表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/10

en Mai

この作品はフィクションです。モデルにした市はありますが、実在する建物の配置や距離感は異なっています。また交通機関についても同様です。

【本章】


・五月三十日(土)


 空印寺建康(くういんじたかやす)は目を覚ました。昨日夜八時半前に震度二の地震があった。小笠原諸島で発生したらしい。あまり興味がない。洗面所で顔を洗い、歯を磨き、簡単に髪を整えた。部屋に戻り、ブレザーの制服を無造作に着て、学校指定の鞄を持った。鞄の中は文庫本が一冊あるだけで、すっからかんの状態。台所に行くと母親が会社に行く前に作ってくれた弁当が置いてあった。それを掴み鞄の中へ押し込んだ。朝食はとらない。マグカップに水道水を流し込み、一口つけ残りはシンクに捨てた。玄関のドアを施錠し、ガチャガチャとドアのノブを回しきちんと施錠されていることを確認する。ここまでは決まりきった朝の日課。

 空印寺は気だるそうな足取りで歩きはじめた。やや視線を落とし誰かと顔を合わせるのを避けるように。住宅街を北上し関川の支流を越え労災病院の前を通り、十分余りで直江津駅に着いた。南口の階段を上がり改札口を抜けた。彼はJR東日本の信越本線ではなく、第三セクターとして運行している、えちごトキめき鉄道妙高はねうまラインと微妙な名称がついた路線の電車に乗車する。

 不思議な事に直江津駅は路線ごとにホームが決まっておらず、JR東日本の信越本線、えちごトキめき鉄道日本海ひすいラインと妙高はねうまライン、ほくほく線の四路線が入れ乱おり、どの路線の列車がどのホームに着くかは、時刻表をしっかり見ていないと判らないのである。何とも乗客の利便性を無視した運用だが、直江津駅が全路線の始発駅であることと、通勤通学する乗客は利用する電車が決まっている事が多く、特に問題として取り上げられたことはなかった。案外慣れてしまえば、気にする程もことでもないようだ。

 空印寺は二番線ホームに降りた。七時四十分過ぎに発車する電車は二両編成、いかにも地方の鉄道と言った趣がある。そんな地方鉄道でも、この時間帯は高田駅や南高田駅周辺にある高校の通学時間帯にあたる為かなり混雑している。空印寺もそのひとりとなり電車に揺られていた。空印寺は高田駅で降りた。空印寺が通うT高校ならもう一つ先の南高田駅で降りた方が近い。ひとつ手前の駅で下車するのは、何となく同じ学校の人間と顔を合わしたくない。そういう後ろ向きの理由で高田駅を利用していた。また空印寺は高田駅からT高校までの道のりを特に決めていなかった。県道198号線や38号線を通って登校したかと思えば、次の日には住宅街を抜けて登校したりしていた。どの道を利用するのは、まさに気の向くまま足の向くままであった。

 今日は198号線を歩き、T南城高校の前を通りT高校にたどり着いた。下駄箱から上履きを取りだし、今し方までは履いていた学校指定の革靴を放り込み、三階奥の教室に向かった。教室に入り、まずは自分のロッカーから教科書とノート一式を取り出し、それを抱えて自席に向かう。この間、空印寺は誰とも挨拶しない。それどころか口を開きもしない。もちろん、空印寺に挨拶や話しかける者はいない。無言のまま窓際の一番前にある自席に腰を下ろす。教科書とノートを机の中に押し込み、鞄から文庫本を取りだした。空印寺はクラスメイトを、クラスメイトは空印寺を無視するような態度だ。そんな態度であっても、両者ともまるでその事について歯牙にもかけていない。

 空印寺は文庫本の栞を挟んだページを開いた。栞が逆様に挟んである。空印寺は見開いたページの左側に目をやり読書をはじめた。これは彼が決めた独自のルールで栞の頭が上なら見開いたページの右側、栞の頭が下なら見開いたページの左側に読み始めがあるという印だった。

 今空印寺が手にしているのは、三島由紀夫の「豊穣の海」。三島由紀夫が割腹自殺したまさにその日に最終巻が入稿された三島由紀夫、人生最後の作品である。四巻で構成され、各巻ごとに主人公が異なるが、その魂は転生しているという世界観で成り立っている。専門家の間でも様々な解釈がなされる謎多き名作である。

 空印寺はこの作品を最も気に入っており、何度も読み返している。特に第二巻、奔馬がお気に入りだった。第二巻の奔馬は、社会の腐敗に対して義憤にかられ大義を尽くそうと奔走するものの、無念にもそれを果たせず散っていく主人公、飯沼勲の姿が、三島由紀夫独特の人の心を掴み、力強くもどことなく憂いを帯びた言葉で書かれていた。空印寺は主人公、飯沼勲の生き方に共感せずにはいられなかった。しかし彼自身はそう思うだけで、特に何か行動を起こす気もなかった。それどころか飯沼勲のように時代を動かそうなど思いつきもしなかった。その点については、空印寺は凡庸でありふれた少年だった。

 空印寺が読書に没頭している間に、担任が教室に入り、若さを持て余す連中に早く席に着くように声をあげた。担任がパンパンと両手を叩き、大きく通る音が響いた。その一種の、教室には異質な音が空印寺の耳についた。文庫本から目を外し顔を上げると、担任の姿があった。空印寺は面倒臭そうに本を閉じ机の中に入れた。それから視線を窓の外に向け、何気なく雲を眺めた。良く晴れた空にひとつだけ浮かんでいる。じっとその雲を眺める。やがて、それはパンのように見え、人の横顔のようにも見え、自動車のようにも見えた。空印寺はその空想を特に面白いとは思わなかった。しかし他にやるべきことがなく、その空想を続けた。その感覚は電車の窓から流れる景色を頭の中を空っぽにして眺めていることと同じだった。

