第二十六話 自由奔放な少女
まどろみに沈む中、家の中で聞こえた物音が気になりオネスタは目を覚ました。物音は隣の部屋から聞こえてきた。窓の外を見ると、雨はすっかり降りやんでいた。
少し寂しいような気もしたが、ポタポタと雫が水たまりに当たる音から雨の感触を思い出す。
オネスタは胸の辺りで丸まっているクリオシタを起こさないようにこっそりとベッドから抜け出した。
「おはよう。ステラ」
扉を開けると食卓でパンに肉を挟み、それを食べているステラがいた。
口に含んでいた分をゴクリと飲み込み、
「ああ、おはよう。クリオシタちゃんはまだ寝てるのか?」
「うん。ぐっすり。もう行くの?」
ステラはすでに外出用の服人に着替えていた。
「早い方がいいだろ? こうしている今もクリオシタの母ちゃんは心配してんだからさ」
そう言ってパンを口に運ぶ。
「うん。でも気を付けて行ってきてね」
「俺よりもオネスタの方だろ」
「私?」
「あの件が起こってから初めて俺がこの街を出るからだ」
カントネの騎士団長が何者かに殺された事件。あれ以降、ステラはカントネを出ることはなかった。仕事も極力カントネ周辺で出来ることだけで済まし、遠出が必要な仕事は一度も行かなかった。警戒していたのだろう。
「クリオシタがここに来たのは騎士団長が死んだ後の事だ。ちょっと時間が空いてるが、これはたまたまじゃないかもしれない」
「あの子が悪いってこと?」
「そうは言ってない。ただ、利用されてるのかもしれない。俺をここから追い出すために」
あくまで可能性の話だ。あるかもしれない可能性、だからオネスタも否定できない。
「それは、そうかもしれないけどそんなのわかんないじゃん」
苦し紛れの反論はもはや何の意味もない。
「だからだろ。もし何かあったらジュスティスに助けてもらえ。一応頼りにはなるからな」
「わかった」
抵抗するように小さな声でオネスタは呟いた。
そうするとステラは悲しそうに肩を竦めた。
「暗い話ばかりでごめんな」
「ううん。私の事心配してくれてるのはわかってるつもり」
「当たり前だろ」
「うん。ありがとう」
言いたいことを言い終えたのか、ステラは残りのパンを口に運び始めた。
心配してくれていることはよくわかっているつもりだった。オネスタはそれが許せなかった。出会ったころに比べて、自分は強くなった。能力もより上手に使えるようになったし、筋力も訓練の間に上がったと思う。しかし、信頼されているとは感じなかった。人としての信頼ではなく、『頼れる人間』としての信頼をオネスタはステラに向けて欲しかった。
「まあでも、何にもないのに気を張っているとクリオシタちゃんを不安にさせちゃうだろうし、頭の片隅に置いておくだけでいいよ」
黙々とパンを口に運ぶ合間にステラがそんなことを言った。
「わかった」
適当に返事をすると、会話は途切れてしまった。
自分がどんな表情をしているのか、想像もしたくなかった。
「そんな顔すんなって。頼りにしてるから」
よほど顔に出ていたのだろう。食べ終えるとステラはオネスタの肩を触った。顔が赤くなっているのが自分でも感じられて余計に顔を俯いてしまう。多分これは嬉しい気持ちと恥ずかしい気持ちが混ざっている。
「よし、飯食ったし。もう行くな」
ステラが手を離すと、肩の温もりがなくなってしまった。
「うん。いってらっしゃい」
「行ってくる」
家の外は思ったよりも冷えていて、オネスタは思わず身震いしてしまう。霧でもかかっているのかと辺りを見回すが、そんなことはなかった。
見送ると、ステラは街の外まで歩いて行った。やろうと思えば静かに飛ぶことも出来るだろうが、どうせ飛ぶなら気持ちがいいほうが良い。それをやろうとすると街の中では他の人に迷惑がかかってしまうので、外に行ったのだろう。
ステラの姿が見えなくなり、森が激しく揺れたのを確認してオネスタは家の中に戻った。
ベッドには穏やかな寝顔を惜しげなく見せるクリオシタがいる。その寝顔があまりに無防備すぎるので心配になるくらいだ。
もう少し時間が経てばクリオシタも起きてくる。その時のためにオネスタは朝ごはんを用意しておくことにした。相変わらず凝ったものは作れないが、それでも朝ごはんぐらい用意してあげるのが年長者としての義務だとオネスタは思う。
そんなわけで完成したのがお肉を挟んだパン。それはステラが作り置いていた物を挟んだだけと言う物だった。料理が出来ない自分を鑑みて、このままではいけないと言う焦燥感はあるがうまくなろうとしても手順がすんなりと頭の中に入り込んでこないのだ。
金属製の包丁の使い方も、土釜の使い方も、野菜の切り方も、調味料の違いも分かるがそれらを組み合わせて複雑な「料理」をしようとすると途端に理解が追い付かなくなる。
それが料理が下手な人間の思考で、オネスタの思考だろう。
「今日はクリオシタちゃんをソルレアやフランに合わせてあげようかな」
思いついたことを適当に呟いてみると存外、悪くないような案に思えた。クリオシタも年の離れた自分よりも同年代の子供の方が楽しいと思うだろう。
食卓のある部屋にあった本をぼんやりと眺めていると、やがてクリオシタが扉を開いた。
