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あなちちのたんぺん第2弾 「あの夏へ。」

作者: あなちち

ただいま、本能。

おかえり、恐怖。

私は今、絶望の荒野に立っている。

煌々と私を照らし出すスポットライト。普段は熱いこの明かりが、今は妙に冷たかった。

左肩に乗った木のガラクタ。かつて楽器だった私の相棒は哭けなくなった。

右手の震えが止まらない。でも、その振動でさえ相棒の弦を振るわせてやることができない。

一寸先の闇。視線、動揺、乱れ、悲しみ、歓喜、嘲笑、ため息、エトセトラ。

やめて、見ないで。おねがい、ざわめかないで。いやだ、笑わないで。

川の無い荒野、感情だけは激流に流される。

私は荒野という大きなステージから逃げ出した。

つるつるに磨かれた床をただスポットライトが丸く照らす。



お母さんの手の平が私の頬を叩いた。

無駄に広い部屋と無駄に煌びやかな装飾がその音を反響する。

私はその場に腰から倒れ込んだ。スカートに新しい折目をつけて。

私の顔は無表情だったと思う。

対して鬼か修羅のような顔をしたお母さんはこれでもか、と私に罵声を浴びせかけた。

お母さんが怒鳴るのも無理はない。

中学三年、実質最後のヴァイオリンジュニアコンクール。私はこれまでその大会で何度も最優秀賞に輝いた。

勿論今回も最優秀賞だろうと周りは大いに期待していたらしい。

私自身もそれをひそかに期待していた。

しかし、今日、そのコンクール中に弦が切れる、そして逃げ出すという失態。

本番前には弦を張り替えてチューニングもしたし、切れる要因なんてなかったはずだ。

今でもなぜ切れたのか、不思議でならない。

どんな罵声を浴びても微動だにしない私を見てお母さんはさらに怒った。

「どうして、どうしてあんな恥ずかしいことしたの!」

「あなたが最優秀賞を獲らなきゃご近所さんに示しがつかないじゃない!」

全部自分の体裁のことばかりだ。私のことなんかどうも思っちゃいない。

結局、私はお母さんの名誉の為の道具にすぎないのだ。

どうして成績を残さないといけないの?私は楽しくヴァイオリンを弾きたいだけなのに。

その主張が口から出ることはない。今言ってもお母さんを刺激するただの言い訳だ。

いくら罵っても表情を変えず涙も流さない私を見て母親はついに叫ぶ。

「死ね」

死ね。

死ね死ね。

死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね

同じ言葉が私の脳内を支配する。

脳みそがその文字で真っ黒にされたとき、私はその脳みそを真っ白にした。

何も、わからなくなった。

「っ…!」

唐突に立ち上がり、重い扉をこじ開け、外に逃げ出した。

ころがりこむように真っ黒なアスファルトに張り付く。

あぁ、また逃げてしまった。

自分の大きな家からは待ちなさいという母親の声が聞こえる。

私は立ち上がると、できるだけ遠く逃げるために走り出した。

あてもなく。



どれほど歩いただろう。

体感では1時間ほど歩いたと思うのだが、まだ私の住んでいる団地からは抜け出せそうにない。

私が住んでいるところはいわゆる都内某所の高級住宅街。その大きな団地に住んでいる。

金銭や名誉を重んじる富裕層が多く住み、この地で私腹を肥やしている。そんな場所。

そんな人たちに触れて私のお母さんもおかしくなってしまったのかもしれない。

落ち着いた時に気が付いたのだが、いつのまにかヴァイオリンと弓を握っていた。

家を飛び出る時に無心のうちに持ってきてしまったのだろう。

昔からともに戦った相棒だ。いつも一緒に居る。

でもヴァイオリンの弦は一本切れたまま。いろいろなものから逃げていたので治してあげられなかった。

「ごめんね」

私は唇をきゅっと結んだ。

今誰かとすれ違ったら私はヴァイオリン教室の帰りだと思われるのだろうか?

