柚子葉1-1
4-1
明くる日二階堂は大胆にも強化教示中に外を歩いていた。全教示の生きたデータが二階堂の協力者から送られてくる。その他に二階堂は三野らと集まって教師たちのプロフィールから基本情報、行動分布図。性格情報までを頭に入れていた。そして他の協力者による出席の偽装。準備は着々と整いつつある。
「さて、ヒューマンスクール攻略の開始だ。」
庭園の中を歩いていると生垣を抜けた先にある種の絵画のような光景に出くわした。木漏れ日の差した小さな生垣の窪みに収まって、本を読む女の子がいた。目を輝かせて、顔を笑みで綻ばせて本の文字を辿っている。意識は完全に目の前の本に向いているようで二階堂には気づいていないようだった。
あまりにも綺麗だったから二階堂はもう少し見つめていたかった。しかし、そのブラウンというよりは明るいオレンジ色の髪の色の女の子はハッと顔を二階堂の方向に向けた。
「・・・・・おかえり。せっかく違う世界に行っていたのにそれを邪魔してすまない。」
こわごわとその女の子は本を後ろでに隠した。その白磁の肌は蒼白していた。教示中にサボって本を読んでいたのだ。密告を恐れているのだろう。
「こ・・・・この本だけは没収しないで・・・・」
大事そうに本を隠した女の子が目を麗せて言った。
花壇の生垣の近くに存在する丸いアーチに植物が絡み付いている。赤い服を着た少女がその小さなスポットに収まりのいいお尻を落ち着かせていた。程よい気候で木漏れ日が差し、手に持っている本を照らす。
「(ああ・・・・・。)」
心地よい気分が全身を充たしてゆく。私は今遠い、だがとても近い、国で王国の領主の一人娘だった。その出来事を見て触って、匂いを嗅いでいた。
「本当にそうだったらいいのに。」
「こんなに確かなのに。」
彼女はその夢を信じていた時期があった。ヒューマンスクールの同級生に打ち明けたことがある。自分は領主の娘でその領主が確執と家計争いの果てに自分は命を狙われたため、お母様が私を逃げさせたのだと。
親友だと思ったから自分の一番大事な部分を見せたのだった。だけど・・・結果は惨憺たるものだった。数人にだけ明かした秘密がヒューマンスクールの教師にまで広がってしまった。ヒューマンスクールはそれに対し、何をしたか。彼女の夢を粉々に最悪の方法で砕いたのだった。ヒューマンスクールの教師や、生徒は彼女の柔らかい部分をぐさぐさとさした。執拗にされる否定に参ってしまった彼女だった。人間は時に信じられないぐらい残酷になれる。彼女は初対面で笑顔の人間が信じられなかった。それは警戒しなければならない兆候なのだ。三野も、大澤も初対面で笑顔を浮かべる人間は信じられなかった。
「嫌なことを思い出しちゃったな・・・」
そして彼女はその後は隠れるようにして違う世界のことが書いてある本を読んでいた。
何度も何度も読んでいるけど何度も読み返してしまう部分がたくさんある。
「特にここのシーンが・・・!うふっ。」
一人で笑っているシーンや、きゃっきゃと言っている姿はなかなかに浮いてしまうのかもしれない。
ちらちらと生垣から突き出した時計台を見て時間を確認する。時間が確認出来るからこの場所は好条件の場所だった。心地よい風が彼女を遠くの場所。遠くの国へ往かせる。脳内時間旅行に出かける。お洒落だがフォーマルなスーツケースに入れた旅行用具、街の地図や化粧用具を一つ一つ点検していると呼び鈴が鳴って彼と友達が迎えに来る。それから彼の車で空港に行く。車の中にはみんながいる。欠けている子なんて誰もいない。そう、みんなが・・・私は赤とクリーム色のリボンの着いたフランスのスタイルのワンピースを着て、飛び立つ飛行機を眺める・・・
とやっているうちに、物音が彼女の意識をこのヒューマンスクールという狂った統制区域の生徒、ゴミ一歩手前のベージュのコートを着る私、柚子葉へと戻す。なぜなら顔を上げるとそこには同じく低ビロウ保持者特有のボロを身にまとった男が立っていたからだ。
「(終わった____)」
私はそう思った。これでこの生徒に密告されれば私は終わりだった。まず確実に吊るしあげされる。その後は?反省文を書く?どれだけ否定の言葉を浴びさせられながら?
