死合~黒と白の円舞曲
ソフィールはずっと怯えていた。
自分の姉を殺した忌むべき相手、アーサーがその姿を現した時から、ずっと。
倒れて行く戦士達に涙する前に、多くの犠牲を悼む前に、ただただ恐怖に震えていた。
ソフィールは『巫女』だ。
組織に所属する大半の人間は、こう思っているだろう。
彼女は組織にとって絶対の忠誠を尽くすべき『象徴』として持ち上げた存在だと。
それも、無論ある。
ソフィールの様に可憐な、歳若き乙女としての『姿』は確かに大勢を魅了し、先導できるものだろう。
だが、本質は違う。
ソフィールに、『巫女』という立場の女性に課せられた使命とは『剣』だ。
それも、最悪の怨敵『邪神』を滅ぼすために捧げられた…一度きりの役目を担うためだけの『生贄』の刃。
アーサーが組織に攻め込んで来た。
それはつまり、ソフィールの『役目』が近付いてきたという何よりの証拠だった。
そう、自分の最後の時が…もうすぐそこまで来ている。
ほんの一年前までは怖くなど無かった。
自分はそのためだけに生まれて、そのためだけに生き永らえて、そしてそのために死ぬだけの命でしかないと思って、否、諦めていたから。
だが、今はそれが恐ろしくて堪らない。
何故なら初めて『自分』を見つけてくれた相手が出来たからだ。
レックス。
胸の裂ける様な悲しみを秘めながらも、直向きに強く、生き抜こうとしていた青年。
泣きじゃくる彼を抱きしめたのは…今なら解かる。彼が愛おしかったからだろうと。
どこまでも必死に、どこまでも真摯に生きようとする彼の姿に惹かれたのだ。
まるで、自分がとうの昔に無くしてしまった宝物がそこに在った様な気がして…。
(離れたくない…!死にたくない…!)
自分の想いを理解した時から、死ぬのが恐ろしくなった。
(レックスと一緒に居たい。レックスの傍にいたい…!レックスと生きて行きたい!)
それまでは当たり前だった自分の宿命が、恐怖に変わった。
(何故死ななくてはならない?
何故生きる権利が無い?
自分の生まれなんて、誰にも操作できない!こんな不条理なことは嫌だ!!)
泣き叫びたかった。
逃げ出したいとさえ思った。
それでも『巫女』としてあるまじき行為は…出来なかった。
例え嘘りの『偶像』だったとしても、自分を慕い、戦場に駆り出され、そして自分のためにと死んでいった命が多い。余りにも多すぎた。
ここで自分が『巫女』であることを放棄すれば…死んでいった彼らへの裏切りになってしまう。
(解かっていて…でも…!)
苦しかった。
何時も何処でも何をしていても、自分は『巫女』という重い鎖に縛られている。
皆優しくしてくれる。
皆身を呈して守ってくれる。
でも、そんな人たちに私は聞きたくて堪らない…禁断の問いを…
『貴方達に必要なのは『巫女』なのでしょう?『私』では無いのでしょう?』
日に日に増す苦痛が人格すら蝕みかけてくる。
自分で自分が解からなくなっていく。
だからソフィールはレックスを探した。
ひび割れて行く自我に、自身を苛む痛みを癒すために、愛しい相手を探して走る。そして……
ソフィールは見てしまった。
誰よりも愛しい彼と誰よりも信頼を寄せていた彼女が―――――――――唇を重ねあっていた姿を。
ソフィールは走った。
すれ違う隊員達を突き飛ばして、気遣う女中達を振り切って、つい先日割り振られた自分の部屋へと籠もる。
カーテンを閉め切り、着替えもせずにベッドに飛び込み、頭から毛布を被る。
脳裏を過ぎるのは、いくつもの醜い思考。
身を刻む様な喪失感。
脳髄を焼く嫉妬。
耐えようの無い悲しみ。
ソフィールは一人、嘆き続け、震え続ける。
傷を癒す為にレックスを探して、そしてより一層深くなった『痛み』に打ちひしがれながら……。
鬱葱と茂る森の中を、一人の影が唯、奔る。
木々の隙間から差す月明かりだけがその正体を照らし出し、それによってより強調された暗闇がその存在がそこにあるのだと確立させる。
美しく長い黒髪を靡かせて失踪するその横顔は女と見紛う程に美しい。
唯一人任務のために駆けるは断罪の十字最強の戦士、聖騎士筆頭シリウスだ。
彼の現在の任務は敵勢力、鮮血の騎士団の拠点を探しだすこと。
こちらの本拠地だけが敵に知られ、且つエキドナの能力によって何時奇襲が来るか解からないというこの最悪な現状を打破するためには、こちらから敵勢力を切り崩しに行かなければならない。
しかし現在、敵の本拠地が解からない…このままでは攻め入ることなど夢のまた夢。故にシリウス自らが索敵に奔っているのだ。
闇雲に探している訳ではない。これはシリウスだからこそ出来る方法だ。
エキドナという規格外の敵がいるため補給経路などの観点から所在を探ることは無意味(彼女の能力を使えば距離や時間などほぼ無関係に物資を補給できるだろうからだ)。
ならばどうやって敵と接触するか?
