渇望~望み堕ち逝く
三か月ぶりの投稿になってしまい申し訳ありませんでした!
大学の実習が忙しくて中々更新出来ず、更新しても試行錯誤を繰り返したためここまで遅れてしまいました。
今後はこのようなことが無いよう尽力します。
これからもこの作品をよろしくお願いします。
彼は自分がどこに居るのかを解かっていない。
彼は自分が歩んでいる道が何処に繋がっているかを想像すらしない。
何故なら彼は全てを捨てたからだ。
ただ一つの渇望のために、自分の持っていた全てを…。
望んだものは『力』。
全てを完膚なきまでに砕き、奪い尽くす絶対の力。
何故そこまでして力を求め続けるのか?
『彼』の場合は…それ以外に『自分』を見出すことが出来なかったから。
例え奈落の闇に落とされ、瀕死にまで追いやられても尚、彼は力を望み、足掻き続けた。
それがどんな結末を迎えるかも知らずに…
時は本部襲撃の直後、アーサー達が自らの居城に戻った時に遡る。
エキドナの能力によって何の妨害や障害も無く帰還したは良いがやはり受けたダメージは軽くない。
アーサーは玉座にその身を預けながら、今回の襲撃の結果について思考を巡らせていた。
今回の襲撃の目的は巫女を掌中に収めることだった。
その目的を達成することは出来なかったが、断罪の十字に相当な痛手を与えることは出来た。
早期決着は叶わずとも、自分達の『計画』を進めるための時間は作れた。
結果としてはそう悪いものではない。
だが、万事上手く行った訳ではない。
聖騎士に三鬼将をぶつけ、最大の障害を排除したにも拘らず巫女を確保出来なかった。何故か?
レックスはまだいい。『アレ』は人間にも神にも達せぬ境地に存在する『化物』だ。遅れを取ったのにも仕方ない。
だが自分はその前にカイルという戦斧隊員にも追い詰められていた。
全霊の一撃を防がれ、危うく心臓を貫かれる一歩手前まで追いやられると言う醜態…やはり『今』の自分ではもうこれ以上の力を得ることは出来ないのだろう。
あの時対峙した敵は皆、剣ランクの実力者だった。
彼等を一掃できなかった今の自分には聖騎士を倒すことは出来ない。
認識はしていたが体感した時の屈辱感は想像を絶していた。
最早一刻の猶予も無い。
可能な限り迅速に……『邪神』を呼び起こさなければ……!
その時アーサーの耳に何者かの苦痛に呻くかのような叫び声と何かが砕ける音が聞こえた。
何事かと把握しようと立ち上がろうとしたが…その必要も無かった。
「シリウスううううううううううううううぅ!!!!!!!」
空間が捻じれるかのような不快な音と共に現れた男がすぐ前のテーブルを叩き切ったのだ。
自慢の大剣を唸らせるは『狂犬』ダクラス。だがアーサーよりも遥かに高かった筈の彼の背は両足を失ったことで一気に小さくなっていた。
今も剣を振りかぶった後、勢いに引っ張られて地べたに倒れ込み、無様にもがいていた。
「何処だ…何処に居るシリウスぅぅぅ!!!」
尚も暴れ続ける醜態に舌打ちし、アーサーは静かに立ち上がった。
刹那、大剣を握るダクラスの右腕は肘から上を残して宙に舞った。
「がああああああああああああああああ!!!?」
切断面を抑えながら叫ぶダクラス。
その頭を踏み敷き、アーサーは言った。
「黙れ。次はその首を落とすぞ?」
ダクラスの状態を見てアーサーは考察する。
両足の欠損、及び精神に多大なダメージ。
そして彼の口から名が出たことから見てもシリウスにやられたことは火を見るより明らかだった。
(全く……仮にも三鬼将を名乗った者がこのあり様ではな…)
アーサーもダクラスの実力は正確に把握していた。
『神』の名を持つには余りにも制約の多い力、単調で戦術にも乏しい思考回路、魔術の一つもロクには使えない腕力に任せた脳筋。
今回の作戦の中で最もネックとなっていたのが聖騎士の中でも最強の剣士、シリウスへの対処だった。
