追憶_シリウス後編
遅くなって申し訳ありませんでした。
ようやく納得のいく文が書けたため投稿します。
普段より少し長めですがご愛読の程よろしくお願いします。
数日前から降り続く雨は、激しさを増す一方だった。
本来ならば豊かな恵みを齎してくれる雨の訪れは喜ばしいものだが、この時ばかりは祝福するもの等居なかったはずだ。
暗雲を切り裂くように時折轟く稲光、止むことのない大雨とそれに伴って吹き荒れる風。
それはまるで…天が泣き叫び、悶え苦しんでいるかの如く悲痛に見えたのだから…
豪商ラースの館にて__
「…つきましてアースとハリー両名の指揮の元、対象とその近辺にいた者達の身柄を確保されました。
無論、第一目標である例の物も無事が確認されており…」
恭しく膝を付き、任務の完了を報告してきた部下に…ラースは満足げに頷いていた。
シリウスに自身の宝を盗まれて以来、常に額に深い皺を刻んでいたラースの表情が実に数ヶ月ぶりに愉悦に歪んでいる。
事の発端は一月ほど前、シリウスを探して各地に散っていた部下の一人がシリウスらしき人物を含んだ劇団を見つけたということだった。
隠密に情報収集を続けていくにつれ、本人だという確信に至ったラースはお抱えの魔導士達の中でも腕利きの精鋭を配置し、つい先日対象の確保に成功したという。
今はラースの居る街へと対象を護送中だが、直に到着するとのこと。
報告に耳を傾けながら、傲慢な領主は主の手を噛んだ元飼い犬に対してどのような処罰を下そうかと残酷な考えを巡らせていた。
ガタゴトと振動を繰り返す荷馬車の中、シリウスと団員達は転がされていた。
全員に共通しているのは後ろ手に縛られて身動きが自由に取れないということ、そして大小の差異はあれども全員が傷を負っていたということだった。
襲われたのはシリウスとアイリーンだけではなかった。
シリウス達が離れた瞬間を狙って、眠っていた団員達の元にも複数の襲撃者が現れ…結果として全員が取り押さえられてしまったのだ。
一粒の水滴が天井の布地の隙間からこぼれ落ち、シリウスの目元に当たって砕けた。
突然の刺激に驚き、一瞬で意識が戻ったシリウスの目に映ったのは…薄暗く湿っぽい荷台と重なるように寝転がっている団員達の姿だった。
「お前達……っ?」
手を伸ばそうとした途端に締め付けられる手首の痛み…意識を腕に集中させれば背中に回された上に手首の上で固く縛られていることが分かった。
周囲を見れば自分だけで無く、団員達全員…まだ幼さの残る少年少女に至るまできっちりと同じように腕を封じられていることに気づく。
(ちっ…抜かりが無い。せめて一人でも手が使えたなら…っ!)
混乱してはならない。まず分かることから推測を立て、対処法を施行しなければならない。
さもなくば救える命も救えず、無駄に屍を晒すことになる…シリウスは一つずつ状況を汲み取った。
揺れ動く荷台…つまり自分達は馬車か何かで何処かへ運ばれているということになる。
十数人を一斉に、しかも後ろ手に縛られているならば人目に付く場所で降ろされることはないだろう。
向かう先は恐らく、この襲撃を仕組んだ人間の屋敷か何処かだろう。
気になることはもう一つある。
自分とアイリーンを襲った二人組の異常な攻撃。
一人は何もない場所から突然氷で作られた武器のようなものを取り出し、もう一人は巨体からは考えられないほどの速度で襲いかかってきた。
如何に最前線から離れていたとはいえ、シリウス程の実力者が呆気なく蹂躙されることなど有り得なかった筈。
一体あの妙な力の正体は何だったのだろうか?
ラースに仕えていた時でさえ、あんな異常な光景など見たことが……っ!?