簡単だ…『釣れば』いい。
シリウスはジガードの懐刀にして組織最強の戦士であることは敵も味方も周知のこと。これを利用しない手は無い。
最強の神の称号を持つ『四神』の一角、死天使の契約者が味方から離れて単独行動している。
鮮血の騎士団からしてみればこれはまさに千載一遇の好機だ。
倒すにしろ、対処するにしろ邪魔者が居ないならば様々な方法が取れる。
無論そうそう簡単に射止めることなど出来よう無いが、それでも可能性はある。
事実、シリウスの通ってきた経路の上には全身を切り裂かれて絶命している重装備の戦士達の屍が所々に散乱している。
語るまでも無く『奴ら』の軍勢だ。だがいかに熟練の戦士が徒党を組んで来ようがシリウスに勝てる筈も無い。
そう…彼らは戦力としてではなく、戦力の『付き人』に過ぎなかったのだ。殺されたのも全てシリウスと『彼女』の戦闘に巻き込まれてしまった結果に過ぎない。
その相手もまた、薄暗い森の中を舞う様に飛び回っている。
全身を黒で覆っているシリウスとは対照的な、頭の先からつま先までを純白に染めた少女。
まるで一枚の『絵』の様な幻想的な光景、だが繰り広げられる戦闘は苛烈そのもの。
シリウスの鎖刃が唸り、少女の手には不釣り合いな大鎌が円を描く様に縦横無尽に振るわれる。
闇の中に火花が散り、刃と刃が合い打つ調べが響き渡る。
幾度目かの激突の後、両者は同時に大地に降り立ち対峙した。
「久方ぶりだな小娘…やはり貴様が本物だったか」
激しい撃ちあいの後だというのに汗の一滴もかかず、呼吸も落ち着いている。しかし鋭く光る眼光が、確かに戦闘中なのだということを証明している。
「小娘とは失礼な殿方ですわね。貴方にシリウスと言う名が有るように私にはマリスという名が有るのですよ?
それより…本物とはどういう意味でして?」
こちらも戦闘中には不釣り合いなほどに落ち付き払っている。華奢な体つきでありながら自在に大鎌を振るうなどして、一筋縄では行かない相手だということは解かるが些か気味が悪い。
「簡単な話だ。以前貴様が拾っていったあの男は三鬼将では無かったのだろう?」
シリウスと闘い満身創痍で救出された男…ダクラス。彼は確かに強かった、『一介の戦士』としては。
見るものを圧倒する巨躯、そこから繰り出される苛烈な斬撃、好戦的な性格、そして神との契約。
文句の着けようの無い強者だった、あくまで『一介の戦士』としてはだ。
『三鬼将』…それは鮮血の騎士団の誇る最強最悪の力だ。
断罪の十字が誇る聖騎士と並び立てるほどの絶対的な『力』。
それを名乗るにはダクラスの技量は余りにも低すぎた。
確かに強大な膂力から繰り出される大剣は驚異、だが剣の猛者であるレックスやラッセルならば真っ向から対抗できるだろう。
どれ程離れていようが一瞬で距離を詰め、空間ごと抉り切る地獄狼の力は強力だ。だがそれだけでは『神』としては三流に過ぎない。
空間ごと切り裂けると言っても、無条件で切断できる訳ではない。
あの能力はあくまで『ダクラスの剣で傷つけられた物』しか抉れない。最初から空間を切り裂いているのではなく、斬られたものを『転移させているだけ』なのだ。
相手がクリフのように『斬れない』相手だったら?