冷静かつ残忍な性格、強大な魔力と強い精神力、剣術と魔術のみならず体術など全てにおいて秀でた戦闘力。そして『四神』が一角『死天使』の契約者。
まさに断罪の十字最強、鮮血の騎士団にとっての最大の障害。
並大抵の刺客では…それこそ獣鬼や歩兵など1000体送りこんでも時間稼ぎなど出来ない。
更には最強の敵に大事な戦力をこそぎ取られるのも避けたい。
そこで用意したのがこの男だった。
好戦的で攻撃的な性格のこの男は少し煽ててやればすぐに自身の力を過信する。
何度も何度も繰り返し繰り返し「君は強い」「君は神に選ばれた人間なのだ」と煽て続け、負ける要素の無い相手ばかりをさせて勝ち戦の味に酔わせた。
思った通りこの男は自信を付け、自分からシリウスの相手をさせてくれと訴えてくれた。
勝てる要素など微塵も無いが、この愚か者ならば『捨て石』としては最上級だ。
そうほくそ笑んで送りこんでみれば…まさか生きて帰ってくるとは思わなかった。
「マリス!」
ダクラスの頭を踏みつけたまま、『コレ』を連れ帰ってきた本人を呼ぶ。
彼女は何時もの様に音も無く、スッと自身の前に現れる。
頭のてっぺんからつま先までを純白で染め上げた可憐な少女。
だがその瞳は氷の様に冷たく、命を感じさせない。
「どう致しましたか?アーサー様」
平然と応えた少女に苛立ちを覚え、怒気を隠さずに問うた。
「何故この男を連れて帰った?
もうこいつは用済みだ…何の価値も無い負け犬だ。貴様にも解かっていた筈だが?」
語尾を強めるアーサーに、マリスはまたも冷静に応えた。
「確かに…彼に『戦力的』な価値などありません。
ですが仮にも『神』の契約者…『生贄』としての価値は上々かと思われます…」
「ほう……」
感心するかのようにアーサーは笑みを浮かべ、彼女に言った。
「流石本物の『三鬼将』は考えることが別格だな。二つ名に相応しいえげつなさだ…」
アーサーの物言いに、マリスは微笑を交えて反論した。
「その呼び方はは止めて頂けませんか?
私の名前の由来は聖女の様に美しく、聖少女のように清らかに…ですわよ?」
アーサーはその返答に満足するかのように微笑みながらダクラスの頭を床に叩きつけるように踏みつけた。
ずっと小さく呻き続けていたダクラスも流石に耐えられず、気絶する。
「ふ…まあいいだろう。では早速これを運び届けようではないか。我らが勝利の鍵…『邪神』の元へな」
「畏まりましたわ」
アーサーは部下を呼び寄せてダクラスを運ぶように命令し、颯爽と歩きだした。
そして彼にに寄り添うように悪意はゆっくりと歩を進め始めた。
彼は自分の望みを追い求めている。
彼は自分の望みを叶えてくれない者には情けをかけない。
何故なら彼にはその『望み』に賭けるしか、自我を保つことが出来なかったからだ。
小さな体に刻まれた数え切れない傷跡だけが彼の『過去』。
全身に浴びた返り血の臭いだけが彼の『今』。
その瞳は常に頭の中にある『探し物』の姿を思い浮かべるように宙に彷徨う。
願わくばそれが『未来』に続くようにと………。
鮮血の騎士団本部。
この場所は元々、聖戦において人間達の前線基地として使われていた城だった。
それが今や世界を滅ぼそうと蠢く者達の拠点として使われているなど…皮肉を通り越して滑稽にすら見えるだろう。
その一角、城の中で最も風化が進み、荒れ果てている物見台に一人の少年が居た。
三鬼将が一角、『血鬼』。尤も、これは彼の本名では無い。彼に憑いている『何者』かを形容したのがその呼び名であった。
『またここで寝るのかい?ここは私の体に善くないよ?』
自分の身を案じてくれる唯一の『存在』に彼は応えた。
「ここは…初めて会った場所と似てて…落ち着く」
傍から見れば少年の一人事の様に見えるだろう。だがそこには少年ともう一つの『存在』が居たのだった。