(まさか……)
シリウスが脳裏に最悪の推測を思い描いた瞬間、荷馬車の振動が止み、周囲の視界を遮っていた革の一部が開かれる。
「降りろ…抵抗するなら容赦するなとのお達しだ」
シリウスの前に現れたのは全身を黒の軽鎧に包み剣を携えた十人ほどの男達と……もう二度と戻ることはないと思っていたかつての主の館だった。
「ここどこ…?」
「何で僕達縛られてるの?」
無理やり叩き起された団員たちの中にはそういった不満の声も多く上がったが、周囲の男達の有無を言わさぬ視線と高圧的な態度に押さえ込まれ、すぐに沈静化された。
そんな中でも、アイリーンはやはり頼もしい存在だった。
彼女とて心中は穏やかでは無いはずだろうに、そんなことは微塵も表情に出さずに子供達を励ましている。
だが、状況は相も変わらず最悪だ。
シリウス達は現在ラースの屋敷の中の長い回廊を歩いているのだが、前後を武装した男達に挟まれて逃げ出す隙がない。
それでもシリウスだけ、或いはアイリーンと二人だけならば両手を封じられてるとはいえ活路は見い出せただろう。
だがこの場には劇団『月華』の団員全員がいる。
もし自分とアイリーンだけが逃げようとすれば、間違いなく彼らの命は一瞬で刈り取られるだろう。
無論、それが奴等の狙いであり、どうしようと自分達には勝機など無いことなど分かっている。
だが二人にとっては…どうしても団員達を、家族を諦められなかった。
やがてシリウス達はラースの屋敷の地下にある広大な一室に連れて行かれた。
ようやく彼等の腕を縛っていた縛めも説かれるが…既に脱出困難な屋敷の最深部まで来てしまったため、反旗を翻すということも出来ない。
シリウスとアイリーンの二人が小声で対策がないか話し合っていると、二人の男が近付いてきた。
それはあの夜、二人を襲った異質な力を持つ二人の男だった。
そのうちの一方、巨躯からは想像もつかない速度で襲ってきた男が口を開き、威圧するように言葉を発した。
「分かっていると思うが…妙なことは企むなよ?」
冷たく重い声、そして全身から発せられる隠しようのない殺意が団員達に恐怖を伝染させる。
それを見たもう一人の男は、何を思ったか…最初に襲いかかってきた時とは打って変わって剽軽な口調で話し出した。
「止めろよハリー。そんな浅はかな行動を起こす奴だったらこんな奥まで着いて来る筈ないだろぅ?
それにこの場にはこんだけ大勢の子供まで居るんだ。必要以上に脅しを効かせることも意味がない。
そんなんだからお前は女にモテないんだ。もう少し頭の回転速度も速くしたらどうだ?」
相方(と思わしき関係)に対しての軽口にしては…ややキツイ。
実際ハリーと呼ばれた大男は中肉中背の男に対して不愉快そうに眉を潜め反論している。
「…調子に乗るなよアース。俺が貴様のフォローに入っているのは雇い主の命令だからだ。
実力で俺の上に立ったとでも考えているのか…?」
凶暴性を隠そうともせず、ハリーは腰に掛けられている剣へと手を伸ばす。
今は緩慢に見える動きも、男がその気になればまたたく間に視界から消える神速へと化すだろう。
しかしアースと呼ばれた男は涼しい顔で言い放つ。
「そうやって真っ向から勝負を挑もうとするのが…お前さんの悪い癖だ」
「何を…っ!」
まさに一触即発。
ハリーの堪忍袋の尾が切れたのか、剣の柄に掛けられていた腕に力を篭めた…が
「……っ!」
その剣が抜かれることも、どちらか一方が鮮血を散らすことも無かった。
ハリーの握っている剣は…鍔と鞘との隙間を完全に凍らされていたからだ。
よく見ればハリーの両足も床に氷で固定されている。これでは自慢の速さも要を為さない。
小さく歯噛みする相方に、アースは飄々とした態度を崩さず、笑みさえ浮かべて忠告した。
「殺す気があるなら、侮蔑の声を吐く前にまずその命を狩れ。
顔を見せるな、後ろから刺せ。勇ましく在ろうとするな、狡猾で在れ。
俺はそう教わった…お前のところはどうだったかなど知らんがね」
アイリーンを含めた団員達がアースと言う男の底知れぬ恐ろしさに身を震わせていた時、シリウスは一人だけ冷静だった。
それも其の筈、シリウスは襲われたあの夜既に二人の力量の差を感じ取っていたからだ。
シリウスの思考を知ってか知らずか、アースは更にこう続けた。
「実力?確かにお前の『力』の方が俺の『力』より優れているだろうさ。
真っ向から挑めばまず間違いなくお前に軍配が上がるだろう。
だからどうした?
