夢を見る者~せめて今宵だけは
作者はよく、趣味と技術向上を兼ねて他の方の小説を読ませていただいています。
最近はブログで知り合った方の小説も読ませていただく機会もあり、非常に興奮と感動を覚え……はい、自分の未熟さに打ちひしがれたり励ましていただいたり筆が遅れたり更新遅れて申し訳ありませんでしたぁぁぁあああああああああ!!!!
これからもご愛読の程宜しくお願いします(焦)
潮の香りが鼻先をくすぐる感覚。
波音に連なって揺れられ、船体が軽く軋む音。
太陽に照り付けられキラキラと反射する水面に、吹き抜ける潮風が心地良い。
船旅は初体験となるレックスには、どれもが未知の体験だった。
「凄げぇ……!海がこんなに広かったなんて知らなかった!」
「呆れた。まさか本当に海を水溜まりか何かと勘違いしてたなんてね……」
甲版の端の柵に捕まりながら感動の声をあげるレックスと、興味津々とはしゃぐ姿を見て皮肉混じりに微笑むニーナ。
組織が保有する船の中でも最も上等とされる、表世界でも数少ない汽帆船(帆船の外装と蒸気機関を併せ持つ船)の旅路は非常に快適だ。
勿論船の運用に必要な航海士や船員だけでなく、お抱えの医者や料理人、万が一に備えての船大工まで居るという徹底ぶりに、ジガードが今回の契約にどれだけ念を入れているのかが垣間見えた。
聖杯の導きによって知ることが出来た金獅子の眠る場所……かつての魔導大国アトランティス跡地。
大陸のほぼ中央に位置するその場所は本部から陸伝いで向かうには進路も長く、万が一途中で敵に集団で襲われた場合孤立無援となる。
そこで途中……大陸の東側までを船で移動し、その後に陸路で目的地に向かうというルートが提案された。
これならば労力を最低限に出来るうえに、レックスの護衛についても都合がいい。
よって今回レックスの傍には通常の任務とは比較にならない人数が一緒に行動している。
レックスは今回の任務に出立する前に、久しく顔を見ていなかった仲間達の元へ会いに行った。
本部襲撃事件の後、契約へ至る試練にほぼ全ての時間を費やしていたため、レックスは二ヶ月間ほど仲間達に顔を見せることが出来なかった。
その上契約を結ぶのに掛かる時間は想像が付かず、下手すれば数ヶ月…或いは一年以上顔を出せなくなる可能性すら有った。
命懸けの選択に何の相談もせず踏み切った事を咎められるのではないか……とレックスは内心不安だった。
しかし久方振りに合った戦友達はレックスを温かく迎え、励ましてくれた。
顔を見せなかった理由や命に関わる危険な契約に臨むことを伝えたときには流石に叱られたが、最終的にはレックスの覚悟を認めてくれた。
フランツは態とらしくゴホン、と呼吸を整え『必ず生きて帰ってこい。お前にはでかい借りがあるからな』と不器用ながらに応援してくれた。
エレンは冗談なのか本気なのか分からないが『契約が成功したら……レックスのこと拝まないとかな?お腹一杯ケーキが食べれますようにって』などと言って緊張を解してくれた。
ラッセルは驚愕に目を見開いた後、力強い笑を浮かべながら『昇格した途端に生意気な態度取ったら許さないからな』と肩を叩きながら激励してくれた上に道中の護衛に就いてくれた。
その後アイリスと合流し、皆でカイルの墓参りを行なった。墓石を綺麗に掃除し、花を添えた後でアイリスは言った。
『カイルに会いたいって気持ちは確かにあるけど……すぐ逝っちゃったらきっと、怒られちゃうから。だから死なないでね』と。
自分が仲間を想うように、仲間達もまたレックスを想っていてくれた。
その事にレックスは確かな勇気と、必ず生きて戻ってくるという決意を新たにした。
「それにしても……ソフィールは今頃何処に居るんだ?」
レックスの声に影はなかった。
暫くぶりに顔を出そうとしても会えなかった少女に対して、多少の不満はあれども危機感は抱いていなかった。
ソフィールを探して後宮を訪ねた際、護衛を務めているセシリアに言われたのだ。
