生涯貴女を守ると誓う
「おめでとう、姉さん」
「お幸せにね、姉さん」
「……なんですって?」
部屋に入ってくるなりそう言ってきたアレンとイアンに、私はピクリと眉を動かした。
舞踏会の翌日。窓の外の晴れやかな青空とは裏腹に、私の心には嵐が吹き荒れている。昨夜は帰宅してからも衝撃と混乱でなかなか寝付けず、目の下にはしっかりとクマができていた。
「何って、昨日の舞踏会のことだよ」
「エヴァン兄さんと婚約したんでしょ?」
「してないわよ!!」
思わず立ち上がって反論する。目の前の双子をギロリと睨めつけた。
「あんた達、舞踏会にいなかった癖にどこからそんな情報を……」
「今頃王都中の話題さ」
「はいこれ」
アレンが持っていたゴシップ誌をすかさず差し出した。『速報!ルノア国きっての色男エヴァン・セドリック・ウィンター卿とお騒がせ娘クリスティーナ・スティラート公爵令嬢がなんと婚約を発表!』とのタイトルが一面をデカデカと飾っている。
失礼な内容はさておき、あまりに早い情報に紙を持つ手がワナワナと震えた。
「……こんなのたかがゴシップ誌じゃない。信憑性にかける…」
「はい、こっちも」
次いでイアンから渡されたものが高級紙と見てとって、今度こそ私は顔面蒼白になった。
『昨夜開かれたウィンター公爵家主催の舞踏会で、当公爵家次男で魔導騎士のエヴァン・セドリック・ウィンター卿とスティラート公爵家長女のクリスティーナ・スティラート公爵令嬢の婚約がウィンター公爵の名で発表された。舞踏会に出席した招待客によると、公爵自身も突然の決定と認めており、書面の取り交わしや正式な婚姻時期などの詳細は不明。五大公爵家の婚姻は陛下の許可を必要とするが、これは昨今形式的なものとなっており、実質は許可ではなく報告の形となっている。そのため両家の婚姻はほぼ確定的と思われる。』
私はフラフラと椅子に崩れ落ちた。
「何これ……。何でこんなに情報が早いのよ……」
ゴシップ誌で騒がれるのと、高級紙ーーークオリティ・ペーパーに掲載されるのとでは信憑性がまるで違う。これで世間では私とエヴァンの婚約が確定事項となってしまったも同然だ。
私は頭を抱えた。
予定では噂程度のはずが、これはさすがに行き過ぎである。
「エヴァン兄さんが本当の義兄さんになるのかぁ」
「楽しみだなぁ」
ローブのせいで相変わらず表情は見えないが、双子の声はウキウキと弾んでいる。二人とも昔からエヴァンに懐いていたせいか、不満どころか大歓迎といった様子だ。驚いている素振りすらない。
「兄さん今頃喜んでるだろうな」
「念願叶って、ってやつだもんね」
え?
「ちょっと。念願叶ってって、それはどういう」
こと?と聞く前に、部屋の扉が開い勢いよく開かれた。
「クリス!!エヴァンと婚約したというのは本当か!?」
泡を食って駆け込んできたのはスティラート公爵家当主。つまり私と双子の父である。
薄くなってきた飴色の髪を振り乱しながら大股で近づいてくると、ガシッと私の両腕を掴んで揺さぶった。その拍子に父様が持っていた紙がハラリと床に落ちた。
「エヴァンとそんな関係だったなんて私は聞いてないぞ!」
「父様、腕痛い!やっ、ちょっと汚い!唾飛ばさないでよ!」
慌てて腕を振りほどいて椅子から立ち上がった。数歩後ずさって距離を取り、背筋を伸ばして正面から対峙する。
父様は榛色の目を血走らせてプルプルと震えていた。普段ののほほんとした様子が嘘のようだ。
そりゃそうだろう。父親の許可もなく与り知らないところで娘の婚約が勝手に発表されたのだ。こんなんでも由緒正しき五大公爵家の当主。普通ならば考えられない出来事だ。
父様ってばそんなにショックだったのね。私は誤解を解いて安心させてあげようと口を開いた。
「あのね、父様。これは間違い…」
「でかした!!!」
しかし私の言葉は父様の雄叫びに掻き消された。
「そうかそうか!まさかエヴァンと!いやしかし考えてみればエヴァン以上に理想の婿はいないじゃないか。私としたしたことが全く気づかなかった。なんせあまりに幼い頃から一緒にいて兄妹のようだったし、お前達ときたら二人の間に男女の色気なんかこれっぽっちも感じさせなかったからな。完全に婿候補から除外していた。そうか、しかしまさかエヴァンとは。クリス、私は嬉しいぞ!」
「ちょ、違うのよ父様。これはね……」
しかし有頂天になっている父様は止まらない。昨日のミランダ様と同じようなことを言っている。
「いつまでも結婚は嫌だの庶民に紛れて暮らすだの子供みたいに駄々を捏ねていたお前も、その実ちゃんと考えてくれていたのだな!さすがスティラート家の人間だ!父は嬉しい、嬉しいぞ!!」