勝つために必要なのは実力だがね…殺すのに必要なのは手際なんだよ。お前さんはまだまだ甘ちゃんだ」
二人の格の違いを決定づけているのはまさしくそれだ。
各々が得体をしれない能力を備えているアースとハリーだが、その一点を除けばシリウスとの力量差は大きくない。
加えてハリーの動きはその速さによって見えなかったが、その思考はシリウスには読めた。
恐ろしいのはアース。彼の動きはまるで読めなかった。
いつの間にか背後を取り、いつの間にか攻撃を受け、終始ペースを握られ続け蹂躙された。
あの飄々とした態度の裏でどれほどの激戦を経験しているのか…それはシリウスでさえ見通せなかった。
ハリーを拘束していた氷を解除し、薄ら笑いを浮かべてアースはシリウス達に言った。
「さて、皆さんの緊張が程よく解れたところで代表者さんお一人にご同行願おうか?」
その目は、一切笑ってなどいなかった。
アースとハリーに連れられ、シリウスが向かった先…そこはもう見慣れた場所だった。
そして同時に、二度と見たくなかった場所でもあった。
部屋の中央に居るのは相も変わらず肥え太った体躯を装飾過剰な衣服で覆った男だった。
アイリーン達と過ごし、人間性を取り戻したからこそ分かる。
欲望に染まった薄汚い瞳、神経を逆撫でするような薄汚い笑み、このような男に、他に方法がなかったとはいえ仕えていたと思うと吐き気がする。
「久しいなシリウス…どうだ、籠の外は楽しかったか?」
「……あぁ、とても居心地が良かったぞ。
外があんなにも快適だと分かっていればもっと早くに居なくなっていただろうな」
精一杯の皮肉を篭めて、嘗ての主に毒を吐く。
表情は冷静に保ってはいるが…シリウスの内心は炎のように激しく渦を巻いている。
何故自分だけでなく、アイリーン達を巻き込んだのかと。
邪魔者さえ居なければその首を今すぐ引き裂いてやるのにと…閉じた口の中で何度も歯を噛み合せる。
そんなシリウスを嘲笑うかのように、ラースはあくまでゆったりとした口調で語り始めた。
「そこの二人と闘った感想はどうだ?
得たいの知れない能力、己が理解を越えた事態…まぁいい気はしなかっただろうがな。
もう少し、ほんのもう少しだけ…私に仕えていれば、お前にも同等の…否、それ以上の『力』が手に入ったものを…」
「力だと…さっきから何を言っている?」
何故自分だけでなく皆を巻き込んだのか、その理由も聞かせず何を勿体ぶるのか?
だがシリウスが思いの丈を口にする前にラースが次の言葉を口にする。
「知っているだろうが、私達が居るこの街も、他の街も全て…歴史が浅い。
精々長くて100年程、これは街の年月にしては余りに短い期間だ。それ以上前に何が合ったか…言ってみろ」
黙れ下衆が、と口から飛び出そうになった本音を必死に飲み下し、シリウスは答えた。
「聖戦と呼ばれる大戦。
それにより大陸中のあらゆる都市国家、文明、人間のほとんどが失われたから、だろう?」
「そうだ…聖戦によって人類は一度リセットされた。
生き延びた極一部の人間が必死になって地を耕し、家を建て、水路を築き、一世代の時を費やしてようやく街並みが蘇った。
だが疑問に思わないか?作ることは難しく、壊すことは容易いと言えども大陸中の文明を破壊し尽くすことなど出来るはずがない。
例えば街一つ壊すのにどれだけの歳月が掛かる?
それも原型の欠片も残さず破壊するとなると最早途方もない年月が必要だ。
一体…かつて我々人類にはどんな英知があったというのか…疑問だとは思わないか、シリウス?」
確かに気になる話ではある。
街の建築物の大半はがっしりとした木の枠組みの上に石と粘土を混ぜ合わせたもので固められて作られている。
これは聖戦の以前から伝わる家の建築法らしく非常に頑丈だ。
木製の家屋と違って火をかけても燃えにくく、倒壊させるのにかかる労力は並みではない。
だが、今のシリウスには百年以上前の人間の英知など興味がない。
今ラースの元にいる間にも、アイリーン達の身に何も起きていないという保証はないのだ。
一刻も速く戻らなければと、気が急いていたシリウスは…とうとう我慢し切れなくなった。
「何が言いたい…何時まで要領を得ない問答を繰り返すつもりだ!
何故俺を連れ戻した!裏切り者ならば即刻殺せば良かったはずだ!
