破滅の足音
かつて…この大陸の北にある極寒の地方で、語り継がれる屈強な剣士の男が居た。
身の丈三メートルを超えた巨躯、馬に騎乗した騎士を馬ごと真っ二つにした剛剣…見る者を圧倒する一方的な力量の差…。
この地方は年中雪に覆われ、作物はまともに育たず、住民たちのほとんどがその日の飢えを凌ぐのに必死だった。
彼は最初、貧しく力の無い人々を守り、屈強な獣たちを狩って肉を調達するために剣を取った。
人々は彼を英雄と称えた。
彼も自らに与えられる賞賛と信頼に満足し、それに応えようと剣の修業に明け暮れた。
だが…彼の心には一つだけ…満たされないものがあった。
剣に明け暮れ、山賊を斬り、獣を狩る日々…。
彼は…より強い力を渇望するようになった…。
しかし、彼の居る地方では彼以外に剣を扱える人間など居なく、村を襲撃する賊の実力などそこらの獣にすら劣っていた…。
そんな環境では強者との邂逅も、更なる力の向上も叶うはずが無かった。
そして…彼の運命を揺り動かすことになる一日が来た。
彼がいつものように村の近くの森を歩いていると、目の前に見慣れない巨大な狼が現れた。
それは彼を誘うように走りだし、やがて小さなほら穴に彼を導いた。
そこは入口こそ小さかったが、どんどん奥に行くにつれて広がり、やがて広大な空間へとたどり着いた。
その空間には…異様な殺気が立ち込めていた。
そして…その場所の最奥に一つの巨大な石板が有った。
先程の狼は…石板の近くで屍となって横たわっていた。
男が不審に思ってその石板に近付くと、石板から声が聞こえた。
(…感じるぞ…)
男は不意に響く声に驚き、問いかけた。
「誰だ!?」
石板は答えた。
(我が名は地獄狼…この世界に数多有る『神』が一角…)
神…?
男はその声に若干の不信感を抱きながらもその場から離れなかった。
この奇妙な声の先に…自分の望む世界の匂いを嗅ぎ取ったからだろうか…?
(貴様は…飢えている…乾いている…渇望している…!
その乾きは今のままでは永久に癒せない…満たされない…!)
その声は…男の内心を的確に捉えていた。
(その渇きを癒したくば我と契約しろ…!我に今の貴様の持つ全てを捧げろ…!!
さすれば与えられるだろう…万物を喰いちぎる我が力の一片を…!!!)
「俺は……」
そして男はその神と契約した。
彼は自分の村に帰ると、自分を迎えてくれた親しい友人をまず、『斬り飛ばした』…。
友人はまるで画用紙に描かれた絵を切り取ったかのように上半身を失い、絶命した。
男はその力に魅せられるように、次々と村の住民を『生贄』として殺していった。
最初は…今まで守り通してきた命を自らの手で潰すことに罪悪感を覚えた。
だが、やがてそれは今まで待ち焦がれていた願望が手に入ったことへの喜びに上塗りされ、消えた。
男は数刻もしないうちに村の住民の実に百人以上を殺した。
そして…視界から自分以外の生命が消えたことを確認すると高笑いしながらその地を去った。
このことは奇跡的に生きのび、隣の村まで瀕死でたどり着いた住民が伝えて初めて発覚した事件だった。
後日、その村を訪れた住民は…村の惨状を見て発狂し、絶命した。
彼は最後に事の元凶の名を呪うように叫んだという…。
ダクラス…と。
ダクラスはその後、大陸中を渡り歩き、戦場を漁った。
数えきれない敵を斬り、雨のように血を浴びた。
そして…その果てに『剣帝』と出会い、その腕を買われ、鮮血の騎士団に入った。
荒れ狂う暴風のように戦うその姿は…敵に『狂犬』と恐れられた。
そのダクラスが、今、初めて恐怖を覚えていた。
『第二解放・漆黒之檻…』
眼前の剣士が何者かの名を称えた瞬間、彼の足もとから濃厚な『闇』が噴き出してきた。
それはゆっくりと床を這いずり回り、やがて部屋中に拡散する。
「これは…一体…!?」
フランツは目の前の現象を把握しきれずに困惑する。
それもそうだろう…同じ神の契約者であるダクラスさえ、何が起きているのか分かっていないのだから…。
「散々御大層に振る舞って置きながらこけおどしか!?