私がうつむきながらトボトボと歩いていると閑静な住宅街に似つかわしくない少女の高い笑い声が聞こえてきた。

3人の女子中学生がこっちの方向に歩いてくる。見知った3人だった。

しかもそのうちの一人は幼馴染で親友の子。

私のブルーな気分は吹っ飛んだ。

「お姉ちゃ…!」

真ん中の一人、彼女は私の家の横に住んでいる幼馴染で同じヴァイオリン奏者だ。

同学年だが、彼女のほうが早生まれなので私は「お姉ちゃん」と呼んで慕っている。

そんなお姉ちゃんの左右にいるのは同じヴァイオリン教室に通う人たち。

私自身彼女たちと仲がいいわけではないし、お姉ちゃんが彼女たちと親しくしていることも初めて知った。

だから私は人見知りをして、お姉ちゃんを呼ぶことを躊躇った。

私の躊躇を知ることもなく、3人は笑いあって話し続ける。

「みた?弦が切れた時のあの子の顔!超ウケるんだけど!」

「ホントホント!しかも逃げ出しちゃってさ…いいの見れたし私たちも繰り上がって入賞じゃん!一石二鳥ってカンジ!?」

お姉ちゃんの左右の女の人たちが下品に笑いながらしゃべりまくる。

全員コンクールの参加者だ。私の失態も、もちろん見ていたんだろう。

間違いなく、私のことだ。

悔しくて涙がこぼれそうになっていた。

彼女たちが私の存在に気づいてないことだけが救いだった。

私が失格になった影響で多くの人が繰り上げで入選したらしい。お姉ちゃんはたしか最優秀賞になったはずだ。

それを祝ってあげたいけれど、どうも様子がおかしい。

私は近くの電柱に隠れこんで息をひそめる。

変だ。

お姉ちゃんはいつも私の味方をしてくれて、私を守ってくれた。

でも今はどうだろう。下品な女子たちの言葉に耳を傾けて彼女自身も笑っている。

電柱の陰から耳をひそめる。

「そうね、おかげで私も最優秀賞を獲ることができたわ…あの子には悪いけれど、仲良くしていた甲斐があったわ」

お姉ちゃんが言う。

それに同調するように周りの女たちが下品に笑う。

「さすが姐さん大人っすね!で、どうやってあんなタイミングよく弦を切れたんですか?」

「そーそー!私もびっくりした!どうやってあんなこと仕掛けることできたんですか!?」

お姉ちゃんだけが上品に笑って言う。

「うふふ・・・あの子といつも一緒だったから分かったんだけど…彼女、本番前に必ずトイレに行くのよ」

そうだ、私はいつも気合を入れるために本番直前にトイレで顔を洗う。

スポーツの世界ではルーティンというのだろう。ある意味、癖に近いものだと思うが。

「そのとき、ちょっと弦を削ってあげたのよ、やすりでね」

そういうと彼女はやはり上品な声で笑うのだった。

私が好きな上品な笑い声だ。

でも今は悪魔の笑いに聞こえる。

なんで?どうして?なんでなの?