それは『血』。
勿論ただの血液では無い。数多の亡者の亡骸から染み出た血と無念の想いの集合体。
血鬼とは元々、その『存在』を初めて見たアーサーが名付けた名前なのだ。
少年の名前では無い。
そもそも彼に…名前があったことなど無いのだ。
彼が覚えている最初の光景。
それは優しい笑みを浮かべる母親の顔でも無ければ、逞しい父親の背中でも無い…砂埃の舞う廃屋の中だった。
何処で自分が生まれたかは『知らない』。
自分が何者であったのかなど『知らない』。
当然、自分が何故このような場所に一人ぼっちで居るのかも…『知らなかった』。
ただ解かったのは一つだけ。
自分は恐らく…誰かにとって『必要』とされなかったのだろうと言うことだけだった。
気付くとお腹が鈍く痛み、何かが鳴るかのような音を出していた。
それが『飢え』だということは少年には解からなかったが、このままでは大変だと言うことだけは解かった。
少年は人を探すことにした。
数時間後、彼は一軒の民家を見つけることに成功した。
これで嫌な気持ちから逃げられると…少年はその家の戸を叩いた。
中から出て来たのは自分と同じような背の高さで、同じような年齢の少年だった。
だが似ていたのはそれだけだった。
自分はボロボロの布切れを体に巻いているだけ。目の前の少年は綺麗な布製の服を着ている。
自分の体は鼻が曲がるくらい嫌な臭いがするのに…目の前の少年からはとても良い臭いがした。
そして何より…自分は一人ぼっちなのに、目の前の少年の傍には自分よりずっとずっと大きな人達が付いていたのだった。
大きな人達は目の前の子供に声をかけようとしたが、次の瞬間にはその子は走って行ってしまった。
何度も何度も転びながらも…決して振り返ろうとせずに…。
その後も幾つかの家を探し当てて戸を叩いた。
そして同じように自分と似た背丈の子供を見つけるが…やはりそれは自分とは違い、その周囲に居た大きな人達も皆、自分を追い払い、時には石を投げられた。
その時に解かった。
自分は『誰か』にとって必要とされなかったのではない。
『誰からも必要とされなかったのだ』と。
少年は最初に居た場所に戻って来た。
そのまま壁に寄り掛かって、自分の体を抱きしめた。
細い体を震わせているのは『飢え』と『渇き』と『寒さ』………そして『孤独』の痛みだった。
少年はじっと目を閉じて、風の音と砂の流れる音に身を委ねた。
色んな痛みがずっとずっと自分を苦しめる。
少年は『眠ろう』とした。
最初に目が覚めなければこんなに苦しい想いはしなかった。
だからずっとずっと眠っていようと思った。
そうすれば…何も考えずに済むからと。
だが世界はそんな無力で儚い少年の最後の望みすら打ち砕いた。
少年の居た場所に誰も居なかったのは偶然ではない。
そこが辺り一帯で暴れる山賊達の縄張りだったからだ。
山賊達は廃屋の一角でじっと目をつぶっている少年を見つけ、試しに殴り飛ばしてみた。
少年の軽い体は呆気なく宙を舞い、壁に叩きつけられる。
少年は目を覚まし、目を閉じていた時よりも苦しい自分を認識した。
心を閉ざした少年は何の反応も示さなかった。そしてそれは山賊達を不快にさせ、少年を殴る手は更に増えた。
何度も何度も何度も何度も殴り続け蹴り続ける。
少年に初めて触れた人間は…やはり彼を必要としてくれなかった。
少年は全身の痛みに震えながらも考えていた。
殴られるごとに体が軋み、意識が遠のく。
このまま何もしなければすぐに何も分からなくなるだろう。
これでやっと起きなくて済む。
これでやっと……考えなくて……済む……。
その時少年は思ってしまった。
思わなければ苦しまずに済んだのに、楽になれたのに、思ってしまった。
『ナゼ』…と。
何故…自分はずっと独りぼっちなのか?
