代償~傷埋める術は
本部襲撃の数日後。
ようやく体勢を立て直せた断罪の十字が真っ先に行ったのは戦死者の葬儀だった。
今回の襲撃は余りにも大きな傷跡を残していった。
後宮の警備に勤めていた剣が紅一点『華炎』のマリアを筆頭に、戦斧58名、短剣117名が戦死。
負傷者の数は実にその倍を軽く上回り、更には主力である剣隊員の半数以上が重傷により戦線への復帰が見通せずに居る。
だが決して負け戦では無かった。
最悪の形で火蓋が切られたにも拘らず組織の大半が生き延びた。
保護されていた霊獣も、確保した魔道具も奪われることは無かった。
何故ならば組織の人間の全てが『抗った』からだ。
負傷した戦士達は数多の敵を打ち倒した後に生き延び、戦死者の大半が数人の敵兵や数匹の獣鬼を道ずれにしていたのだ。
誰も臆病者は居なかった。
大局的な見解では彼らは英雄では無かったかもしれない。
だが皆が皆、抗っていたのだ。
彼らの一人一人が臆病風に吹かれて逃げ惑っていたらどうなっていたか?
指揮系統は完全に停滞し、恐怖が伝染し、士気を激減しただろう。
そうなれば間違いなく組織の命運は尽きていた筈だ。
戦闘員を代表して聖騎士が一角、クリフは高らかに皆の名誉を讃え、演説した。
「我々は組織と!総帥ジガードに忠義を誓う兵であり、刃であり、配下である!
それは無論我らにとっての誇りであるが…今日改めて、ここにもう一つだけ我らがあるべき形を加えたい!!!
かの戦禍を潜り抜けた戦士達!
そして志半ばにして散って逝った英霊達よ!!
誰一人欠けて居ても、今日の組織は無かったと私は確信している!!!
故に!もう一度ここに謳おう!!!
我々は誠実なる配下にして!汚れ無き刃!勇猛なる兵であり…そして無二の仲間であると!!!
汝等が内に誇りが!力が!!そして戦友の魂が伴に在らんことを願う!!!」
雄々しく振り上げられた拳に、満員の歓声が応えた。
その中にエレンの姿も見えた。
周囲に紛れそうな小さな体を懸命に駆使して、細い腕を一生懸命に伸ばし、その先に握る剣を大きく振り上げ、全力でクリフに応えていた。
言葉で語らずとも、その場の兵の誰しもがその心の内が見て取れただろう。
≪例え…この身朽ちようとその寸前まで気高く、強くあろう…≫と
大きな闘いを乗り越えたことで戦士達の絆は確かに深まった。
これから先の大きな闘いにも迷わずにその身を投げ出せるであろう程に。
しかし、光が強ければ強いほど、その裏には濃い影が落ちる。
それを示すかのように…エレンは見慣れた顔がすっかり見えないことに気付いて居なかった。
葬儀が盛大に行われている大ホールの光が、敷地内に在る墓地を照らす。
だが幾ら光を浴びても、冷たい石は温もりを伝えてはくれない。
ここは殉職した戦士達が眠る…最も目視しやすい世界の『果て』。
そこにアイリスが居た。
彼女はずっと震えていた。
この数日間、ずっと同じ『悪夢』に魘されていた。
朝も、昼も、夜も、ずっと『悪夢』に……。
この『悪夢』を振り払う方法は一つだけ。
そのためにアイリスはこの場所に来た。
これは『悪夢』なのだと…信じていた。
この夢から醒めれば…きっとまた何時も通りの幸せな日々が待っている筈だと。
こんな冷たい世界が…本物の筈が無いと。
だが…目の前の墓石には確かにこう…刻まれていた。
彼の者は先日の本部襲撃において、その類稀なる勇猛さによって数多の敵を打ち倒した。
そのことだけでも称賛に値するが、彼の者は敵の手から『巫女』を守り抜いた英雄の一人であることが判明した。
彼の最後は敵首領に果敢に立ち向かい、三人の剣と二人の戦斧隊員を守り抜いた後の戦死。
その功績によりここに剣への昇進と伴に二つ名を刻む。
安らかにあれ
階級:剣 字:金織 名:カイル
何度見直しても、確かに…そこには『カイル』と刻まれている。
組織には同姓同名の人間が何人か居るが、戦闘員として籍を置いていた『カイル』は一人だけだった。
それは当然アイリスが愛し、愛された…唯一人の『カイル』……。
体中の力が抜け、音も無く膝を着く。
張り詰めさせていた精神も、もう限界だった。
解かっていた。
アイリスは見ていたのだ。
自分を守るために瀕死の重傷のままアーサーに立ち向かい、そしてその剣に胸を貫かれた瞬間を…!