頭が真っ白になる。

今日だけで三度目だ。

どうして裏切ったの?お姉ちゃん。

その言葉が肺の中で跳ね返り続ける。

その言葉が声帯の扉を開けることはない。

肺が苦しい。息ができない。

もし私が強かったら今ここから飛び出して問い詰めてただろう。

でも私は弱い。

だから、また、逃げる。

現実から目を反らし、背を向けて走り出す。

絶対逃げきることなんかできるわけがないのに。

この時はそう思っていた。



疲れた。

そう思って座り込む。

「ここはどこ?」

放心したように自分に問いかける。

無我夢中で方向感覚も狂うほど走った。

そして、知らないうちに住宅街を抜けていたようだ。

名前も知らない樹や草が私のことを囲いこむように生い茂っている。

気味が悪いが、今の私は現実から隔離されたように安心していた。

こんな林の中で。

お母さんとお姉ちゃんに対する失望や激昂も薄れていた。

単に疲れているだけかもしれない。

落ち着いた時、私はなんでお姉ちゃんが裏切ったのか考えることができた。

私が有名になる前、彼女はずっとコンクールで活躍していた。

ところが、急に成長しだして超えられたのだ。

私にヴァイオリンを始めるきっかけを与えたのも彼女だ。

たぶん、嫉妬していたんだろう。

ばかばかしいけれど、私がお姉ちゃんだったらきっとそう思っていたと思う。

でも許すことはできなかった。

街灯さえない暗い場所。

私はその場で眠りについてしまいそうだった。

空には穴が開いたようにぽっかりと満月が浮いている。

普段は凸のように見える月が今は凹に見えた。

「あぁ、あそこまで行くことができたらなぁ」

変な気分だった。

自分がおかしくなったのだろうか、自分が自分じゃないように感じる。

あの月はきっとどこか理想の世界に続いている。

そう思っている自分とそれを客観的に冷静に見ている自分。

まるで自分が二人いるような、奇妙な感覚。

「あっ」

冷静な自分が何かに気が付いた。

水の音が聞こえる。

私はその方向へと目を凝らす。

すぐ近くに水たまりがあった。

私は立ち上がり、すぐにそこへ歩いていった。

その水たまりは思ったより大きかった。

私はこれがなんなのか知っている。

このあたりでは有名な底なし沼だ。

でも今はそんな異名を持つような怖い沼ではない。真っ黒な、いたって静かな水たまりだった。

そんな真っ黒い液で満たされた沼の中心に満月が穴を作っていた。

丁度、私が立っていたコンサート会場のステージみたいに。

周囲は暗く黒く、異様な静けさ。スポットライトの内側だけが信じられる場所。

私は自分の両手を見た。

右手には弓、左手には弦の切れたヴァイオリン。

まだ持っていたのかと驚いたが、私は自然にヴァイオリンを左肩に乗せていた。

そして、顎で固定し、右手の弓で弦を揺らす。

今日のコンクールで弾ききる予定だった曲を弾き始める。無意識で。

なぜか、弾かなければならない気がした。

「One Summer's Day」

この曲の名前。

コンクールでは弾く人のいない珍しい曲だったこともあり、最初は受け入れられることがなかった。

しかし、年々上達していくにつれて話題となり、この曲が有名だったこともあって段々と受け入れられるようになった。

これは私がヴァイオリンを弾くきっかけになった曲。

そして、私がヴァイオリンを辞めるきっかけになる曲だ。

弾く、弾けない、弾く、弾けない、弾く、弾けない。

かつての相棒は昔のように哭いてはくれない。弦が切れているから。

でも私は弾き続ける。

歯の抜けたようなメロディーしか出せない。

私は次第にイラついた。

「やっぱり弾けない!」

そう叫んで私は弓を弦から離した。

こんなへんてこな演奏、私は認めたくなかった。

たぶん最後の悪あがきなんだろう。

私はヴァイオリンを弾けなくなった。

それはあのステージ上でのことから密かに感じていた。

でも今、それは確信に変わった。

たとえ相棒の弦を張り替えてあげても同じだろう。

もう演奏はできない。できたとしてもそれは弦を擦るだけの作業だ。

私が生きる理由、それが今失われてしまった。

私は左肩からヴァイオリンを下ろした。

「もう、ダメなのかな」

そうつぶやくと涙がこぼれだした。

今まで溜め込んでいたからだろう、嗚咽とともにしばらくの間泣き続けた。

どうして、お母さん。私のことをひどく責めるの?

どうして、お姉ちゃん。私のことを裏切ったの?

どうして、聴いていた人たち。私のことを笑ったの?

「死ね」

「うふふ」

「ざわざわ」

頭が蕩けそうだった。

涙で濡れた視界、見えるのは二つの満月だけ。

私は沼に映った満月を目指して這うように歩く。

「死ぬの?」

「苦しいのかな…」

「また、逃げるの?」

いろいろな私が私に話しかける。

「わかんないよっ!!」

私は空に向かって吠えた。

歩みは止まらない。

もうあったかい季節なのに沼の水は酷く冷たかった。

靴と靴下の隙間に水が入り込む、気持ち悪い。

「これからは毎日練習なさい」

「なんでこんなこともわからないの!?」

「あなたは最優秀賞だけ取ればいいのよ!」

母親が言う。

うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい

水は腰のあたりまで迫る。

スカートが水面の花びらのように広がって浮く。

「一緒に弾きましょ?」

「演奏って楽しいわね」

「うふふ、最優秀賞獲れてよかったわね、私も嬉しいわ」

お姉ちゃんが言う。

だまれだまれだまれだまれだまれだまれだまれだまれだまれだまれだまれだまれ

水が胸のあたりにまで迫った瞬間、足が重力を失ったように沼に引きずり込まれていく。

底なし沼という名前は本当だったんだ。

一気に口まで水面下に落ちる。

息ができない。苦しい。助けて。

誰にも伝わらないけど思い続ける。

生きたい。

そう思っても、浮かぶのは母親やお姉ちゃんが嘲笑う顔ばかり。

その怒りをどこにぶつければいいんだろう。

私は無力だった。

あーあ、私死んじゃうのかな。

沼に引っ張られているのか、自分の体が落ちていっているのか分からない感覚の中でそう思った。

でも、ふしぎと心地いい。

このまんま寝ちゃおうかな。

そう思ったとき、男の人が私を呼んだ。

「おねえちゃん!」

私を呼ぶのは誰?