何故団員達まで拐った!俺はともかく奴等は関係ない筈だ!答えろ!!!」
今にも掴み掛ろうとするシリウス。
その腕がラースの首元へと伸びる寸前、その動きは止められた。
何故ならシリウスの喉元に押し当てられる、鋭く研ぎ澄まされた冷たい刃による警告があったからだ。
「流石だなシリウス殿…気付かずに突っ込んでたら今頃体だけ前に進んでただろうに」
アースは微笑混じりにシリウスを褒め称え、静かに自らの刃を引いた。
只の剣ではない。
透き通った透明な刃、冷気を漂わせる刀身はまるで氷で作られたかの如く見える。
大陸の中東に位置するこの街で自然に氷が出来る事など有り得ない。
これは一体…
「それがアースの『魔術』、冷気を生み出し水分を一瞬で凍らせることが可能な能力だ。
今のように武器を作り出すだけでなく、その気になれば相手の血液を凍らせて殺すことも出来る強力な力…素晴らしいだろう?」
「魔術だと?」
呆然と、ただラースの言葉を繰り返し、脳裏に刻み込む。
馬鹿な…何度も同じ言葉が脳内を駆け巡り、その反面本能が自体を受け入れている。
正体不明の力…『魔術』。
この世の常識を壊す力、自分の持ち得ない絶対たる領域。
確かにこんな能力を持つ戦士が相手では如何にシリウスでも勝てるはずがない。
シリウスが事態の概ねを把握したと見るや、ラースは本題に入った。
「実は私の家は聖戦の以前より続いていたようでね、魔術に対する知識と物資を多く抱えていたんだよ。
我が専属の部隊の者達にはこのように各々に合った『力』を持たせていたのさ。
シリウス、お前もその候補であったのだがすっかり不抜けてしまったからな、結局力は与えなかった。
もしお前がその身と幾許かの金銀だけを持って屋敷から出ていったなら…こうして会うことも無かったんだがね…」
そう言いつつラースは部屋の済みの棚に置いてあった『ある物』を手に取り、シリウスに見せた。
「お前はあろうことか…我がヴァーミリオン家に伝わる最大の機密を持ち出してしまったんだよ」
「それは……」
それは見覚えがあった。
奪った金銀財宝の中、一つだけ混じっていた古めかしい木彫りの女神像。
しかも磔にされ、両目が閉ざされたままの見るも無残な像だ。
何度言ってもアイリーンが捨てなかった、あの女神像に一体何の価値があるというのだろうか?
一度手にとって注意深く見返したが…とても値の張るような代物ではなかった筈。
ふとシリウスがラースの手を見ると、それは微かに震えていた。
一体何故、と施行を巡らせる前にラースはゆっくりと口を開いた。
「魔術と言っても万能ではない。それぞれに定められた限界があり、力の差もある。
その中で唯一、力の上限も無く、数多の魔術の中で最強と呼ばれる力がある。
この世界の頂点に君臨する存在…『神』との契約によって為される魔術がそれだ…」
微かに語尾が震えている。
先程までの余裕は見られず、懸命に何かを堪えているように見受けられる。
「我が家に伝わる魔術の中でも、『神』へと至る力は無かった。
たった一つだ。
唯一無二、絶対の…他の全ての財を犠牲にしても…決して!手放すわけにはいかない力だ。
それを盗んだのだよ…貴様らは!」
「っ!!!」
突然腹部に襲い掛かる衝撃に目をやれば深々と突き刺さるハリーの拳が見えた。
あまりの苦痛に膝を付き、腹部を抑えて顔を苦痛に染めるシリウス。
その頭を踏みしだき、ラースは怒鳴った。
「貴様の盗んだこれはただの像ではない!
この世に数多ある魔術!その最高峰である神の力!!その中でも絶対主たる力を秘めた四体の神!!!
二対四極を司る最高神が一角、死天使の憑代がこれなのだ!!!
我が祖父の代から受け継がれてきた…いずれこの世界の頂点に君臨するために護られてきた宝を!!
お前と小娘は奪っていったのだよ!!!
その罪がどれ程重いかわからんのか!!!」
感情のままに叫び散らし、何度も何度もシリウスの頭部を床に叩きつけるラース。
額が割れ、その美貌を血が汚そうと…シリウスは反論した。
「そんなもの、魔術の存在すら知らない俺達がどうにか出来るとでも思うのか!?
こうして手元に戻れば満足だろうがっ…」
「ふざけるな!!!所在が攫めなくなるだけで大問題なのだよ!
第一貴様らに魔術の知識がなくともあの忌まわしい連中が影でそれを狙っていた可能性がある!!!
今もなお闇の中で息衝いているであろう、ジガード達に奪われていた危険性があったのだ!!!」
反論さえ無理やり遮るほどに、ラースの激情は悪化する一方だ。
ジガードとやらが何なのかは分からずとも、その存在がラースにとって忌まわしい相手なのだろうということだけは分かった。
傷口が更に開き、床にべっとりと血が拡がっていくのを感じていると、シリウスの頭に掛かっていた重みが消えていくのが感じられる。
何事かと顔を上げれば、ラースを宥めるようにシリウスの前で主を諭すアースの姿があった。
「主様、此処で怒りのままに踏み殺しても溜飲など下がりませんでしょう?
状況説明も済んだことですし、例の催し…そろそろ始めませんか?」
アースの進言に渋々と言った表情で承諾し、ラースは再びどっかりと椅子に腰掛ける。
ある程度気が晴れたのか、先程までの荒れ様は影を潜めているが…その表情はやはり気色が悪い。
「まぁ聞いての通り…お前には相応の罰を受けてもらうぞ。
私が味わった焦燥感、恐怖、苦痛、絶望…全てをお前にも味わって貰うぞ?