「・・・・・・・」
私は自分でも驚くくらい冷静に自分の最期を迎え入れていた。土台こうなることはある種折り込み済みというか覚悟の上だった。そうなる覚悟の上の抵抗だった。
「上手いところを見つけたんだな。」
目の前の男が屈託なく口を開く。
「確かにここなら全ての授業と、教師の行動パターンから考えてこの時間に来ることはないなぁ・・・」
目の前のどこまで本気か分からないが感心したような口調の話を耳に通らせながら私は考える。
「(でも・・・・これで終わらせるの?おしまいなの?この時間を奪われないためにもう打てる手は無いの?)」
「(このまま何もしなかったら、奪われちゃう・・・・なんとか・・・なんとかしなくちゃ・・・)」
そう思うが柚子葉の体は想いとは裏腹に動いてはくれなかった。恐怖が刻まれた過去が。彼女の背景がそうさせたのだった。
それでも、何かしなければこの本は取り上げられてしまう。だからなけなしの勇気を振り絞って言った。無駄だと解っていても。
「こ・・・この本だけは没収しないで・・・・」
そう振り絞ってみたものの答えはわかっていた。目の前の男は教師に密告する。そんなことは解っているはずなのに。そう言うしか自分には残されていない。鎖でがんじがらめにされた私にはそんなことしか出来ない。出来る事がない。もう終わったんだ。何もかも。
「(この本を喪ってしまうのね・・・・)」
だが、目の前の男は予想外のことを言い出した。
「大丈夫。取り上げたりなんかしないよ。大事なものなんだろ?」
「え・・・?」
「(何・・・・何を言って・・・)」
「ヒューマンスクールの教義なんてクソ喰らえと思ってるし、密告なんてことをしてビロウをもらうなんて考えただけで鳥肌が立つタチなんでね。」
「あなたは・・・私を狩りに来たんじゃないの?」
アリバイ工作が発覚してしまったと思っていたのに。
「違うよ。俺はサボりだ。しかし此処は本当にいいスポットだなぁ。ヒューマンスクールの校舎とは大違いだ・・・」
此処は壊さなくていいかもしれないな・・・などぶつぶつという目の前の生徒に柚子葉は混乱していた。
「(なんなの・・?この人は。)」
ヒューマンスクールのことをあしざまに言うだけではなく私と同じくサボっていると言う。それもこんなに堂々と。既存の常識とは違うことばかりが起きる。
葉がさわさわと風で揺らめく。アーチには蔦が絡みついている。
「(良かった・・・・。ならこの本は喪わずに済んだ・・・)」
柚子葉はほっとした。
「俺は二階堂。琥珀。趣味はヒューマンスクールをぶっ潰すことかな。ここは最低なところだよなあ。まだ出てきて1ヶ月ぐらいだがもう何年もいるような気がするよ。君はもうどれくらいここにいるんだ?」
「私は二年目よ・・・。あなたは新入生なの?それにしては入ってくる時期が・・」
「ああ。」
二階堂は納得したように言った。
「反省室に入れられてたんだ。初日に宣教師の言うことに反論してさ。出てきたのが一ヶ月前なんだ。」
普通に。ただただ普通に二階堂は言っていることだが柚子葉にとっては、いや、ヒューマンスクールの生徒にとって、宣教師達にとっては別の意味だったが、驚くべき内容の出来事が連発していた。柚子葉の価値観を大きく揺るがすことが目の前で起きていた。いや、目の前の二階堂がここの常識を遥かに逸脱した人間だった。柚子葉は雷に撃たれたような感覚を味わっていた。ビリビリと身体にくる。
その時闖入者の気配がした。二階堂はそれを察知した。
「ちょっとごめんよっ。」