過去の記憶と現在の忘却。

ごちゃごちゃに、ぐちゃぐちゃになった私はドス黒い穴に落ちていった。



ある夏の日。

容赦ない日光は病室でさえ熱く染める。

セミの声とともに聞き覚えのあるメロディが聞こえてくる。

真っ白な部屋に真っ白なベッド、そこには真っ白なパジャマを着た少年が背を向けて座っていた。

少年は左肩にヴァイオリンを乗せ、右手の弓を使って演奏している。

大人びた音色、でもそこには少年の幼さが感じられる。

どこか寂しい曲調、でもそこには一筋の希望もある。

私はその音にうっとりしてじっと少年を見つめていた。

なんていう曲だっけ。確かあの私が好きな映画の挿入曲だったはず。

「One Summer's Day」

少年は私の存在に気が付いていたのか、弾き終わった後、振り向いて笑った。

「僕の好きな映画の曲だよ、夏にぴったりでしょ?」

少年はスリッパを急いで履くと私の元に駆け寄ってきた。

「はい!」

少年はそう元気よく言うと私にヴァイオリンを手渡してきた。

「?」

弾け、ということだろうか?

「こっちこっち」

少年はベッドの横の椅子に座るように催促する。

私がその椅子に座ると少年はベッドに座った。

そして、困惑する私にニッコリ笑いかけると、ヴァイオリンを左肩に乗せて顎で固定するように言う。

そして、私の手に被せるように手を置いた。

「あはは、じゃあ弾くよ?」

そう言うと私の手をゆっくりと左右に動かせた。

流れてきたのは耳を劈く不協和音。

「っ!?」

「うわぁ、変な音!」

少年はそう言ってまた無邪気に笑った。

今度は少年が私に覆いかぶさるように後ろに座った。

「こうやって弾くんだよ」

耳元で少年が囁く。

「a la chasse」

「?」

「弦から弓を離さないで」

何語かわからなかったけど言いたいことはわかった。

そして、どこかくすぐったいけれどちゃんとした音色を出すことができた。

この少年のおかげだ。

「上手だね!」

そう言って少年は笑う。

けれどその顔はマジックでぐちゃぐちゃに塗りつぶされていた。



「う…」

気づいたら私は草の上で突っ伏していた。

下半身は水に浸かっている。

全身ずぶ濡れだった。無理もない、沼に飛び込んだのだから。

でも今浸かっているのは沼ではなかった。

きれいな泉だ。透明なのに青い水が満ち満ちている。

空にはあったかい太陽。地面には生い茂る青い草。

そして体に絡みつく謎のつる性植物。

「うわっ!」

私は体をよじったり手で払ったりしてツルをほどいていった。

「あはは、それね、トケイソウっていうんだよ」

急に私の顔の前に顔が現れた。横から誰かがのぞき込んできたのだ。

「!?」

私は驚いてその男性のことを突き飛ばしてしまっていた。

どさっという音とともに男性が尻もちをつく。

「あいたたたた…」

そう言う男性の顔は苦悶に歪んでいた。

いや、正確には男性の顔ではない。男性の顔の仮面だ。

目の位置に二つの丸い点、口はただの直線、それだけが書かれた仮面をかぶっていた。

今はその仮面の目が大なり小なりの不等号、口が山のように曲がっている。苦悶の表情なのだろう。

「あは、ごめんね突然現れて」

男性はひょいっと軽く立ち上がると白いズボンの汚れを払った。

「私のほうこそごめんなさい…!」

私はつい条件反射的に頭を下げた。

なのに、また顔の前に男性の仮面が現れた。

下から覗き込んできたのだ。

「うわっ!」

私はまた驚いて今度は自分が尻もちをついてしまった。

しかも完全に泉にお尻が付いた。

それを見て男性はまたケラケラと笑っている。

醜態を笑われたが、不思議と怒ることはなかった。

誰か知らないが、彼の笑いは人を和ませる力があるようだ。

「あーあ…」

私は泉にお尻をつけたままあたりを見回した。

すると、泉の中で何か丸いものが泳いでいるのが見えた。

「うわっ!」

