第十五話 初仕事
街から大きく外れたそこは森、いや山と言うべきだろう。傾斜はきつく、樹木以外にも高らかに雑草が伸びている。森と違って人が歩けるような空間はない。
訓練開始から3ヶ月ほどだった今日、オネスタはジュスティスの許可の元にステラと初めての仕事に出ていた。
「オネスタ、歩けるか?」
草木をかき分けながら後ろを向いてステラは言った。
「大丈夫。歩けるよ」
オネスタは答える。もちろん服はワンピースなどではない。肌に傷がつかないように一切の露出を抑つつ、動きやすいように薄い服だ。
一緒に住み始めて、オネスタはいつしかステラに対する口調が変わっていた。それはオネスタに心の余裕ができた事とステラへの信頼が生まれたことを意味している。底抜けに明るいステラとの生活はオネスタに元気を与え今では街の人々とも親しくなっている。
「よし。たまに蛇とかいるから気をつけろよ。ほらそこ!」
「いや!」
蛇や虫が苦手な女は多い。例に漏れることなくオネスタも苦手で蛇と聞いただけでも悪寒が走る。実際にいる、足元を指摘されオネスタは飛び上がる。
それと同時に、オネスタの周囲に煙が生まれる。
「おおー。これ何回見ても慣れねえな」
ステラがケラケラと笑って煙を手で払う。
「もう。やめてよね」
そう言ってオネスタは人差し指でステラの額を弾く。訓練の成果というか末路というか、以前は命の危機が迫れば発動していた能力が、びっくりしただけで発動するようになった。それがいい事なのかどうかは街でのオネスタの様子を見ればわかるだろう。
「面白いからいいだろ?」
他人から家族のような存在に変わったたせいか、ステラはオネスタを弄るのに容赦がなくなっていたことも大きな変化だ。
「よくない。恥ずかしいのこれ」
驚きが原因の煙の場合、それを見た人はオネスタが驚いているとすぐにわかる。自分の感情が目に見えて現れるというのはオネスタにとって恥ずかしいことなのだ。
「そんなに嫌?」
「……ちょっとなら」
「わかった」
ステラが立ち止まる。そのことにオネスタは気づかず、頭を背中にぶつける。文句を言おうと頭を上げるとステラが右手で静止を促していた。
肩越しに向こう側を見ると今回の目標である巨大な猿のような生物が、何やら首を動かしてうろうろ徘徊していた。
「ゴウジュウキヒだ」
全身を覆う毛はその数のせいで実際の体の形が把握し難くなっている。顔や四肢は比較的薄めになっている。だがその手足は大木のように太く大きいはずの体が小さく見えて非常にアンバランスだ。体毛が真っ赤であるのは、森の緑や雪の白さに溶け込まなくとも他の動物に襲われる心配が無いことを表している。
ステラが能力を使って探したおかげで、大猿までの距離はかなりある。小声で話す分には気づかれることはないだろう。
オネスタは森に入る前に行った作戦会議を思い出す。今回狙う大猿は群れを作ることなく、単独でのみ行動する。唯一、繁殖の最中は一日中雄雌二頭でいる。だがそれはレアなケースであるので考える必要ない、とジュスティスは言った。警戒心が高く、普通に近づくのは不可能に近い。オネスタは空中から攻めることを提案したが、大猿は聴覚が特にいいらしく却下された。そこで、オネスタの能力が必要になる。
「作戦開始」
ステラが小声で呟いた。それを聞いてオネスタは頷き、ステラの右腕を下げ歩みを進めていく。
作戦はこうだ。あたかも森の中で迷った人のようにオネスタがゆっくりと大猿に近づく。その時、オネスタは直接大猿の方を見ないように心がける。すぐに気づかれるだろうが貧弱な人間一人ということが分かれば大猿はそこまで身構えない。むしろいい餌だと思って近づいてくる。それが狙いだ。近づいたところでオネスタは大猿を直視する。そうすれば至近距離で大猿を見たショックでオネスタの能力は発動する。
作戦は順調だった。見ないようにしてゆっくり近づき途中で気づかれた。だが次の瞬間、オネスタはあまりの轟音に耳を塞いだ。近づいてくると思われた大猿が突然叫びだしたのだ。オネスタは轟音で肌が震えるのを感じ、混乱した。それは、離れたステラの耳にまで届いていた。