アース、連れて行け!」
「ははっ…」
薄れゆく意識の中、シリウスはただ…団員達の無事だけを祈っていた。
誰に縋ることも出来ず、ただ目についた偶像に願いを訴えていた。
その時、他の誰にも気付かれることはなくとも…『彼女』は一言、呟いていた。
――――――見つけた、と
その頃、地下の一室に幽閉されていたアイリーン達は…
「シドさん、まだ帰ってこないの…?」
「もしかして死んじゃったんじゃ…っ!」「やだよ!そんなのやだ!」
シリウスが姿を消してから数十分、程なくして子供達の間には恐怖が蔓延していた。
アイリーンだけでなく、年頃の娘たちと兄貴分達も必死になって子供達を励ましていたが…効果は薄い。
無理もない。寧ろ…数十分耐えられただけ立派なものだ。
人は予測不能な事態に陥ったとき、自分の最も信頼できるものに縋ろうとする習性がある。
子供達にとってはそれこそがシリウスという存在だったのだ。
だが今、彼らを守ってくれるものは居ない。そうなればパニックが起きるのも必然。
大の大人でさえ非常時には冷静で居られなくなるものなのに、それを子供に耐えろと言う方が酷だ。
「皆落ち着いて!シドなら大丈夫だから!ね?知ってるでしょシドは強い人だって!」
「団長の言うとおりだろ!お前等、副団長が約束破ったことなんかあったか!?」
「もうちょっと我慢しよ?ねっ!ねっ!?」
希望を信じ、懸命に子供達を支えようとするアイリーン達。
それを嘲笑うように、黒い影達が迫っていることに…気付くものは居なかった。
アースとハリーの二人がシリウスを引き摺って『会場』までたどり着いたとき、シリウスの意識はなかった。
怒り狂ったラースに何度も頭部を踏みしだかれ、傷口から大量の血を失った状態で連れ回されたのでは無理もない。
ハリーは忌々しいとばかりに足を振り被り、シリウスの脇腹を抉るように蹴り込んだ。
「ちっ…起きろ!」
「がっ…!?」
無理やり意識を覚醒させられ、静かに苦痛に悶えるシリウス。
必死に呼吸を整え、周囲の状況を確認しようと視界を巡らせる。
「ここは……?」
その視界の先にあったのは…観覧席まで設けられた闘技場だった。
長年ラースの元に仕えていたシリウスでさえ見たことのない施設。
どうやら此処も屋敷の地下のスペースの一つらしい。
地下であっても十分な光源が確保されているのも、一種の魔術に依るものだろうと朧でながらに把握出来た。
だが…その冷静な思考も、闘技場の中央で繰り広げられていた光景を認識した瞬間に思考から消し飛ぶことになる。
「だぁあああああ!!」
団員達の中でシリウスに次いで力も有り、度胸も座っているであろう青年、ライナーが必死になって剣を振るっている。
勿論劇で使っていた小道具ではなく…本物の剣だ。
触れれば肉が裂け、血が飛び散る…命を断ち切れる刃だ。
「うっ…うわあああああ!」
ライナーの相手は…今のところ只の人間のようだ。
ボロボロの服、灰や泥で汚れた体、死にたくないと言わんばかりに必死になって剣を振るっている姿から察するに、ラースの手下に拐われて来た只の人間だろう。
ライナーの後ろでは、団員達の中でも特に幼い…十かそこらの年の子供達が重なるようにして震えている。
人数分の剣は近くに転がっているが、闘う気構えなど有るはずがない彼らには只の重荷にしかならない。
「まさか…貴様ら…っ!」
殺気を込めた目でアースを睨めば、先程までと何ら変わることのない態度で軽く流される。
「主が仰っただろう?同じ苦痛を味わってもらうと…彼等を連れてきたのはこのためさ。
今はまだ只の民間人相手だから良いものの…これから先は…」
その先は聞くまでもなかった。
次はかつてのシリウス同様に訓練を積んだ戦闘員が、更にその次には魔導士達が控えている。
殺し合いではない、一方的な虐殺だ…!
