プロポーズ、のち
手元の髪飾りを眺めて私は溜息をついた。エメラルドと琥珀ーーー翠とアンバーが窓から射し込む陽の光を反射してキラキラと美しい光彩を放っている。
『俺がお相手しましょうか?』
今まで気にも留めていなかったエヴァンの言葉がぐるぐると頭の中を駆け巡る。
『今日は俺が守ってやるよ』
『ティーナは昔から俺の特別ですから』
親指でそっと撫でた琥珀がエヴァンの瞳と重なった。
ーーー生涯貴女を守ると誓う。
「ッ!キャァァァ!!!イヤーーッ!!」
なんなの!なんなの!!なんなのっ!!
思わず髪飾りを握りしめたまま手で顔を覆う。込み上げてくる途方もない恥ずかしさに身悶えしながらイヤイヤと頭を振った。
「何を今更乙女仕様になってるんですか。気持ち悪いのでおやめください」
マリアが冷静かつ失礼なつっこみを入れてきた。
「だって恥ずかしいんだもの、仕方ないでしょ!というか主人に向かって気持ち悪いとか失礼ねっ!」
「私の主は雇用主であるお父上ですので」
ああ言えばこう言う。本当に憎らしい侍女だ。
「よろしかったではありませんか。エヴァン様はお家柄もしっかりしておりますし、ご自身も魔導騎士で将来有望。貴族のご令嬢方が騒がれるほど容姿も優れていらっしゃる。こう言ってはなんですが、クリス様にはもったいないお方です」
「ちょっと、私がエヴァンに劣るとでも言いたいの!?」
「むしろお家柄とお血筋以外でエヴァン様より優れているところがおありになるとお考えで?」
「〜〜〜っ!!」
もう!腹が立つったら!エヴァンなんか昔は親鳥の後をついて回る雛みたいに私の後ろにくっついていたんだからね!まあ、確かに今は背も伸びて何だか男らしく……。
ゴンッ!!
舞踏会で知ったエヴァンの力強さや逞しさをつい思い出してしまい、目の前のティーテーブルに勢いよく突っ伏した。おでこが痛い……。
「……はぁ。エヴァンてば本当にどういうつもりなのよ……」
「どういうつもりも何もクリス様とご結婚されるおつもりなのでしょう」
私が零した紅茶を嫌そうに拭きながらマリアが言った。
「どうでもよい相手にプロポーズされるほど酔狂な方ではないでしょうし」
よりどりみどり女性を選べる立場なのですから、とマリアが付け加えた言葉に、私の心臓がまたしても激しく脈打ち始める。
私はしばらく逡巡したあと、意を決してある疑問をマリアに投げかけた。
「ね、ねえ、マリア。もしかして……もしかしてよ?エヴァンはその……私のことを、ス、ススス……」
「好きなのではないですか?」
「!」
ビクンと体が揺れる。
……まさか。あのエヴァンが私を?
「……やっぱり信じられない!だってあいつ、今までそんな素振りまったく見せなかったじゃない!」
「……そうでしょうか。割と分かりやすかったと思いますが。むしろお父上もウィンター家の皆様もお気づきでなかったのが不思議でなりません」
思い込みとは恐ろしいものですね、とマリアは肩を竦めた。
「でもエヴァンてば、私の顔を見てはいつも皮肉ばかり言ってくるのよ。マリアだって知ってるでしょ」
「好きな子ほど……というやつです。そもそも嫌いな相手のもとに足繁く通われる男性はおりません。魔導騎士として多忙なエヴァン様ならばなおのこと。どんなにお忙しい時も三日に一度は来られていたではありませんか」
「そ、それは、仕事のことで父様や双子に会いに来ていたんじゃ……。双子とは仲も良いし」
「お仕事でお父上や弟君にお会いになられるのが目的であれば王宮や魔導院で済ますはずです。それをわざわざ馬を駆ってまで来られていたのは、明らかにクリス様にお会いするためでしょう」
「そ、そそそ、そうかしら」
そう言われると一理あるような……。
再び手元の髪飾りに視線を落とす。エメラルドも琥珀も、そしてその繊細な加工からも全てにおいて一級品だと分かる。装飾品としての価値は相当なものだろう。たとえ貴族といえど気軽に贈れる物ではない。私も伊達に五大公爵家の娘なんてやってないから、こういった物の目利きには自信があるのだ。
「もういい加減エヴァン様のお気持ちを認めてさしあげたらいかがですか。このような素晴らしい髪飾りを贈られ、ましてや正式な騎士のプロポーズをされてなおエヴァン様のお気持ちを信じて差し上げないのは、余りにも酷い仕打ちかと思いますが」
「……でも信じられないのよ。それにエヴァンてばいつもゴシップ誌で騒がれてるじゃない」
自分の言葉にハッとなる。
そうよ、エヴァンてばついこの間までコロコロと女を取っ替え引っ換えしてたじゃない。
「もし私が好きなら、あの女達は何よ。浮気じゃない。最低!」
「浮気って……。まだクリス様と婚約もされていなかった時期なのですから浮気ではないでしょう。それにエヴァン様も健全な若い男性ですから関係を持たれる女性の一人や二人いて当然です。クリス様だってエヴァン様のお気持ちにまったくお気づきではなかったのですから良いでありませんか」
「一人や二人なんて可愛げのある人数じゃないでしょ!それに私が気づいていようがいまいが、私を好きなら身を正して誠心誠意片思いしなさいってのよ!女と遊びながら思われたって、そんなの不誠実極まりないわ!」
「……これだから初恋をこじらせた女は面倒臭い……」
「?何か言った?」
「いえ、何も。クリス様は意外と潔癖でいらっしゃるのですね」
「ふん。私が潔癖なんじゃなくて周りがおかしいのよ。父様を見ればわかるじゃない。母様が亡くなって喪が明けるやいなや再婚よ?今の母様が良い人だったのが唯一の救いね」
それなのに父様ったら、それでも飽き足らずに季節の恒例行事みたいに浮気を繰り返して!