それが収まると、ステラは即座に動いた。
「オネスタ逃げるぞ! こいつらはつがいだ!」
オネスタのいる方へ走りながらステラは叫ぶ。だがそれがいけなかった。ステラの声に反応したオネスタは後ろを振り向き、無防備な背中を大猿に向ける。
その隙に大猿はオネスタのすぐそばまで走り、太い腕を振りかぶる。そこまで来てようやくオネスタが大猿に気づく。
直撃寸前で能力が発動し、強烈な光が炸裂し、鼓膜を破りそうな雑音が鳴り響く。大猿の視力と聴力を一時的に奪うことには成功したが、腕の勢いまでは止まらない。オネスタは倒れるように逃げたが左腕に大猿の腕がかすってしまった。
だが突然の光と音にたまらず大猿は唸り声を発し、蹲る。オネスタはステラの方を見て助けを求める。足止めは出来てもオネスタに殺す力はない。
すでに恐怖でいっぱいだったオネスタはさらに希望を失った。ステラも大猿と同様うずくまっていたからだ。助けようとして、真っ直ぐオネスタの方に向かったステラも能力の影響を受けたのだ。
オネスタは頭が真っ白になるのを、足をつねることで何とか抑える。ステラは能力のおかげで人よりも回復が早いが、それは比較対象が人間だった場合の話。この大猿が人並みの回復力なのかそれ以上なのかオネスタには判断が出来ない。ここにはジュスティスはいない。今頃自宅で酒でも飲んでいるだろう。助けは来ない。つまり、この状況でオネスタのとるべき行動は、抜けた腰を無理やり動かしステラの方に向かうことだ。
「動け動け!」
足を叩き、勇気を奮う。近くにあった木を支えに立ち上がり千鳥足で歩き出す。大猿はまだ悶えている。時間に余裕はある。焦る必要はない。
そう言い聞かせ、オネスタは確実に大猿と距離をとる。だんだんと足取りはまともになり十秒後にはまっすぐ歩くことに成功していた。そして、オネスタはステラの下に辿り着く。
すぐさまステラの肩を叩き、無事を伝える。
「ステラ! 私だよ逃げよう!」
「よかった。でももうちょっと待って後十秒」
「わかった。後十秒だね――」
言い切った瞬間、再度オネスタの耳に轟音が届く。たまらず耳を塞ぎ後ろを振り返る。さっきの大猿。やつはまだ悶えている。回復力は人並みのようだ。つまり、咆哮の原因はさっきの大猿ではない。さらにその奥にもう一頭、別の大猿がいた。
「ああ。つがいってそういう意味なのね」
オネスタの呟きは大猿の方向にかき消された。そして大猿は二人のいる方を向いた。
まるで織姫と彦星の感動の再開かと思うほど、オネスタは大猿と目が合った。肩が揺れてその衝撃で煙が焚火ほど出た。汗が頬を伝う。刺激しないようにうまく動かない表情筋を使い笑顔で手を振ってみると、大猿は走り出した。
「あの、ステラさん。まだですか?」
「いやいける」
大猿の進撃に合わせて揺れる地面は立ち上がることさえ困難なはずだ。左腕を除けばほぼ無傷なオネスタは座りっぱなしだ。
ステラは難なく立ち上がるとオネスタの前に立ち、
「待ってろ」
そう言って右足を大きく後ろに突き出し、腰を低く構えた。どうするの、とオネスタが聞く前にステラは動いた。地面を削る音が鳴り、立っていたはずの場所から消えたようにオネスタは見えた。そして再び、大猿の声が響いた。だがそれは咆哮ではなく、悲鳴だった。大猿の走りと自身の勢いを合わせて、ステラが大猿の顔を蹴り飛ばしたのだ。
顔を押さえて倒れた大猿にステラは追撃をかける。ガンガンと、ステラにしては容赦なく何度も顔面を殴り続けた。何とか逃れようと抵抗する大猿は一発、また一発と貰っていくとまもなくして微動だにしなくなった。
「よし帰るぞ! 今日はごちそうだ!」
「わ、わかりました!」
ステラは右手で大猿の足を掴み左手でオネスタを抱きかかえ勢いのまま空へと踏み出す。
ごちそうはかまわないがオネスタはそれどころではなかった。飛ぶのであれば、今回の獲物であるバランスを心配するほどの大猿。そいつを殴る、いや、殺している時のステラの必死な表情。その光景をオネスタは忘れられなかった。
激しい風から目を逸らし、振り返って見たさっきまでいた森からは最後までオネスタの能力のによって苦しんでいた大猿の叫びが聞こえてきた。