そして再び距離を縮めて私の手を取ると、興奮のままにブンブンと上下に振り回した。もう目がキッラキラ。子供の様にはしゃいでいる。
よほど私のことで心労が溜まっていたんだろう。身に覚えは十二分にあるものの、父様のあまりの喜びように二の句が継げなくなってしまった。
私が若干引きつつ呆気にとられていると、イアンが父様が落とした紙を拾い上げた。
「『親愛なる友、ノーマンへ。私達の関係はどうやら親友から親類へと変わるようだ。私達の愛する子供達、エヴァンとクリスが婚約した。突然のことで驚いていることだろう。実のところ私もまだ夢を見ているようなんだ。私にとっても突然の出来事だったからね。しかし善は急げ。昨夜の舞踏会で私の口から発表したので程なく君のところにも噂が届くだろう。君の許可なく勝手に発表してしまったことは申し訳なく思う。ただ断じて君を軽んじた訳ではないと信じてほしい。君は決して反対はしないだろうと確信したからこその行動だ。いや、反対どころか共に喜んでくれるだろう?こんなに嬉しいことはないじゃないか。早く君と酒を酌み交わしながら喜びを分かち合いたいよ。とにかくこうなれば早々に正式な手続きに取り掛かりたい。まずは一度会って話をしたいので君の都合を聞かせてもらえないか?取り急ぎ報告まで。バート』」
「バート叔父さんからの手紙だね。さすが動きが早いなぁ」
「これアレン。人の手紙を勝手に読むんじゃない」
注意しながらも顔は相変わらず嬉しそうに笑み崩れているため、威厳は全くない。
「イアンよ、父様」
読み上げられた手紙の内容に半ば呆然としながらも、無意識に父様の間違いを訂正した。父様は親の癖にしばしば双子を取り違えるのだ。
それにしても何なの、この状況。
エヴァンてば、叔父様達にちゃんと言っておいてくれたんじゃないの!?
急転直下、坂道を転がるどころか崖から突き落とされた気分よ。どんどん事態が悪化してるじゃないの。
父様も父様だ。知らないところで娘の婚約が取り沙汰されて手放しで喜ぶ父親がどこにいるのよ。
浮かれて今にも踊り出しそうな父様に向かい、私は公爵家当主の威厳を思い出させることにした。
「父様、喜んでる場合じゃないでしょ。私達の名誉が傷つけられたのよ、分かってる?我が家は由緒正しき公爵家、父様はその当主でしょ。公爵家の娘と婚約するのに、当主である父様の許可を取らないなんてとんでもないわ!私だって求婚された覚えはないんだからね」
「それは聞き捨てならないな」
「「エヴァン!!」
父様と声がはもった。しかし一方は喜色満面、もう一方は怒気を孕むという正反対の声色である。
今一番見たくない顔が部屋に入ってきた。こいつは性懲りもなく勝手に入ってきて……。そもそもうちの家人達は何をやっているのよ。主家の娘の部屋に許可もなく男を通すなんて!
しかし当主である父様が全く問題に感じている節がないどころか、抱きつかんばかりの勢いでエヴァンに近くと鍛え上げられた彼の肩や腕をバシバシと叩きはじめた。
「エヴァン!こいつめ!水臭いじゃないか」
わっはっはと笑いながらご機嫌な様子でエヴァンを歓迎している。
その姿を見て、私はとうとう怒りが爆発した。
「父様!だから喜んでる場合じゃないでしょっ!」
怒鳴りつけると、今度はエヴァンを怒りを込めて睨みつけた。
「エヴァン、あんた今どんな状況になってるか知ってるの!?」
「状況って?」
相変わらず人の悪げな笑みを浮かべながら、スルリと父様の傍らを通り抜けて近づいてくる。
「ああ、そういえば今朝の新聞にティーナと俺の婚約の記事が載ってたな。朝から親父達も結婚の準備だなんだって大騒ぎしてたが、もしかしてそのことか?」
エヴァンは私の前で立ち止まると、楽しそうに目を細めて私を見下ろした。
何なの、こいつ。何が楽しいのか全く理解できない。
「知っててなんでそんなに余裕かましてるのよ!叔父様から父様に手紙が来てるのよ!エヴァン、あんたあれから叔父様にちゃんと話をしてくれたんじゃないの!?」
「話したぞ」
「じゃぁなんであんな手紙がくる「ティーナは俺が守るって言ったこととか」のよ」
被さってきたエヴァンの言葉を反芻してしばし固まった。
「……は?」
「ティーナも喜んで了承したって」
「……」
「だろ?」
「…………はぁぁぁぁ!!?」
『ティーナは俺が(今夜だけ)守る』『ティーナも(求婚を避けられるならと)喜んで(エヴァンに虫除けの役になってもらうのを)了承した』って意味でしょうが!?なんでわざわざ誤解を招くような言い方するのよ!