『巫女様は療養の為に本部を離れ、今は遠く離れた別宅にて羽を伸ばしておられます』と。
聖騎士の一角であるセシリアの言葉だけあって、レックスはすんなりと信じていた。
エキドナの能力の前には高い城壁も数百の衛兵も意味を為さない。
その侵入を防げるのは神が織り成す高位の結界だけであり、現に本部の各要所には襲撃以降強力な結界が張り巡らされている。
ならばこそ、強固な結界と聖騎士が守る後宮にソフィールは居ると相手も察する筈。その思考の裏を掻いて余所の場所に巫女を移したとしても矛盾はないからだ。
レックスは考えもしなかった。
セシリアの実の妹であるニーナが『契約前に余計な心配を掛けさせてはならないから』という理由で口裏を合わせてもらっていたという事実など…。
「そうね…何処にその別宅があるかは私も知らないけれど、ゆっくり休んでいて欲しいわ」
ニーナは知っていた、ソフィールは後宮の自室に籠っていることを。
知った上でレックスには嘘を伝えていた。
侍女が言うには本部襲撃の後、ソフィールはとても思い悩んだ様子で食事もロクに喉を通らなかったらしい。
それでもニーナやアイリスを始めとする親しい間柄の隊員には心を開いていたが最近は彼女達でさえ滅多に会わなくなってきた。
彼女の部屋の扉の前に立てば、中から押し殺したような嗚咽が鼓膜に届き……誰もその扉を叩こうと出来なかった。
ソフィールの変貌は丁度、ニーナがレックスと想いを通わせた日と重なる。
それに気付いてももう……彼女は自分の想いを止めることなど出来なかった。
何も支障は無い筈だ。
レックスの契約を邪魔することがないように、ソフィールは無事だと嘘をついても問題はない。
自分の殻に篭って足踏みしていたソフィールを差し置いてレックスを手に入れても、何の罪も落ち度も無い。
後ろ髪を引かれる感覚は確かにあった。
だが同情でレックスを手放す気は無い、それを差し引いたとしても契約に挑むレックスにソフィールの状態を伝えるのはリスクしか無い。
間違ってなどいないはずだ、と…ニーナは誰に言うでもなく口内で呟いていた。
ふとニーナは海原を見渡す。
陸地から遠く離れ、波間を縫うように進む船に、ふと不安を感じた。
地を踏みしめることが出来なければ、自分の足で前に進むことさえ出来ない。小さく揺れ動きながら進む様子は動揺を隠しきれていないようだ。
果たして自分は……正しいことをしているのだろうか?
鮮血の騎士団・本部―――――
レックスが金獅子との契約に向かった―――その情報はラッセルからエキドナを通してアーサーまで伝えられた。
邪神の最大の障害にして最強の神である金獅子の行方、それは鮮血の騎士団にとっても喉から手が出るほどに欲しい情報だった。
その神との契約を為すべく選出された【人間】が現れた―――本来ならばそれは待ち望んでいた情報だった。
しかし、アーサーはエキドナからの報告に対して耳を疑った。
疑問を感じたのは金獅子の行方に対してでもなく、また契約者候補が現れたということでもなく……他ならぬ、レックスが選定されたという点だった。
報告を受け、身動き一つ見せないアーサーの姿に疑問を抱き部下達に動揺が広がる。
それも当然だろう。レックスの【正体】に気付いているのは飽く迄アーサーのみ、他の部下達からすればレックスもまた敵対する人間の一人に過ぎない。
部下達の様子から状況を把握した総帥は、何処までも冷静に言葉を選び、命令を下した。
「済まん、長年待ち続けた吉報に感極まっていた。
今すぐにでも精鋭部隊による追跡を掛けたいところだが……標的の護衛に予想以上に力が入っている。
特に厄介なのが……剣隊員がエース『土縛』のラッセル、そして聖騎士が一角にして死天使の契約者シリウス。
主力とは言い難いが戦斧隊員の士気が予想以上に高いのも厄介だ。急拵えで仕掛けてはこちらが痛い目にあうだろう。
よって現段階では追跡・報告はエキドナに一存、諸君らは各々の任務に就くように……以上だ」
部下たちを下がらせた後、エキドナを呼び付ける。