「起きたね。おはよう」
「おあよう」
くぁと豪快な欠伸をすると、クリオシタはオネスタの対面の席に座った。
朝ご飯を求めているのだろう。そう思ったが中々食べ始めないのでオネスタは言った。
「それ、食べていいよ」
「いただきます」
バクバクと齧りつき、一分しないうちにパンはなくなってしまった。
冷たい水でパン流し込むとクリオシタは両手をパチンと合わせた。
「ごちそうさまです」
「はーい」
読んでいた本を置き、オネスタは皿を回収して水に流し専用の石鹸で汚れを落とす。油が残っていないか指で確かめるとタオルで水滴を拭き取った。
振り返るとさっきオネスタが眺めていた本をクリオシタが真剣に読んでいた。
オネスタは自分よりも年下の少女に見入っていた。オネスタは余り字を読むのが得意ではない。かって両親は生活を切り盛りするので精一杯で本を買うお金がなかったし、富豪一家では本はあったが簡単な文字を最低限教えてもらえただけだった。
だからオネスタはクリオシタが羨ましかった。
「その本面白い?」
「難しくてよくわかんない」
「そうなの?」
「うん」
本の内容が難しいようだ。思い違いだったのでは、とオネスタは識字能力の有無を確認することにした、
「クリオシタちゃんは文字は読めるの?」
少し悩んでクリオシタはバツが悪そうにつぶやいた。
「ちょっとだけなら……」
「へえー。私と同じだね」
「本当!?」
「え、うん」
「そっかー。じゃあクリオシタはすごいんだ」
年上のオネスタと同じ程度の識字力だと知って自分はすごいと思ったようだ。クリオシタが急に大声を出したので驚いたが、嬉しそうに笑うクリオシタを見ればまあいいかと思ってしまうオネスタだった。
「実はお姉ちゃん、本読めないんだ。どんなことが書いてるのか教えてくれない?」
内容が難しくても、題名や主題としていることぐらいはわかるだろうと思い、オネスタは聞いてみた。
「うーん。歴史って言うやつ?」
「この国の?」
「うん。多分」
「へー。私はあまり興味ないかな」
「クリオシタはね、ちょっと面白そう。ほら、ここにね。でっかい壁が書いてるよ」
どれどれとオネスタが見てみると自分が読んでいる時は気づかなかったが、壁が円の形をしている絵が描かれていた。
「これがこの国を囲ってるらしいの。それでね、クリオシタは壁の外がどんなのかなーって気になったの」
「外って、そんなの考えたこともなかった」
どこかで聞いたことがあるが確か壁の外に行くのは禁止されていたはずだ。こんなものに興味を持つ幼児を奇特と思いつつ、楽しそうだしいいかとオネスタは思った。
「クリオシタもっと他のも読んでみたい」
「他にもかあ。ジュスティスさんの所にあったような……」
ジュスティスは能力に関することにはかなり詳しい。能力の種類や能力のそれぞれの強度や出来ることの幅や能力の歴史なんてのも知っている。オネスタは自分が読めもしないものに興味は持てないので知らないが、ジュスティスの家には書物がたくさん置いてある。
「行きたい! 行こうよ!」
ソルレアやフランテロに会わせたいという思惑もあったが、キラキラと目を輝かせる子供の気持ちの方が尊重するべきだと判断した。
それに、オネスタは焦る必要はない。差し迫った何かがあるわけでもないし、クリオシタの母親にだって頼んでみれば案外しばらくカントネにいてくれるかもしれない。フランテロ兄弟がどこかに行ってしまうこともないし時間はたっぷりある。
「よし。じゃあ行こっか」
オネスタがそう言うとクリオシタはわーい!と喜んだ。予習のつもりなのか、うきうきしながら本をもう一度読み始めた。難解な文字はわからないなりに読み進めているのだろう。
「いやクリオシタちゃん。今から行かない?」
「え!? いいの!?」
ガタガタと席を揺らしクリオシタが立った。
「いいよ」
グッと親指を立ててパチッと片目をつぶってウインクしてみた。
この時間なら寝ているかもしれないが、まあ問題ない。ジュスティスなら子供のために起きてくれるからだ。
やったー!再び喜ぶクリオシタを眺めつつ、オネスタは使った皿を洗い準備を済ませた。やがて皿洗いを済ませると、タオルで手の水滴を吸い取った。
「準備ばっちりだね――ってちょっと!?」
振り返るとちょうどクリオシタがドアを開けた音が聞こえてきた。そのままオネスタの「待ってー!」も聞かずに外に出て行ってしまった。
オネスタは残りの水滴を払い落とし、食卓のドアを潜り抜けた。外に出る扉を見るとクリオシタが少し先で手を振っている。どうやら早く来いとの事だ。
回復が異常に早かったり、オネスタの読めない文字を読めたりと驚くことが多かったがああしてみると年相応なところもあるなとオネスタはぼんやり思う。
外を見ると昨日からは考えられないほどの快晴で、自然と気持ちが高揚する。地面の水たまりが反射して眩しかった。
仕事に向かう人がちらほらとクリオシタの横を通りがかり、時々不審な目を向ける人もいた。見かけない少女が気になるのだろう。
扉を閉める際に、家の中を見渡しオネスタは呟いた。
「行ってきます」
扉の閉じられた家の中は、一切の物音が消えて静かになった。