何故…自分はずっと苦しみ続けているのだろうか?
何故…自分はあの子供達の様に笑えないのだろうか…と。
『疑問』は『感情』に訴え、芽生えた想いは『今』を否定した。
嫌だ…と。
嫌だ…こんなまま眠ってしまうのは。
嫌だ…こんな汚い人たちに殴られ続けるなんて。
嫌だ…こんなの嫌だ。
口元から流れ落ちる一滴の血が…涙と混じって大地に堕ち、吸収された。
その時だった。
一滴の血を吸っただけの筈の大地から『ソレ』が現れたのは。
『ソレ』は赤黒くテラテラと光る人に似た形をした『何か』だった。
人と言っても手は無く、顔も無い。
ただ頭部と思わしき箇所に鈍い光を放つ『目』らしきものが二つ浮かんでいた。
山賊はそれを見て腰を抜かし、少年を捨てて逃げようとした。
だが『ソレ』は彼らを見逃さなかった。
野蛮な男達は刹那の内に細切れになった。
少年は自分を助けてくれた存在にお礼を言おうとしたが、喉が枯れ果てていたため何も言えず、ただ頭を下げることにした。
すると『ソレ』は少年の言いたいことを理解したのか話しかけた。
『気にすることは無いよ…君は私と同じだ。だから私は君を助けた』
自分と同じ?
少年は首をかしげた。
今まで見た人は自分とある程度の共通点が見られたにも拘らず、自分とはまったく『違う』存在だったのだ。
なのに目の前のこの『存在』…ヌメヌメした赤黒い液体の集合体の様な外見。
自分と『同じ』だという点が何処にあるのだろうか?
頭を悩ませる少年に『ソレ』は言った。
『この場所はずっと昔に、ある大きな戦いのあった場所なのさ。
そこでは多くの者が死に、亡骸が高く積み上げられていた。
中には仲間によって丁重に埋葬された幸運な者も居たが、大半は身ぐるみを剥がれて捨てられていた。
そして打ち捨てられ、腐って逝く肉体から流れ出た血が、その想いが、数え切れない死者の存在の残りかすが集まり、『私』を作った。
だから『私』は『君』と同じだ。
誰からも必要とされず、誰からも見咎められず、誰からも知られること無く捨てられ、そして朽ち逝く存在…そう在るべくして生まれた者』
少年は深く絶望した。
自分と同じ境遇の仲間もまた、やはり自分は誰からも必要とされなかったのだと言う。
このまま…自分はずっと今のままでいなければならないのか…?
その考えを読んでいたかのように、『ソレ』はこう続けた。
『勘違いしないでくれ。
私も君も『そう在るべくして生まれた』だけ、そのまま朽ち果てる運命など受け入れていない。疑問に思い、足掻いている。
先程君から流れ出た血は…生きたいと叫んでいた』
「!!!」
少年は改めて自分の前に存在する『ソレ』を見上げた。
最初はただの不可解な何かにしか見えなかった…だが今、本当に自分と同じなのだと解かりあった今はその姿が何よりも温かく優しく感じられた。
何度もつばを飲み込んで、やっと声を捻りだす。
「君の…名前は?」
少年の言葉に…『彼』は困惑した様な声で返事をする。
『困ったな…私には名前が無いんだ。
この体を構成するのは死者達の血液だから『血』と名乗ればいいのかもしれないが、それでは余りにも安直だからねえ…』
本当に困っている『彼』の様子に、少年はくすりと笑うと、こう提案した。
「僕にも名前が無いんだ。でも君は僕と同じ、一緒だから…呼び名なんてどうでもいいよ。
ただ傍に居て、一緒に助け合って生きて行こうよ?もう一人の僕…」
その誘いに、『もう一人の少年』は嬉しそうな声で応えた。
『あぁ…よろしく頼むよ…もう一人の私よ』
そう言って彼は少年の体を包み込むように覆い尽くし、ゆっくりと彼の『血』と混じり合い、同化していった。
初めて『二人』になった少年は、もう一人の自分に話しかけた。
「ねえ…僕らは一体どうすればいいんだろう?