二階堂はそう言うと急に柚子葉を抱き抱えた。柚子葉は急に自分の脳のキャパシティを超えてあわあわとした。柚子葉の経験ではこんなことは初めてだった。
「な・・・なに?!?」
顔を耳まで赤くしたオレンジガールが抗議の声を上げるが、二階堂は口に人差し指をあて、しーっと促す。
私の世界の至近距離まで接近した黒髪に柚子葉はどきどきした。今茂みの中にいるのは柚子葉と二階堂だけだった。茂みの葉が柚子葉の身体や顔などに触る。その葉の匂いがする。それと二階堂の匂いと背中から腰に回った手がそこだけ確かな感触を柚子葉に与えていた。至近距離にまでいる自分じゃないもう一人。土は乾いていて匂いはしない。
顔を横に向けると二階堂は険しい顔つきをしていた。柚子葉はさっきまで自分が居て、そこに来るまでの通路を見た。そこには誰かが来たからだった。
何か細長い金属をぶんぶんと振り回す何者かがいた。その男は忌々しそうに蔓や蔦をかき分けながら進んでいる。茂みの中からだとかなり葉っぱに遮られて、しかもしゃがんでいるのでよく見えない。
分かるのは鼻息荒く、ときたま呪詛のような文句を言いながらこの庭を荒らしているということだった。木々は無残に折られ、葉は引きちぎられていった。
「(中山だ・・・・!)」
柚子葉はここで初めてこんな酷い蛮行を働く人の正体が分かった。
「(最悪・・・・中山なんて・・・・。)」
中山は平気で人をいたぶる人の苦しむ姿を見て喜ぶ宣教師の中でも最も酷いくらいの宣教師だった。
「(どうしよう・・・・どうしたら・・・)」
頭の中で照準する。確かに柚子葉は細心の注意を払っていた。しかし人間であるからこそ行動を読めないところもある。実はこの時中山のアルゴリズムが変わった理由はマスクマンの搜索のためだった。中山の頭は危険分子をいたぶることでいっぱいだった。中山が思いつく限りの残酷な方法が頭に浮かんでいた。
隣のこの男子はどうするつもりなのだろう。柚子葉はちらりと見る。整った顔立ちと鋭利な顔つき。彼も何かを考えているようだった。
二階堂はコンピュータのような頭脳で解を導き出していた。このままではあの火掻き棒のようなものでかきわけられれば茂みの中の自分たちもろともバレてしまう。その時に怪我を被ることだってある。
「(やつを・・・・・)」
茂みの中から獲物を狙った野生の獣のようなギラギラと怪しい光を二階堂琥珀が発した。腕に力が入り腕に巻かれた柚子葉の身体を締める。
少し息が漏れるようなそんな吐息を隣のツーサイドアップの女の子が出した。
二階堂はそれで考えたを変えた。
「(まぁ・・・・ここは撒くだけにしとくか。)」
「(今は・・・・な。)」
中山の圧倒的に優位に何の警戒もなくふんぞり返ってますと言わんばかりの顔を睨みつけた。
「逃げよう。俺が囮になるから。」
そう言うがいなや二階堂は取り出したイタリアの様式の仮面を付け、茂みからガサガサと音を立てながら歩き出た。
葉の残滓を振り落としながらそれでいて油断なく歩むその姿は力のある存在であることが分かった。
中山は当然気づいた。当然二階堂も気づくように自分の存在を発信していたのだった。
「(ここまであからさまに音を出して気づかなきゃこいつはとんでもない馬鹿ってことになるからなー。)」
ボスザルを気取っているこの男はこちらの体格を見て完全に油断している。
二階堂は十四歳だった。体重は丁度五十kg。対する不摂生な生活で体重が増加した(アルフレポート)中山は八十五kg。体格差は一目瞭然だった。