視界にその顔が映るたびに、一瞬胸を締め付けられる痛みを感じるのは致し方ないことか。
だがそんな感傷に浸っている場合ではない。
「エキドナ……本当に奴が、レックスが選ばれたんだな?」
「えぇ、間違いはないわ。
聖杯の導きによって資格を得た者の名はレックス。
それを呼ぶ神は金獅子……こうも早く捜し物が見つかるなんて思いも…」
エキドナの言葉を区切るように、アーサーは自身の右拳を卓上に叩き付けた。
「有り得ない……奴は【屍喰らい】では無かったと言うのか!?」
アーサーの脳裏に鮮明に蘇るレックスの姿。
戦友を目の前で殺され、絶望と殺意にその双眸を染めた【人ならざる者】の姿。
血の如く紅い眼に睨まれただけで、全身から震えが止まらなくなった。
喉の奥から唸りを上げる、呪詛の言葉が鼓膜を震わせただけで体内から熱が奪われていくようだった。
【神】としてはまだ不完全である【神格】の魂にも感じられた……あれは正しく『神を拒絶する存在』だった。
絶対者であり君臨する者である【神】を拒絶出来る存在は一つしか無い。
それこそが【屍喰らい】、邪神自らが生み出した唯一の同胞にして最強の戦闘奴隷。
聖戦の折、人間と神々の同盟軍を相手に邪神が互角以上に渡り合えた最大の要因こそが屍喰らいの軍勢だった。
開戦当初、邪神の手によって多くの魔物達が生み出されたがそれは大きな驚異としては成り立たなかった。
力はあれど知性は無く、頭数はあっても統率のない魔物では連携の取れた人間軍には勝てなかったのだ。
その戦況を一変させた存在こそが【屍喰らい】だった。
それらは人間と同等の知性があり、連携も取れた。それでいて個々の力は人間とは比べ物にならなかった。
何より驚異だったのは屍喰らいの神への敵対心と、その血の毒性だった。
本来、人は神を傷つけられない。
信仰心など微塵も持たない無法者でも、神を目の前にすればその存在に平伏すことしか出来なくなる。
次元が違うとしか言いようのない、圧倒的な格の違いがあるためだろう。
しかし屍喰らいは違った。
神が眼前に立ちはだかった瞬間、奴等は人間の相手をしていた時とは比べ物にならないほどの殺気と怒気を漲らせて襲いかかったのだ。
邪神自らが創造したであろう肉体は神でさえ掴み掛り、殴りかかり、挙句引き裂くことさえ可能だった。
無論神の力は絶大だったが、それをもってしても屍喰らいの先頭意欲を削ぎ落とすことは出来なかった。
逆に、その身を引き裂かれながらも首だけとなって、或いは死んだ同胞の肉体を盾としてまで神を殺すことに執着する姿に神々でさえ畏怖を覚えた程だ。
そして屍喰らいの血、先に述べた要因が精神的に作用する驚異ならばこちらは物理的な驚異だった。
奴等の体から流れ出た血は神以外のあらゆる命を腐敗させ、瞬時に消滅させるほどの猛毒だったのだ。
神でさえも、力の弱い神(地獄犬等)では返り血を数滴浴びるだけで全身を激痛に蝕まれ、上級神であっても大量に返り血を浴びればその毒性に耐え切れずに苦しむ程の毒性だった。
規模こそ人間達の軍勢と比べれば三分の一にも満たない程だったが、その軍勢によって出た損失は余りにも大きかった。
唯一の救いは邪神が封印された際に殆どの個体が後を追うように死滅したことと、残った少数も残党刈りによって始末されたことだった。
それが無ければ今頃地上を支配していたのは人間ではなく屍喰らいだったであろうと想像するのは容易かった。
アーサーも過去に聖戦で屍喰らいと対峙し、苦戦しながらも数多の首を挙げたことがあった。
その時眼前の敵から発せられた纏わり着くような殺気は今も尚鮮明に思い出せる。そしてそれはあの時レックスから発せられた殺気と全く同一のものだった。
その核心が有ったからこそ、レックスに予言を授けて見逃したのだ。
その身其のものが禁忌とされる化け物だからこそ、訪れる先は二つに一つしかないと……
【邪神】を手中に収める自身に屈服するか、人類の敵として断罪の十字に滅ぼされるかの二択しか無いと……!