捨てられて、必要とされない僕達が幸せになるにはどうすればいいのかな?」
『とても難しい質問だね………そうだ』
彼はとても難しそうに唸り…その後一つの提案をした。
『神様を探そう』
「かみ…さま…?」
『そう、神様。大勢の人は死ぬ間際、最後に強い『想い』を込めて言葉を捻りだすんだ。
その時一番多くの人が言うのが…『神よ…』っていう言葉なんだ。
死に逝く最中でもなお、人間の心に残る存在…神様。
私の様な変わり者だっているのだから、きっとこの世界のどこかに神様は居るのではないだろうか?』
少年はゆっくりとその言葉を噛み砕くように、考えた。
どん底の苦しみや絶望の中でも尚、縋り付こうとする存在。願いを賭けるに値する存在…。
本当にそんなものがいるなら、きっと自分達の悩みも苦痛も、そして願いも聞き届けてくれるのではないだろうか?
「いいよ…『僕』が決めたことなら、そうしよう」
『あぁ…』
そうして『二人』の旅は始まったのだった。
大陸中を歩き回り、時には獣や人に襲われても、彼らは旅を止めなかった。
並大抵の障害では彼らを止めることなど出来なかったからだ。
旅の道中で、少年は『自分』の力を知った。
それは『血液を操る』能力。血の刃を作り出して敵を切り裂くだけでなく、止血や死体から血を吸って同化させることで栄養補給や『力』を高めることも出来る力だった。
その力は少年に『人外の力』への畏怖と…僅かばかりの希望を与えた。
自分にこの様な力が在るのなら、きっともっともっと凄い力を持った神様がいる筈だ…と。
二人は旅を続ける途中でアーサーに出会い、組織に入った。
動機は単純明快、アーサーが唯一絶対の『神』を知り、それだけで無くその元となる存在を手中に収めていたからだった。
だから二人はアーサーの元で闘い続ける。
『神様』が目覚めた時、一番に自分達の願いを聞いてもらえるようにと…。
二人の『血鬼』は夢を見る。
いつか本物の神様に出会い、そして自分達を救ってくれる夢を…。
彼女は、自分の行動が何を引き起こすのかを知っている。
彼女は、それがこの世界を破滅に導くことだと自覚している。
それでも彼女は後戻りはしたくなかった。
例え戦友を裏切ろうと、例え組織に歯向かおうと、最早この想いを押し留められることなど出来なかったからだ。
例え…自分の崇拝する少女を裏切ることになろうとも…。
エキドナはニーナに、現時点で必要と思われる情報を全て伝え、定期的な連絡手段の約束も交えた。
当然、鮮血の騎士団の機密情報の一部もニーナに伝えられた。もしニーナが口約束だけでジガードにこのことを伝えたら一気に戦況は狂うだろうに。
しかも、この戦斧隊員を引き込むことはアーサーの指示では無い。全てエキドナの独断だ。
にも拘らずこうも大胆な行動を起こせたのは何故か?
それはエキドナが…他の誰よりもニーナを理解していたからだ。
彼女は人一倍忠誠心に厚く、使命感にも満ち溢れる優秀な戦士だ。本来なら引き込むことなど出来ない。
だが、今回だけは違う。
その忠誠心ゆえに彼女は自分の願いを押し殺し続けていた。
日に日に膨れ上がるレックスへの想い。そして彼の視線の見つめる先に気付き…自分の願いが叶わないと知った。
ただそれだけならば、悲しい恋と諦められただろう。
だが…その相手は自分が忠誠を誓った少女、ソフィールだ。
主の幸福を望むのは部下の本望…されどニーナもまた一人の女だ。自らの幸福への願いを捨て切ることなど出来ない。
結果として何が心に残るか?
