番外編2:漆黒に輝く翼(1)
『……こ……ま。……みこさま』
誰かが自分を呼んでいる。だが、自分の名前はふみこではない、ふみかだ。夢現の狭間で、芙美香はそう考えた。
花の大学一年生が、月曜一限に、一般教養の科目など選択するのではなかった。他に選びようは幾らでもあったのに、若さゆえ。週明け朝一でも勉強は出来るだろうと、半年前の自分は、入学したての昂揚する気分で意気込んでしまったのである。
初老の教授の淡々とした語り口は、大変有効な子守唄だ。受験戦争を共にした相棒である、お気に入りの薄緑のシャープペンシルを握ったまま、うつらうつらと舟をこぐのが、毎週のお決まりになりつつある。
『どうか呼びかけにお応えください、戦巫女様……!』
呼び声は、いち学生の居眠りを起こすにしてはやけに切実になりつつあった。それにその声は、幼い少女のそれに聞こえる。教授のものではない。
『――戦巫女様!』
みたび、今度は力強く呼ぶ声に、
「はいっ!?」
芙美香は思わずすっとんきょうな返事をしながら、がばりと顔を上げる。そして辺りを見渡して、そこがいつもの変哲無い教室ではない事に気がついた。
明々と火の灯る燭台に囲まれた台座の上に、彼女は立っていた。見上げる天井に大きくくりぬかれた天窓から見える空は、さっきまで確かに朝だったはずなのに既に暗く、現在の東京の夜空では決して見える事の無い明るい星々が顔を覗かせている。
そして視線をのろのろと前に向けて、芙美香は唖然とした。
そこで芙美香を熱い眼差しで見つめていたのは、まだ幼さを残している、茶色い巻き髪に灰色の瞳を持つ少女だった。しかもその格好は、まるでどこぞの中世の海外の王族がするような、白いドレス姿である。
何事だ?
シャープペンシルを握りしめたまま固まってしまう芙美香に、
「ああ、戦巫女様! わたくしの呼びかけに応えてくださって感謝いたしますわ!」
少女は歓喜を顔に満たしてがばりと飛びついて来た。
「……あー、待って。ちょっと待って」
シャープペンシルを、まるで指揮棒のように、しかし決して指揮をしている訳ではなく、ぶらぶらと振りながら、芙美香は視線を彷徨わせた。
「イクサ何だって? でもってここは何処?」
すると少女は芙美香から身を離し、こほんとひとつ咳払いして居ずまい正すと、スカートの裾をつまんで優雅な礼をした。
「嬉しさのあまりのご無礼、お許しくださいませ、戦巫女様。わたくしは、ネーデブルグの王妹、サフィニア・ニナ・ネーデブルグと申します」
ネーデブルグ。
咄嗟に、高校を卒業して以来すっかり離れてしまった地理知識を総動員して考えを巡らせ、そんな国は地球上に存在しないのではないかという結論に至る。それに確信を与えるように、サフィニア――本人が言うのが真実ならば、お姫様だ――が先を続けた。
「このネーデブルグは、貴女様が住む世界とは異なる地にございます。そしてこの地が危機に陥る時、女神アリスタリア様に選ばれし戦巫女様が、異世界よりご降臨されるという伝説があるのです」
サフィニアの灰色の瞳は真剣そのもので、とても嘘や冗談を言っているようには思えなかった。どうやら、テレビでよくあるドッキリ番組の類ではないらしい。
それでは夢だろうか。そうだ、自分は居眠りしていたのだから、その可能性は大いにありうる。芙美香は、手にしていたシャープペンシルを自分の腕に突き立てる。たちまち、ぷすりと小さな痛みが襲い来た。
夢ではないらしい。ぷわりと浮いてきた血の塊を見つめた後、視線をサフィニアに移すと、
「まああ! 戦巫女様、何て事を!」
彼女は慌てふためき、傷口にその白い手をかざす。そこからたちまち温かい光がこぼれた。痛みが引くのを感じて、芙美香は腕の血を拭ってみる。シャープペンシルで刺した傷は、跡形無く消えていた。
「回復魔法ですわ」
サフィニアが得意気に胸を張る。
「わたくしはこうして癒しの術を行使する事で、戦巫女様のお力になれると思います」
「はあ……」
生半可に返事をし、それから肝心な事に気がついて、芙美香は疑問を口にした。
「あのさ、さっきから戦巫女様戦巫女様言ってるけど、その、ネーデブルグの戦巫女が、あたしだと?」
「そうです」
サフィニアは朗らかな笑顔で応える。
「証拠は?」
「ネーデブルグ王族であるわたくしの呼びかけに応えてくださった、それが何よりの証拠にございます」
あまりに自信に満ちた、しかしこちらにとってはあまりにも根拠の無い回答に、芙美香は頭を抱えてしまう。だが、彼女の悩みなどサフィニアにはさしたる問題ではなかったらしい。ぽんと両手を打ち合わせ、それから芙美香の手を握りしめる。
「とにかく、戦巫女様。国王であるカーレオン兄様にお会いくださいませ。戦巫女様のご降臨を知れば、兄も大変喜ぶと思うのです!」
無邪気なサフィニアの笑みに半端に頷き返した芙美香は、姫にずるずると腕を引かれて、その場を後にするのであった。