下らん真似をして…戦場を汚すな!!!」
ダクラスは自らを奮い立たせるように踏み出し、突進した。
受け身では確実にやられると感じたのだろう…その判断は正しくもあり…
同時に、最も愚かな判断だった。
シリウスは残忍に微笑むと双剣を床に突き立てた。
先のダクラスの攻撃で刀身を砕かれた剣…だがその刀身には部屋同様に闇が纏わりついていた。
それは床に広がる闇に溶け、一体となり…そして…
ザク…!
「!?」
激痛に気づき、ダクラスが足元を見ると…自身の足が双剣に貫かれていた…。
「な…!?」
瞬時に足を引き抜き、激痛に耐えながら間合を取った。
傷口から血が絶え間なく流れ、しかし床に留まることなく闇に溶けてゆく。
(何だ…『空間跳躍』の能力が使えるのは俺だけの筈だ…!?)
混乱するダクラスにシリウスは微笑みを交えて応える。
「『死天使』の能力…『影縫い』。
自然界に存在する、又は自らが作り出す『闇』を介入し、あらゆる角度、手段によって敵を滅ぼす力。
今の攻撃は床の『闇』を通して俺の剣を貴様に突き立てたに過ぎないが…」
シリウスの目を見たダクラスは…今まで以上の戦慄を覚えた。
憤怒、悲哀、絶望、殺意、あらゆる負の感情が渦を巻き、徐々に拡大していくかのような瞳。
狂気。
まさに狂気を宿した瞳だった。
「この程度だと思うなよ…!?」
「くっ…!?」
ダクラスは必死にこの戦闘を『切り抜ける』方法を思索した。
内に宿る神が必死に叫んでいる…圧倒的な格の違いを…!
「何だ…何故奴は怖気づいているんだ?
奴の能力『空間跳躍』を使えば瞬時にシリウス先輩の首を掻き切ることが出来る筈なのに?」
フランツの疑問に答えたのはジガードだった。
「制約だよ…神の『階級』と契約者の解放できる『段階』によるね…」
「制約…そんなものが有るんですか!?だって奴は先程から空間を自在に飛び交って…」
「自在では無いのだよ…。
そもそも本当にその能力を使いこなせるならシリウスの前に現れることすらないだろう?
先程も…彼は瞬間移動する際『何度も小刻みに瞬間移動を繰り返し』て移動していた…」
「え?」
何度も小刻みに…?
そんなまだるっこしいことをせずに一気に敵の背後を取るなり切りかかるなりすればいいのに…?
疑問を顔に浮かべるフランツと、自身の能力を短期間で見透かされ戦慄するダクラス。
嘲笑うかのようにシリウスは決定的な事実を突きつけた。
「それが『制約』…奴は自らを移動させる際に二つの制約を受けている。
一つ目は直線的な移動しか出来ないこと…。
もう一つはその際に対象地点と現在地の間に障害物が有ってはならないこと…違うか?」
「くううっ…!?」
ダクラスは更なる恐怖に襲われた。
まさか数分の攻防で自らの神の能力を完全に把握されたのだから…しかも報告によれば戦闘能力の無い筈ジガードまでが当然のように今までの戦闘の全てを把握していたということに…!
「この世界に何体も存在する神は、ある程度の階級によって区分されている。
死神狼の階級は下の上程度…所詮霊獣から成り上がったに過ぎない紛い物のようなもの…。
一見強大に見える能力だが…その裏で多大な制約が敷かれているのさ…。
大方、物質の内側に入り込むことも物質の一部分だけを跳躍させることも出来まい…!