「俺にやらせろ…奴等の分の相手は全て俺が闘ってやる!あいつらを解放しろ!!!」
目を血走らせ、腹の底から声を張り上げる。
その必死な様子に満足したのか、アースはシリウスに言った。
「良いだろう…だがお前が負けたときはあそこにいる子供達だけじゃなく…」
そう言ってアースが指を指した方向には…
「あの女共も犠牲になるということを覚えておけ」
「!!!」
再び後ろ手に縛られ、衣服の所々を引き裂かれたアイリーンと共に、姿の見えなかった年頃の少女たちの姿が見えた。
彼女達のすぐ側ではラースとその側近が賎しい笑みを浮かべて少女達の肢体を舐め回すように見ている。
その光景に…とうとうシリウスの我慢も限界を迎えた。
あっと言う間に観客席から闘技場へと飛び降り、受身も最小限に子供達の側に駆け寄る。
近くに転がっていた剣の中で、適当な物を数本中央付近に投げ、最も自分が使い慣れていた剣に一番近い形状の物を二振り選び、両の手に握り込む。
「ひっ…!?」
シリウスの顔を見た男は、恐怖に身を縮こまらせ、そして次の瞬間には首を落とされた。
その光景を最後まで真近で見ていたライナーは呆然と立ち尽くしていたが、そこに居るのが自分達の副団長だと分かると少しだけ表情を崩した。
だがシリウスは、彼に大丈夫だと微笑み返すことも、よく頑張ったと労うことも出来なかった。
「ライナー、子供達の側に伏せて、決して動くな」
振り返りもせず、冷たく言い放つ。
それがシリウスに出来る最善だったのだ。何故なら今のシリウスの表情は…
「俺が相手だ…纏めて掛かってこい、下衆共…!」
闘争本能のままに荒れ狂う、獣の顔だったのだから…。
ある者は振りかぶった剣を振り下ろす前に、両手首から先を斬り飛ばされた。
またある者は別の男の刺突に対する盾に使われて命を散らせた。
また別の者はシリウスが一人を切り殺した隙を狙おうと背後から飛び掛かり、逆手に握られた剣にその顔面を貫かれた。
次々と襲いかかる傭兵、戦闘員達を次々と狩り殺す。
シリウスの闘いぶりに、アースも純粋な賞賛を口にする。
「流石はシリウスと言ったところか。
魔術抜きでの戦闘力ならばラース配下の中でも最強と謳われていた男。
実際にこの目で見てみれば成程…確かに強いな」
散々ラースとハリーによって嬲られ、額の傷からも大量の血を失い、体中に無数の痣まで刻まれた体でも尚その動きは鋭く、素早い。
一見激情に呑まれているように見えるが実態は違う。
纏めて掛かってこいと挑発したのは、肉体の限界が近いことを自覚しているためだ。
更に乱戦に持ち込むことで相手にとっては不慣れな、自分にとっては動きやすい戦況を創り出している。
同士討ち、身代わり、誘導と…それを確実に仕留める必殺の一撃。
その澱みのない体捌きと剣閃は全く衰えが見えない。
もしシリウスにも魔術が使えたならば…この絶望的な状況さえ生存しうるだろう。
だが、その可能性は有り得ない。
魔術の使用はまず、自身の体内にある魔力の存在を認識することが第一歩となる。
次に五行の相関と精霊の使役法を学び、最後に全体的な底上げのための媒体として魔道具が揃って初めて魔術は発動する。
ラース配下の中でもきっての腕利きであるアースさえ、魔術を会得するまでに半年ほどの期間を要した。
それを一瞬で体現するなど、まず有り得ない。
「出来ることなら対等な立場で優劣を競いたかったのだがねぇ…」
非情に残念だ、と呟きながら…とうとう自分達との戦闘へと突入するシリウスの元へとアースは歩を進めていった。
「はぁ……はぁ……」
荒く息を整え、必死に四肢に力を篭めて立ち続ける。
誰の目から見てもシリウスの肉体は限界であり、最早精神力だけがその体を支えていると言っても過言ではない。
そんな満身創痍のシリウスの前に立ちはだかるのは、ラース直属部隊の魔導士、ハリー。
常人では認識することさえ不可能な高速移動と、その巨体から繰り出される膂力に富んだ重い一撃が武器の強敵だ。
もう一方の氷の魔導士、アースはハリーから数歩離れた所に両腕を組んで立ち、静かにこちらを見ている。
どうやら二人同時にかかるつもりはないと言うことだろう。
「アース、気の毒だが奴は俺が狩らせてもらうぞ?