「エキドナ……決して奴から目を離すな。
何かがおかしい、まるで巨人の掌の上で踊らされているような感覚だ。
レックスと、そして周囲の反応から決して目を離すな、最重要事項として徹底しろ」
「御意……」
空間の裂け目にエキドナが消えて尚、アーサーの心中は決して穏やかにはならなかった。
――――船内・レックスの私室
レックスは調子が良かった。
契約への試練に挑んでいたときは四六時中悪夢と重圧と、そして何よりも強い憎しみに魘され続けていた。
しかし試練をクリアしたときから、今のところ全てが順調に進んでいた。
聖杯の導きによって金獅子に選ばれ、仲間達との絆を再認識し、今も仲間達と共に順調に海路を進んでいる。
ただ一つだけ気になることがあった。
レックスは先程仲間達と共に船内で口にした夕食のことを思い出していた。
ニーナやラッセルと言った馴染みだけでなく、今回の任務に就いて来てくれた団員達とも囲む賑やかな食卓(シリウスだけは居なかったが)。
元々レックスは大勢で食事を取ることが好きだ。昔、ロクに口に出来る量の食料が得られなかった頃も食事は必ず家族全員で食べていた。
それだけ家族との、仲間との繋がりを尊ぶのがレックスの性格だ。
しかし……
ラッセルが首を傾げながら尋ねた。
―――『どうした?全然食べてないじゃないか?』
ニーナが不安そうに眉を潜めながら呟いた。
――――『変ね……前は好き嫌いなんて無かったわよね?』
レックスは此処暫くマトモに食事が取れていない。
空腹感が以前に比べて希薄になりつつあるのは分かる。恐らく契約への試練の第一関門・【洗礼の間】において何らかの変化を来たしたのだろう。
一月以上の長い間、月明かりさえ存在しない暗闇の中で闘い続けていたと聞かされた時には自身が一番驚いたほどだ。
何せレックス自身……どれだけ闘っていても空腹を感じなかったせいか、中に居た時間は精々十時間程度だと誤認していたのだ。
だからこそ、ニーナが【一月以上睡眠も食事も取っていない】と叱咤してきた際に大袈裟なものだと苦笑していたというのに……だ。
それからというもの、思い返してみれば見るほど自分の肉体に起きた変化に困惑している。
どれだけ体を動かしても、どれだけ長い間任務を熟していても、全く空腹を感じない。
それでも仲間に誘われれば食卓に着くのだが、どんな料理を見ても食欲が湧かず殆ど喉を通らない。
試練の合間にニーナと食事を共にしたときはまだ『緊張が解れていないだけだろう』と納得することも出来たが、流石に此処まで来ると異常でしかない。
試しに手の中で弄り回していた林檎(甲版の樽から拝借)を一口齧る。
果実特有の耳に心地良い咀嚼音と共に新鮮な果肉が口内に転がり込むが…
「………っ!」
思わず屑箱に吐き捨ててしまう。
思ったとおり、味が感じられなかったのだ。
穀物も果物も野菜も、殆どの食材から味というものを感じられなくなっていた。
唯一の例外は肉と魚だが……それらは味というよりも不快感しか感じられず結局まともに食べられるモノでは無かった。
夕食の席ではせめて栄養は取らないと、と訴えるニーナに応じて牛乳をたらふく飲み下したが、一人になった後で厠で全部吐いてしまった。
(もう寝るか……少なくとも体調に支障は無いのだから……)