更には彼の力量と精神を鑑みて…解放できるのは第一段階までだろう…」
「『第一段階』…?」
フランツの新たな疑問に諭すように答えるジガード。
「神と契約した者はまず神の恩恵によって肉体を最高の状態に高め上げ、歳を取ることも無くなる。
更に自身の魔力の絶対量を大幅に増幅させ、尚且つ神の能力の一端を継承する…これが第一段階」
その時フランツは察した。
ジガードが百年以上生きていて若々しいままの肉体なのは彼自身が神と契約しているからなのだろうと。
「だがこの時点ではまだ神を名乗るには心もとない。
さらにその上の『高み』…それが『第二段階』。神の能力のほとんどを制約無しに扱える。
その時更に神の力の結晶である『あるもの』が与えられるのだが…彼はそこまで到達していないようだ。
最も、所詮神の紛い物程度の力しか無い死神狼ではこの次元には到達できないだろうがね…」
「貴様…!」
口先では強がるダクラスだが一向に反論できない。
事実、彼が自在に転移させられるのは自らの剣で触れた空間のみ。
自身を転移させるためには先程ジガードが述べた通りの制約を受ける。
「ちなみにシリウスは更にその上を行く『第三段階』にまで到達している…。
聖騎士のメンバーは皆『第二段階』までは会得している。
だが『第三段階』に到達しているのはシリウスのみ…それが聖騎士最強と謳われる理由さ」
シリウスの力の概要を受け、フランツはその余りの格の違いに感銘すら覚えた。
自分が憧れて止まない存在が…自分の予想を遙かに上回っていたと知ったのだから当然だろう。
シリウスを見る目はまるで少年が夢を語るかのように輝いていた。
「馬鹿な…この俺が三下だと…!?」
ダクラスは全身に迸る悪寒を堪えることも出来なかった。
ジガードに言われるまでもなく、シリウスとの力量の差は『知って』いた…。
シリウスが死天使の名を唱えた瞬間に…!
死神狼はその瞬間、自分が誰に牙を剥いていたのかを悟ると怯え、蹲ってしまった。
まるで飼い主に逆らえない無力な飼い犬のように…!
「ふざけるな…!
俺はダクラス…『狂犬』ダクラス…!!!
鮮血の騎士団が誇る三鬼将が一角…!!!
貴様ら如きが…」
大剣を逆手で握りこみ、右手を背中まで伸ばして構え、全速力で突っ込む。
全ての力を一撃に込め、完膚なきまでに斬殺してきた必殺の構え…!
「俺を見下すなぁああああああああああ!!!」
最早神など不要…!
元より、この身一つで闘ってきた…勝ってきた…!!
これまでも…これからも…!!!
(くすくす…)
その様子を見て…笑い声を洩らす女の声がした。
無論、この部屋に居るのはジガード、シリウス、フランツ、ダクラス…いずれも男のみ。
だが、そこにはあと一人と一匹…存在するものが居たのだ…。
そう、契約者の内に宿りし…『神』。
『彼女』は必死に自らの力を証明しようとする巨漢の剣士を見て笑っていた。
シリウスは…それを聞き、胸の内で問いかける。
(どうした…死天使?)
シリウスにははっきりと見えていた。
恐怖に怯え、無様に這い蹲っている死神狼の姿も…
それを見て嘲笑う…凄惨な姿の天使の姿も…。
純白の羽衣…長く美しい髪…しっとりと濡れているかのような光沢をもつ肢体の美麗。
ここまではまさに天使と呼ぶに相応しいだろう。
だが、彼女を見たものがまず真っ先に注目するのは…彼女の背中だろう。
彼女は…死天使は自身の身の丈よりも巨大な十字架に…磔にされていたのだ。
四肢の到る所に「杭」を打ち込まれ、傷口からはもう血の一滴も出ていない。
その上から幾重も鎖で雁字搦めに縛られ…一切の挙動は取れない。
彼女の顔を見たいと思ったものも少なくないだろうがそれは叶わない。
何故なら彼女は口元以外を覆う仮面を被っていたからだ…氷のように無表情な仮面を…。
そして…天使の象徴たる翼は…羽を毟り取られ、赤黒く染まり、何とも無様にその存在を残していた。
(可笑しくて可笑しくて…あの子、自分が何なのかまるで理解していないんだもの…。
自分のことを英雄か何かだとでも勘違いしてるのでしょう?
滑稽過ぎて笑いが止まらないわ…!まさに道化の鏡よあれは…!)
絶世の美声…そう謳われてもおかしくは無い筈の声なのに、死天使の声はとても悲痛に満ちているかのように聞こえた。
(ねえ…これ以上は見ていられないの…このままでは笑い狂ってしまいそうよ…!