奴のあの状態じゃどの道、次はない…何より…」
ハリーはシリウスの周囲に視線を移す。
そこには我先にと獲物に群がり、結果として返り討ちに合った男達の死体と、彼等が流した血によって凄惨な光景になっていた。
濃厚な血の匂いが戦場を連想させ、ハリーの戦闘意欲を掻き立てる。
「これ以上、我慢出来そうにも無いんでなぁ!!!」
アースの返事も待たずに、ハリーはシリウスへと一直線に突進する。
まずは様子見を言わんばかりに、腰の剣も抜かずに素手での格闘戦に持ち込もうとする。
対するシリウスはと言うと…ハリーに合わせるように腰を落とし、両手の剣を逆手に握り直して突進した。
相手がこちらを嘗めてかかっているのが居るなら、勝機はまさに今。
正面からぶつかれば両側面からの切断。
左右に避けようが返す刃で腸を抉り刺す…二段構えの必殺の剣。
だがハリーは衝突の直前、何と地を強く飛んでシリウスの頭の跳び越した。
そしてその先にいたのは…
「なっ?」
突然近くで聞こえた足音に驚き、顔を上げたライナーが最後に見た光景。
それは残忍な笑みを浮かべながら剣を振り抜く、ハリーの姿だった。
すぐ側にいた青年の死に、子供達は怯え戦き…悲鳴を上げて逃げ惑った。
ハリーはその後を笑いながら追い掛け、追い付いた途端容赦なく首を狩っていく。
「止めろぉおおおお!!!」
シリウスは必死にハリーの元へと駆け、剣を振るう。
だが追い付く寸前に魔術による高速移動が発動し、シリウスの一撃は空を斬る。
そして…
「止めてぇぇえ……っ!」
一人…
「嫌だ、助けっ…」
また一人と…幼い命が次々狩られていく。
その地獄のような光景を見てアイリーン達も悲鳴を上げるが、ラース達にとって弱者の悲鳴など賛美歌にしかならない。
相方の残酷なやり口にアースも口元を顰める。
「奴め…またいつもの手口か…」
仲間を庇いながら闘う戦士と対峙する際、ハリーはいつも同じことを繰り返す。
戦闘力のある相手は自身の魔術で回避し…執拗に無力な人間のみを付け狙い、殺す。
そして止めてくれと泣き叫ぶ戦士の悲鳴を存分に味わい、守るべきものを全員殺した後で、失意に飲まれた戦士を狩るのだ。
まさに最低最悪の手口…だが苦痛を与えるという点のみを見ればこれ程効果的な方法もない。
今回アースとハリーが組まされたのもこのためだ。
文句なしに腕利きのアースによってシリウス達を確実に捉え、仕上げはハリーによる拷問処刑。
同じ主に使える魔導士だからこそ与することもあるが、アースはこの相方を内心蔑んでいた。
「止めろ…もぅ、止めて…くれ…」
叫び続け、血反吐を吐き尽くしたのか…シリウスの喉からは掠れた声しか流れなくなった。
四人目の獲物をハリーが斬り殺しても、もう悲鳴さえ出せないのかその場に膝を付いたままだ。
失望したと言わんばかりに眉を潜め、ハリーはシリウスの顔を蹴り上げる。
シリウスは悲鳴も挙げずに倒れ、全身を微かに震わせる以外に何の反応も起こさない。
「何が最強の戦士だ。まだ四人しか死んでないというのにもう反抗する気力が失せたか?
下らんなぁ、実に下らん…何だその様は?笑わせるなよ…っ!」
最早無抵抗と見るや、ハリーはシリウスの端正な顔を踏み躙り、口汚く罵る。
その光景にまたも囚われた少女達が悲鳴を上げ、ラース達の嘲笑混じりの笑い声が飛ぶ。
だがハリーは気付いていなかった。
無抵抗となった筈のシリウスの両手に今だ剣が握られていたこと。
そして…踏み躙る足の影となって出来た死角でシリウスが剣先を自分に向けて構え直していたと言うことに。
「ははははは、っがぁ!?」
声高々に笑い声を上げていたハリーの意識を目覚めさせたもの。
それは自身の大腿部から突き出ている血塗れの刀身と、そこから来る激痛だった。
余りの痛みに慌てて飛び退るが時既に遅い。
シリウスはとうに立ち上がり、片手に残った剣を両手で握り直す。
散々踏みしだかれた顔面は見るも無残に腫れ上がっていたが、その眼は死んでいなかった。
ハリーの意図が分かったシリウスは…苦渋の決断で芝居を打ったのだ。
足を一本潰され、自慢の高速移動も使えなくなったハリーに…最早為す術は残っていなかった。
無言で、それでいて一閃の気迫を篭められた刃によって命を奪われること以外には。
一際豪勢な観客席に腰を下ろしていたラースは、ゆっくりと息を呑んだ。
多少性格に難があり、実力もアースに劣るとは言えど、配下の魔導士の中で指折りの実力者だったハリーを満身創痍の状態で倒した。
それも…一度は弱くなったと見限られた、魔術も持たない只の人間に?
有り得ない。
この小僧には一体何があるというのだ?
まさかコイツも化け物か何かなのか、とラースの思考は恐怖に浸蝕されていく。
目の前に突如現れた『怪物』に目を奪われていたラースには気付くはずもなかった。
その懐に納められている死天使の憑代の両目がうっすらと開かれていたことに…
「まさかとは思っていたが……実際に目にするとはな…」
アースはシリウスの強さに、今更ながら畏敬の念さえ抱いていた。
子供達を殺されて、悲痛な叫びを上げていたのは決して嘘でも演技でもない。あれはまさしく半身を持っていかれるに等しい痛みだった。
にも関わらずあの極限状態でハリーの思考を読み取り、断腸の想いで芝居を打っての騙し討ち。
口に出すのは容易いが、分かっていても出来ることではない。
これが最強と呼ばれた男の力なのかとアースが恐れ戦いていた時、その耳に飛び込んできたのは主からの必死の命令だった。
「アース、遊びはここまでだ!今すぐそいつを殺せ!