それは情愛……眼を閉じても尚、瞼に映るレックスの姿。
それは葛藤……主への強固な忠誠心と鬩ぎ合う嫉妬の板ばさみ。
それは渇望……自らを取り巻く絶望の渦からの救いを求める声。
そこに現れた一筋の可能性がエキドナの誘い。
自分では打開できなかった難局を『変える』可能性。
ニーナは絶対にこの誘いを壊さない。
何故ならそれが…彼女の願いが死ぬときなのだから。
「では今日はここまでにしましょう。
焦ることは無いわ。ゆっくりとでいいの…大切なのは辿り着くべき場所へ一歩ずつ近づいて行くことよ?」
「はい…エキドナさん…」
ニーナの声は決して快活なものとは言えないが、それは鬱蒼としているのではない。
幸福な未来への想い、その熱に浮かされそうになる自分を必死に抑えようとしている声だった。
その様子にほくそ笑みながら、エキドナは断罪の十字の医療棟の方角へと歩み始めた。
流石に無視できないだろうと思い、ニーナは差し障りのないように…そっと訪ねた。
「どちらに向かうのですか?あまり組織の人間に見られては…」
「心配無いわ。誰も殺さないし、傷つけない…ただ『想い人』に会いに行くだけよ」
想い人…それはつまり恋人のことだろう。
ニーナはエキドナも自分と同じように許されざる恋をした女性なのだとほっと胸を撫で下ろした。
自分と同じ境遇の存在が居るということはどんな時でも安心出来るものなのだ。
「どうぞお気をつけて」とエキドナを見送り、ごく自然な動作で隊員寮へと向かう。
頭の中でエキドナに言われたことを何度も何度も復唱する。
『しばらくは大きな動きはしなくていいわ。大規模な戦闘の後にすぐ行動を起こすのは怪しまれるから絶対に駄目。
今まで通り貴女の組織に尽くし、そしてレックスの状態をしっかり把握しておいて。
決して彼を孤独にさせては駄目…そしてそれを防げるのは貴方だけだと言うことをよく覚えていて?』
しばらくは…今まで通りでいい。
その言葉はニーナの心に重く響いた。
自分の願いを、レックスを手に入れるために組織を裏切ると誓った。
だが、組織や仲間、そしてソフィールへの想いを全て振り切れた訳では無い。
罪悪感が常に自分を叱咤する。
(今ならまだ間に合う…総帥や皆にこの事を伝えて対策を取らないと!でも……)
何と言いだせばいいと言うのだ?
組織を裏切ろうとしたと知られれば仲間達からの信頼を失うのは当然、下手すれば処刑されるかもしれない。
ニーナの体に震えが奔る。
自分はまだ何も解かっていなかったのだ。
組織を裏切るということはすなわち、かつての仲間たちと敵対すると言うことだということに気付かずに安易に返事をしてしまった…!
重い足取りでニーナは寮の自分の部屋に戻る。
(考えちゃ駄目だ…今日はもう眠ろう。決断を急ぐ必要は無……!?)