早くあの道化師を…私の視界から消して頂戴…!)
聞く者の肝を凍らせるような声…だがシリウスはさも当然のように冷静に受け流す。
(いいだろう…使わせてもらうぞ?貴様の『世界』を…)
シリウスは、双剣を床に刺したまま手を離し、右手をダクラスに向けてかざした。
刹那、神に牙を剥いた愚かな飼い犬は地面から湧き出た漆黒の鎖で雁字搦めにされ、宙に張り付けられた。
「な…!?」
驚愕するダクラスを余所に…シリウスは何かを唱え始めた。
人の耳には捉えられぬ、神々の言葉を…
そしてそれに紛れて聞こえる…
否、感じられるものがあった……
聞くものから熱を奪うかのように…底知れぬ冷たさを持った存在…
魂が…死に導かれる感覚…
やがて真の闇が現れる…一片の光も無く、まさに終焉と呼ぶに値する闇…
死天使だけが生み出せる…終焉の闇…奈落。
それが今、ダクラスの真下で口を開けた。
「あ…あぁ…!」
逃れられぬ死を前に…震え上がって許しを請うかのように怯えるダクラス。
だが…今宵の執行官は、その様子を嬉々としながら眺めている。
慈悲や愛など一片たりとも存在しない。
有るのは純粋な殺意だけだった。
「奈落に沈め…己が愚鈍故に…!」
「止めろ…止めてくれえぇえええ…!!!」
シリウスは右手で軽く十字を切ると…親指を下に向けて断罪を下した。
『奈落葬送!!!』
主からの命を受け、鎖がゆっくりと奈落に向かって降ろされていく。
もがき、抗おうとするダクラスを嘲笑うかのようにゆっくりと……!
「止めろぉおおおおおおおお!!!!!!」
最早見送る必要もないと見て、シリウスはダクラスに背を向け、最後に一言だけ言った。
憐れみなど無い…罪人に向けての手向けの言葉を…。
「己の闇に…喰われて枯れろ…!」
また一つ…『死』が増えた。
自分の『今まで』が真実なのだと証明するものがまた一つ増えた。
例え万人に蔑まれようとも構わない…!
何故なら世界が自分を認めているから…!
ちっぽけで何の意味も無い…下らない人間共が何をほざこうが構いはしないさ…!!
『正義』は……自らの定めた主と共にあるのだから…。
「ははははははははは…!あっはっはっはっは!!!」
死天使とその契約者は…心を一つにして笑っていた。
本部敷地内…霊獣保護区
レックスは敵の頭と思わしき人物の居るその場所に急行した。
隊員達がレックスに何か叫んでいたが一蹴して突き進む。
そこで見たものは…聖騎士の一角、クリフが何体もの魔物と肉弾戦を繰り広げるという構図だった。
クリフは一騎当千の強さを見せていたが敵対する魔物も相当の猛者だった。
三つ首の巨大犬がそれぞれの頭から火を吐き散らし、九本の首を持つ大蛇がクリフを噛み殺そうと牙を剥く。
「ちぃ…俺の能力を知ってやがったか!」
クリフは炎を掻い潜って現れた九本の頭を避け続けた。
内一本がすぐ後ろの植物に噛み付き、それを溶かす。
あらゆる物理、魔法攻撃を無力化するクリフの貪食龍…その数少ない弱点の一つが『毒』だ。
エネルギーと違って細胞を犯す毒は吸収による無力化を行えない…!
「クリフさん!!!」
レックスはクリフの劣勢に即座に飛びだした。
大剣を引き抜き、大蛇に向かって切り掛かる!