その正体に気が付いて私はまた驚いて立ち上がった。

眼球だった。完全な目玉。気持ち悪い。

それが私の姿を見ると視神経(?)のヒレ(?)で泳いで逃げていく。

後ろで男性がずっとコロコロと笑っている。

「あはは、うわっ!って言うのそれで三回目だよ!」

その仮面は目が山、口が逆三角形でとても楽しそうな顔だ。

私を指さしてずっと笑っている。

私は少々むすっとした。

「ここはどこ?」

仮面の男性に聞いてみた。

ダメ元だったけど、彼なら何か知っているかもしれない。

「ここかい?僕にもわからないけど、まあ現実世界ではないよね」

そう言って彼はまた微笑んだ。

「多分だけど…ここは君の理想の世界じゃないのかい?」

「どういうこと?」

私は彼に聞いてみた。

「例えばさっきの目玉の魚、君を見て逃げていったね。 君はたぶん視線が嫌いなんじゃないかな?」

そのとおりだった。

コンクールでの事態を思い出す。

弦が切れた時、私からは見えない暗闇からいくつもの視線が私を刺していたことを。

私はそれで肺に穴が開いたように苦しくなって逃げ出したのだ。

今思い出しても気分が悪くなる。

「まぁもっともな理由は僕の存在なんだけどね」

彼は小さくつぶやいた。

私は彼に何か言った?と尋ねようとした。

しかし、彼は不意に私の手を握って走り始めた。

「ちょ…!」

彼は私の気も知らず無邪気に笑った。

「君に見てほしいものがあるんだ!」



森を抜けるとそこには水平線の向こうまで平原が広がっていた。

空には朱色の太陽。ぐるぐるまんまるだ。

ところどころ真っ白な雲はあるがいたって快晴な青い空。その空を赤や黄の色とりどりな小鳥たちが泳ぐように飛んでいる。

地面を埋め尽くすように生えているのはあのつる性植物。うねうねと地面をはいずっている。

植物をかき分けたようにできた獣道。それ付き添うようにずっと青を点滅させている信号機が生えている。

その獣道の先につる性植物に覆われた大きな建物。赤い十字のモチーフさえ植物に絡まれている。

その幻想的な風景に思わず息が漏れた。

「これが君の理想だよ」

仮面の男は私から手を放すと獣道の先で手招きしながら言った。

「こっちこっち!」

男性は赤い十字の大きな建物へと走っていく。

「あっ待って!」

私もついて行こうとした走り出したその時、頭にヒビが入ったたような衝撃が走った。

頭の中の重い扉を誰かがノックしている。

ガンガンガンガン。

私はその場で思わず座り込む。

私ハアノ病院ヲ知ッテイル。

そんなはずはない。ここは理想の世界、理想じゃない現実の建物がこの世界にあるわけがない。

私はそう思いこむと胸をなでおろした。大丈夫、頭痛は収まった。

私は立ち上がるとすぐに仮面の男性を追いかけた。

そして、案外すぐに男性の背に追いついた。

男性はかがんで青信号の根元を観察していた。

「おーい…?」

私は男性の丸い背に話しかける。

「これ見て」

男性はかがんだまま右に移動する。

私は開いた男性の左側にかがんだ。

そこには奇抜で奇妙な形と色をした花が咲いていた。

「トケイソウの花だよ」

男性はそう言うと右手を花の近くに沿わせた。

すると、花の根元のつるが男性の腕に巻き付いた。成長限界を無視して。

男性は巻き付いたつるの根元をちぎった。すると、男性の腕に花が乗り移る。

男性はそのまま立ち上がると、腕の花を愛おしげに(仮面は無表情だが私にはそう見えた)見つめながら語り始める。

「トケイソウ、三つの雄しべが長針、短針、秒針に見えるからそう名付けられたんだって」

なるほど、確かに三つに分岐した雄しべがそう見えなくもない。

「この奇抜な感じがキリストの受難の花だとか喩えられたそうだけどひどいと思わない? ただの植物にそんなレッテル貼っちゃってさ」

男性がそういうとトケイソウの花は力なく萎れ始めた。