自室のドアを開けた瞬間、人影が見えた。
誰だと警告する前に、影が応えた。
「驚かせてごめんね…ニーナ」
「ソフィール様!?何故ここに!?」
突然の来訪に驚くニーナ。
自分が出しぬこうとしている相手にいきなり出食わすなどそうそう耐えられることではない。
「その…後宮は壊れちゃったし、皆敵襲を警戒しててどこも落ち着かなくて…。
一緒に寝てもらえないかなって…」
「なるほど…敵の追撃を警戒して本部内は緊張に溢れてますからね」
自分を頼ってきたのだということにほっと胸を撫で下ろす。
「いいですよ…久しぶりに一緒に寝ましょうね」
「!ありがとうニーナ!」
無邪気に微笑むソフィールの顔を見ていると、平和で満たされていた『日常』に戻ってきたようでほっとする。
先程まで胸に閊えていた疑問や恐れが、陽に当てられた雪のようにすっと解けていくのを感じる。
その後二人は同じベットに身を委ねながら他愛ない話に興じた。
食堂のおじさんが裏でこっそり野良猫にご飯をあげていたとか、エレンの聖狼は女性隊員のアイドルで男性隊員にとっての不倶戴天の敵になっているとか、一時期激減したフランツのファンクラブが着実に勢いを取り戻しているなど…。
二人は笑い合い、驚き合い、時に首を傾げ合い、とても穏やかな時を過ごした。
ニーナは心の底から笑みを浮かべながら思った。
(やはり裏切ることなど出来ない。私にソフィール様は憎めない。
レックスのことは…この闘いが終わってから二人でじっくり競い合えば良い。
時には二人でレックスをからかってみたりするのも楽しそうだ…)
顔を真っ赤にして慌てふためくレックスの姿を想像すると、思わず口元が緩んでしまう。
ただの少女として笑っていたニーナに、ソフィールはふと思いついたかのように口を開いた。
「ニーナは最近とっても可愛くなったよね」
「な!?何を急に……?」
顔を真っ赤にして反論するニーナに、ソフィールは応える。
「前はこう…戦士の顔っていうか、とても凛々しくて頼もしい表情だったのかな。
でも今のニーナはそれだけじゃなくて…魅力的になったって言うのかな。まるで誰かのために強くなろう、美しくなろうって気持ちが見れるの」
「そんな…別に…」
ソフィールから視線をそらすニーナ。
その様子を見てソフィールは確信した。
「ニーナ…恋してるでしょ?」
「!!!!!!!」
顔から火が出んばかりに真っ赤になるニーナを見て、ソフィールは笑いながら言葉を続ける。
「別に恥ずかしがること無いじゃない。恋は乙女を輝かせるとっておきの魔法なんだから」
「わわわ私は…そんな…」
慌てふためくニーナを見つめながら、そっと静かな口調でソフィールは言った。
「今のニーナなら…私の気持ち解かってくれるよね…」
「え?」
ソフィールは真摯な目でニーナを見つめ、自分の気持ちを正直に伝えた。
「私は…レックスが好き」
それを聞いても、別段ニーナは驚かなかった。
同じ相手を好きになった者同士、それくらい解かっていた。自分も……
「でも彼は今…私では無い、他の誰かを見つめているように思うの。
きっと私に誰かを重ね合わせているだけ、私を守ってくれると言ったのも、私の後ろにある『誰か』に言ったんだわ」
「な……!?」
ニーナの慟哭に気付かず、ソフィールは話し続ける。
「私は…その『誰か』に勝てない。今の状況が続く限り…私はレックスに愛してもらえない。
今はそんなこと言ってる状況じゃないって解かってるけど…どうしても今を抜け出したいの。彼と愛し合いたいの…!」
ニーナの慟哭は加速度的に強くなっていく。
(何を言っているの…?
レックスは貴方を愛しているのよ…?私では無く貴方…!ソフィールを愛している…!
彼に見てもらっていないのは私の方なのに…!
どんなに傍に居たって…彼は私に振り向いてくれてないのに…!?)
強まる胸の高鳴りは…先程までと違って決して熱を伴っていない。
燃え上がる激情は……冷たく、悲しくその心を燃やし尽くす。
仲間への想いも、強固な忠誠心も最早格好の燃料でしか無い。
「どんなことでもいいの…私に足りないものを教えてニーナ!
ニーナはレックスの一番傍で闘っていたでしょ?他の誰よりもレックスを見て来た貴方ならきっとその答えを知ってる筈なの」
(そこまで解かっていて……何故、貴女は……)
「もう…今日はここまでにしましょう。
あまり遅くまで話し込んでいてはお体に触ります…巫女様」
「え?」
唖然とするソフィールを余所に、ニーナは彼女に背中を向けて、ぎゅっとシーツを握りしめる。
(何故貴方は……私を理解してくれない…?)
ニーナの頭の中は数時間前とは打って変わって冷静に思考を巡らせていた。
何処から切り崩すべきか、何処から入りこんでいくか…組織の主要情報の全てを洗い出し、采配を振り分けていく。
(良いですよ…ソフィール様。
貴女に足りないものを教えてあげますよ…!『敗北』の味を…苦しみを…!)
