。気がついたら、自室のベッドに着替えも済まさず腰掛けていた。何だか座っているのも面倒だ。湊はごろんと寝転んで目を閉じた。鮮明に蘇る空印寺とあの女が寄り添うように並んでいる姿。湊は強く目を閉じた。そうすれば、脳裏に浮かび上がった二人の姿が消えてしまうと思ったのだ。しかし湊の思いとは裏腹に一層その二人の姿が明確になっていく。

 この時、湊は自分の空印寺への想いが淡い恋心ではなく、もっと強く深く心に刻まれたものだと知った。

「わたし、心から空印寺君を好きになっている……、空印寺君に恋しているんじゃない、愛してるんだわ……」湊はごく普通の女の子であり、漫画にでてくるような純粋培養の女の子ではない。当然、空印寺への想いが初めての恋ではない。近所の十歳ほど年上のお兄さんが初恋の相手であり、一つ学年が上の上級生に憧れたり、隣のクラスのサッカー少年を意識したことや、美琴の年子の兄にときめいたこともあった。どれも付き合うどころか告白さえ、ともすれば話をすることさえ出来ないのが現実だった。湊は過去の恋の経験から空印寺に対しても、何も出来ずこのまま終わることを予感していたのかも知れなかった。

 でも今回は違う。湊はそれを肌と心で感じ取った。

「わたし、空印寺君の傍にいたい。空印寺君を感じたい……、空印寺君の女になりたい、抱かれたい……」その想いは止めどなく加速していき、永遠に止まることを知らぬ光のように妖しく輝いた。それは美しくもあり、女としての性であり、エゴイズムであり、純粋な愛情であり、そして排他的な独占欲であった。

 この瞬間が、その混沌とした感情の罠に彼女が囚われた決定的な瞬間となった。湊はベッドから上半身を起こし、空印寺に寄り添う女に対して明確な敵意を抱いた。

「あんな気持ち悪い眼をした女なんて、空印寺君にふさわしくない……」湊は立ち上がり、スタンドミラーで自分の全身を映した。

「わたしほど、彼を想っている人はいないわ……」その想いは、彼女にとって真実となり真理となった。その夜、湊は自分の肉体の中に女として性、それは耽美な色香を含んだ欲望が自分の中にあることを知った。湊は身も心も、昨日とは全く違う自分になったことをおぼろげながら感じ取った。

「恋すれば女は変わる」古今東西言われてきた言葉。


・六月五日(金)


 空印寺は高田駅を降りた。今日は何となく公園の方を回ってみる気になった。公園を抜けてみるもの良いかもしれないと思ったのは、昨日が昨日だっただけに、始業寸前に教室に着きたいと考えたからだ。美術館の横を通り、三重櫓を見ながら小さな橋を渡り、その先の極楽橋を渡りきると県道38号線に出た。38号線を横切り市立図書館の前を抜けるとすぐに高校が見えた。空印寺は姉が去年腕時計を買い替えた時に貰ったスカーゲン、実は弟が腕時計すら持っていない事を気にした姉からの心使いが本当の理由になるが、腕時計を見た。「丁度良い時間だな……」そう思いながら校門を抜けた。しかし空印寺の思惑は外れた。昨日と同様、空印寺が教室に入ると視線が集中し一呼吸おいて拡散した。そしてその散らばった塊から、ひとつひとつ小さな声が、それらがいくつも重なり広がっていく。その小さな声たちは空印寺の耳に届く頃には耐え難い不協和音となった。空印寺は思わず耳を塞ぎたくなり足を止めた。するとその不協和音は止み視線が空印寺に集中した。その後は先ほどと同じ不協和音がまた耳に届く。空印寺は観念して、何も聞こえないふりをして自席に着いた。せっかく始業時間に合わせて登校したのに、こういう日に限って担任が来るのが遅い。

 空印寺は机に肘を置き手を組んだ。組んだ手に額を押し当て目をつむった。するとあの不協和音は耳から消え、さざ波さえない静かな水の中にいるようだった。心が静まっていく。しかし突然その静寂を破るように様々な記憶の断片のようなものが脳裏に浮かび上がってきた。