もし敵がセシリアの様に『触れ得る全てを蒸発させる』程の圧倒的な火力を持っていたら?
エキドナの様に自在に空間を飛び交えれば?
ダクラスは優秀な戦士ではあった。
だが彼は本当の『神』の前では、即座に無力に成り下がる程度の力しか無かったのだ。
それでは『三鬼将』には足り得ない。
絶対の恐怖、絶対たる死の宣告、未知なる者からくる絶望的なまでの戦力差こそが『三鬼将』たる証。
ダクラスにはそれが無かった。
つまり…
「貴様こそが本物の三鬼将、奴は貴様を表に出さないための紛い物でしか無かったのだろう?
黙れと命じても騒ぎ立てるであろう愚か者はさぞ道化として優秀だっただろうよ」
ダクラスのことを嘲笑いながらも、眼前の少女には一切の隙を与えない。シリウスはマリスのことを最も恐ろしい敵として警戒しているからだ。
忘れもしないあの日の光景、奈落に飛び込んで無傷で生還した少女の姿は一時たりとも忘れてはいない。
命を吸い尽し無慈悲なまでに蹂躙する終焉の闇。それこそが奈落。死天使が誇る最強の力の根源。
全ての生物が抵抗することなど出来ないその闇が、彼女には通用しなかったのだ。
これ程の敵は今迄に居なかった。
「そうですわね…確かにあれは道化でしたわ。先導するままに踊り狂い、身の程も知らずに噛み付いていく姿は本当に滑稽でしたわね」
本当に可笑しくて堪らないと言わんばかりの笑みを浮かべながらも、シリウスの一挙一動を逃さず観察し続ける。
彼女からしてみても、眼前の男はやはり『死神』だった。
確かに奈落はマリスに通用しない。それこそが彼女がシリウスと渡り合える『絶対』の優位点だ。
だが如何に終焉の闇に喰われないからと言って、彼女は無敵という訳ではない。
自身の肉体を過信していてはシリウスの鎖刃は避けられない。
自身の獲物に踊らされれば、即座にその首は胴体と切り離されてしまうだろう。
如何にマリスと云えどもシリウスの実力は驚異に値するのだ。
「さて口論はここまでだ。言葉を交わすのは不得手ではないが好ましくもない」
シリウスが鎖刃を振るい、優美な舞を演じる様に構えを取る。それに応じる様にマリスもまた大鎌を下段に構える。
一瞬にして空気が凍りついていく。
「では踊りましょう…鮮血の華を添えてっ!」
純白のドレスはあまり運動性は高くない筈だが、マリスの動きは速かった。
シリウス相手に間合いを取られれば防戦一方になり、そうなれば一気に押し切られてしまう。
それが解かっているからこそ、マリスは接近戦に活路を目指す。
「っち!」
予想外のスピードに、鎖刃を展開することは諦めて双剣で迎撃する。
例え得意技を封じられてもシリウスの技量はそんなものでは埋められない差がある。
斬り飛ばそうと振り上げられた大鎌を回避し、マリスの首を撥ねようと肉薄するシリウス。
しかし次の瞬間、自分の首めがけて飛来する物体を感知して即座に頭を下げて回避する。
それは一度回避した大鎌の刃だった。
大鎌という武器は一般的な武器に比べて射程距離に優れるだけでなく強度と奇襲にも優れている。
正面から撃ちあえば並大抵の武器は砕かれ、迂闊な回避行動はその湾曲した刃へと首を捧げることになる。
全周囲に絶えず警戒をしなければ即座に狩り殺される凶暴な刃。物語に出てくる死神の獲物は伊達では無い。
「乙女の抱擁を避けるなんて、罪な人ですわね?」
「口を噤め、でなくば黙らせる!」
再びマリスが鎌を振るう前にシリウスが攻め立てる。
様々な攻撃方法が可能な大鎌にも、攻めに転じられない瞬間がある。それが引き戻した直後だ。
今マリスの鎌は突進してきたシリウスの迎撃のために引き戻されたばかりだが、この時こそが好機。
鎌の刃は内側と先端に展開されているため正面の敵に対する防衛力は低い!