だが、敵もそう簡単にはやられない。
仲間の危機を感知した異形の犬がレックスの大剣を撃ち落とし、そのまま喉元に噛みつこうとする。
「うお!?」
レックスはとっさに左手で裏拳を放ち、三つの内の一つの頭を叩き落とす。
痛覚は共通してるらしく魔物は瞬時に後方に飛んだ。
「馬鹿野郎!策も無しに突っ込むな!相手は三鬼将の僕だぞ!!!」
迫る牙の応酬を掻い潜り、蛇の胴体に強烈な蹴りの一撃を放ちながら叫ぶクリフ。
二人は合流し、互いの背中を合わせて死角を無くした。
「あらあら?これはこれは…新しいお客様と思ったら」
レックスが上を向くと巨木の枝に座って観戦する一人の少女が居た。
「女だと思って油断するな!今回の襲撃の主犯は奴だ!!!」
「なるほど…どうりで」
「貴方も私に会いにきてくれたの?嬉しいわ」
レックスの視線に気づき、愛想笑いを浮かべながら手を振ってくる少女。
可愛げのある動作だがレックスは親指を下に向けて挑発で応じた。
「生憎俺が来たのはあんたを殺すためだ!馴れ馴れしくすんじゃねぇ!」
大剣に魔力を込め、衝撃波を放つ…『衝羽』だ。
既に何度もの任務をこなしてきたレックスは基本となる魔術のほとんどを完全に習得していた。
だがその攻撃は地獄犬の炎によって相殺され、届くことは無かった。
忌々しそうに舌を打つレックスに少女は満面の笑みを浮かべた。
「今日はなんていい日なのかしら?
前から目を付けていたレックスさんと、先程知り合ったばかりのクリフさん。
この二人がまとめて手に入るなんて最高だわ!」
レックスの言い分を無視して好き勝手に喋る少女に怒りを覚えるレックス。
「ガタガタ五月蠅いだよ!誰だか知らんがこれ以上は時間の無駄!
今すぐその首叩き切ってやる!」
「あらら?反抗的ですわね?でも許しましょう…だってその方が躾ける楽しみが有りますもの」
主人の指示に従い、二人に飛びかかる地獄犬と九頭蛇。
クリフは速やかに状況を判断し、レックスに指示を飛ばした。
「あの犬っころは俺がやる!お前は何としてもあの目障りな蛇を切り刻め!いいな!?」
「了解!!!」
二人同様に敵も二手に分かれ、それぞれが飛散した。
「ふふふ…これでいいわ」
エキドナは意味深に微笑みながら観戦に意識を戻した。
レックスは足部に魔力を集中させると常軌を逸した速度で森の中を飛び回った。
高速移動術「飛脚」。
敵のペースに呑まれないようにするには速さが必要と判断したレックス。
その考えは的を射ていた。
九頭蛇は九本の頭によって迅速な攻撃を得意とするが…あくまで高速で動かせるのは頭部のみ。
胴体は一つしかない為、高速で飛びまわる標的を攻撃するのは苦手なのだ。
(速く…もっと速く…!!!)
いつしかレックスの両足には小規模な竜巻が生じており、「飛脚」の速度をさらに高めていた。
元より風使い…速度は他の術者に比べて大幅に勝っている。
そのスピードは剣最速と名高かったバードをもさらに上回っていた。
業を煮やした九頭蛇は一斉に炎を吐いた。
どうやら毒以外も使えたらしい…しかも運の悪いことにそのうちの一本はレックスへの直撃コースだった。
「マズイ…!」
レックスは無理に体制を翻そうとしたが余りの速さに体がついていけない。
自然界には存在しえない灼熱の炎…レックスはふとフランツとの最初の模擬戦を思い出していた。
(あの時も丁度…こんな感じで攻撃を受けたんだっけ?)
恐怖は無かった。
あのときの自分とは違う…!
俺は強くなった…守りたいものを守り通せるようにと!!!
「舐めるなぁぁぁ!!!」
瞬時に左手を…否、左手を覆う籠手をかざす。
そこには一つの宝珠が埋まっていた…そう、あの時使用した吸収の宝珠が。
スムーズに魔力が伝達され、眼前に迫る灼熱の奔流を吸収する…!
「まあ…!」
感嘆するかのように声を上げるエキドナ。
実際に見たレックスの力量は以前を遙かに凌いでいたのだ。
「あああああああああああああ!!!!」
レックスは炎を吸収しながら加速を続け、九頭蛇の周りを駆け巡った。
その余りのスピードに対象の周りに竜巻が形成される。
近づけばクリフでさえ手古摺る強敵…ならば近づかなければいい…!!!