「触れていけないものがある……」昨日の出来事が蘇る。

 空印寺は歯を食いしばり、手を固く握り、目を強くつむって、誰かに殴られるのを耐えるように身構えた。

「暗い洞口のようなところ……、声が聞こえる……あの小さな女の子のようだ……」

「あなた、名前は?」

「わたしのこと好き?」

「また会える?」

「約束よ」

 その声は冷泉真麗の声にどこか似ていた。明らかに年齢の違う声なので、はっきりと同じ人の声だとは判断がつかなかった。次の瞬間、空印寺はバラバラになった人体の欠片が脳裏に浮かんだ。その肉の破片は生々しいほど赤く、人体を構成したとは思えないほどただの肉の塊であり、肉塊の横に生首がなければ人肉だとは思わなかっただろう。その肉に喰らいつく、口許を赤くした女たちの姿。

 空印寺はその地獄絵のような光景をまじかに見たことがあると思った。それと同時に気分が悪くなり、激しい嘔吐感に襲われた。空印寺はいきなり立ち上がり口許を押さえ教室を出てトイレに向かった。便器に向かって吐きながら、「昨日と同じだな」と自虐的な笑みがこぼれた。


 いつもの登校時間。美琴は一年の時に同じクラスで今隣のクラスにいる友達と校門で顔を合わせた。

「おはよう」

 とお互い抱きつくほど体を寄せ、パンと両手を合わせた。それが何か笑いの琴線に触れたらしく二人は大きく口を開け楽しそうに笑った。そのまま美琴たちはLINEでは伝えてきれていない互いの些細な近況を報告しながら教室に向かった。

「最近彼女とお話してなかったな……」美琴はそんな事を考えていた時、

「じゃーね」

 と彼女が手を振って隣の教室に入っていった。美琴は足を止め、

「じゃーね」

 と返した。美琴はもし彼女の言葉がなかったら、彼女について隣の教室に入っていくところだった。

「あー危ないところだった。思いきり恥ずかしい思いをするところだったよ……」こういう時は頭を叩くのがお約束だろうが、何故か、美琴はポンポンとお腹を叩いた。自分の教室に入ると、すぐに、

「おはよう」

 と美琴に声がかかる。美琴は嬉しそうな顔と声で、

「おはよう」

 と一人一人に丁寧に挨拶を返した。美琴のそういうところが皆に好意を持たれるのだろう。当の美琴はそんな事など夢にも思っていないようだが……

 美琴は湊の席を見た。そこは空席だった。美琴は少し首を伸ばし、机の横を見て鞄が掛けられていることを確認した。「お手洗いでも行ってるのかな……」美琴は自席に着いて、鞄の中から教科書やノートを取りだし机の中に入れた。全て入れ終えてから一時間目の授業の教科書とノートを取っておくべきだったと気づいた。

「うん、もうぅ」

 その時、湊が教室に入ってくるのが目に止まった。「あっ、帰ってきた……」

「湊、おはよう……」

 と勢いよく言い出したが、最後の方は口ごもりがちになった。湊は美琴の言葉に気づき、美琴の方に向かって微笑んで挨拶を返し、さっと自席に着いた。美琴はそんな湊を見て、首を傾げ、目を擦ってから再び湊を見た。

「どうしたんだろう……」まるで湊が見知らぬ人に見えたのだ。美琴はもう一度目を擦って湊を見た。外見は湊以外誰でもない、正真正銘の湊だった。なのに美琴の目には湊の姿をした誰かにしか見えなかった。今そこにいる湊には、落ち着いた優しいいつもの雰囲気が全くない。何か人を威圧するような粗暴で恐ろしい感じがした。

 美琴には優しい湊がどこかに消え去って、何かを恐ろしい、暴力的な、憎しみで心を満たしているような別人の湊がいる、そう見えたのだ。美琴はそんな湊が恐ろしく思えた。湊が美琴の方に振り返った。美琴が唇を固く結び青い顔をしながら湊をじっと見つめていた。