悪夢だと言い聞かせ続けた。
否、悪夢で在って欲しかった…!!!
「う………うぅ……」
最早、口から溢れたのは嗚咽のみだった。
何度も何度も泣き叫んだ結果、彼女の喉は腫れ上がり、涙も枯れ果てた。
震えながら顔を上げ、カイルの墓石を見つめる。
この下に彼が眠っているのだと思うと、ほんの少しだけ苦痛が和らいだ。
でもまだ足りない。
ここからじゃカイルと離れ過ぎている。
アイリスはそっと懐に手を入れ、一本の短剣を取りだす。
ニーナから貰った隠し玉…凰炎を籠めた宝珠付きの短剣だ。
以前カイルと共に闘った際にも使った思い出の品。
そっと鞘から抜き、剣先を自分の喉笛へと押し当てる。
鋭い痛みと刃の冷たさにゾクリとするが、それをも押し込むのはたったひとつの想い。
カイルの傍に…逝きたい…!
震える両手に精一杯の気力を籠め、一気に押し込んだ…
筈だった。
「!?」
気付けばアイリスの首に突き立てられていた短剣は消え、先程までその場に居なかった一人の青年の手に握られていた。
滑らかな黄金色の頭髪と端正な顔立ちはやはり見る者を魅了するに十分な美しさを持っている。
まだ全身の傷は癒えていないが、それでもその圧倒的な速さは何ら衰えていなかった。
「フランツ…さん…?」
おぼろげな口調で、確かめるように話しかけたアイリスにフランツは…
パァアアアンッ……!
平手打ちで応えた。
「え……?」
呆然とするアイリスにフランツは言った。
「死ねば助かるとでも思ったか?
だとしたら僕は君を誤解していたことになる。そんなことは許さない」
嗜める様な口調に唇を噛み、彼女は叫んだ。
「貴方に私の何が解かるの!?
あの人でも無い貴方に責められる理由なんて…」
「カイルは僕達と…そして誰よりも君を守るために闘い!そして死んだ!!」
「え?」
一瞬、彼が何を言いたいのかが理解できなかった。
アイリスに構わずにフランツは更に言葉を続ける。
「カイルが命に代えてでも守り抜いた君が、カイルを失った悲しみから逃げるために自害なんてしてみろ!?
あいつの死は無駄死にになるんだぞ!?
そんなことは絶対に許さない!!!あいつを無駄死にさせて堪るものか!!!」
アイリスはフランツの瞳を見た。
痛みと悲しみは無論存在している。
だが…その奥にそれらの負の感情を上回る大きな『何か』がある。
自分には無い…否、自分が忘れてしまっているような気がする。
包み込まれるような温もりと存在感…?
フランツはアイリスに背を向け、カイルの墓石に向き合った。
刻み込まれたカイルの名を見つけた時、一瞬だけその体が震えたのにアイリスは気付いた。
アイリスの様子に構わず、フランツは話し始めた。
まるで…カイルに話しかけるような口調で。
「金織……金を織りなす者か。
良い字じゃないか…お前にぴったりだよ。
ちょっと前までお前が短剣(ダガ―)だったなんて誰が信じられるだろうな?」
フランツの表情は穏やかで、そして優しげだった。
まるで長年連れ添ったかのような雰囲気さえ感じ取れるほどに。
「ついこの間までは僕の方が実力は上だとばかり思ってたんだけどな。
あの時の闘い、僕も見ていたよ…いや、見ていることしか出来なかった。
圧倒的な格の違いを肌で感じて…恐ろしくて動けなかったんだ」
拳を握りしめ、フランツは俯きながら話し続ける。
「なのにお前はあのアーサー相手に真っ向から挑み、互角以上に渡り合って見せた…!
完敗だよ。僕にはあんなこと出来ない。
間違いなくお前は僕より強くなった…!だから今度は…僕がお前に追いつく番なんだ…!
