第3章:離苦 ――りく――(2)
数日は、穏やかに過ぎた。利久はアルテムでの暮らしを受け入れつつあり、村人達も利久の存在を受け入れていた。
『戦巫女様』と呼ばれ、何もしないのも手持ち無沙汰だし身体もなまるので、何かを手伝おうと声をかければ、
「戦巫女様にこんな雑用をお任せする訳にゃあまいりません!」
の一点張りで断られてしまうのは、居心地が悪かったが。
村人から話を聞いてわかったのは、戦巫女とは、女神アリスタリアに選ばれた存在。この世界の危機に異世界から召喚され、フォルティア、ネーデブルグ、ステアの三国に一人ずつ降臨するという事。フォルティアの戦巫女は銀、ネーデブルグは黒、そしてステアは金の武器を操り、人並外れた能力を得る事。そして利久がステアの戦巫女らしいという事。ステアで男が戦巫女に選ばれるのはそう珍しくもない事。以上であった。
何にせよ、誰に声をかけても万事そんな調子なので、暇を持て余しぶらぶらと村の畦道を歩いていた利久は、向こうからやって来る少年に見覚えがあって、歩を止めた。
「お前、この間の」
魔物の襲撃があった時、野菜を手に必死に逃げようとしていた子供だった。その手の中には、あの日のように根菜やら葉物やらが一杯につまっている。
「あの時は、怪我無かったか?」
利久が問いかけると、戦巫女と普通に口をきいて良いものかどうか迷ったのだろう。少年はきょときょと視線を彷徨わせた後、こくりと頷いた。
「その野菜、お前も畑仕事するのか」
そのまま少年に並んで歩き出し、話しかけると、少年はそばかすだらけの顔を心無しか紅潮させながら答えた。
「いろんな人の畑を手伝って、野菜を分けてもらうんだ。うちは父ちゃんがいなくて、母ちゃんは身体が弱いし、弟や妹達はまだ小さいから、おれが働くしかない」
「そうか。その歳で偉いな」
利久が生まれ暮らした日本では、利久の歳ではまだ、芸能人にでもなるか、余程の事情が無い限り、働く事が許可されない。生活の全ては、十五年間親に頼りきりだったし、今後も大学を出て就職するまでは、脛をかじりっぱなしだろう。だから、こんな幼さで家族の為に働く少年に、素直に感嘆すると同時に、そこまでしなければ暮らしてゆけない境遇に、同情を抱かなかったと言えば嘘になる。
「俺、矢田利久」利久は名乗った。「お前は?」
「リック」
少年は短く答えた。
「リックか。同じような名前だな。俺達、似たもの同士だな」
だが、リックは何か思い詰めたように黙り込んでいる。利久が首を傾げて見ていると、
「あのさ、お願いがあるんだ」
少年は意を決して利久を見上げた。
「うちの母ちゃんの病気を治して欲しいんだ。今までの戦巫女様には、怪我や病気をあっという間に治せる人がいたんだって。利久様にも、できないかな?」
利久は面食らった。戦巫女の力を振るったのは、この村に来た最初の日だけ、しかも魔物を退ける攻撃的な力だけだった。戦巫女が癒しの力を持つなど初耳だ。
だが、不安と期待のないまぜになった表情で自分を見上げる少年を前にすると、できない、その一言では済ませられない。
「わかった」
利久は深くうなずいて請け合った。
「やれる限りの事はしてみる。だから、様なんてつけるなよ。『利久』でいい」
リックの顔がぱっと輝いた。今までより軽い足取りになって、利久を自分の家に連れて行き、招き入れる。
少年の家は、働く者が少年しかいないという言葉通り、貧しさが見て取られた。三人の弟妹達は痩せて、きっと実年齢は外見よりもう少し上なのだろうが、非常に幼く見える。
奥の部屋へ入ると、リックに良く似た面差しを持つが、不健康そうに痩せ細った女性がベッドの上に身を起こして、息子の帰りを待っていた。病弱な身でも戦巫女の噂は耳に届いているのだろう、見かけない顔である利久を戦巫女と認識して、慌ててベッドから降りようとするので、利久はそれを押しとどめた。
「母ちゃんの病気は、街に降りて薬を買えれば治るんだけど」
リックはそこで言葉を切る。金銭的にも、少年だけが働けるという状況的にも、それが叶わないのだと、暗に述べているのだろう。利久はリックの母親に近づき、右手を突き出して目を閉じてみた。
己の中の金色に問いかける。どうすれば良いかと。しかし戦巫女の力は何も応えてはくれない。突き上げる衝動に駆られて敵を葬ったのが夢幻かのようにしんと凪いで、微塵の揺らぎを見せない。
利久は長い間、内なる自分と向かい合っていた。しかし遂に、回復の能力は発現する事が無かった。
「……ごめんな」
利久は立ち上がりながらリックに詫びた。
「俺には駄目みたいだ」
「ううん。無理言ったのはおれだもの。ごめん」
少年は微かな笑みを浮かべて首を横に振った。が、その瞳に落胆の色が満ち満ちているのは、隠しようが無かった。