「どうしたの?美琴」

 湊の投げかけた言葉を、美琴は首を左右に振って答えた。そんな美琴を見て、湊はくすっと笑い、

「へんな、美琴」

 美琴の冗談を受け流すように正面を向きながら一瞬空印寺の方に目をやり、一時間目の授業の準備をはじめた。その時、突然空印寺が席を立ち、口許を押さえながら教室を駆け出た。教室が騒然となった。

 湊が立ち上がり、泣きそうな顔をしながら、おろおろと教室を見回している。美琴はその湊を見た時、今しがたまで別人だった湊から元の湊に戻ったと思った。

「良かった……、湊には殺伐した雰囲気は似合わない……、真面目で大人しくて、ちょっぴりドジなところがあるから湊だ……」と美琴は自分の鈍くささを棚に上げ、湊を見つめ頷いた。

 こういう日に限って気が利く優秀な学級委員長が陸上部の朝練でいない。副委員長がやっと自分の責務を思い出したのか、かなり時間が経ってから空印寺の後を追った。空印寺は一時間目の授業には出なかった。


 湊は空印寺が口を押さえ青い顔をしながら教室を飛び出してから、空印寺の事が気になって授業どころではなかった。「大丈夫かな……」そればかりが頭の中でぐるぐる回る。おそらくこの時の湊の顔色は面白いくらい様々な色に変化していただろう。

 一時間目の授業が終わり、空印寺は教室に戻ってきた。もう体調は悪くなさそうだ。湊は一息ついた。「もう心配かけないでよ……」と空印寺に文句の一言でも言いたい気分だった。

 当の空印寺は何事もなかった顔をしながら鞄から本を取りだし、読書をはじめた。


 空印寺は二時間目の授業、数Ⅱを聞きながら、ふとあの気持ち悪い記憶の断片は何だったのだろうと考えはじめた。一瞬浮かんだ記憶だったが、はっきりと覚えている。まるでスプラッター映画の一場面のような光景だった。あのような猟奇的な出来事は実際にありえないだろう。そしてそんな事件に自分が関わっていると思えない。あれは現実の出来事ではなく、自分が作り出した空想か、映画か何かのシーンが記憶に残ったものと考えるのが妥当だろう。

 空印寺はそう結論付け、この一連の事を強引に終わらせた。この空印寺の行動は、人が見たくないもの、知りたくないものを遠ざける行為に似ている。それは心が弱いのではなく、心の自己防衛として備わっている人の行動心理だった。

 放課後になった。空印寺はいつものように図書室に向かった。廊下を歩いていると、背中から雑音を聞こえ無遠慮な視線を感じた。しかしもう慣れたもので完全に無視をした。図書室のドアを開けたの同時に、冷泉真麗が振り返った。まるで幸せの種を見つけたように嬉しそうに微笑んだ。

 空印寺もそれにつられて無意識に少しだけ笑みをつくった。空印寺は自分が笑みをつくったことに気づかなかった。それは無理からぬ事なのかもしれない。空印寺は微笑むという行為を長らくしたことがなかったのだ。他人から見れば、不思議に思うかもしれない。空印寺はあの空白の事件以来、笑むという行為を過去に置き忘れていたのだ。

 この時、確かに空印寺は失ったものを取り戻しつつあった。しかし失ったものの大きさを考えれば、それは小さな一歩だった。


 湊は気がつけば空印寺の方に目が行っていた。ふっと気がついたら空印寺の事を考えていた。昨日、この恋の深さを知った時から湊は空印寺を愛し、空印寺に愛されたいと思うようになった。そして、それ以外の事が色褪せてしまい、湊にはそれ程価値のあるものに見えなくなってしまった。逆に言えば、湊にとって空印寺を愛することが、至上の価値あるものに成りあがったのだ。その価値観の変革は恋愛に盲目になった女性にありがちなものだった。