なのに…なのに…!」
一粒の滴が冷たい石に当たって砕ける音が聞こえた。
「もう…お前は居ないんだ…カイル……!!!」
「!!!」
アイリスははっとしてフランツの背中を見つめた。
全身が震えている…この感情は紛れもなく、自分と同じ『悲しみ』だ。
カイルを失って辛いのは…自分だけでは無かったのだと初めて認識した。
「僕たちは何度も何度も、時間さえ有れば模擬戦を行った。
僕は勝ち続けるため、腕を磨くために、そしてお前は僕を超えるために強さを求めた!
僕にとっての憧れがシリウス殿ならば…戦友はお前だった!!!
なのにもう…お前は居ない…!
今日ほどお前が憎らしいと思ったことは無いよ。勝ち逃げしやがって…馬鹿野郎が…!」
「フランツさん…」
そこでフランツは勢いよく振り向いた。
涙を流しながらも、その瞳には強い意志が光っている。
「解かるか?そのカイルが…誰よりも守りたいと願ったのが君なんだ!!!
そのことにすら気付かないような女を守るためにカイルが死んだと思うのか!?
違う!!!そんなことあって堪るものか!!!」
怒号を飛ばしながらアイリスの胸倉を掴み、詰め寄り、鼓膜を破らんばかりに叫び続けた。
決して忘れない様にと…。
「君は生き続けるんだ!
この闘いに勝って!世界に真の平和が戻るまで生き続けるんだ!!
そして何時までも覚えてろ!!!
君への愛を信じ、その想いに殉じた英雄が居たことを!!!
それが君に出来る…カイルへの『答え』だろうが!!!」
アイリスにはやっとフランツの瞳の奥に在ったのが何なのか解かった。
それはカイルへの確かな『想い』。
自分がカイルを愛していたように、フランツもまたカイルを支えとしていた。
誰よりもカイルのことを解かっていた筈なのに…いつの間にか自分は悲しみに逃げていた。
「……はい…!」
アイリスはやっと悪夢から覚めることが出来た。
もう二度とカイルが居ないと嘆くことは無いだろう。
フランツには確かに見えていた。
泣き腫らした痕の残る真っ赤な顔で精一杯の笑顔を見せるアイリスと、彼女に寄り添うカイルの姿が。
それと時同じくして、本部敷地内の一角。
夜風を浴びながら暗い顔で俯くニーナの姿があった。
彼女は胸の内に湧き上がる感情を持て余し、一人になることを望んでほぼ全壊した後宮の跡地に来ていた。
「レックス……」
あの日、ソフィールを強く抱きしめたレックスの姿が忘れられない。
アーサーとの激戦も、葬儀のこともすぐに頭から消え去り、尚もレックスとソフィールだけが頭の中を独占し続ける。
ニーナはずっとソフィールに忠誠を誓ってきた。
初めて会った時、二人は互いの身分の差など無く、語り合った。
その時にニーナは彼女が特別な『巫女』などではなく、自分と同じ一人の『少女』なのだと共感した。
そしてソフィールが背負っていたものが何なのかを知った時、彼女を支えたいと願った。
ソフィールを守るために親衛隊を作り上げた。
ソフィールを守るために特訓に励んだ。
そしてソフィールを支え続けることがニーナの生きがいになって行った。
なのに何時からだろうか?
レックスの存在が…ソフィール以上にニーナの心を占めるようになったのは…。
レックスのことを考えるだけで胸が熱い。
レックスのことを見ただけで冷静で居られなくなる。
レックスと……一緒に居たい。
最初はただの気に喰わない奴だった。
なのに何時の間にかソフィールを守る仲間の一人となり、一緒に闘うことが多くなった。
任務の間もその場に居ないレックスのことを探す自分に気付いたのは…何時からだろうか。
「でも…レックスは…ソフィール様のことが…」
「何でそこで留まってしまうのかしら?」
「!!!?」
いきなり背後からかけられた何者かの声がニーナの心に入りこむ。
無意識のうちに考えることを止めていた想いを…代弁するかのように。
「誰!?」
ニーナが振り向くと、見たことが無い美しい女性が立っていた。
淡い栗色の髪と琥珀のように輝く瞳が特徴的な…妖艶な顔立ち。
女性らしい凹凸を備えた体を包むのは黒を基調としたレース付きの可憐なドレス。
ソフィールとは別の…だがどこか似ている美しさを感じさせた。
「会って話をするのは初めてね…可愛い戦斧隊員さん」
「まさか…敵!?」
わざわざ組織の人間が二ーナを戦斧と呼ぶとは考えられない。
見た目がどうであれ、一瞬で背後を取った相手に警戒を強めるニーナに彼女は話しかけた。
「…確かに私は断罪の十字からしてみれば敵だけど、貴方にとってはどうかしら?」
「組織の敵は私の敵よ!!!」
自分の信じる…揺るがない意志を強く言い放つニーナ。
だが…目の前の女性の放った言葉はその意志をも揺らした。
「例え…レックスが相手でもそう言えるのかしら?」
「え…!?」
一瞬、どうゆうことなのか理解できなかったが、次の瞬間には激昂する。
「馬鹿にしないで!レックスは私達の仲間よ!