レックスは吸収し終えた炎を即座に放出しながら駆け巡った。
次第に炎は気流に乗り、やがて巨大な炎の渦となって九頭蛇を包み込む。
「らあああああああああああぁぁ!!!!!」
それが終わるとレックスは大剣を両手で握りしめ、紅蓮の渦の中を駆けた。
流石の九頭蛇も自分を取り巻く炎に怯え、右往左往する。
ザン…!
不意に九本ある首の一つが斬り飛ばされた。
ザン…!
また一本。
ザン…ザン…ザン…!!!
次第に切り刻まれるリズムが速くなっていく…!
最後の一本に至るまでが切り刻まれるまでにそう時間は掛からなかった。
やがて炎の渦が消えさるころ…残っていたのは全ての首を失った大蛇の胴体と、息を切らせながらも剣を握り締めたままのレックスだった。
「ほお…中々やるなああいつ」
レックスの戦闘を見定め、満足げに微笑むクリフ。
地獄犬の攻撃を避けもせず、好きにやらせていた。
岩を裂く爪も灼熱の炎もクリフには無意味…元より警戒すべきは毒を持っていた九頭蛇のみ。
クリフは天敵の毒が消えたため遠慮なく攻撃に移った。
炎を吐こうとした三つの頭の一つを強引に掴むと…
「らあああ!!!」
上顎と下顎に手をかけ、縦に引き裂いた。
動揺した残り二つの頭、隙を逃さないクリフ…!
引き裂いた頭をそのまま掴み、振り上げた片足に思いっきり力を加えた。
「ざあああああああああああ!!!!!」
ドゴン…!!!
俗に言う「一本背負い」の要領で地面に叩き付けた。
地獄犬の頭もこの衝撃には耐えきれず、全ての頭を破壊され、中身をぶちまけた。
流石は組織最強の戦士、聖騎士の名を冠する者だけのことはある。
レックスとクリフがそれぞれの敵を倒したところで少女は羽のように枝から飛び降り、地面に降り立った。
「お見事でしたわ!二人とも私の想像以上の腕前でしたもの!」
自分の僕がやられたにも関わらず嬉しそうにはしゃぐ少女にレックスはとうとう堪忍袋の緒が切れた。
「ならいい加減大人しくしな!
今ならまだ三十発殴って半日逆さに吊るしてから檻に叩きこむだけで許してやる!」
「お前…それはけっこうきつくないか?」
呆れ口調ながらも警戒は緩めないクリフと荒ぶるレックスを前にしても少女の表情は変わらなかった。
「お二人ともとても素敵ですわ…だから…」
声のトーンが落ちる。
次第に周りの空気が凍り付くかのように冷えて行く…。
「私の僕になりなさい…!」
「!?」
「!!!」
先程までの朗らかな雰囲気は一気に消え失せ、代わりに絶対服従を命じるかのような声が響く。
余りの迫力にレックスは怯み、クリフだけが瞬時に反応出来た。
「はあああああああぁぁ!!!」
至近距離からの必殺の拳…だがそれすら余裕で回避すると彼女はまた元の大木の枝に飛び乗った。
彼女が離れたことで威圧を振り払い、動き出すレックス。
次に何が起きようと反応できるように警戒を強めるクリフ。
二人に向かって彼女は高らかに宣言した。
「貴方達はいずれ必ず私のモノにして差し上げるわ…!
私はエキドナ…妖妃のエキドナ、狙った獲物は決して逃がしませんわ!」
「おいおい…その気が有るなら今すぐ俺達を手に入れようとは思わんのかい?エキドナさんよ?」
クリフの挑発に笑いながら答えるエキドナ。
「今日は下見に来ただけですの…それに充分時間も稼げたことですしね…」
「時間稼ぎだと!?まさか…!?」
エキドナの言葉に驚愕するレックス。
その表情を見て恍惚とした笑みを浮かべながら彼女は告げた。
「ええ…今頃貴方方の大事な巫女は我らが主の手に渡っている筈よ?