「その程度っ!」
しかしマリスはその体制から反撃に転じた。
小柄な体格を逸らせ、無理矢理大鎌を振り回し、接触寸前だったにも関わらず回転切りを放つ。
意表を突かれたシリウスは数歩間合いを開け、直後には臆せず斬りかかる。
双方互角の剣戟を繰り広げながら、シリウスは疑問を抱かずにはいられなかった。
それはマリスの能力についてだった。
これまでの戦闘でも、本部での邂逅でも彼女は一度たりとも自身の『力』を使っていない。
魔術の片鱗すら見えず、肉体強化の魔力付加を施した形跡すら無い。余りにも不自然だ。
三鬼将の一角が何の力も無い筈が無い―――
(ならば……暴き出す!)
シリウスの行動は迅速だった。
鋭い突きを放ったばかりの剣を自身の力で即座に鎖刃へと変質させ、一気にマリスへと奔らせる。
それは凄まじい速度でマリスを狙ったが大鎌の一閃で振り払われ…次の瞬間には地面へ、そこにあった影へと『潜り』同時にもう一方の剣を鎖刃へと変えて襲いかからせる。
「まだっ!」
マリスは回避するも避けられた刃は再び影へと潜る。同時に最初に影へと潜った刃が死角から飛来する。
襲い掛かる全ての刃はマリスに掠ること無く全て回避されているが…シリウスの鎖刃はここからが本領発揮だ。
回避されても尚、その軌跡は消えることが無い。
周囲には鎖がジャラジャラと引きずられ、伸ばされる音が響き続けている。
血鬼の攻撃とは違い、鎖刃は何処までも伸びる。この性質は確かに遠距離戦で猛威を振るうのだが、かといって接近した敵は斬れない訳でも無い。
鎖とは元より相手を『縛る』物。
敵の自由を奪い、蹂躙することこそが本懐。
「これは…!?」
何時の間にかマリスの周囲はシリウスの鎖刃によって幾重にも包囲されていた。
前後左右のみならず、上空に至るまでの全てが刃の檻で囲まれているに等しい。
「如何に貴様の腕が優れていようと…この刃の包囲網は突破できまい…!」
そう言いながらシリウスは全ての鎖刃へと繋がっている二振りの柄を強く握り込む。
あとはこの腕を引くだけで全てが解かる筈だ。
この女の能力が、力の正体が!見せなければ全身を引き裂かれるのみ!逃げ場は無い!!!
「千切れて果てるか!正体曝すか!どちらか選べ三鬼将!!!」
勢い良く両腕が引かれ、それに伴って鎖刃が引き絞られていく。
それは範囲内に在る全てを引き裂き、食い千切る黒き暴虐、捕われた哀れな獲物の命を残らず喰い尽くす刃の咽だ。
その苛烈な攻撃を前にしてマリスは……
何もしなかった。
鎖刃はマリスの細い体に喰らい付き、即座に引き千切る。それも一度だけでなく幾重にも巡らされた包囲網の数と同じ回数だけ斬り裂き、蹂躙していく。
華奢な身体も可憐なドレスも、全てが無残に、無慈悲に蹂躙されていく。
やがて全ての鎖刃が引き戻され、元の二振りの騎士剣へと復元された時…マリスの居た場所には血の海が広がっていた。
余りに呆気ない幕切れ…と、他の人間ならば思うだろうがシリウスは油断などしなかった。
「………何処だ…」
手応えは在った。それどころか確実に切り裂いた。細切れ以下に解体し尽くした。
だがシリウスは勝利の余韻を感じることは出来なかった。
全ての命を喰らい尽す奈落さえ通用しない相手がこの程度の攻撃で仕留められるなど到底思えない。
最も警戒すべきは『正体不明』という事柄、それ故に情報を引き出そうと仕掛けたのだが避けられてしまったのでは意味が無い――――
「酷い御方…少しは手心と言う物を加えて戴けなくて?」
やはり生きていた―――そう思いながら声のする方へとシリウスが振りかえると…
「…ッ!」
目を疑う様な光景が繰り広げられていた。
散乱していた肉片が、千切れたドレスの切れ端が、そして拡がっていた夥しい量の血が一箇所へと集まり、元の形状へと戻って行くのだ。
仕留めていないとは想像していたが、余りにも常人離れな再生をする少女を目の前にし、シリウスさえ若干の畏怖を感じていた。
やがて完全に元通りの姿に戻った少女は手首や足首を軽く捻り、背伸びをする。
それだけを見れば外見相応の愛らしさを感じられるだろうが、先程の光景を見た物が居ればそのような感覚は決して抱けないだろう。
「高貴なのは外見だけで淑女の扱いは知らないと言うなら、貴方には幻滅でしてよ?」
肉体同様再生した大鎌を拾い上げ、再び構えるマリスの言葉にシリウスは嘲笑混じりに返答した。