つるから切られたからだろうが、その花は一気に枯れてしまい、風に乗って散っていった。

男性はそれを見てまた物悲しい表情になった。

「トケイソウのハーブはね、鎮痛だとか精神安定に働くんだって」

そう言うと男性は私の手を固く握った。

「それが君の理想だったんだね」

男性はぽつりとつぶやくと今度はゆっくり私と一緒に歩き始めた。

私は何も言えなかった。

今もそうだがずっと男性の背はもの寂しさを帯びている。

であった時からずっと無邪気に笑っていた男性が今はこんなにも辛そうな背中をしている。

私はまた何かが頭に入ってくるような予感を察した。

思イ出セ、彼ヲ。

私はとっさに道端のトケイソウの葉をもぐと、その匂いを嗅いだ。

いい匂いだった。

私は何事もなかったように男性の後ろについて、建物に入る。



建物の中はとても広かった。

各階をぶち抜いて一つのホールにした感じだ。

暗くてよく見えないが、野球ドーム位の広さはあるんじゃないか。

その建物の中心は天蓋がガラスになっているようで、一部だけ丸い光が差し込んでいた。

男性は走ってその光の輪の中に入ると私に手招きをした。

私がその光の枠に入ると、男性は言った。

「ここで演奏してあげて」

唐突だった。

「なっなんで?」

私は動揺を隠せずに言った。

男性はちょっと困ったような顔になると、私に耳打ちした。

「僕たちからは見えないけどあの暗闇の中には君の演奏を心待ちにしている子たちがいるんだ、ぜひ弾いてあげてよ」

男性はこういうが、暗闇の中に人の気配はない。視線も感じない。

でも、誰かが私の演奏を待っているなら…。

「でっでも、私この世界に来てからヴァイオリンなんて持ってないし」

口を出てしまった言い訳だった。

そして私はすぐにその言い訳が苦しいものだと知る。

右手に弓、左手にヴァイオリンを握っていたのだ。知らぬ間に。

そうだ、ここは理想の世界、私が欲したものは無意識的に手に入るのだ。

だけど私は本当に演奏をしたいなんて思ったのか?

思い出すトラウマ、思い出したくない記憶。

怒ったお母さん、裏切ったお姉ちゃん。

私はもう演奏はできないと悟った沼の夜のコト。

どっちが本心?

ヴァイオリンを見る。やはり弦が一本切れていた。

「ほ、ほら!弦が切れてるからこれじゃあ演奏できないよ!」

私は必死に取り繕って男性に切れた弦を見せた。

男性はまた寂しそうな顔をすると、ヴァイオリンに手を置いた。

「これは僕の理想だ」

そう言うと男性は切れた弦をなぞっていった。

「う…」

男性の手が離れた時、ヴァイオリンは元の私の相棒に戻っていた。

弦が元に戻ったのだ。

「これで、弾けるよね?」

男性はそう言うと意地悪そうに笑った。

私は仕方なく、左肩にヴァイオリンを乗せ顎で挟んだ。

右手の弓で弦を擦る。音が出る。

音をつないでいく。音色になる。

けれどそれは私の思う曲の音色にはほど遠いものだった。

「違う!あの曲はこんなのじゃない!」

そう言って挫折して、演奏をやめようとした。

しかしできなかった。

私が弦から弓を離そうとした瞬間、仮面の男性が私の後ろからふわりと体を重ねてきたのだ。

「a la chasse」

弦から弓を離さないで。

今はめったに使われることのないフランスの音楽用語だ。

私が昔よく聞いた誰かの口癖。

ソレハダレダ。

またしても頭痛が襲ってきそうになった。

「大丈夫、上手に弾けているよ」

男性が耳元で囁く。

その言葉で私はハッとした。弾けている。昔のように。

いや、むしろそれ以上だった。男性が私の手に手を重ねて上手に導いてくれている。

このメロディー、どこかで聞いたことがある。

ソレハドコダ。

頭痛が襲って来ようとする。しかしそれは男性の持つ不思議な力で遮られる。

なんでだろう、この男性といると不思議と落ち着く。

まるでトケイソウの葉を嗅いだ時のような安心感。

彼は一体?