口内で呟きベットに横になる。
波音を子守唄に、目蓋を閉じればすっと眠りの世界に誘われる。
レックスは夢を見る。
―――――――――熱い命を迸らせて倒れた御馳走を、無我夢中で喰らい続ける夢を
―――――――船内・シリウスの私室
シリウスはずっと考え込んでいた。
ジガードに対する忠誠でも無ければ、マリスの宣っていた予言でもなく……自分が何をしたいのかについて、だ。
神との【契約】…それは新たな聖騎士の選出に最も近い最重要任務。
故に現・聖騎士から一人が護衛につき、途中経過と結果をその目に焼き付けて、報告するという義務があった。
本来ならばその役割を担うのは、三人の中で最も自由に身動きが取れるクリフだったのだが、今回はシリウス自らが志望した為にこうしてレックスに同行している。
普段ならば……普段のシリウスならば考えられない行動だった。
シリウスにとって最も重要なのは【四神】でも無ければ組織でも、世界でもない、ジガードこそが何よりも重要なのだ。
始まりは……もう何年前になるのだろうか。
死天使と契約し、ラース達を皆殺しにした後宛てもなくさ迷っていた時…シリウスは大陸中を練り歩いていた。
行く先々で彼らが見たもの、それはラースの飼い犬として散々見てきた光景だった。
―――――――『お願いします……ご慈悲を……っ』
貧困に喘ぐ老人がボロ切れを被って、震える手で器を作って施しを求める姿
―――――――『寄越せ!これは俺のモノだ!』
仲間に拳を振るって報酬を奪う青年と、怨みがましい視線でそれを見ることしか出来ない少年の姿
―――――――『近寄るな!ゴミの臭いが移るだろうに!』
慈悲を乞うて近づく貧民を蹴り飛ばす貴族の姿
シリウスは思い知った。
アイリーン達と過ごした日々が余りに幸福過ぎたために忘れていたこと。
世界は余りにも不条理に出来ているという実態。
ただ一部だけが満たされて、周りはそれを見て餓えるしか無い世界。
信頼も希望も夢も無い、彼等が望むのは腹を満たすことだけだ。それ以外を考えていては食事にありつけず死ぬしかないからだ。
中にはこの実態に心痛め、救いたいと願う者も少なからず居た。
だが圧倒的な悪意の前に、小さな良心は食い潰されていくだけ……一時凌ぎにもならないものが殆どだった。
路端に倒れ、後は死を待つだけだった人間を見つける度、シリウスは彼等を介錯してやった。
死を司る神である死天使の力を持ってすれば一切の苦痛を感じさせることなく相手を永久の眠りに就かせることも出来た。
介錯を務めた相手は皆、シリウスに感謝の念を伝えて、安らかな眠りに就いていった。
それが悲しかった。
彼等だって幸福に生きたかった筈だ。
そのためにボロボロになるまで抗い、どうあっても叶わなかったから安らかな死を望んだ。
死天使と契約したことでシリウスは【転生】という魂の道筋を知った。
現世にて死を迎えた魂は死天使によって浄化された後に守護神の元へと導かれる。
死天使が命の終焉を司る女神ならば、守護神は命の始まりを司る女神。
守護神の元で魂は祝福を受け、新たな肉体が用意できた時それに宿って再び現世にて生を謳歌するのだ。
しかし、このままでは女神達の行動は無意味になるのではないだろうか?
