第1章:文歌 ――ふみか――(2)
己の背丈より遙かに高い本棚に囲まれた未来は、ぎっしりと並ぶ本の背表紙で題名を確認しては、違う、と次々視線を移す。
このフェーブル城内に歴史記念図書館が在ると聞いて、未来の足は自然とそこへ向かった。
訪れる者も滅多に無いらしく、図書館だというのに煙管をふかして退屈を紛らせていた司書に声をかけると、初老の彼は戦巫女の訪問に仰天しつつも喜んで、未来の質問に答えるよりも先に、いつの物かわからないお茶菓子を持ち出して話相手に引きずり込もうとした。
母方の祖父母と仲が良く、年上の者との会話にも慣れている未来だが、流石に今は彼の暇つぶしに付き合うよりも優先して、目的の物を見つけたい。丁重にお茶の誘いを断ると、司書は非常に残念そうに菓子を仕舞いながらも、未来の探し物がある位置を教えてくれた。
幾度か視線を上下左右させ、未来はようやく目的の本を見つけた。古びた革表紙の分厚い一冊を取り出す。歴代の戦巫女について編纂されたというその本は、二千年近く続いている戦巫女の歴史を示すがごとく、ずっしりと重い。表紙の角がはげ、あちこちのページに少し折れ曲がった痕があるのは、かつてこれを手にした誰かが床に落としでもしたのだろう。
初代から記された、フォルティア、ネーデブルグ、ステアの三国の戦巫女の歴史はヴィルム語で書かれていたが、難無く読めた。
ぱらぱらとページをめくれば、歴代の戦巫女についての情報が記されている。氏名、能力、その功績。読み進めてゆくうち、女神アリスタリアに選ばれたという彼女達の情報には、ある一定の法則がある事に気づいた。
名前の雰囲気からして、戦巫女は同じ時代には同じ国から召喚されるらしい。英語圏なら恐らくイギリスかアメリカか。第二次世界大戦前のドイツ、ソビエト連邦時代のロシアや、アフリカ系らしい名前もある。発揮した能力については十人十色だが、フォルティアの戦巫女は銀、ネーデブルグは黒、ステアは金色の武器を用いる事は変わらない。そして、それぞれの名前の最後には、「帰還」、「辞退」、あるいは「死亡」といった記述がされている。「辞退」や「死亡」した戦巫女の次の行には、代わりに召喚されたと思われる戦巫女の名前があった。戦巫女は、その時代の使命が果たされるまでは、何人でも呼び出されるという事なのだろうか。
すっかり真剣に読み込んでいた未来の手は、かなり後ろの方で止まった。とても馴染みのある、良く知っている名前を目にして。
『フォルティアを棄てた、いつぞやの王族のようにはなりません』
先程のファルスディーンの言葉が脳裏に蘇る。そういえば、父は遠い遠い国から来たのだと、母は昔からよく言っていた。あれは、まだ外国の概念を認識できない幼い自分達姉弟に、噛み砕いて説明したのだろうと思っていた。しかし、もしかしたら。そうすると、未来の世界では二十年前だった出来事が、こちらの世界では四百年も前の事象になる。
「探し物は見つかったようですね」
唖然とする未来の耳に、落ち着いた深い声が届く。顔を上げると、スティーヴの優しい笑みがそこにあった。
「読めましたか?」
「あ、はい、おかげさまで」
未来が応えると、騎士はその表情をますますやわらげる。素なのか意識してそうしているのか定かではないが、照れくさくて視線を逸らすと、彼は不思議そうに首を傾げた。
「あの」
このままだと沈黙に陥ってしまいそうだったので、未来は再びスティーヴに向き直った。
「何でしょう、戦巫女様?」
「それ、それです」
未来は眉根を寄せて言葉を継ぐ。
「『戦巫女様』なんて大層な呼ばれ方、私には似合いません。それに、スティーヴさんは私より年上でしょう。普通に話しかけてください」
スティーヴは未来の言う事が余程意外だったのか、目を丸くした。
「しかし戦巫女様は、フォルティアにとって尊きお方。我々騎士が敬意を払うのは当然の事です」
「私にとっては、年上の人が年下に敬語を使わないのが当然なんです。私、年上の人に敬語で話しかけられた経験なんて無いから、その、何だか、居心地悪くて……」
「成程。戦巫女様の世界の常識と我々の常識は、多少異なるようですね」
未来の言葉にスティーヴは顎に手をやり、何度か頷いた後、わかりました、と応じる。
「流石に公衆の面前では態度を崩せませんが、このように私的な場では、戦巫女様のお気が楽になるように努めましょう」
「未来でいいです、未来で」
「わかった。これでいいかな、未来ちゃん?」
いともあっさりと、スティーヴは口調を変えて片目をつむってみせた。順応性の高さは優秀な騎士である証なのだろうが、あまりの変わり身の早さに唖然としてしまう。
「その代わり未来ちゃんも、僕の事は『さん』づけ無しで呼んでくれるかな」
「は、はい、スティー……ヴ」
自分で頼み込んだとはいえ、男性に「ちゃん」づけで呼ばれるなど、元の世界では、六歳年上の従兄にくらいしか無かった。より一層顔を赤らめて下を向いてしまう。しかも弟以外で異性の名を呼び捨てにした経験など、未来の人生の記憶にはただの一度たりとも残っていない。心臓が早鐘を打っているのがわかる。