絶対に裏切ったりなんかしない!!!私だって…」
「解かって無いわね…」
彼女は更に信じられない言葉をつづけた。
「レックスが組織に剣を向けるのでは無いわ…」
到底、信じられない言葉を…
「組織が…そしてソフィールが、レックスを殺すのよ」
「!?」
驚愕に目を見張るニーナに彼女は尚も話し続ける。
「貴方は戦斧隊員の中で唯一、神と聖戦についての大半を理解しているでしょう?
何故貴方達の組織と鮮血の騎士団が『対立』しているのかも含めて…ね」
「それが……なんだって言うの?」
ニーナの声が震える。
聞いては駄目だと頭の芯が叫んでいる。
でも…体が動かない。
「断罪の十字は裏世界最強・最大の組織よ。
なのにそれが何故、私達、鮮血の騎士団を最大の危険分子と見做しているのか?
簡単なことよ…貴方達と私達の敵対関係は聖戦の『縮小図』そのものだからなのよ。
ジガードは聖戦の勝者に成り得なかった。
何故なら彼は『元凶』の命を絶つことが出来なかったから。
聖戦は終わってなどいないわ…今もその胎動は続いているの」
「何を…言って…」
ニーナの疑問に、彼女は口元に笑みを浮かべて答えた。
「『邪神』はもうすぐ目覚める…」
「!!!」
背筋がゾクリと凍ったかのような錯覚を感じた。
何故目の前の女性は『邪神』の存在を知っている!?
鮮血の騎士団の中でもそのことを知っているのは……!
「まさか…貴女!?」
思いつく人物の名を言う前に彼女が名乗った。
「三鬼将が一角、『妖妃』のエキドナよ…ニーナさん」
ニーナは戦慄し、瞬きすら出来なくなった。
本部襲撃の最大の原因。
正体不明、神出鬼没の『三鬼将』エキドナ。
空間を自在に行き帰し、強力な魔物を召喚し、使役する能力はまさに驚異。
勝期など言うに及ばず、逃走すら不可能。
まさか襲撃から間もない内に、自分一人相手に最強の敵が現れるなど…!
「だから勘違いしないでくださらない?」
エキドナは不機嫌そうに頬を膨らませて二ーナを見つめる。
確かに敵意は感じられない…だが…。
冷静に分析を試みる二ーナにエキドナははっきりと言った。
「私は貴女の願いを叶えてあげられるのよ?
愛しい愛しいレックスを…貴女のモノにしてあげる。ソフィールではなく、貴女に…ね」
「な……!?」
二ーナがはっきりと動揺したことに口元を歪め、エキドナは更に語りかけた。
時に情熱的に誘う様に…時には憂いを帯びて引き込む様に…。
「遅かれ早かれ、ジガードもソフィールもレックスを殺すことを選ぶ。
何故なら彼は元々、私達の側の存在だからよ。
そうなった時に彼はこれまで以上に傷つき、苦しみ、救いを求めるでしょう。
でも誰も応えられない。
戦友も、組織も、彼が望む者は全て彼を拒絶するわ。
でも貴女だけが彼に応えられる唯一の希望となる。組織に縛られた巫女では無く…貴女だけが」
「何を…言って…?」
二ーナの声から警戒が薄れ…縋るかのような口調が滲み出る。
その期待に応える様にエキドナは言った。
「貴女はもう気付いている。自分が本当に望むものは何なのかを…誰なのかを。
もう自分を誤魔化す必要なんて無いわ。遠慮することは無いの。欲しければ奪えば良いじゃない?
いいえ…彼だって本当はそれを望んでいる筈よ?