 放課後、湊は教室の掃除当番に当たっていた。掃除は嫌いじゃないけれど、さぼり連中の分まで押し付けられるのは気分の良いものではない。特にクラスの女子のヒエラルキー上位にいる北浜奈美は、口は動かすが手は全く動いていなかった。黙々と働く湊を横目に見ては、馬鹿にしたような目を向ける。湊は何も気づかないふりをしながら掃除に励み、さっさと掃除を終わらせた。

 奈美は自分が掃除を終わらせたような口ぶりで、

「じゃ、お疲れ」

 と言い残して、いつも連れ立っている連中を引きつれて教室を後にした。

 湊はいそいそと帰る準備を整え、鞄を手にするや否や、空印寺がいる図書室に向かった。階段を軽いステップで上り、そして図書室の前まで来た。湊はここで一旦呼吸を整えた。

「あの女がいるかもしれない……」湊はお腹に力を入れ、ゆっくりと図書館のドアを開けた。奥の机に目を向ける。空印寺とあの女が席を並べて座っていた。二人の距離は近い。その状況に湊はムッとした顔になった。それも一瞬、すぐに取り澄ました顔になった。

 湊は二人が座る席の斜め後ろに席に座った。勉強する気などさらさらない。だが、今ここで目立つのは得策でないと思い勉強道具を広げた。周りから見れば、一応勉強しているように見える。湊は彼らをじっと睨みつけた。視線で人を殺せるなら大量殺人になっただろう、そんな目つきだ。人は善と悪の両方を併せ持ち、その善と悪に翻弄されながら生きていく。人を愛することは尊く、同時にその愛ゆえに人を憎む。人はその矛盾した感情をひとつの心に収めている。

「なぜ、あの女はそこにいるの……」湊にはそれが理解できなかった。

「あの場所に居るべき人間になりたい……」そう思えば思う程、あの女がどういう人物か知りたくなった。自分とは何が違うのかを。

「少し日本人離れした顔をしている……、もしかしたらクォーターかもしれない……、悔しいけれど綺麗な顔をしている……」顔の秀美については、湊はそれ以上何も考えたくなかった。それから今まで感じたことを否定するように「ムスッとした愛想のない感じで、切れ長の目が性格の冷たさを現わしているようだ」と湊はそんな事を取り留めもなく考えていた。そして湊はあの女の事を考えているうちに、沸々と怒りが込み上げてきた。ゆっくりと低温で長く時間をかけ水を沸騰させたような怒りだった。その分一気に怒りが心頭したのではなく、全身に怒りの炎が回った。

「あの独特の目が気に入らない……、髪をロングにしてお嬢様気取りのつもりなの、気に入らない……、臙脂のネクタイは三年生、年下の男の子に手を出すなんて何考えているのよ、気持ち悪い……」

「あの女の存在そのものが気に入らない……、全てが気に入らない……」湊は下校時間の少し前に図書室を出た。校門の陰に立ち、二人が出てくるのを待った。二人は十分余り経ってから仲睦まじく校舎を出てきた。湊は二人の後を追った。二人の背中が見失わないように、それでも二人に気づかれないように距離を取った。県道579号線を通り、小さな教会の前を抜け、通学に使いそうにない道を進んでいく。その間、あの女は空印寺の身を寄せるようにしている。

 湊は表情を変えず、あの女をじっと睨みつけていた。

 高田駅に着いた。二人が改札口を抜けている間に湊は自動券売機に硬貨を適当に放り込み切符を購入した。下りホームに出て、すぐにホームを見渡した。簡単にあの女を見つける事ができた。湊はあの女の位置を確かめながら同じ車両の反対側の乗車口に乗るようにホームに立った。それから対面のホームに目を向けた。空印寺を探したのだ。空印寺はあの女の前に位置するように立っていた。

 湊は自分が知らず知らずのうちに奥歯を噛みしている事に気づいた。自分が苛立っている。それに気づき、肩の力を抜くように深く息を吐いた。その時ホームに電車が雪崩れ込んできた。湊は予定通りあの女と反対側の乗車口から乗り込み、車内を移動しあの女の背後に立った。あの女は湊に気づいてないようだった。