 担任が朝の伝達事項を言っている。空印寺には馬耳東風と言った具合、我関せずの態度を隠そうとしない。担任に反抗しているわけではなく、担任を嫌っているわけではない。だからと言って、好意的に見るつもりもない。空印寺は担任の事を無責任な単なるサラリーマン教師として例に挙げると丁度良いサンプル程度にしか考えていなかった。その無責任なサラリーマン教師は、自分の言う事に対して耳を貸さない連中のことなど目に入ってないようだ。いちいち注意するのも邪魔くさいと言う態度がありありと見て取れる。空印寺はその恩恵を十分に受けてはいた。

 空印寺は担任の言葉など上の空、担任が朝のホームルームを終え、教室から去っても気づくことはなかった。

 空印寺は今春高校二年になった。このような態度な空印寺ではあったが、成績は意外とよく、実力テストの順位は普通科と理数科を含めて常に学年一桁を維持している。これも意外な事に読書の好きの彼ではあるが、理数系の成績が抜群の良く、現国や古文と言った文系の科目が成績全体の足を引っ張ていた。読書好きは理数系に弱いというレッテルは彼には当てはまらなかった。

 空印寺の学校での日常は、授業中はやる気のない時は論外だが、意外にも真面目に授業を受ける。授業中、他にやりたいことがある訳でもない。休み時間は読書に耽る。放課後も当然読書となる。

 放課後、空印寺はいつも学校の図書室に籠っていた。学校の近くに市立図書館があるがそこには行くことがない。その理由は知らない場所に行く気がしないからだった。そして学校の図書館に籠るのは、帰宅しても家には誰もいないことが理由のひとつ。両親は共働き、七つ上の姉も銀行に働きに出ている。また家に居ようと学校の図書室に居ようと、特に彼にとって大きな違いはなかった。ただ学校の図書室にはまだまだ見知らぬ本がある。それは彼にとって魅力的な事だった。どちらかと言うと、こちらの理由の方が大きかった。

 放課後になり、いつものように空印寺は四階にある図書室に足を運んだ。今日もその日課に変化はない。

 空印寺の通う県立T高校は創立百年を超える名門の進学高である。その歴史ある学び舎も八年ほど前に耐震基準が満たされてないとして校舎が全面改築され、真新しい校舎に建て替えられた。そして旧い校舎にありがちな建て増しや改築による複雑な造りと無縁な単純な建造物になった。校舎の造りはコの字型の四階建て校舎がひとつと体育館がひとつ、後は部活棟と倉庫がいくつかあるだけだった。一階は職員室、保健室と特別教室のみ、二階には三年生が割り当てられ、階が上がる度に学年が下がっていく。各階には各学年の教室が南側に割り当てられ、廊下を挟み北側に特別教室が割り当てられている。尚、図書室は四階にある。

 空印寺は気だるそうに階をひとつ上がった。一年坊主がたむろしている廊下を抜け、図書室のドアを静かに開ける。音を立てずに図書室に入り、奥のいつも席に座る。放課後の図書室に来るような連中は、昼休みに遊びにくる連中とは違い、静かに本を読むか、ひたすら勉強に励んでいる。面白いことに彼らが座る席も誰と相談したわけでもないのに、いつも同じ席に座る。そこがまるで自分の指定席のように。

 空印寺は教室の連中と同じように彼らに全く興味がなかった。もちろん挨拶などはしない。ただ一人だけ例外がいた。彼に対面するように、隣の机に座る上級生の女生徒だ。空印寺は彼女の名前を知らないうえに一度も話したこともない。それなのに何故だか彼女だけは、空印寺がこの席に座ると小さく頭を下げる。いつから彼女がそういう事をしていたのかは判らない。今年の四月終わりになって、空印寺は彼女が自分に笑顔を見せながら頭を下げ挨拶をしているのを認めたのだ。無視をしても良かった。珍しい事があるもので、人付き合いを全くと言って良い程しない空印寺が挨拶を返したのだ。空印寺自身も理由は良く解らない。彼女が気に入ったわけでもない。空印寺にしてみれば単なる気まぐれなのかも知れない。それ以降、彼女が会釈すると同時に軽く頭を下げるのが習慣となっていた。今日もその習慣は変わらない。空印寺が彼女に軽く頭を下げるのと同時に彼女が笑顔を見せ軽く頭を下げた。後は実に淡泊なもので、空印寺は鞄から文庫本を取りだし、栞の頭の方向を確かめ読書に集中する。「豊穣の海」の第二章も佳境を迎えた。残念な事に、十二月二十九日の場面に入ったところで下校時間を知らせる校内放送が鳴り響いた。

 空印寺は丁度「豊穣の海」がクライマックスを迎えたところだったので、もう少しこの名作を味わっていたかった。とは言え、下校時間には逆らえない。文庫本を閉じ鞄にしまった。図書室に何人残っていたかは知らない。知る必要もない。空印寺は図書室に来た時と同じように気だるそうな足取りで階下に向かった。特に急ぐ用事もない。持つ必要もない階段の手すりを持ちながら降りていく。一階に降りた。一階では部活連中が慌ただしく帰宅の準備をしている。その騒がしい連中の横をすり抜け下駄箱までたどり着く。その時唐突に、もうすぐ衣替えだ、という事に気づいた。

「来週から夏の服か……」

 空印寺は心の中でひとりごちた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