極光1-1
二階堂は山の中を歩いていた。
泉があった。その畔は不自然なほどに澄んでいた。綺麗な、犯し難い泉。人が踏み込んではいけない場所まで来ているような気がした。
泉の畔に立っていると、その中から何かが現れた。
「(女神?)」
鏡のような水面からさざ波一つ作ることなく浮かび上がる。女性がその畔の上に浮かんでいた。
「なんなんだ。あんたは?」
二階堂がうんざりしたような口調で問いかける。
「何もかも連続してやってくるな。もうちょっと安定した時にやってきてほしいものだ。」
「お前が宣教師どもの言っていた神か?」
「いいえ。違います。彼らの考えているものとは私は違うのです。この島の人間が私と接触したのは貴方が初めてです。」
「ああ、そう。それじゃああんたは一体誰なんだ?まさか新入生だとは言わないよな。そんな格好して。この島の謎に関わる人間なんだろ?」
「ええ。その通りです。」
目の前の神(仮)は簡単に認めた。
「ここは一体なんなんだ?」
二階堂はいきなり核心に切り込んだ。あれだけのことをやった琥珀に今恐れるものがあるのだろうか。みんなを解放した二階堂が今自分の命を惜しいと思うだろうか。
「ここは貴方が以前住んでいた世界から切り離され独立した世界なのです。」
「あの世なのか?」
「違います。ですがある意味においてはそうです。貴方が以前暮らしていた世界で命が終わると、この世界に迷いこんでしまう人がいるのです。魂の循環というものがあるのですが、魂は一度浄化を行わなければ、転生は有り得ません。その浄化のプロセスの途中が、今、この世界において行われています。」
言っていることはまるでヒューマンスクールの宣教師のようなことみたいだと二階堂は思った。
「で、つまり俺達の魂は汚れているから、ここで綺麗にしているとでも言うのか?」
二階堂はそう言った。
「違います。あなた達の魂が他と比べて汚れているということではないのです。人間的な言い方をすれば個性の範疇のものでしかありません。」
二階堂はさっきのこの泉の精の言うことでその解釈には至らないということは自分でもわかっていた。
「じゃあ、やっぱり俺を含めて、みんなは一度死んでるんだな。」
二階堂は沈黙の後そう言った。
泉の精はこっくりと頷いた。子供のような首の振り方だった。
「お前は俺達をどうしたいんだ?これからどうするつもりだ。」
二階堂が敵意を含んだ眼差しを泉の精に向けて言った。
「なにも。」
泉の精は悠然と、確かにそう言った。
「私自身の行動や行動の原動力となる願望というものはほとんどありません。私はあなた達人間よりもより無力な存在でもあるのです。」
「でも、一つ望みがあるとしたら、あなた達に幸せになって欲しいのです。」
泉の精は微笑んで言った。儚い散る前の花弁のような微笑み。
そう聞くと二階堂は喉をくっと鳴らした。その顔には嗜虐的な笑みが浮かぶ。
「何を言ってやがる。やはり宣教師の物言いとそっくりだ。幸せになって欲しいだのなんだの言いながらその実やっていることは、奪うことのみだ。」
その二階堂の言葉を黙って聞いている泉の精。泉の精が口を挟むことは無かった。
「丸めこもうとしたって無駄だ。お前も宣教師側なんだろう?今このタイミングで俺に接触してきたのがいい証拠だ。はっ。のこのこ現れたのは間違いだったな。お前にできることなんて命乞いだけだ。」
一切の容赦のない声音。この少年はこの歳にしてなんて声で喋るのだろう。なんて冷たく、恐ろしい、慈悲のない意思か。灰色の湖の淵のような色合いの瞳。 暗黒の盆地で手をこまねく恐ろしい死神の持つ瞳のような。
「私は、」
ふっとそこで泉の精は顔を上げた。遠くの方から伝わる声達を心地よさそうに聞いているかのように見える。
「この島の人間の心がある一線を超えた時に現れる存在です。その瞬間を私は待っていました。貴方のおかげです。」
二階堂の方を向いた。その視線には、宣教師たちのような、じめじめとしたものはなかった。澄み切った透明な水のような瞳が二階堂を見た。
「そう、私は貴方が以前住んでいた世界で、自由の女神と呼称されていた存在です。」
二階堂は笑った。
「なんだこれ。笑える。」
空気が少し変わった。 二階堂が纏っていた殺意とも認識できる漆黒の意思が立ち消えたのかどうかわからない。が、この場の空気は柔らかくなった。
「なあ、ビックバンは何故起こったんだ?」
二階堂はおもむろに言った。この質問に答えられたら、目の前の不可思議な人間は正真正銘の神ということになる。さらに、科学を探求する人間である二階堂はもうこの先生きていく意味の大半を失う。それでもつい口をついで出たのは何故だろうか。彼は簡単に言えば自暴自棄になっているのかもしれない。好奇心も手伝った。
果たして泉の精は、答えなかった。
「さあ。」
というだけだった。
「今確認されていない元素はどうやったら精製、観測できるんだ?」
「さあ。」
楽しそうに微笑むだけだった。
神は全知全能のはずだ。これらの質問にも神ならば、答えられるはず。答えられないのならば・・・
二階堂はホッとしてもいた。生きる意味を失わずにすんだ。
「(そうだ。俺はこういうことを考えているだけでワクワクしてくるんだ・・・・)」
二階堂は目の前のこれが本当に神かどうか確かめるための質問が、自分にとってとても重要なものであることに気がついた。
「何故みんなを助けてくれなかったんだ?人が死んだんだぞ。たくさん、殺されたんだぞ。今頃出てきても・・・・何故今頃。その力がないのか?俺がやるしかなかったじゃないか。」
「ええ。あなたの言う通りです。私は、ある条件下でしか顕現できません。すなわち人々の心が自由を求めて一つになった時。あなた達人間ぐらいです。自分達の意思の力で現実を変えることができるのは。」
自由の女神は言った。
「そうかい。神様も楽じゃないんだな。」
二階堂はかぶりを振った。
「あいつらは、ヒューマンスクールに殺されたやつらはどうなったんだ?」
「彼らの魂は循環しました。次の生に宿っていますよ。」
殺された者の魂はもう戻ってこない 。
「そうか・・・・・」
「悪いけど、監視をつけさせてもらうよ。お前の存在は不確定要素なんでね。」
二階堂は頭が混乱してきた。この事実をどう受け止めたらいいのか。過酷な現実は何故か連続して突きつけられる。それが二階堂の人生だった。だからそういうことに慣れていた二階堂は時間をかけて消化することにした。あらゆる角度から検討し、検証する。
「いつか、この時を振り返って、全てを懐かしく思う時が来ます。」
女神が言った。遠くを見るように。何かを思い出しているのだろうか。時間を統べる者の、永い時を生きる者のいう言葉だった。
「私はもうそろそろ行きます。今のこの島はとても心地がいいです。つい長居してしまったほど。」
二階堂が何かを言う前に自称、自由の女神は姿を消した。後には泉が残るばかりだった。