現世は苦痛に満ちている。
如何に魂の浄化によって苦痛の記憶が無くなっても、如何に祝福を受けて生まれ落ちた命であっても、現世が苦痛という汚濁に満ちている限り直に苦しむことになる。
命はただ生きたいのではない。『幸福に生きたい』のだ。
胸の内に苦しみを抱いて、明日に怯えてまで生きるのは最早拷問に過ぎない。
この世界において転生は……魂を苦しみに縛り続ける枷になっていた。
そんな時、一人の男がシリウスの前に現れた。
絹のような光沢を持つ美しい髪に一見貴族かと疑ったが……彼は貴族でも、平民でもなかった。
シリウスを見て男は言った。
―――――――『君も私と同じ……この世界を憂いている者のようだね』
それがジガードとの出会いだった。
彼はシリウスと同じく、その身に神を宿していた。
そしてジガードは言うには……元々は人間の心は荒廃していなかったのだという実態。
聖戦によって指導者を失い、欲望と暴力によって支配されてしまったこの世界。
しかし嘗て……各々の国が名を持っていた頃は秩序と理念が確立し、人々は多少の差異は合っても幸福に日々を過ごしていたということ。
ジガードは言った。
今の世界を創り出してしまった責任は、魔術という力の回収と管理にのみ目を向けてしまった自分達にも有ると、そして……だからこそこの世界を変えたいと。
その言葉を聞いた時、シリウスは無意識の内にジガードの前で膝を付き、剣を捧げた。
もしも……自身が神と契約したことに意味があったならば、それはこの悲しみと苦痛に満ちた世界を変えることではないのだろうか?
人の身では余りに烏滸がましい妄言だろう。だが神が宣えばそれは真理になる。
死天使が死によって魂を救うならば……ジガードは世界を変革させることで魂を救う。
これならばもう…無意味な介錯は必要ない。
自身の力を、正しき者のために捧げるべく……シリウスは真の主を見出した。
あの時が始めてだった。
他の誰かに救いを求めるのでもなく、他の誰かを虐げるのでもなく……自身が救いを為すべく力になるという希望を見いだせたこと。
だからこそジガードは『絶対』だった。
それにも拘らず……何故今、ジガードの護衛を他者に託してまでレックスを、金獅子を追っているのだろうか?
シリウスが答えが出せようもない疑問に、焦燥に身を浸しているのを見ていた者が居た。
彼女は死天使の一部であり、転生よりもシリウスの傍に居ることを救いとした少女だった。
(―――お願い、少しの間だけシリウスに触れさせて)
シリウスの中に根付く死天使の意識に語り掛ける声。
死天使としては契約者の心が揺れ動くという滅多にない光景を鑑賞したいところだったが、契約は無視出来ないためそれに応じた。
《―――仕様がないわね……少しだけ、ですからね?》
一人しか存在しなかった部屋に突如として現出する存在。
神は肉体を持たない、故に契約者以外の肉眼では捉えることは出来ず、触れることも出来ない。
逆に言えば……契約者には目で見える上に触れることも可能なのだ。
「………っ、どうした死天使?」
突如、シリウスが何も命じて無いにも拘らず顕現した死天使の姿。
しかしその姿は……死天使本来の姿ではなかった。
淡い薄紫色の髪、健康的な色をした肌に、その四肢を包む黒いドレス。
そして顔を上げれば表情を覆う仮面は無く、シリウスが誰よりも愛した少女の素顔があった。
「あんまり落ち込んでるみたいだから……変わって貰っちゃった」
「アイリーン……」
死天使とアイリーンの元で交わされた契約。
それは死天使の一部としてシリウスの魂と結び付く事、そして年に数回ほど、表に出てくることでシリウスと触れ合える事だった。
久方振りの実体の感覚を喜ぶように軽く腕を伸ばし、アイリーンは言った。
「何に悩んでいるのか言わなくても分かるって不思議な感覚ね……魂が繋がってる感じっていうのかしら?」
そう言って彼女は部屋にあったベッドに腰掛け、隣を軽く叩いてシリウスを呼んだ(この部屋に椅子は一つしか無かったため、隣り合って座れる場所はベッドしか無かった)。
