序章:御子 ――みこ――(2)
暖かく包み込む、色鮮やかな光。
いつの間にか失っていた意識を取り戻した時、未来の視界に最初に映り込んだのはそれだった。ステンドグラスの窓から差し込む陽光だと理解するには、更に何拍かを要した。
身を起こして辺りを見渡せば、そこはいつもの通学路ではない。横たわっていたのはひんやりとした大理石の床で、まるでどこか外国の神殿のようだ。かつて母がしてくれた昔話の城を彷彿させるが、一体ここはどこなのか。先程、自分達姉弟を呑み込んだ光の奔流は何だったのか。利久はどこにいるのだろう。様々な不安が未来の胸にかげりを落とす。
「戦巫女!」
そんな未来の考えを中断させたのは、昂揚に息を弾ませた少年の声だった。先程光の中で聞いた声に似ていると思いながら振り向き、未来は息を呑んだ。
声に違わぬ少年だった。背丈は未来より少しばかり高いだけだろう、決して大きくはない。どこか幼さを残す顔立ちは、もしかしたら未来より年下なのではないかという印象すら与える。
だが何より未来を驚かせたのは、その容姿。外国の王族が正装としてまとうだろう黒服――そう、まるで中世の騎士のような――に身を包んでいる。そして髪と瞳の色だ。少年は、未来が小さい頃よく見ていたテレビアニメの中くらいでしか目にした事が無い、燃えるような赤い髪と紫の瞳をしていた。
「さあ、行こう。まずは陛下に戦巫女降臨を報告しなければな」
少年は興奮冷めやらぬ様子で未来に手を差し伸べる。だが、未来はその手を取るどころか、後退りして震える声をしぼり出した。
「陛下? 戦巫女? 何言ってるんですか。ここはどこ? 利久は……弟は?」
未来の怯えきった様子に、少年は眉をひそめ身を乗り出してくる。
「戦巫女は戦巫女だ。ここはフォルティア。お前はフォルティアの危機を救う戦巫女に選ばれ、別の世界から俺が呼んだ」
「危機を救う? ……別の世界?」
未来の頭はいよいよ混乱していた。何の冗談だろう。誘拐されて悪意のゲームに無理矢理参加させられる話は、小説やドラマでは目にした事があるが、現実にそんな事が起こり得るのだろうか。
「とにかく、いつまでもここでぼうっとしている訳にもいかないだろう。行くぞ」
少年が多少の苛立ちを含めた声色を放って、未来の腕をつかもうとする。
「嫌!」
未来は反射的に叫んで伸ばされた手を振り払っていた。少年はしばし驚きに目を見開いた後、明らかに不機嫌さをたたえた視線で未来を見下ろす。
「ファル、そんな態度では戦巫女が怯えて当然ですよ」
気まずい空気が流れる間に、落ち着いた成人男性のやや低い声が投げかけられた。ファルと呼ばれた少年が憮然とした表情で振り返る先を見ると、神殿の入口から、焦茶の髪に深緑の瞳を持った背の高い青年が、長靴の音を響かせて入ってくる所であった。やはり彼も騎士然とした服装に身を包んでいる。
「我々は戦巫女の伝承を知っていても、召喚されたばかりの戦巫女は何もご存じないのですから」
青年は未来の前にやって来ると、それが至極当然な動作であるとばかりに優雅に膝をつき、未来に向けて頭を垂れた。
「ご無礼をお許しください、戦巫女様。彼はフォルティア王国第一王位継承者、ファルスディーン・ファルト・フォルティア。私はその護衛騎士筆頭、スティーヴ・マクソン」
穏やかな川の水のように流暢に青年は名乗り、まだ不愉快そうにそっぽを向いている少年の紹介までする。
「王子様……と騎士?」
「王子じゃない、王位継承者だ」
未来が目を見開くと、少年――ファルスディーンがそっけなく訂正する。それを少し困ったような表情で見やって、スティーヴが問うた。
「戦巫女様、あなたのお名前もお聞かせ願えますか?」
「未来……です、矢田未来」
未来はつい応えてしまったが、すぐに湧いて出た疑問を口にする。
「あの、戦巫女って何なんですか。それにここはどこですか」
不安に駆られる未来をできるだけ安心させるように笑んで、スティーヴが答えた。
「このフォルティアは、あなたの住む世界とは異なる地。そしてこの地には古より、世界が危機に陥った時、女神アリスタリアに選ばれた三人の戦巫女が、フォルティア、ネーデブルグ、ステアの三国に降臨するという伝説があるのです」
「その、フォルティアの戦巫女が、私だと言うんですか」
「そうです」
信じられないとばかりに呟く未来の問いに、スティーヴはさらりと笑顔で即答した。日常でこんな男性の爽やかな笑みを前にしていたら、気恥ずかしさに心臓が高鳴っていただろう。だが今の未来は、全く別の要因で激しい動悸に襲われていた。
「人違いじゃ、ないですか」
未来は青年から視線を逸らし笑おうとした。しかし口元の笑みはひきつり、声もかすれ気味になる。