素性を明かさない英雄王に、その懐刀の聖騎士。
そして彼らに保護されている巫女。
彼の周りに居る人間で彼が本当に心を許せているのは貴女だけじゃないかしら?
唯一人…貴女だけが…」
「私だけが……?」
二ーナの脳裏を巡る数々の想い。
組織の理念。ソフィールへの崇拝に近いまでの忠誠。
仲間との温かな記憶。数々の戦場。
だが…それら全てが一つの『願い』の前では霞んで見える。
「もう解かるでしょう?
真に貴女の居るべき場所は此処じゃない…此処じゃ彼を傷つけるだけ。
貴女の望みは此処に居ては決して掴めないわ。
全部『巫女』が持って行ってしまうから…レックスの全てを…ソフィールだけが」
「嫌!そんなの…!」
駄目だ。
それだけは誰にも譲れない。渡したくない。
ずっと臆病で、傍に居るだけで満足だと偽り続けて来た。
でも…本当は……!
激しい葛藤に揺さぶられる二ーナの心を抉るように最後の言葉が告げられた。
「中途半端な好意ほど…人を傷つけるものなんて無いと思わない?」
中途半端…?
自分の…レックスへの想いが…中途半端?
二ーナは何度もその言葉を繰り返し、そして叫んだ。
違う!中途半端なんかじゃない!
誰よりもレックスを好きなのは…必要としているのは…他の誰でも無い!
「私が…私だけが…!」
二ーナの返答にエキドナは満足げに微笑んだ。
本部襲撃の直前、ニーナは何かが崩れる予感を感じていた。
それは見事に的中していた。
もう……あの日常には戻れないと、ニーナには解かっていた。
同時刻、レックスは本部の奥底に在る『特別』な場所で何者かに取り憑かれたかのように特訓に明け暮れていた。
「ハア……ハアァ…!」
そこには一切の光が無く、視界は塞がり、鼻腔を突くのは血と鉄の臭いだけ。
聞こえるのは鋭く、硬い『何か』がまた別の何かに突き刺さり、引き裂き、削ぎ落とす音と、血が床に滴り、それが乾く前にまた新たな血が止め処無くその上を濡らす音だけ。
神との契約のための第一歩。
強靭な肉体と力を試す場所がこの『洗礼の間』。
漆黒の闇が支配する空間で、四方八方から襲い掛かる『敵』と戦い続ける。
容赦無い攻撃に体中を傷つけられ、血が流れ、肉を削がれても尚、レックスは大剣を止めようとしない。
「ァアアアアアアアアアア!!!!!」
レックスは闘い続ける。
まるで…人であることを止めたかのように…。
話は襲撃の終わった直後まで遡る。
アーサーの撤退を見送った後、レックスはジガードの元へと歩いて行った。
明確な意志が有った訳ではない。
ただ砂利を宙に放れば地に堕ちるかのように…力の無い足取りだった。
いくつもの記憶がレックスの中に囁きかける。
出撃前にフランツと交わした言葉…組織への忠誠の再認識。
何かに脅えて震えていたソフィールの顔…守りたいという想い。
クリフとエキドナの戦闘…絶対的な力の差…『神』の存在。
仲間たちと共にアーサーに立ち向かった…胸の高鳴り、可能性。
そして…敗北。
そうだ。自分達は負けたのだ。
六対一という圧倒的な数の差。今まで共に闘い勝ち続けて来たと言う自負、確信を完膚なきまでに砕かれた。
そして…カイルを失った。
ふと気付くと、レックスは既にジガードの私室に足を踏み込んでいた。
遠目でもはっきりと中の人間が解かる。
玉座に座るジガードとその向かいに立って懸命に何かを訴えているソフィール。そして両者を守るために警戒を緩めない最強の剣士、シリウス。
レックスはシリウスを見つめた。
断罪の十字が誇る最強の称号『聖騎士』を冠する剣士。
まだ自分は見たことが無いが『神』と契約を果たし、その力を自由に使役できると言う。
ただ頭の中の情報を並べただけ。
なのに、今、自分の中の一つの声が残酷な言葉を囁いた。
『シリウスだったら仲間を守れただろうにな…』と。
ギリリッ…!
強く噛み合わせられた歯が軋む。
握り締めた拳から血が滲み出す。
激情のまま大剣を握りしめ、踏み込んだ。
「!」
突如放たれる殺気に反応して、シリウスは二人の前に立ちはだかった。
その刹那…
ガキィィン!!!