気づいたら私は、いや、私たちはすべてを弾き終わっていた。

太陽のスポットライトの中で私たちは静寂を過ごした。しかし、それは一瞬のうちに終わった。

暗闇の中から割れんばかりの拍手が鳴り響く。

一体誰がどこで手を叩いているのかさっぱり見当がつかない。

しかし、その称賛は確かに私の耳に響いてくる。

ただ単純にうれしかった。

トラウマが吹き飛んでいったように。

私は称賛を欲していたんだろうか。

仮面の男性は暗闇に笑顔で手を振ると私の手を握ってまた走り始めた。

そしてコンサートホールから抜け出すと、暗闇の扉を開け、中に入っていく。

一体この建物はどんな構造をしているんだと思いつつ、私もその中へと連れて行かれる。

そこは真っ白な部屋に真っ白なベッドが一つ置かれているだけの部屋だった。

窓からは夏の日光が容赦なく差し込み部屋を熱く染めている。

男性はベッドに座ると、その横を手でポンポンと叩いた。

座れ、ということだろう。

私は彼の横に座った。

そして、唐突に思っていたことを聞いてみた。

「あなたは誰?」

男性はキョトンとした顔になった。

「そうか、やっぱり忘れちゃってたんだね」

そう言うと彼はまたもの悲しい顔になった。

ウソダ。

私ハ君ガダレカ知ッテイル。

ダケド知ラナイ。

知リタクナイ。

知ル必要ガナイ。

知ル権利ガナイ。

私の頭をまた激流が埋め尽くす。

臨界点だった。

白紙に墨汁をぶちまけたように記憶が戻ってくる。



自分でも驚きだった。

家が隣で幼馴染のお姉ちゃんに「弟に会ってほしいの」と聞かされ、会ってみただけだった。

当初は。

しかし今ではどうだろう、夏休み中で時間があるとは言え、毎日のように入り浸っている。

ただただ、楽しかった。一緒に同じ時を過ごすことが。

「またあの子来てるわよ、全く血もつながってないのに仲いいものね」

「でも私たちからしたらいい迷惑よ、隣室の人の苦情も対応しなきゃいけないしあの子自身の体にもよくないって言うのに」

「そうそう聞いた?やっぱりもうそろそろ限界かもしれないって先生言ってたわよ、恐ろしい難病ね」

「ホント?この音が聞けなくなるのはさみしいけれどそれじゃあしょうがないわね」

看護師の言葉は一切私の耳には響かない。

私はこの子と一緒に弾くこの曲に夢中なのだ。

「おねえちゃん貸して!ここは指をこうやって弾くんだよ!」

隣に座った男の子が私のヴァイオリンをひったくると左指で弦を振るわせながらなぞる真似をした。

私はへぇーそうやるんだ、という前に一つ気にかかったことがあった。

「おねえちゃん?」

私はこの子と血縁関係ではないし、まして兄妹なんて間柄でもない。

「うん!お姉ちゃんのお友達だからおねえちゃん!」

とんでもない理屈だった。

しかし子供のいうことだ、分からなくもない。

という分析をする以前に、私はこの子の姉をお姉ちゃんと呼んでいるのだから似たようなものだ。

それに私は一人っ子だからおねえちゃんと呼ばれるのもまんざらではない。

「へ、へぇ…じゃあ私は君のコト、何て呼べばいいのかな?」

私はこの子を今まで君としか呼んでこなかった。

自分がおねえちゃんと呼ばれるからには少なからず責任も芽生える。

いつまでも君と呼ぶ訳には行かないだろう。

「う、う〜ん」

以外にも彼は言い淀んでしまっていた。

自分をどう呼んでほしいかなんて考えたこともなかったのだろう。

「じゃあ弟くん、なんてどうかな?」

あまりにも安直で言った後に軽く後悔した。

自分の語彙の無さに呆れつつ彼の顔を覗き込んでみる。

もうそれは新しいおもちゃを貰ったかのようなキラキラした笑顔だった。

「いい!それいい!」

そういうと彼はベッドの上でピョンピョン飛び跳ねた。

この子は自分の病気を本当に理解しているのだろうか?