「と……っ、ところで」
何とか動揺を悟られないように話題を見出だそうとして、未来の口から飛び出したのは、互いが共通に知る人物の事だった。
「スティーヴとファルスディーン王子って仲が良さそうですよね。相手は王子様なのに呼び捨てにしているし」
するとスティーヴは、ああ、と応える。
「僕はファルの乳兄弟なんだよ」
「……ちきょ?」
「僕の母がファルの乳母なんだ。未来ちゃんの世界には、無いかな?」
乳兄弟と言う単語にはピンと来なかったが、乳母と言われてわかった。日本史や古典の授業で何度か聞いた事がある。
「まあ、それで僕が、ファルの護衛騎士に選ばれたようなものなんだけれどね」
スティーヴは肩をすくめてみせたが、すぐに真顔に戻ると、
「未来ちゃん」
改めて未来の名を呼んだ。
「ファルの事、あんまり嫌いにならないでやってくれるかな」
真意をはかりかねて未来が目をしばたたくと、彼は言った。
「さっき、『外見で損をした事も無い人が』って言ったよね。僕達は、未来ちゃんが元の世界でどんな経験をしてきたのか、まだ出会って二日だから知る由も無いけれど、ファルもあれで苦労しているんだ」
真っ直ぐに未来を見つめてスティーヴは続ける。
「フォルカ王を見ただろう? フォルティア王族は代々あの方のように、青い髪に金色の瞳をしているのが当たり前だったんだ。だが、ファルは」
言われて未来はファルスディーンの姿を思い返す。すぐに脳裏に描けるほど鮮やかな赤い髪と、印象の強い紫の瞳を。
「初代女王フェリシア様はファルと同じ容姿だったとも言われているけれど、フォルティア王族と言えば、イコール青い髪に金の瞳だったんだ。それで、先王……ファルの父君には、自分の子じゃないんじゃないかってかなり疎まれてね」
未来ははっと息を呑んだ。本の中やテレビでくらいしか知らないが、親に拒絶された子供がどんな孤独感を抱くかは、実体験が無くともある程度想像がつく。それに、容姿が原因で疎外される経験は、未来も嫌というほど味わってきたのだ。そこは共有できる。
「その先王が早くに亡くなった為に、ファルが成人する十八歳まではフォルカ様が代わりに王を務める、と決まったものの、そんな事情があるから、ファルを王太子として認めていない輩も多いんだよ」
それで先刻の違和感に納得がいった。ファルスディーンをいない者のように扱う臣下達の態度。ファルスディーンに、この城内での味方は決して多くはないのだ。そんな彼に、お互い知らなかったとはいえ酷い言葉をぶつけてしまった事を、未来は悔やむ。
「私」
うつむき、呟くように洩らす。
「彼に謝らないと」
「誰に謝るって?」
唐突にスティーヴ以外の声がしたので、未来はぎょっとして、目に見えるほどすくみあがってしまった。
ぎくしゃくと声の方を向けば、謝らねば、と言ったファルスディーン本人が怪訝そうに眉をひそめて立っている。スティーヴが密かに口の端を持ち上げている事から、彼は既に王太子の気配に気づいていたのだろう。意外に意地が悪い。
「まあ、いい」
未来の動揺にもスティーヴの含み笑いにも感づかないまま、ファルスディーンは告げた。
「出陣が決まった。ステアとネーデブルグと国境を共有するラプンデルに、魔物の群が攻めて来たという報告が届いた。討伐の遠征に、戦巫女、お前も同行してもらう」
「戦い……なの?」
未来の頬がぴきりとひきつった。昨日の魔物に襲われた体験を思い出す。群というからには、ああいうものが一匹や二匹では済まないはずだ。
だがファルスディーンは、こちらの怯えを予測していたかのようにすぐさま続ける。
「お前は後方にいればいい。戦は、我々フォルティア騎士団と、ネーデブルグから応援に来る戦巫女とで行う」
未来が金の瞳をみはると、王太子は紫の瞳をすっと細めて宣告する。
「フォルティアの戦巫女がいる、それだけで兵の士気は上がる。お前は、戦わない代わりに逃げもしなければ、それでいい」
それはつまり、名ばかりの、お飾りの戦巫女であれという事だ。やはり自分はこの世界でも、誰かにとっては邪魔で、役に立てないのか。
「出発は明朝になる。それまでに準備を整えておけ」
うなだれている間に、ファルスディーンはさっさと踵を返し、図書館を出て行く。
「……まったく、ファルも素直じゃない」
スティーヴの呟きに顔を上げると、王太子の背を見送っていた彼は苦笑を未来に向ける。
「人に優しくされた経験が少ないから、人に優しくするのが苦手なんだよ、ファルは。あれでも充分、彼なりに君を気遣ったんだ。できる限り君を戦から遠ざけたいとね」
それならばそう率直に言えば良いのに。何故、他人を介して通訳までしてもらわなければ、本心がわからないのだろうか。未来は少々呆れ、それから思い出した。
ファルスディーンに謝る機会を逸したと。