「私にそんな力はありません。ただの女子高生です。世界の危機を救うなんてそんな大それた事、できません」
「人違いなどではない」
ファルスディーンが唐突に声を荒げ、スティーヴを押し退けるように未来の前に立った。
「戦巫女は本来、各国の女王か王女が召喚する。だが、フォルティアには現在女子の王族がいない。だから俺が呼ぶしかなかった。それでもお前は俺の呼びかけに答えた。お前が戦巫女だ。女神アリスタリアの選定に間違いは無い」
「現在、この大陸は戦乱の渦中にあります。ステアのセルマリア女王が、フォルティアとネーデブルグに対して宣戦布告をしたのです」
笑みを消し、深刻な表情でスティーヴが告げる。
「ステアはいかなる手段を用いてか、世界にまとまり無く住んでいた魔物達を操り、侵攻を続けています。ネーデブルグには既に戦巫女が降臨し対抗を始めました。ステアにも、セルマリア女王に協力する戦巫女が現れたという噂もあります。我々フォルティアも早急にステアに立ち向かい、平穏を取り戻さねばならないのです」
「そんな、そんな事言われても、私は」
できない。そう言おうとした時だった。
がしゃあああん! と、ステンドグラスの窓があっけなく砕け散る。三人は同時に音の方を振り仰ぎ、ファルスディーンとスティーヴは腰に帯びていた剣――作り物ではない真剣だ――を抜き放ち、未来は二人の背後でひっと小さな悲鳴をあげて腰を抜かした。
硝子の破片を振り落としてゆっくりと身をもたげるのは、硬質そうな黒い皮膚と、背に一対の蝙蝠じみた翼を持つ、人よりふたまわりほど大きい、鳥人間のような怪物。利久がよくそういうゲームをするのを見ていたので、何と形容すれば良いのかわかる。
魔物、だ。
「フォルティアの戦巫女様が現れたと知って、早速抹殺に来たんですかね」
「戦え、戦巫女!」
スティーヴが呑気に、しかし瞳は油断無く魔物を見すえて言い、ファルスディーンが、剣先を敵に向けたまま叱咤してきた。
「……無理」
膝に力が入らず、へたりこんだまま未来は後退る。
「無理な訳があるか。お前は戦巫女だ、その力を見せてみろ!」
「無茶な事言わないで! 無理なものは無理なの!」
二人が問答している間に、魔物は黒板を引っかくような気色悪い奇声をあげて、飛びかかってきた。ファルスディーンとスティーヴが斬りかかる。魔物はそれをさらりとかわし、宙へ飛び上がると、真っすぐに未来目がけて急降下してきた。
「きゃああああっ!」
未来は悲鳴をあげ目を瞑る。しかし、その両手が有する鋭い爪に未来が切り裂かれる事は無かった。恐る恐る目を開ければ、黒服の背中が視界に入った。
「痛……っ!」
ファルスディーンだった。うずくまっておさえた右腕は、未来の代わりに魔物の攻撃を食らって血が流れ出し、ぽたぽたと床を赤く染めていく。昔、日曜大工をしていた父が脚立から落ちて、思い切り腕と膝をすりむいた事はあるが、こんな流血を見るのは未来にとって初めてだった。完全に硬直してしまう。
魔物は再度宙に浮き、呆然とする未来に襲いかかる。しかし、一人と一匹の間に割り込んだスティーヴが剣をひらめかせると、刃は吸い込まれるように魔物の脇腹に食い込む。スティーヴが気合を吐き一気に振り抜くと、魔物は腹の底に響くような声と黒い粒子を立ちのぼらせて消滅した。
剣を鞘に収めてふうと息をついたスティーヴは、ファルスディーンの傍らに膝をつき、負傷した彼の右腕を取る。
「戦巫女様、治療をできますか」
スティーヴはさも当たり前のように未来に声をかけた。
「歴代の戦巫女には、戦闘能力が無くとも回復能力に長けた方もおりました。あなたはそういう能力者なのかもしれません。いかがですか」
そう言われても、未来の中には何の力もわいてこない。ただ恐怖ばかりが心を支配し、どうすれば良いかも全くわからない。
「……そうですか」
スティーヴが残念そうに目を伏せ、
「何の力も持たない戦巫女かよ」
明らかに失望を含んだ声でファルスディーンが吐き捨てた。
「あてが外れたな」
その言葉は、魔物の爪よりも鋭く未来の胸をえぐる。
「ファル。戦巫女皆が皆、召喚されてすぐに能力に目覚めた訳ではありません。その言い方は失礼です」
スティーヴがかばう発言をしてくれたが、未来の耳にはその言葉も遠かった。
――あてが外れた――
自分はここでも邪魔なだけの人間なのだ。金色の瞳が潤んだが、流すまでの涙は無かった。泣くという感情はこれまでの人生でとうに麻痺していた。
「戦巫女様?」
怪訝そうに振り向くスティーヴの、つられるファルスディーンの顔が、ぐにゃりと歪む。視界がぶれる。
「おいっ!?」
ファルスディーンが、咄嗟に傷を負っていない左腕を伸ばして抱きとめた時には、未来の意識は既に黒の世界へと落ちていた。