というか、ここまでくればどんな馬鹿でもさすがに気づく。こいつ、絶対わざとだ!一体何を考えてるのよ!!
信じられない裏切りに立ち尽くす私に、エヴァンは悪びれなく言い放った。
「嘘はついてないだろ?」
ふ、ふ、ふ、ふざけんなー!!!
よくもいけしゃあしゃあとそんなことが言えるわね!そんなの限りなく嘘に近いでしょうが!
エヴァンはあまりの怒りに立ち尽くす私に近づくと、やんわり私を抱きしめた。そしてやけにはっきりと言った。まるでギャラリーに言い聞かせるように。
「“約束通り”君を守るよ、ティーナ」
『生涯な』
耳元で小さく付け加えられた言葉に、私は怒りを通り越して完全に固まった。
そんな私をよそに、エヴァンはくるりと父様の方に向き直ると、恭しく腰を折った。
「ご挨拶が遅れまして申し訳ありません、公爵。本来ならば父君である公爵のお許しを得てからの所、順序も省みずに彼女と先に約束を。昨夜の彼女はあまりにも魅力的で、悠長に構えていては他の求婚者達に攫われてしまうと考えてしまったのです。たった今申し上げた通り、クリスティーナ嬢からは既に了承を頂いております。どうか私達の仲をお許し頂けないでしょうか」
エヴァンの言葉に、父様は感極まったのか大の大人が目を潤ませながらウンウンと頷いた。
「許すも何も、大歓迎に決まってるじゃないか!そんな他人行儀な挨拶なんかやめて顔を上げたまえ。君のことは生まれた時から知っているし、私にとっては元々息子のようなものだ!しかしまさか君がクリスのことをそこまで思ってくれているとは……。もっと早く話して欲しかったよ。であれば無駄な心配をせずに済んだというものだ」
「申し訳ありません」
「いやいや、いいんだいいんだ。結果良ければ全て良し。エヴァンほどクリスの婿としてピッタリの男はいない。このじゃじゃ馬娘の正体を全て知った上で貰ってくれる男など、そうそういないからな!」
父様、実の娘に対してあんまりにも失礼よ……。
「バートの言うとおり、こうなったからには善は急げだ。すぐに準備を進めなければ!」
そう言い放つと、捕まえた獲物を逃すまいと慌てて部屋を出て行った。バート叔父様に返信を書きに行ったのだろう。
消えた扉の向こうから「ひゃっほー」と声が聞こえた。
「父さん、相当浮かれてるね」
「うん。まさに有頂天だ」
「でもまあ、姉さんの婿探しは父さんの一番の悩みの種だったから」
「これで髪の毛の後退も少しは治るんじゃない?」
「そうだね。あの調子じゃ明日にでも結婚式を挙げそうな勢いだ」
「金にモノを言わせて最短で準備をすすめるだろうね、きっと」
双子の言葉に私はハッと我に返った。
「まずいわよ、エヴァン!父様を止めないと!!」
「なんで止める必要がある?」
「何でって、だってこのままだと私達、正式に婚約成立よ?結婚させられるのよ、私とエヴァンが!」
「ああ、そうだな」
「そうだなって……」
なんだか急に毒気を抜かれてヘナヘナとその場に座り込んだ。エヴァンの顔を見上げると、相変わらず余裕の笑みを浮かべている。
「エヴァン……、あなた一体何を考えているのよ。私を騙したの?」
「騙すなんて人聞きの悪い」
「だって、昨日からわざとみんなを誤解させるようなことばかり言ってるじゃない」
「でも、嘘はついてないだろ?」
エヴァンは私の前に屈み込むと、ひたと視線を合わせた。
「今日から俺がティーナの婚約者だな」
その言葉を聞いて、私は今まで思いもよらなかったひとつの可能性に突如気づいた。
「まさかあんた……スティラート公爵位を狙ってたの?」
自分の発した言葉に唇が震えた。よもやエヴァンが、という気持ちが強いが、よく考えればエヴァンも公爵家の生まれとはいえ次男ーーーつまり『スペア』である。立場的には私の夫の座、スティラート公爵家当主の座を狙ってもおかしくはない。
その考えは、何故か鋭く私の胸を刺した。ジクリと胸が痛む。
エヴァンとは幼馴染みだ。普段喧嘩ばかりでも私が本当に嫌がることはしないとの信頼感があったのだろう。しかしーーー。