「そんなの貴族間では珍しいことではありませんでしょう。ある意味仕方がないとも思いますし。貴族の結婚は殆どが政略結婚、ご自身の意思とは関係なく伴侶を決められてしまうのですから。それに浮気をするのは何も男性だけではありません。女性でも愛人を囲っている方は大勢いらっしゃいます」
「知ってるから余計に腹が立つのよ。好きでもない男と結婚するのなんか絶対に嫌!愛人を囲い囲われるのが普通なんて人生も真っ平ごめんだわ!」
貴族の倫理観はどうなってるだっていうのよ、まったく。
「……あーあ。貴族で純粋な恋愛ができる人間っていないのかしら」
「それこそウィンター家の方々がいらっしゃるではありませんか。貴族では珍しく恋愛結婚が多いお家柄。ウィンター公爵もご長男のスタンリー侯爵も愛妻家で有名です。エヴァン様もウィンター家の方ですから、その遺伝子を継いでいるのでは?」
「何言ってんのよっ!ウィンター家の男達なんか一番油断ならないじゃない!!」
私の幼くも清らかな純愛を弄ばれたことは生涯忘れないわよっ!ウィンター家の男達は優しく甘い言動でうら若い乙女を弄ぶんだから。詐欺よ、詐欺!
「……クリス様。お言葉ですが、クリス様が公爵に恋をされたのは確か五歳の時でしたよね?公爵は既にご結婚されていらっしゃいましたし、何より当時は三十代だったはず。クリス様と何かあるほうが問題です」
うるっさい。そんなの分かってんのよ。分かってても傷ついた女心は癒せないんだから仕方ないでしょ。
「でもジェレマイア様とは結婚の約束もしてたのよ。将来お嫁さんにしてくれるってはっきりと明言してたんだから。それなのに突然ヘレナ様と婚約なんて、知った時は胸が引き裂かれたかと思ったわ!」
「スタンリー侯爵のご婚約は確かパプリックスクールご卒業の年でしたから十八歳。ということはクリス様は十歳。……あり得ないでしょう」
「あら、八歳差の夫婦なんてごまんといるわ」
「それは大人同士ならばの話。では逆にお聞きしますが、クリス様は今のご年齢で九才、十歳の少年を恋愛対象として見ろと言われて見れますか?」
「見れるわけないでしょ。私は小児愛好家じゃないわよ、失礼ね」
「スタンリー侯爵も同じですよ」
「若い妻を持つのは男性の夢じゃない」
マリアは額に手を当てて天を仰いだ。
「クリス様……言ってることが滅茶苦茶です」
……分かってるわよ。分かってるけど……。
「だってすっごくショックだったのよ〜〜〜!!」
当時の苦い思いがこみ上げてきて、私は再びワッとティーテーブルに突っ伏した。
つまるところ、エヴァンの気持ちを信じられないのは“ウィンター家の男”だからかもしれない。
テーブルに突っ伏しながら過去の失恋に打ちのめされていると、部屋の扉が控えめにノックされた。
「「姉さん、ちょっといい?」」
マリアが開けた扉から双子がひょっこり顔を出した。顔を出したといっても相変わらず着ているローブで顔面は隠されているんだけど。
「なあに、遠慮がちに。入りなさいよ」
双子を促してテーブルを囲わせる。マリアがすぐに双子の紅茶の用意を始めた。
「どうしたの?」
「うん、あのね」
「エヴァン兄さんの事なんだけど」
ドキッ!