無駄だと思いますが確かめに行ったらどうですか?もしかしたら別れの挨拶くらいは出来るのでは?」
「貴様…!」
クリフが飛び掛かろうとする前に、レックスは駈け出した。
「ソフィールの元へ行きます!!」
返事も待たずに全速力で疾走するレックス。
その姿を見てため息を漏らすエキドナ。
「あらあら…もしやと思ったらやっぱり彼…まあいいわ。
いずれ私だけを見て、私だけを愛するようにして差し上げるから」
そう言って彼女は空間を指先でなぞり、空間の裂け目に身を投じて行った。
クリフはそれを見送ると、部下たちの元へ急いだ。
戦いには勝利したはずなのに…クリフの胸を過ぎるのは消えようのない不安だった。
「はっはっ…!」
ニーナ、アイリス、そしてソフィールの三人はひたすら走った。
セシリアが『血鬼』を抑えているとはいえ、四方八方を敵に囲まれている今の状況はとても楽観視できるものでは無い。
一刻も早く、恐らく最も安全であろうジガードの私室まで行かなくてはならない。
三人は走り続けた。
辺りに転がる無残な屍に視線を取られぬように…!
この戦闘を勝利で終えるために…!
だが…
ガサッ…!
突如、横の茂みから複数の影が出て来た。
欲望に歪む目、全身から溢れ出る殺気、見るからに危険な人物だと予測できる男が三人…!
「見つけたぜ〜巫女様よお!」
どうやら鮮血の騎士団の構成員のようだ。
味方どころか敵と遭遇してしまうなんて、泣き面に蜂としか言いようが無い。
「くっ…!」
ニーナはすぐに投げナイフに手を伸ばすが…
「やめときなよお嬢ちゃ〜ん、友だちが大変な目にあうぜ〜?」
「な!?」
振り返るとアイリスに後ろから抱きつくように覆い被さり、首元にナイフを押し当てている男が居る。
厭らしく舌舐めづりをする姿は直視に出来ないほどの嫌悪感を覚える。
「大人しくしてれば悪いようにはしないぜ?…いや」
男たちはニーナ達の体をつま先からてっぺんまで舐め回すように眺める。
三人とも若く、美しい顔立ちと肢体を誇る美少女だ。
「巫女は手を出すなと言われてるが…他は早いモン勝ちだよな?
ちょうど女日照りだったんだよな〜美味しく頂くとするか?」
一人が提案すると他の男たちも涎を垂らさんばかりに歓喜する。
先ほどとは別の寒感がニーナとアイリスを襲う。
「そりゃいいねえ〜」
「俺はそっちの弓持った姉ちゃんがタイプだな〜」
「ならナイフの姉ちゃんは俺が…」
好色そうな顔がニーナに迫る。
アイリスに至っては後ろの男が首筋に鼻を押し当てて体臭を嗅ごうとしている。
「嫌ぁ…止めてえ…!」
「へっへっへ…すぐに天国に逝かせてやるよ」
三人を絶望が包む。
こんな最低な男たちに体を弄ばれるくらいなら死んだ方がましだ…。
(嫌だ…こんな奴等に…!)
(カイルさん…助けて…!)
(レックス…レックス…レックス…!)
四匹の獣が三人に襲い掛かろうとしたときだった。
ニーナに手を伸ばしていた男が突然『潰れた』。
アイリスの首元で鼻を鳴らしていた男の顔が宙を『舞った』。
「え?」
「な!?」
「うわぁああああああああ!?」
男たちの悲鳴を裂くように現れたのは…三人のよく知っている二人の男だった。
一人目は…アイリスに抱きついていた汚らわしい体を片手で払いのけた戦斧隊員カイル。
もう一人はニーナに迫っていた男を自身の能力で圧殺した剣隊員のエース、ラッセル。
二人とも仲間に手を出そうとした外道相手に怒りを隠そうともしない。
「戦場とは何だと思う?カイル…」
「…剣をその身に帯びるものが死す場所…そして散り逝く全ての戦士達が眠る聖域」
二人とも感情の起伏を感じさせない声で会話する。
これは二人の抱えている感情がどれ程激しいかを象徴するかのようだ。
嵐の前ぶれのような…静寂。
「そうだ…だが奴等はその聖域で!欲望を貪るなどという下賤な行為に及ぼうとした!!!」
「万死に値するぞ…下朗共!!!」
凄まじい殺気、静かに構えられる二振りの斧槍…それは熟練の戦士すら圧倒せんばかりの威圧感を放っている。
加えて相手が婦女子を人質に取るような下朗ならば…立ち向かうことなど不可能だ。
「うわああああああ!!!」
悲鳴を上げて逃げようとする二人の暴漢。
それに向けてラッセルは自身の能力を開放した。
射程範囲を設定、それにより起きるであろう現象を精密に考慮。
斧槍を高く掲げ、自らの思考と現実を重ねるべく唱え振り下ろす!