シリウスの双剣と見覚えのある大剣が火花を散らした。
「きゃ!?」
驚くソフィールの声を背に、シリウスは剣の主を見つめた。
「何故…」
「レックス、貴様…何を錯乱している?」
その男の顔は…自分の知るそれとは全く異なるものだった。
「何故…!」
その瞳に浮かぶは…涙。
「何故来なかった!?何故ぇえええええええ!!!」
後悔、嫉妬、憎悪、絶望…負の感情に満ちた涙だった。
「何を…道理に適わんことを!!!」
双剣に力を込め、大剣を弾き飛ばし、がら空きになったレックスの腹部に鋭い蹴りを放つ。
「が…!?」
堪らず前屈みになった瞬間、後頭部に剣の柄による打撃が加わる。
無理矢理肺から酸素を奪われた直後、脳を揺らす連撃に倒れ伏すレックス。
「あ…あぁ…!」
口の端から泡を吹きながら悶絶するレックスの顔のすぐ横の床に剣が突き立てられる。
圧倒的な力による『警告』。戦闘では無い…これは最早『作業』だ。
シリウスがその気になればレックスは何の抵抗の術も無く殺されるだろう。
「無力を自覚しろ。今の貴様では…」
「もう止めてシリウス!レックスは怪我をしてるのよ!?これ以上…」
「そうだよ…」
ソフィールの言葉を遮ってレックスが呟く。ソフィールは不安げな表情で近づき、その顔を覗き込もうとする。
本来ならば見過ごす筈の無いシリウスだが…今回は違った。
震えながらのか細い声…にも拘らずシリウスはふと眉を潜めた。
この声を…どこかで聞いた気がする…と。
「あぁそうさ…俺は無力だ…何も出来なかった!何も!!」
「!!!」
急に怒鳴られて驚くソフィールと、何か別のことに驚愕するかのようなシリウス。
二人の様子など一切構わずにレックスは叫び続けた。
膝を付き、地に涙を垂らし続けながら叫ぶその様は…まるで神に救いを求めるようだ。
「全力で闘ったさ!守ってみせると!!過去の俺とは違うと!!!
だが結果はどうだ!?何が出来た!?誰を守れた!?
負けたんだ!何も出来なかった!!誰も…守れなかった…!」
苦痛に震える拳を振り上げ、力無く床を殴るレックス。
何の意味も無いと分かっていても…湧きあがり溢れる感情を持て余してしまう。
ソフィールは心底レックスを案じながら声をかけた。
「でも…クリフさんの報告では貴方の傍にいた隊員は負傷は多くても死者は…」
その一言が、レックスの傷口を抉った。
「カイルだけだ…」
「そう…その方を知っているのね…?
とても悲しいことだけれどあの状況で犠牲者を一人に抑えられたのは奇跡だってクリフさんも…」
「違う!!!」
「え?」
呆然とするソフィールにレックスは叫んだ。
「カイルだけだ!あの場所で闘えたのは…仲間を守っていたのはカイルだけだ!!
俺は足手纏いになっていただけ…何も守れず、ただ…無力なだけだ…」
「レックス…」
かける言葉も見つからない。
何を望んでいるのかも解からない。
うろたえることしか出来ないソフィールを横目に、シリウスを睨みつけるレックス。
シリウスはじっとその視線を受け止める。
「アンタが来てくれれば…アーサーを撃退するどころか殺すことだって可能だっただろう!?
そうすればカイルも死なずに済んだ!なのに…何故来なかったシリウス!!!?」
レックスの叫びに、シリウスはそっと答えた。
自分自身に言い聞かせるように、そっと答えた。
「…仲間の協力を受けることは愚かでは無い。
だが自分一人で立つ力が、生き延びる力が無い者に勝利など無い。
その場に居なかった俺を求めた時点で、貴様の負けだ…レックス」
「!!!」
レックスは表情を歪めると、視線を床に移した。
そんなことは解かっていた。
だが、認められなかった。認めたくなどなかった。
ジガードとソフィールを守り抜いたシリウスには何の落ち度も無い。
自分の行動は只の逆恨みだと言うことなど…自分が一番解かっている。
ならば…どうやってこの痛みを埋めればいい?
カイルは死んだ…自分の目の前で!