隠れていた柚子葉はその一幕を見ていた。こんなの危なすぎると思った。今すぐ逃げてと思ったが、その想いに反して二階堂は動く気配を見せない。
「おうらお前ェ!何しとんじゃ!」
肩を怒らせ怒声を上げる中山。二階堂はその威嚇に大きくたじろいだ。ように見えた。
「(こいつを今あんまりコケにすると他の生徒に被害が行く。)」
とても慌てているように見えるのは表面上だけのことで内心は大木の如き平静具合だった。
「(早く!早く逃げて!あんなやつに、捕まったら何をされるか!)」
そんなことを知るよしもない柚子葉はあんなに震えて怖がっている二階堂に早く逃げて欲しかった。宣教師にターゲットにされる恐怖はヒューマンスクールの生徒である柚子葉も痛いほど知っていたからだ。その上相手は最悪の中山なのである。
「おら大人しくしろ!」
中山は腕を大きく回し、二階堂を見下ろすようにして威嚇する。ようやく見つけたマスクマンに舌なめずりしていた。二階堂の怯える演技は中山を喜ばせた。
二階堂は踵を返すと風のように走り出した。流れるような速さの二階堂を中山が追う。
猿の如き動きで軽々といくつもの障害物を飛び越え、軽快に時に飛ぶように時に跳ねるようにして走った。
自分を捕まえて拷問しようとする人間が後ろから追ってくるこの感覚。その感覚に二階堂は笑みをこぼした。この男は肉体の軽業師であった。飛んだり跳ねたりする二階堂は格好よかったが1番格好がいいのは走っている時だった。
アルフレポートにより二階堂は美濃達とこのヒューマンスクールの地理は全て頭に入っていた。今は何の問題もなく日本地図が一般に出回っていたが日本地図を外国人に渡しただけで死刑になった人がいた。江戸時代の高橋左内という人物である。この人物は外国人と海外の書物と交換で伊能忠敬の作った日本地図を渡したのだった。知りたかったから。知の探求のために死んだ。それだけで二階堂はその人物が好きになった。
ちなみに江戸城内の見取り図は幕府での最重要機密だった。それくらい戦いおいては地理が重要なのである。
そこまで勝つためにやったアルフに対して中山は普段はこの庭園には全く来ない。研鑽量と対策量からしてアルフは遥かにヒューマンスクールより上を行っていた。研鑽と対策をより組んでいた方が闘いに勝利するのだ。
楽しい時間が過ぎた。二階堂は走るのを辞め息を何度も吸ったり、吐いたりした。ふーっと息を吐き呼吸を整える。反省室の中ではただただ息苦しく思いっきり走りたいという思いが募っていたのでその気持ちをこうして吐き出せて良かった。
ヒューマンスクールの校舎の三階の影から中山の姿を見下ろす。
「(柚子葉は逃げきれただろうか・・・)」
二階堂は思案する。
本を抱え、二つ結んだ髪をそよそよと揺らしながら柚子葉もまたこの灰色の腐ったどんよりとした建物に帰ってきていた。
「・・・・・おかえり。せっかく違う世界に行っていたのにそれを邪魔してすまない。」
柚子葉は先ほどの二階堂を思い出していた。記憶の中の二階堂を長いまつ毛の大きな瞳が改めて見る。
「ヒューマンスクールの教義なんてクソ喰らえと思ってるし、密告なんてことをしてビロウをもらうなんて考えただけで鳥肌が立つタチなんでね。」
これらの言葉は初めて柚子葉が聞いた類のものだった。だがずっとこんな言葉を誰かが言うのを待っていたような気さえするのだった。
柱に持たれかかり上を向く。きゅっと口元を結び、心が乱れるような喜ばしいような不思議な気持ちの到来に困っていた。