シリウスは言われるままに席を立ち、アイリーンの横に座った。
仏頂面のままのシリウスを見てアイリーンは顔を顰める。
「せっかく最愛の恋人が出てきてあげたのに、もうちょっと顔に出しても良いのよ?」
「その口調は辞めないか。この間も死天使が真似してからかってきたのが鬱陶しくて仕方が……」
シリウスの言葉を区切って、その両頬に手を添える。
慈しむように、まるで自分の体温を与えようとするかのように頬を撫でながらアイリーンは言った。
「また表情が固くなってきたね……もっと昔みたいに笑えればいいのに」
その瞳は真っ直ぐにシリウスを見つめている。
何処か悲しげに光る瞳を見つめながら、苦笑混じりにシリウスは言った。
「笑い方か……お前と一緒に劇団をやっていた時には自然と笑えたんだがな…」
今ではこの様だ、と自嘲するシリウス。
その表情を覆い隠すように、アイリーンはベッドの上に膝立ち、そっとシリウスを胸に抱き留めた。
「無理しないで、今までにないくらい……それこそ私が死んだ時と同じくらい想い苦しんでる事は分かるから」
「……俺は……どうすればいい?」
シリウスはそっと胸の内に廻る迷いを口に出す。
「俺は今……初めて主の、ジガードの命令を拒絶しようとしている。
レックスを、殺そうと考えている……っ!」
今、シリウスの側に彼を止められる人間はいない。
全盛期のラッセルならば抵抗することは出来ただろうが、神を失った今のラッセルでは本気を出したシリウスに抗うことは出来ない。
レックスさえ居なければ契約は行えず、金獅子は顕現出来なくなる。
金獅子の憑代か、或いは眠りについている聖域さえ見つければ組織への、ジガードへの報告としては十分過ぎるだろう。
「俺は恐ろしい……あの女が言っていたことが本当なのか、只の戯言なのかを確かめることが…っ!
結論を先送りにするために何の非もないレックスを殺そうと考える自分自身が……っ!」
シリウスは神との契約によって絶大な力を得た。
だが彼の本質は変わってなどいない。
彼は自身に強制し続けただけだ……畏れられる存在になれと、ジガードという救世主を至上とするために、障害を全て排除する存在になれと。
非道な手段も選んだ。
部下を囮に使って見殺しにした事、捉えた敵から情報を得るために拷問に処した事、それは自身が選び決めたことだ。誰に命じられた訳でもない。
それが最も効率的だったからだ。
非道な手段を重ねるほど、死神と畏れられるほど、敵対者はその愚を悟って牙を剥くのを辞める。被害は最小限で済む。
死天使が仮面を付けているように、シリウス自身も強固な仮面を被っていたのだ。
その裏に隠していたのだ……良心が泣き叫ぶ事がないように、流れ出た涙が誰にも見られることがないようにと。
「恐いものは誰だってあるでしょ……貴方は人間なんだから」
震える声を押し隠そうとするシリウスを抱き締めながらアイリーンは言った。
神と契約しようが、最強と謳われようが、他者にどれだけ恐れられようがシリウスもまた人間なのだ。
泣いて何が悪い?
迷って何が悪い?
恐れ、嘆き、悔み、苦しんで何が悪いというのだろうか?
包み込まれるという安堵感に、シリウスの目蓋が重く伸し掛ってくる。
アイリーンが表に出ていられる時間は短いのに…もっと話がしたいのに、そう願っても疲労を訴える肉体は限界だった。
「寝ても平気よ……ずっと傍に居るから、何があっても私は貴方の味方で、貴方を……愛しているから」
「アイリーン……」
シリウスが次に口に出そうとした言葉は、誰にも分からない。
それは守れなかった者への後悔の言葉だろうか?
それとも、再び仮面を着け直すべく己を叱咤する言葉だったのだろうか?
結果は分からない。
この先何が起きるかも分からない。
それでも……せめてこの一時だけは、何も考えず温もりに身を浸しても許されるだろう。
愛する者の胸に抱かれ、シリウスは一晩だけ……己を縛る過酷な宿命を忘れて眠ることが出来た。