「何が淑女か、嗤わせるな化物…!」
口先とは裏腹にシリウスは思考を張り巡らせる。
全身を細切れにされても尚、即座に再生する超回復能力。そして奈落に喰われないという性質。
どちらか一つだけならば、有り得ないことも無い。だが二つが両立すると言うことは有り得ない。
超回復力の持ち主ならば、それは即ち強固な『命』を持っていることであり、命が在るならば奈落には抗えない。
奈落に喰われない物は『命』を持たないものであり、それは即ち生命活動が行われていないため再生など起こり得ない筈。
ならばこの女は一体何だ?――――と、思考が止まりそうになる寸前、シリウスはその考えを捨てた。
理解できないならばせめて、現状で打てる最善の手を試すべきだ。今は隙を作ってはいけない。
シリウスは双剣を今まで以上に強く握りしめ、自身の内に居る死天使へと呼び掛ける。
『力を使わせて貰うぞ…死天使』
それに応える四神の一角の声はやはりいつも通り、陰鬱にして嘲りを含んでいた。
『あんな小娘に手古摺るなんて私の契約者として心許無いわね?今からでも他の殿方に乗り換えちゃいましょうか…』
『戯言は後にしろ。この女は底が見えん。振いにかけるにもそれ相応の力が必要だと判断しただけだ』
『相変わらず釣れないわね、私の伴侶は。好きになさい…』
数瞬の会話の後、死天使から許可が出る。
契約で縛られているとはいえ、神を屈服させることなどそうそう出来るものではない。ある程度の対話は必要だ。
「そろそろ…本気で行こうか…」
「あら、やっと私の要望に応えてくれるのですか。とても嬉しく思いますわ」
シリウスの額に、死天使の象徴である紋章が光る。
信仰の果てに信義に背き、堕ちて掴むは絶対への『真理』が一角、『死』の根源。
続けて紡がれるのは解放の唄。
嘲り、踏みしだき、蹂躙の果てに死へと誘う―――死神の讃美歌。
『誘え…死天使!』
契約者の呼び掛けに応え、内に眠る神がその力を解き放つ。
自然界に存在する闇よりもさらに暗い、負の感情を凝縮したかのような深淵の闇が顕現する。
それはまず、シリウスの背中へと集まり、やがて蝙蝠のように骨張った禍禍しい羽になる。
『第一解放・堕天之翼…』
死天使の力の解放には幾つかの形式が在る。
以前ダクラスに対して使用した『漆黒之檻』は室内及び閉所での戦闘に特化させた形式だ。
だが今は木々が視界を邪魔するとは言え郊外での戦闘、よって自在に宙を舞うことが可能な高速戦闘用の翼をまず使用したという訳だ。
次に使用するのは自らの刃を更なる高みへと昇華させる力。闇が双剣に纏わり付き、次第に形状を変化させていく。
普段使われている鎖刃はこの能力の一部をシリウスが死天使から継承して展開されているが、真の解放を許された今の刃は見た目こそ大差ないが桁違いの威力を持っている。
触れ得る全てを捕らえ、狩り殺す。何処までも伸び、撓る死神の腕。
『第三解放・神縛鎖…!』
シリウスはこう考えていた。
マリスは奈落に対して何らかの防御方法を講じていた。それ故に有る程度の時間ならば奈落に触れようと命を喰われること無く行動できると。
しかし神縛鎖の刃は実体を持つまでに収束された奈落で構成されている。この刃で斬りつけられた者は傷口から生命力を奪われ、腐食する。
如何な防御方法を用いようと、内部からの腐食には耐えられない筈、マリスにも有効打を与えられる可能性が高い。
シリウスは漆黒の翼によって宙を舞い、手にした二振りの鎖刃を振り回した。
神の力の結晶である刃に触れた木々は一瞬で腐食し、枯れ果て、周囲を一瞬で見通しの良い更地にしてしまった。
それは見る者に畏怖と…絶対の死を連想させる不吉な姿…しかしその姿を見ても尚、マリスの表情は不敵な笑みを浮かべたままだ。
「本気と仰っておきながら…それだけしか使わないのですか?」
シリウスはその言葉の裏に含まれた意味に気付き、内心苛立つも敢えて嘲笑で返した。
「貴様相手ならこれで充分だ」
まるで曲を奏でる指揮者の様にシリウスの両腕が軌跡を描く。
その優雅な動きとは裏腹に、揺れ蠢く鎖刃はどこまでも不気味に、怪しく光る。
それはやがてマリスの周囲を囲う様に展開されていく。先程の攻撃は無意味と解かっている筈なのに…。
(ブラフ…?それとも先にこちらの退路を塞ぎに来た?いや……!)