「お前、本当に馬鹿だな」
私の言葉をエヴァンはあっさりと否定した。そして大きく溜息をつく。
「俺の立場分かってる?俺は魔導騎士だぞ。公爵位なんか狙わなくても自力で出世するさ」
「でも、たとえ将軍まで登りつめたとしてもスティラート公爵の威光には遠く及ばないわ。歴史の重みが違うもの」
「人から貰った威光なんかに興味ねーよ。ましてや女の力を借りるなんて真っ平ごめんだね」
「……じゃあなんで私との婚約を否定しないのよ」
エヴァンは再び溜息をつくとガシガシと頭を掻いた。そのまま無造作に髪をぐしゃりと掴むと数秒押し黙った。
「……お前はほんとうに鈍いな」
「?」
どういう意味、と問いかける前に双子が口を挟んだ。
「ねえねえ、さっきから話を聞いてると、姉さんは婚約に了承したわけじゃないんだね?」
「姉さんがエヴァン兄さんの策略に嵌っちゃったってこと?」
策略?策略なの?この状況は。
「別に策略なんてご大層なもんをめぐらした訳じゃないぞ」
双子の問いかけに答えたのはエヴァンだった。
「ただ、こいつはあまりに鈍いし、いつまでたっても結婚はしないだの騒いでるし、挙句にスティラート公爵位につられた虫達がわんさか湧いて出てくるしで、こりゃあ呑気に構えてたらいつまで経っても状況は変わらないどころか、むしろ焦った公爵が強引にこいつの婚約を決めそうだったからな。とりあえず虫除けでもしとくかってんで一手仕掛けてみたら、あれよあれよという間にチェックメイトの一歩手前まで来ちまったって訳だ。俺は流れに乗っただけ」
「一歩手前なの?父さんの許可もとったし、叔父さんも喜んでるんでしょ?」
「ここまで来たらチェックメイトじゃないか」
「できれば最後はティーナの意思でチェックメイトの位置まで駒を進めて欲しいだろ?俺だって無理やりは不本意なんだ」
「でも、姉さんはそんな素直な人じゃないよ」
「そうそう、自分からガッチリと捕まえに行かなくちゃ」
双子が何やら不穏なアドバイスをしている。私は三人の会話を聞きながらますます混乱した。そして何とか頭の中の整理に努め、とにかく最も重要だと思われることをエヴァンに尋ねた。
「エヴァンは私と結婚することになっても本当にいいの?」
私の言葉に双子は同時に溜息をついた。
「姉さん……まだ分からないの?」
「自分の姉ながら鈍いにも程がある」
「でもエヴァン兄さんも悪いよ。姉さんが鈍いの分かっててこれまでハッキリと言わないできたから」
「昔から姉さんの前に出ると素直になれないから、兄さんは」
「「もうズバッと言っちゃいなよ」」
双子の声がハモった。
エヴァンは嫌そうに眉を顰めたが、何かを考えるようにこめかみを指でグリグリ押すと、再び私に目線を合わせた。
エヴァンの大きな手が肩に乗せられ、間近で見つめられる。肩に触れる熱がやけに気になる。アンバーに映る翠の瞳が不安そうに揺らめいていて、自分が緊張していることに気づいた。
どうしたのよ、私……。
「ティーナ、お前は俺と結婚するのは嫌か?」
嫌に決まってる。そう言いたいのに喉が乾燥して上手く言葉が出てこない。心臓が痛いほど脈打ち始めた。
私はゴクリと唾を飲み込んだ。
「そんなの……」
「俺はティーナと結婚したい」
ドクンッ!!
一際大きく胸が鳴った。
エヴァンはその場で姿勢を正すと、片膝をついて自分の左胸に手を当てた。
これは騎士の伝統的なポーズだ。そう、求婚する際の……。
エヴァンはじっと私を見つめ、普段は見せない真面目な顔で口を開いた。
「レディ・クリスティーナ・スティラート。生涯貴女を守ると誓う」
アンバーの輝きが強さを増した。
「どうか了承を」
そう言ってエヴァンは私の手を取った。
「俺の側に在ると言ってくれないか」
『生涯貴方の側に在る』ーー騎士からの求婚に対する、これも伝統的な了承の返事だ。
「ティーナ。……ティーナ?」
も、もうダメ……。
極度の緊張と驚き、それから自分でも驚くほどの恥ずかしさに見舞われ、私はエヴァンの声を遠くに聞きながらとうとう意識を手放した。