 改めて、この女を見る。髪の毛は黒く腰までまっすぐ伸びて、しかも手入れも行き届いるようで綺麗に潤っている。背は自分よりやや高く160cmくらい。そしてヒールを履いているわけではないのに腰の位置が信じられないくらい高い。そのうえ、ウエストもかなり細い。

「ちょっとスタイルや顔が良いからって、それが何なのよ……」湊は否が応でも劣等感を刺激させられた。思わず悔しさ紛れに親指の爪を噛んだ。電車がゆっくり減速しはじめた。電車が高田駅から出発してから丁度四つ目の駅に到着する。もうここは上越市から妙高市へと変わっていた。

 あの女が乗車口に向かって一歩二歩と足を進めた。どうやらこの新井駅で下車するようだ。湊もあの女の背中を追って同じように乗車口に向かって歩を進めた。ホームに降りたのは十五名余り、湊はあの女の後を二メートルほど離れて歩いた。跨線橋を渡り改札口を抜け、がらがらの待合室の横を通り過ぎ駅舎を出た。

あの女は駅舎を出てすぐに右に折れ線路沿いの小道を進んでいく。

 湊はこの駅で下車したことはなく全く見知らぬ場所だった。良い意味でも悪い意味でも小心者だった頃の湊であったなら、行先不明の尾行など不安になりあっさり足を止めていただろう。今の湊はそんな事は気にも留めずあの女の後を追った。五十メートルほど線路沿いに北へ向かいT路地を右に折れた。ここまで運んでくれた電車の線路をくぐり、突然あの女が足を止めた。湊も同じ様に足を止めた。あの女が振り返る。湊は逃げる事も隠れる事もできない状態だった。気の弱い者だったら、怖気づいて逃げ出すような状況だ。しかし湊は挑むようにあの女を睨みつけた。あの女の方も切れ長の眼で湊を射る。距離にすれば十メートル余り、お互いの顔を値踏みするように視線を動かす。お互い何も言葉をしない。一触即発の張りつめた沈黙の時間が流れていく。

 湊はあの女をじっと睨みつけている内に、初めてあの女を見た時のように、あの女が人ではなく、他の生き物、そう何か、人の形をした化物、そんな風に見えてくる。湊はその正体は暴こうと目を凝らした。すると、あの女はそんな湊を馬鹿にしたように蔑んだ眼をし、あざ笑うように口許を歪めた。湊はあの女の馬鹿にした表情を見ては腸が煮えかえるくらい怒りを覚えた。殺意に近い感情を抱くほどに。こんなに誰かに対して激しい怒りの感情をぶつけたことはない。実際、湊は温和で暴力的な事が苦手な性格が災いして、誰かに対して剥き出しの悪意や敵意、怒りを向けた事がなかった。初めて湧く激しい負の感情に湊は流されていく。一度火が点いた感情の暴発はもはや湊自身では止めることができなかった。湊はあの女に前まで詰め寄り、切れ長の眼を敵意丸出しの視線で睨んだ。

 あの女も引く事はなく、湊の喧嘩腰の態度を正面から受け止めた。互いの息がかかるくらい顔が近い。二人は一歩も引くことなく互いの顔を睨みつけた。その間、時間にして十秒あるかないか。だが、その短時間に無言の悪意が数限りなく飛び交った。

 いきなり、湊はあの女からドンと胸を押され足許がふらついた。湊が顔を上げる。もうあの女は踵を返し歩きはじめていた。まるで湊と一触即発の状態であったことなど微塵も感じさせない足取りで。その後ろ姿を見て、湊は心の底からあの女の事を嫌い、そして憎み、存在そのものを否定した。


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― 新着の感想 ―
[一言] こんにちは。 この第3話の途中ちょい下部 【それは……冷泉真麗に似た五六歳の女の子の顔だった。】 これ、見方によれば『56歳』とも受け取れてしまうので、五と六の間『、』があったほうが良…
2020/07/06 18:19 退会済み
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