マリスは己の愚を呪った。
周囲に展開されている刃から感じる魔力。それは先程のものとはまるで別物だ。
神縛鎖は実体を持つまでに収束された奈落其の物!そして周囲に展開された刃の檻は…
「知っているか?マリス…」
マリスがシリウスの方を向くとそこにあったのは
「影は、そして闇は…惹かれ合い、混じり合い、その果てに膨張する!!」
勝利を確信した死刑執行人の笑みだった。
マリスの周囲を囲む鎖刃の包囲網。しかしそれは先程とは違い引き絞られること無く存在し続けている。
その代わり、刃と刃の隙間…網目となっている箇所が影に覆われて埋まっていく。
それはやがて包囲網の全てを覆い尽くし、マリスと現世を別つ『結界』となる。
「これは…まさか…!?」
マリスの脳裏に過ぎったのは初めてシリウスと出会った時、ダクラスを飲み込んでいた奈落の闇の抱擁。
あの時は地面から生える様に覗いていた奈落が堕ちてくる敵を喰い殺す…緩やかな死刑執行のような残忍な業だと認識していた。
だが違った。あの時のアレは遊びだった!
ダクラスには逃げられる筈が無いから、抗える術など無いから!絶対的な力の差から来る心のゆとりがマリスに誤った認識をさせていた。
本来の死天使の力に『緩やかな死』など有り得ない。何故なら彼女は『死』其の物なのだから…!
『奈落葬送!!!』
シリウスの呼び掛けと同時に、結界の内部は彼の世界へと染まった。
奈落は自然界の『何処か』に存在しているのではない―死天使と出会った場所こそが奈落となる。
神縛鎖は至上の刃であるが、その本当の役割とは呼び水だったのだ。
「ッ!!!」
マリスは自身の周囲を取り巻き、展開されて行く奈落に目を見開く。
これは耐えられない。
如何に自分の肉体が奈落への耐性を持っていようと無効にできる訳ではない。
このままでは数十秒の後に喰い殺され、塵の一つも残りはしない!周囲を結界に囲まれたこの状況では脱出も不可能!
ならば……
完全に奈落の闇がマリスを呑み込んだのを見て、それでも尚シリウスは警戒を止めなかった。
現状で打てる手は全て打った。
マリスの能力を見切るためには小手先の技では不可能だと判断したからこそ、初手で最大級の一撃を叩き込んだ。
しかも効果範囲の全てを死天使の力で作られた結界で覆い尽くしたうえでの一撃だ。
仮にエキドナが近くで控えていたとしても、神々の最上位・四神の一角が作り出した結界には介入出来ない筈。
脱出も不可能、残る可能性は一つ……純粋な力によって内部から撃ち破るしか無い。
そのまま奈落に喰われて消えるもよし。マリスというイレギュラーさえ消えれば戦況は一気にこちらに傾く。
もしこの攻撃でさえ仕留めきれない存在ならば…最早容赦はしない。死天使の能力の神髄を持って葬り去るのみ!