『絶対重圧!!!』
刹那、ラッセルの定めたとおりの空間に圧倒的な重圧が加わる。
地表が捲れ上がり、檻のように男達を包囲する。
その内部に存在するあらゆる物は瞬時に砕け、圧縮される。
後ろを走っていた暴漢を完膚なきまでに押し潰し、もう一人の男の左足をねじ切った。
「ぎゃあああああああああああああああああ!!!!???」
男は左足の切断面を両手で押さえて泣き叫んだ。
完全に術の範囲にいた男は熟れたトマトを石に叩き付けたように潰れている…即死だ。
ラッセルの能力『重力操作』…五行の一角、『土』…その最上位に位置する圧倒的な力。
彼に歯向かった存在はことごとく押し潰され、誰一人として彼に掠り傷一つ付けられない。
その様子を見た敵の一人はこう言ったそうだ。
(まるでこの大地の怒りを買ったかのようだ)と。
剣隊員は皆、二つ名を持っている。
ラッセルに付けられた二つ名は…『土縛』。
まるで大地に呪われ、貪られるかのような死体を見て名付けられたのがこの二つ名だった…。
その名は戦場に赴く者の畏怖を込めてそう呼ばれている『土縛』のラッセルと…。
「痛てえ…痛てえよお…!!!血がああああ…!!!」
無様にもがく男の顔面を踏み締めるカイル。
その眼は怒りに燃えている。
「その程度で喚くなよ…彼女達だってお前らに囲まれても鳴き声一つ上げなかったじゃないか?」
「止めろ…許してくれ!俺が悪かった!!!捕虜になるから早く治療しt」
男は最後まで言葉を告げることが出来なかった。
カイルが靴ごと踵を男の口の中に捻じ込んだからだ。
「さっき俺が言った言葉を忘れたのか?」
男の腹の上で斧槍の矛先を整える。
男は必死に足掻いたが、カイルの力は常任を遙かに凌ぐ勢いだった。
ザクッ…!!!
男の腹を貫通し、地表にまで深々と突き刺さる斧槍の矛先。
光を失いつつある目に…カイルは言い放った。
「万死に値すると言ったはずだろう?」
「もう大丈夫だぞお前達…よく無事で居てくれた」
「さっきすぐそこで隊長と会えたのは幸運でしたね。お陰で三人を守り抜けた。
俺一人では万が一ということが有りましたからね…」
暴漢共を瞬殺し、仲間と合流するラッセルとカイル。二人とも頼もしい笑みを浮かべている。
それを見て三人の少女達はほっと胸を撫で下ろした。
だが…
「!!!」
ラッセルは近づいてくる何者かの存在を感知し、武器を構えてその方向に警戒した。
先程の連中と同程度ならば何も問題は無かった。
だが、今回近づいてくるのは今までの連中とは格が違い過ぎる…!
(三鬼将!?…いや、今頃は聖騎士と戦闘中の筈だ!?)
ラッセルに遅れて只ならぬ気配を感じ取った戦斧隊員。
ラッセルは部下たちに即座にソフィールを連れて逃がそうとしたが…不可能だった。
「やぁ、初めまして…早速で悪いが巫女を渡してもらおうか?」
一瞬女かと見間違うほどの美丈夫、長い銀髪と爛々と輝く金色の双眸…。
全身を包む軽鎧は『王』の風格を漂わせていた。
ラッセルは男の姿を見て…一人だけ該当する容姿の人物に思い当った。
認識した途端、全身に震えが生じる。
(マズイ…!!!こいつは…)
それは…最も会ってはならない人物の一人としてジガードから聞いていた人物だった。
「まさか…貴様…!?」
「渡してもらえないなら…力づくと行こうか」
男はゆっくりと…歩を進め出した。