いやいや、何よドキッて。
「姉さん、いつまでエヴァン兄さんと会わないつもり?」
「あれから十日以上経ってるけど」
部屋に入ってきた時の様子とは逆に容赦なく切り込まれた耳の痛い話題に、ヒクリと顔が強張ってしまった。
「な、ななな、なんのことかしら」
「とぼけても無駄だよ。プロポーズされてから今日まで、ずっと兄さんを避けてるじゃないか。あれから毎日来てるのに」
「今日だってヴィーに門を見張らせて兄さんを追い返させたんだろ。ヴィーは門番じゃないし、公爵家の人間に楯突くなんて真似させて可哀想じゃないか」
「馬小屋で泣いてたよ、ヴィー。『殺意を込めた目で睨まれて生きた心地がしませんでした』って」
「『エヴァン様に殺される』って毎日馬に呟いてるって馬番が心配してるんだ」
チッ。ヴィーの根性なしが。
「別にいいでしょ。エヴァンと会う約束なんかしてないんだから」
フンッとそっぽを向く。こうなったら開き直るのみである。
「約束なんか……エヴァン兄さんは姉さんの婚約者じゃないか」
「婚約者に追い返される男の気持ちを少しは考えてあげてよ」
アレンもイアンもやけにエヴァンの肩を持つ。どっちが実の兄姉か忘れてしまったのかしら。
「ひとつ訂正しておくけど、私とエヴァンはまだ正式に婚約したわけじゃないから」
貴族の婚約、ましてや五大公爵家の縁組となると色々と書面の取り交わしが必要なのだ。婚約しましょうそうしましょうとはいかない。今は形骸化してしまったとはいえ陛下の許可もいる。バート叔父様が舞踏会で発表してしまったものの、正式な婚約という意味ではまだ成立していないのだ。
「実質的には婚約したも同然じゃないか」
「そうだよ。ここで正式に婚約しなかったなんてことになったら、傷が大きいのは女性である姉さんの方なんだからね」
「それならそれで予定通り市井に下るまでよ。エヴァンが何を考えてるのか知らないけど、自分の思い通りになると考えてるなら大間違いだわ」
そうよ。大体エヴァンも叔父様も父様も、みんなして私の意思を無視して結婚させようなんて許せない。女がいつも男の言うことを聞くと思ったら大間違いだって教えてやるわ。
「そんな言い方はないよ。エヴァン兄さんだってちゃんとプロポーズしたじゃないか」
「あんな真摯なプロポーズをされて、姉さんは何とも思わないの?」
ーーー俺の側に在ると言ってくれないか。
「そ、そんなの好きでもない人にプロポーズされて思うわけないでしょ!」
あの時エヴァンの瞳は揺らめいていた。いつも皮肉気な笑みを浮かべて自信に満ち溢れた雰囲気を纏っているのに、あの時はまるで切ないような、不安そうな色を浮かべていたから、遠のく意識の中でもあの瞳だけは鮮明に記憶に刻み込まれてしまった。
あの揺らめくアンバーを思い出すと何故か私まで切なくなってしまう。だから私はあの色彩を振り切るように声を大きくして双子の言葉を否定した。
私の言葉に表情は見えないながら双子が不機嫌になったのが分かった。
「……素直じゃない」
「そんな態度を続けてると、そのうち兄さんの方から離れて行っちゃうからね」
「な、何よ。むしろ向こうから離れてくれるなら清々するわ」
「姉さん、それ本気で言ってるの?」
「プロポーズしてくれた相手にいくら何でもひどいじゃないか」
「本当に姉さんが嫌なら、追い返すなんて真似しないでせめてちゃんと断るべきだよ」
「門前払いなんて誠意のあるやり方とは思えない」
「う、うるさいわね!まだ社交界デビューもしてない子供が大人の事情に口出してくるもんじゃないわ!」
「……大人って。姉さんだってまだ十七歳。僕らとたったの四歳しか違わないじゃないか」
「姉さんのことが心配だから言ってるのに」
「……だから、そんなの余計なお世話よ!」
ユラリ。
アレンとイアンの周囲が一瞬陽炎のように揺らめいた。普段はコントロールしている魔力を思わず滲み出してしまうほど、双子は気分を害したらしい。
「そんなことばっかり言ってると本当に知らないよ。……アレン」
「うん。姉さん、これ。エヴァン兄さんだって引く手数多なんだ。そんな態度を続けてると愛想を尽かされるからね」
アレンが差し出してきたのは手に持っていたゴシップ誌。
「何よ、またこんなの……」
『エヴァン・セドリック・ウィンター卿、婚約後早くも浮気か!?お相手は以前にも噂のあったベーカー商会会長の娘、アシュリー・ベーカー嬢!』