最後まで強固に彼女の心を組織に繋ぎとめていたソフィールへの想い。
その楔は今、断ち切られた。
「ニーナ?どうしたのニーナ!?返事をして…」
ソフィールが何を叫んでも…ニーナはもう彼女の方を向こうとはしなかった。
彼は今も尚、『悪夢』を見ていた。
眼を開けてもその影は振り払えない…寧ろ一層濃く、彼を責め続けるのだ。
ソフィールの心の傷。
神を失い、衰えた自身の力。
そして…もう隣に居ない『彼女』の温もり…。
彼は憎み続ける。
自分から全てを奪ったかつての戦友、アーサーを…。
自分の失った物を…取り戻すまで…ずっと。
暗闇の中をひた走る。
どれ程急いても、決して間にあわないと知っていても尚、走らずにはいられなかった。
ただの『戦士』でしかなかった自分を愛し、『人間』にしてくれた彼女。
あの笑顔を、あの温もりを…奪われてたまるものか…!
辿り着いたその先でラッセルを待っていたのは……
『遅かったね…ラッセル…?』
血の滴る剣を手にこちらを見下す戦友と…
『お姉ちゃん!お姉ちゃん!!』
泣きじゃくる幼い少女…ソフィールの姿。そして…
『ラッセル………どうし……て…?』
命の灯が消えて逝く…最愛の彼女………
『うあああああああああああああああああああ!!!!!』
魂の裂ける……音がした。
「うっあああああああああああああああああ!!!?」
絶叫しながら飛び起きるラッセル。
血の滲む包帯がぎしぎしと鈍く鳴り、傍に置いてあった花瓶が砕かれ、床に中身をぶちまける。
もう何度目になるだろうか。
昏睡と覚醒を繰り返し、その度に暴れるラッセル。
周囲の隊員に悪影響を与えないように医療棟の最上階の個室に移されても尚、回復の兆しは見えない。
「アーサー…!アーサァアアアアアアアアああああ!!!!!」
憎い…憎い…憎い…!!!
何度奴に向けて呪詛の言葉を吐き散らしただろうか?
どれほどあの脳天に斧槍を突き立てる光景を渇望しただろうか?
組織の使命、そして剣の責務を超え、ラッセルはアーサーを殺すことを渇望してきた。
つい先日、その絶好の機会が巡ってきた…なのに、自分の刃は届かなかった!!!!
あと少しだったのに…あとほんの少しで…奴の息の根を止められたのに!!!
何故この体は…あの一瞬に耐えられなかったのだ!!!?
頭を掻き毟り、血が出ても尚、その手は止まろうとしない。
自分の肉体の痛みなど、ラッセルはもう度外視していたのだ。
あの時のソフィール、そして彼女の無念の痛みは、こんなものでは無かったと…!
「許してくれ…ソフィール…フィオーラ!次こそ…次こそ奴を……!」
涙を流しながら呟くラッセルに、返事をする声が在った。
「本当にそう思うならちゃんと体を労ったら?ラッセル…」
「!!!!!」
何度も夢枕で耳にする温かい声。
もうどれだけ望んでも決して耳にする筈が無い声。
「誰だ!?」
だが…その声は自分が最も望んでいた声でもあった。
部屋の隅の暗がりに誰かが居る。だがそれだけでは『彼女』だと判断は出来ない。
その時、雲が流れ、月明かりが窓から差し込めてその影を照らした。
「お前は……まさか……?」
淡い栗色の髪も、大きな瞳も、淡い桃色の唇も何も変わっていない。
何度も追い求めても尚、たどり着けなかった最愛の女性が…すぐそこに、手を伸ばせば届く距離に居た。
「フィオーラ?お前なのか…?」
茫然とつぶやくラッセルに、彼女は応えた。
妖しくも美しい笑みを浮かべて、ゆっくりと応えた。
「久しぶりね…ラッセル」
世界は……加速する。