シリウス!抵抗すればこの女共の命は無いぞ!!!」
そう言ってアイリーンの首元に短剣を突き付けるラースの形相には微塵の余裕も感じられない。
気持ちは分からないでもない。
一方的な殺戮を期待して黙ってみていれば自慢の戦士達は尽くシリウスに返り討ちに合い、負けるはずがないと高を括っていた魔導士の一方さえ殺されたのだ。
形振りも構わずただシリウスを殺すために行動を起こしても仕方がないだろう。
「かつては同じ立場だったんだ、俺の都合も……いや、共感する必要はないか。
黙って死ね。
せめてもの慰めに…残った子供達とあの女は後で俺が逃がしてやる」
強者の魂に安らぎ在れ…と、アースは胸の前で十字を切り、その後自らの手刀に氷柱を纏わせる。
今度こそ完全に抵抗の術を奪われたシリウスは…黙って剣を捨てた。
渇いた金属音が響く中、シリウスは眼前の敵でもなく、ラースでもなく、ただアイリーンだけを視界に収める。
その唇が小さく動くのを…アイリーンは見逃さなかった。
『ありがとう』と…シリウスは微かな笑みさえ浮かべていた。
死の間際でさえ、彼が想うのはアイリーンのことだった。
何故…?
アイリーンの脳裏に過ぎる、シリウスとの記憶。
不器用で、闘うことしか分からなくて、それでも懸命に皆と分かり合おうと影で必死に努力していた…本当は優しい青年の素顔。
ずっと苦しみの中で生きていて、それでもようやく開放されたと思えば今度は自分のせいで体だけでなく心まで嬲られて…怨まれたって仕方がないのに。
何故、そんな優しい顔で笑うの…?
アイリーンの相貌から涙が溢れる。
今すぐ愛しい男をその胸に抱き締めたい衝動に駆られるが、今すべきことはそうではない…!
アイリーンは自身の喉元に当てられた短剣の柄をラースの手ごと握り締め、必死に叫んだ。
「生きて…シリウス!
お願いだから…命を諦めないで!!!」
「なっ……!」
何を馬鹿なことを…そう、シリウスは口にするつもりだったのだろう。
だがその先が紡がれることはなかった。
アイリーンの反乱は余りに無謀すぎた。
ラースの側には護衛の戦士が数名控えており、即座にアイリーンの両腕を抑え込むことが可能だったのだ。
そして、恐怖に全身を侵されていたラースは…衝動のままに彼女の細い首に短剣を突き立て、慣性のままに振り抜いた。
アイリーンの首から流れた鮮血は、ラースの懐から覗いていた死天使の像を濡らし、彼女の死はシリウスを真の絶望へと導いた。
そして一つの世界が…産声をあげた。
気が付けば周囲は白一色に染まり、シリウスの腕にはいつの間にかアイリーンの骸が抱かれ、眼前には見知れぬ『何か』が存在していた。
それは…恐らくは女神だった。
しかし全身の至るところに釘を打ち込まれ、その身の丈を超える大きな十字架に磔にされた姿は見るも無残だ。
恐らく以前は美しく天を舞ったであろう背中の翼は、羽をもがれ、骨格しか残っていない。
その表情は窺い知ることは出来ないが…恐らく美しい顔立ちをしているのだろう。
だが、絶望の底に沈もうとしていたシリウスの目にさえ、目の前の存在はまさに『神』そのものとして映った。
『神』はただ一言、シリウスに問う。
『其の者の救いを望むか?』
シリウスは静かに…しかし力強く頷いた。
自分はどうなっても構わない。代償としてこの命が消えようと…アイリーンさえ救われるならそれで良い。
『神』は静かに告げる。
『我が名は死天使、死を司る神。それ故、其の者を蘇らせることは叶わぬ。
だが…其の魂と対話を為し、其の望みを知ることならば可能だ。
それが死後に置いて尚有効な望みならば我が力の及ばぬ領域は無い。
汝が我と契約を為すならば…我と一体と化し、その力を行使する隸となることを誓うなら、汝の願い、娘の望みを叶えよう』
シリウスは二の句も無く、了承した。
頷いた途端、シリウスの体へと『何か』が流れ込んでくるのが分かった。
魂が凍えるかのような感覚に混じって、今まで感じたことのない脈動感と底知れない熱を感じる。
死天使と同化していく過程でそれが魔力だと知り、次いでその使用法が脳内に染み渡っていく。
そして、死天使との契約が完全に成立した後、アイリーンの魂に触れ…その望みを聞いた。
彼女の望みはただ一言だった。
『シリウスの側に居たい』…と。
そして神は……その望みを叶えた。