私は持っていたカップを落とした。
「何よこれっ!!」
マリアに睨みつけられたが無視した。有能な侍女らしく本日二度目となる私の粗相をすぐに片付けてくれたが、わざとらしい溜息も忘れない。
「何って、見ての通りさ」
「ベーカーは貴族じゃないけど国一番の豪商だし、アシュリー嬢は気立てのいい美人さんだって有名だからね」
気立てのいい美人さん、という言葉に私は思わずカッとなった。
「信じられない!私にプロポーズした舌の根も乾かないうちに!!」
「そのプロポーズした相手から毎日門前払いをくらってるんだ、もしかしたら諦めたのかもね」
「むしろ兄さんに同情するよ。正式に求婚した相手にちゃんとした返事ももらえずに門前払いだなんて、酷い侮辱だもの」
アレンがポンと手を打った。
「そうか。今日は求婚取り消しの挨拶だったのかも」
「姉さんが会いたくないなら僕らが兄さんに言っといてあげるよ。気にせずアシュリー嬢と幸せになってねって」
双子の言葉に何故か腹の底から不快な気持ちがこみ上げてきて、その気持ちのままに怒鳴りつけた。
「言っといてあげるって……あんた達、私とエヴァンに結婚して欲しいんじゃないの!?」
「そうだったんだけどさ。姉さんが本気でエヴァン兄さんを嫌がってるみたいだから」
「僕らが兄さんにちゃんと断っておいてあげるよ。姉さんの代わりに」
「残念だけど、姉さんに望まない結婚をして欲しいとは思わないから」
「エヴァン兄さんが本当の義兄さんになってくれたらって思ってたけど、仕方ないよね」
双子は手の平を返したようにそんなことを言い始めた。
「でも断るなら急がないと。父さん達も止めないといけないし」
「そうだね。事は急を要する。今から行こう」
じゃあ、と言って双子は椅子から立ち上がると、扉に向かって体の向きを変えた。
「ま、待ちなさい!」
「「なあに?」」
双子が同時に振り返る。
「どうしたの?姉さん。何か困ることでもあるの?」
「エヴァン兄さんとの婚約が破談になれば清々するんでしょ?」
「……そ、それはそうだけど……!やっぱり私の口から断るべきだわ!」
私は自分でも訳のわからないまま焦って言葉を紡いだ。
「で、でもその前にアシュリー嬢のことははっきりさせるわよ!私にプロポーズしたくせに他の女にも手を出してるならただじゃおかないわ!」
両手を握りしめて力説した。
「姉さん、こんなのたかがゴシップ誌の記事じゃないか」
「大丈夫、エヴァン兄さんは浮気なんかするような人じゃないって」
双子は何故か急に優しげな声音でエヴァンの浮気説を否定した。
「あんた達が見せてきた記事でしょ!」
否定されるとますます怪しい気がしてくる。是が非でもエヴァンの浮気の真相を解明しなければ、という気持ちがムクムクと湧き上がってきた。
「それに、もし浮気をしてたって素直に白状する男なんていないよ」
「そうそう。だから聞くだけ無駄だって」
「……誰がエヴァンに聞くなんて言った?」
「「え?」」
私はすっくと立ち上がった。
「マリア、ヴィーを呼びなさい」
私の命令に、マリアは相変わらず嫌そうな顔をしながらも一礼して部屋を出て行った。
「何なのさ、突然ヴィーを呼び出すなんて」
「また何か無理難題を押しつける気じゃないだろうね?」
双子の戸惑いを含んだ言葉に、私は不敵な笑みを返した。
「無理難題なんか命じないわよ。むしろヴィーの得意分野だわ」
「何?ヴィーの得意分野って」
「嫌な予感しかしないんだけど……」
私は息を吸い込むと高らかに言い放った。
「決まってるじゃない!浮気調査よ!!」
「「浮気調査!?」」
双子が素っ頓狂な声を出す。二人の声を聞きながら、私はフフフと笑った。
「ヴィーは元ルノア国軍諜報部員。尾行や情報収集は専門分野のはずよ!」
どーんと胸を張る。
私ってば、なんて冴えてるのかしら!
「ちょ、馬鹿な真似はやめなよ、姉さん!」
「エヴァン兄さんは国一番の魔導騎士だよ。ヴィーじゃ太刀打ちできないって!」
双子が慌てて止めに入る。
「何も戦えなんて言ってないわ。むしろ対峙しては尾行にならないじゃない。ヴィーには隠れてエヴァンの浮気を調べてもらうの。元諜報部員で存在感の薄いヴィーにはうってつけの任務だわ!」
自分の思いつきに満足する。双子がまだ何か言っているが、もう耳には入らない。脳裏にはいつもの皮肉げなエヴァンの顔。
待ってなさい、エヴァン!あんたの浮気、白日の元にさらけ出してやるわ!!