「こ、こらっ!」

私は急いで彼をベッドに横にさせた。

彼は驚いたように目を見開いた後、にんまりと笑った。

「ありがとう、おねえちゃん!」

分かってくれたんだ、私はホッとした。

「おやすみ、弟くん」

私がそう言うと彼は満足したように目を閉じ、寝息を立て始めた。



次の週。

私がいつものようにいつもの病院のいつもの部屋に行くと、誰もいなかった。

ベッドはきれいに整っており、まるで生活感がない。

カーテンだけが風でひらひらと舞っていた。

私が部屋の中で立ち尽くしていると、部屋の外から看護師の声が聞こえてきた。

「そうそう、そういえば昨日あの子亡くなったそうよ、あのヴァイオリンの子」

「聞いたわ、余命よりやっぱりちょっと早くなってたらしいわね」

「やっぱりあの女の子が来てからよね、毎晩寝かしつけるのが大変だったもの」

「ちゃんと注意しておくべきだったかしら、あの子が楽しそうに話すから言いづらかったのよね」

意味が、分からな、かった。

いや、頭では理解している、しかし一方で認めようとしない私がいる。

死んだ?なんで。

殺された?だれに。

すべてを認めた時、私の中で何かが切れた。ヴァイオリンの弦のように。

「ああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!」

私はいつもの部屋をいつもの病院を走って逃げ出した。

喜怒哀楽の感情がぐるぐるかき回されている。

脳内を誰かが引っ掻き回しているようだ。

私のせいだ。

私のせいで、弟くんは死んでしまった。

私が弟くんを殺してしまった。

私が弟くんを殺した。

殺人をしてしまった人間はどういう精神状態なんだろうか。

たぶん、今の私がそれなんだと思う。

現実逃避。

忘れろ。

弟くんなんていなかった。

誰だそいつは。

そんな奴しらない。

私はヴァイオリンが弾ければそれでいい。

あの曲が演奏できればそれでいい。

それ以来私は、記憶をマジックでぐちゃぐちゃに塗りつぶした。子供の落書きのように。

謝罪さえせずに。自分の都合のいいように。

「おやすみ、弟くん」



思い出してしまった。

この世界の様々な事象が記憶の鍵をぶっ壊したのだ。

涙が止まらなかった。

なぜかなんて知らない、多分本能なんだ。

記憶が理解するより先に涙腺を破壊している。

思い出したくない。

あぁ、思い出してしまった。

あの時の感情が滝のように流れ落ちてくる。

私はいつの間にか仮面の男性にしがみついていた。

「ご、ごめん…ね…弟く、ん、わたし、あなた、のこと…ころしちゃっ、…」

涙と嗚咽でボロボロになりながら私は必死に彼にそう伝える。

彼は困ったような顔になった。

「僕はおねえちゃんに殺されたなんて思ったことないよ」

そんなわけない、私が殺したんだ。君を。

私が、私が、私が。

ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。

「僕はもともと死ぬ運命だったんだよ、逆に僕はおねえちゃんにすごい感謝しているよ!」

そう言うと彼の仮面は笑顔になった。目は大なり小なりの不等号、口は逆三角形。

「ぇ…?」

私は声にならない声でつぶやいた。

「僕が死ぬ前、少しの間だったけど、おねえちゃんとヴァイオリンが弾けて楽しかったよ!死んでも悔いのないくらい!」

少年はそう言うと無邪気にまた笑った。

その笑い方は実の姉に似たのか、上品で、健気で、希望にあふれていた。

「お、弟くん…」

私は彼の仮面をじっと見た。

「だからね、泣かないで、おねえちゃん」

彼はそう言うと私の眼もとに指を置いた。

さらに彼は舌足らずの声で流暢に続ける。

「a la chasse」

彼は私の涙をふき取った。

その瞬間。

ぱりん。

おおげさに、けれど小さな音で、彼の仮面が割れた。

粉々になった仮面は風に乗ってどこかに飛んでいった。

「あーあ、これで完全に思い出しちゃったね」

そういうと彼はあの夏の日のように、笑った。


One Summer's Day


容赦ない日光は病室でさえ熱く染める。

カーテンは風に揺らされ、楽しげに舞う。

セミの声とともに聞き覚えのあるメロディが聞こえてくる。

有名な人が作った、有名な映画の中の、有名な音楽家の、有名な曲だ。

真っ白な部屋に真っ白なベッド、そこに座って二人の子供が笑いあいながらヴァイオリンを演奏している。

大好きな人と、大好きな楽器で、大好きな曲を弾いている。

終わりなき理想。

この夏は永遠に。



朝のとある高級住宅街。

その郊外にあるのは底なしという異名を持つ沼だ。

その沼の淵、雑草が生い茂る中にポツンとヴァイオリンが落ちていた。

そのヴァイオリンは汚れているし、弦は一本切れているし、で使い物にはなりそうにない。

しかし、そんなガラクタを抱きしめるように謎のつる性植物が生えている。

その植物は朝露に濡れ、花を咲かせている。奇抜な、奇妙な形と色の花だ。

それは本来、この国で野生種として存在しえない植物だ。

どこかの不良が種を捨てたのか、自然に種が飛んできてしまったのか、あるいは…。

どんより曇った空、雲の切れ目から光が差し込む。

そのヴァイオリンとその植物を照らす。

まるでスポットライトのように。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 文章ごとの歯切れもよくかなり読みやすかったです。 特に1ページ目に相当するであろう出だし数行の引き込みはかなり良いと思います。 繰り返し言葉も目立たず、表現・言い回しも好みです。 [気にな…
2016/01/20 21:32 退会済み
管理
[良い点]  たまたま目に止まり読まさせていただきました。  詩的表現が良かったので感想と評価を残しておきます。 [気になる点]  詩的なパートはこのままで良いと思いますが、小説パートでは小説的な書き…
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