何故だ!何故死んだ!?何故カイルが死ななければならなかった!!?
弱かったからだ。
自分が…アーサーより弱かったから…カイルが死んだ。
俺は無力だ。
結局俺は何も出来ていない…誰も守れていない。
レベッカを失ったときに誓った筈なのに…もう失うものかと!!!
だがこのままではいずれまた失う!自分に『力』が無いせいで!!!
「力が…力が欲しい…!」
脳裏に浮かぶ強者の姿。
『聖騎士』であるシリウスとクリフ、『三鬼将』のエキドナ、そして『剣帝』アーサー。
彼らは皆『神』の力を手に入れている。
それが自分と彼らに在る絶対的な境界…埋まらない壁…力の象徴。
絶対的な『力』。
敵を蹂躙し!喰らい!!殺し!!!仲間を守るための『力』!!!
自分の居場所を守り!この秩序無き世界で生きるための『力』!!!
――――――――力『さえ』有れば…変われると思うか?
一瞬、脳裏を横切った声に後ろ髪を引かれたが…すぐにレックスは応えた。
さも当たり前のように…事も無げに。
≪変われるさ…!敵を全て滅ぼせる力を手に入れれば!!!≫
震えながら寄り添っていたソフィールの手を振り払い、シリウスを横切り、ジガードへと歩を進める。
歩きながら、俯きながら、言葉を紡いだ。
「俺達、剣は神と契約を結ぶために選出された…」
語尾がだんだん強くなる。
「なら…俺のやるべきことは最初から一つだけじゃないか…」
―――――――――傷つき、剥がれ落ち、ひび割れて行く自我
「そうだよ…何を迷う必要があった?」
――――――――失い、奪われ、散り逝く幸福
「俺は強くなる…新たな高みに到達するんだ…!」
――――――――傷跡は何で埋めればいい?
やがてゆっくりと玉座の前に立つ。
玉座に座るジガードに手を伸ばし、レックスは言った。
止め処無く涙を流しながら叫ぶその姿は…余りにも脆く見えた。
「俺に…神との契約を…!!!」
もう―――――――止められない
今のレックスの目に映るのは強大な力への『喝望』のみ。
憎しみの連鎖の果てに堕ちて逝くレックスを見つめるは…三者三様。
「レックス…駄目だよ…」
ソフィールは華奢な体を『恐れ』に震わせながら『悲しみ』の涙を流し。
「お前も…俺と同じか…?レックス…」
シリウスの瞳は……『過去』の自分を見るかのように…その『行方』に想いを馳せていた。
そして…ジガードはゆっくりと、微笑んだ。
「よくぞ決意してくれた。
契約は余りにも厳格な裁きを下し、失敗した者に命は無い。
だが君ならば必ずやこの難関をも潜り抜ける筈だと信じているよ…レックス」
その場の誰もが気付かなかった。
ジガードの口調は優しく、慈愛に溢れるかのように穏やかだったにも関わらず…その瞳はまるでレックスを弄ぶかのように冷たかったことに。
罅割れ、しっかりと繋ぎ直された仲間達と…罅割れ、ゆっくりと砕けていく仲間達。
人の可能性と義を貫くと誓ったフランツ、エレン。
見失った物を再確認するアイリス。
押し殺し続けた自分の願いを求めた二ーナ。
そして『人』である今を捨て『神』を望むレックス。
最初に投げられた石は一つだった。
それにより生まれた波紋は大きかった。
その波に押し流される者も居れば、耐えた者も居る。
最初に穿たれた亀裂は一つだった。
それにより砕けたものは一つでは無かった。
すぐに砕けた者も居れば、いずれ砕ける者も居る。
世界は回る―――――――――希望と誇りを載せて。
世界は廻る―――――――絶望と混沌を糧に。
世界は加速する――――――――渇望するが故に。
世界は栄える――――――――――生きる故に。
世界は滅びる――――――――――敗北故に。
弾き飛ばされたのは―――――――――――ダレ?
投稿が遅れたこと、申し訳ありませんでした。
更新速度は出来る限り早くしたいのですが、内容や構成を軽視したくないのでどうしても他の方に比べて遅くなってしまいました。
何度も何度も書き直し、読み直し、自分が納得できるまで投稿は出来ませんでした。
この作品を読んでくれて頂く方達に中途半端な物を見せて失望して欲しくないからです。
今後もよろしくお願いします。