そして…数瞬の後、『世界』の裂ける音がした。
奈落の包囲網さえも食い破り、神縛鎖さえ引き千切り、天へと羽ばたく禍禍しき翼、月をも隠さんばかりの巨体を持つもの。
その咆哮は大気を震わせ、その巨大な瞳には怨敵の姿がくっきりと映っている。
長い首に大きな口、鋭く光る爪と牙、血の様に紅い鱗を全身に纏った姿は見る者を圧倒する。
絶大な存在感を放つ最強の霊獣…龍。
存在そのものが既に伝説、しかもシリウスの前に現れたのは只の龍では無い。
霊獣の中でも最上位に君臨する龍族の中で、ただ一体異色を放つ存在。
行動原理は唯一つ、『欲望』。しかしその規模が違いすぎる。
視界に映る全てを破壊し尽くし、奪い尽す…それ故に名づけられしは強欲龍。伝承に畏れられし最凶の龍がシリウスの眼前に現れた。
「強欲龍…まさか実物を目にする日が来るとはな…!」
強大な敵を前に、シリウスの闘争本能が歓喜の声を上げる。
伝説に謳われる最強の霊獣、龍。その中でも間違いなく上位に値する強欲龍。
クリフの貪喰龍に比べれば若干見劣りするがそれでも極上の獲物だと言うことに変わりは無い!
そんなシリウスの内心を汲み取ったのか、若干不満を含んだような声がシリウスの頭上から聞こえてきた。
「私のことを忘れて愛玩動物に夢中になるなんて…失礼では無くて?」
見上げると、強欲龍の頭上にマリスの姿を発見した。
いや、この表現では正しく無い。マリスは龍の頭部から『生えて』いた。正確にはマリスの上半身が龍の額から生えている様な格好だ。
「…それが貴様の正体か?」
「勘違いしないでくださる?この子はあくまで私の『一部』。狩り集めた霊獣の中で特に気に入った子を取り込んでいるだけでしてよ?
そして取り込んだ霊獣の能力は全て、私自身の物として扱える。それ故に、私の能力は『生体同化』と呼ばれていますわ」
眼前の強敵を見据えながらシリウスは思考を張り巡らせる。
マリスに奈落が効かなかった理由がようやく解かった。
彼女は奈落を無効にしていたのではない。今までの攻撃は着実にその生命を奪っていた。
ただ、生命の量が尋常では無く膨大だったため、『殺し切れなかった』だけなのだ。
恐らく小柄な少女の体内には強力な力を持つ霊獣が何十体も取り込まれているのだろう。
それなら全ての説明がつく。
常人離れした機動力も、超再生能力も、見た目からは想像出来ない膂力も全て、犠牲となった霊獣の物だった訳だ。
同時に、種が判れば対処方法も解かる。
殺しても死なないなら―――
「死ぬまで殺し続けてやるぞ…マリスッ!」
シリウスは自身の翼を拡げ、一気に加速した。
長大な強欲龍の肉体を一々解体していてはきりが無い。狙うならば…マリス本体!
「そう言えば言ってませんでしたっけ…」
マリスが呟きながら、自身の分身たる下僕に命令を下す。
強欲龍がその大きな口を開くと、そこには牙と、同等の数ほどの魔道具がずらりと光っていた。
強欲の名を冠するは決して伊達では無い。これらは全て彼の者が略奪し、奪われることの無いようにと口中に仕込んだ物だ。
魔道具を使えるのは決して人間だけでは無い。
優秀な頭脳と、充分な魔力さえあれば霊獣にも使用は可能。加えて龍は霊獣の中でも最も神に近い存在。
魔力も頭脳も、人間のそれとは比べ物にならない!
「私、責められるより責める方が好みでしてよ…!」
片や…苛虐的な笑みを浮かべながら、暴君の狩り集めた魔道具の能力を一気に解放させるマリス。
加えて強欲龍自身の息吹も上乗せされ、全てを砕く破壊の暴風として放たれる。
「貴様の流儀に合わせる道理など無い…消えろ!」
片や…両の鎖刃を絡み合わせ、巨大な砲門を描き出すシリウス。
そこから放たれるは奈落の闇に封じられた禁断の炎。この世に存在する太陽とは真逆の『黒い太陽』。その一端が砲門の中から覗き、溢れ、そして吐き出される。
奇しくも同じタイミングで、同じ最大砲撃による攻撃が、真っ向から放たれる。
『暴虐之息吹!!!』
『煉獄葬!!!』
両者の激突は、その周囲一帯の地形を一変させた。
更新遅くなってしまい申し訳ありません。
皆さんは地震の影響は大丈夫でしたか?作者の居る県は幸いにも被害が少なかったのですが、ニュースから流れてくる各地の影響にはいつも胸を痛めています。
被災地の一日も早い復興を心からお祈りしております。
追記:シリウスの最後の技名が気に入らなかったので書き直しましたw