第3章:離苦 ――りく――(1)
照りつける太陽の光と、さらさら流れゆく水の音。利久が目を覚ました時、最初に目と耳に入って来たのは、それだった。
「おや、大丈夫かね、あんた」
山のような洗濯物の入った籠を抱えた、母と同じくらいの年齢――しかし利久の母は、実年齢より若く見られる時が多いのだが――と思しき女性が、心配そうに覗き込んでいる事で、利久は自分が川の浅瀬に大の字になって転がっているのに気づいた。
身を起こして見渡した景色は、全く見覚えの無い場所だった。自分は確かに、姉といつもの通学路を歩いていたはずだ。なのに今目の前に広がるのは、川と山野と、煙突から長閑に昼餉の仕度の煙が立ちのぼる、外国の山奥に有り得そうな村。自分に声をかけた女性もまるで、よくやるゲームの村人がしていそうな、日本人の服装ではない質素なそれをまとっている。
「あの、ここは」
ぽたぽたと髪からたれる雫と、身体に重くびっちり張りついてしまった学ランで、相当酷い外見になっているだろう。そう自覚しながらも、今の状況を把握するのが先だと思い、利久は身を起こしながら訊ねる。変な場所で倒れていた上に変な事を訊く、と思ったのだろう。女性は一瞬きょとんとした後、笑みを浮かべて答えた。
「ここはアルテム。ステア国辺境の、何も無い村だよ」
女性は何も訊かずに利久を家に招き入れ、頭からずぶ濡れの利久に、よく乾いたタオルと着替えを用意し、食事まで与えてくれた。温かいパンと芋の食感が舌に心地良いポタージュを口にする間に、利久は理解しようと努める。
通学路で、女の声を聞いたと思った途端、光の奔流に飲み込まれた。にわかには信じがたいものの、恐らくそれでどこか知らない土地に飛ばされたのだろう。地理はあまり得意ではない利久だが、少なくとも、地球上でステア国のアルテム村など、存在を聞いた事が無い。
戦巫女。謎の声はそう言った。もしかしたら姉の事を指したのかもしれないとも思ってみるが、あの声は間違い無く自分に向けられていた。根拠はどこにも無いが、その確信が利久の胸の内に生まれる。
とにかく、共に巻き込まれたはずの姉未来を探し出して、元の世界に帰らなければ。しかしその前に、腹が減っては戦はできぬ。出された食事の残りを一気にかき込んだ時だった。
「魔物だ、魔物の襲撃だぞ!」
がんがんがん、と警鐘を鳴らす音に、利久を招いた家の者達はびくりと身をすくめ、部屋の片隅に固まった。利久は彼らとは逆方向、窓際に駆け寄り、外の様子を見やる。魔物など空想の中の話だ。利久の心中では、実感の湧かない恐怖より興味の方が勝った。
利久の目に、大鷲のような翼を持つ異形の姿が映った。村の男達が、剣や斧を振り回して対抗しているが、空を飛び回る魔物に対して有効とは思えない。空中から急降下した魔物の爪に斬り裂かれて、一人が血の尾を引いて倒れた。
息を呑む利久はそこで、戦いの場から必死に駆けて離れようとする小さい影を見つけた。十歳くらいの少年だ。畑から掘り出したばかりだろう土まみれの野菜を両の腕に抱えて、懸命に走っていたが、足をもつれさせて転ぶ。その手から野菜がばらばらとこぼれて、無残に砕ける。そこを魔物が見逃すはずが無かった。
「ちょっとあんた、何する気だい!? 危ないよ!」
利久は、家の者が制止するのも構わず、窓枠を乗り越えて飛び出していた。サッカーで鍛えた足は伊達ではない。あっという間に子供と魔物の間に入り込み、振り下ろされた腕をがしりとつかんで止めた。しかし相手は利久の予想を遙かに上回る力で、ぐぐ、と押してくる。いくら体力に自信のある男子といえど、利久はまだ中学生だ。腕力にも限界がある。
力があれば。利久は強く念じた。こんな魔物くらい、簡単に吹き飛ばせる力があれば。
すると。
『ならば与えよう、戦巫女。歪んだ世界を正しき方向に導くように』
頭に直接響く、女の――先程の、畏怖を与える女のものではない少女らしき――声が聞こえ、利久の中に突き上げるような衝動がこみ上げてきた。
雄叫びと同時、利久は腕に力を込める。それまで圧されていたのが嘘のように、利久は魔物の腕を押し返し、そのまま投げ飛ばした。
少年や村人達があっけに取られる目の前で、利久は両の手に意識を集中させる。身の内に満ちる金色の光を感じ、やがてそれは、利久の手の中でひとつの形を取った。金色に輝く、通常より一回り小さい、二槍流で振り回すにはうってつけの二条の槍だ。
武器など振るった事の無い利久だが、どう扱えば良いかという思考より先に、身体が勝手に動いた。右手の槍で魔物の翼を引き裂き、左の槍で心臓があるだろう位置を貫く。魔物は断末魔の叫びをあげながら、黒い粒子をまき散らして消滅した。
利久はぎんと残りの魔物達を睨みつけた。怯えるという感情が魔物にあるかなど、知らない。だが、魔物達は確かに一瞬たじろいだ後、自棄気味にも聞こえる咆哮をあげて、利久目がけて殺到した。
利久は槍を振るうだけで良かった。魔物は続々と黒の粒子に還る。かろうじて利久の修羅のような連撃から逃れた連中が、翼を翻して空中へ逃げる。
逃がさない。
そう念じるだけで、どうすれば良いかわかる。利久は地を蹴って、人間離れした跳躍力で当たり前のように飛んだ。何も無い空中を蹴り、鮮やかに舞うと、次々に魔物を屠った。
やがて、魔物が全滅したのを見届けて、利久は地上に降り立つ。これだけ、サッカーの練習並に動き回れば、大量に汗をかいて呼吸も苦しくなるものだが、今の利久は息ひとつ乱れていない。
金色の槍を手に、己の身に起きた大きな変貌を、今更驚きをもって受け止める利久の耳に、村人達の驚愕に満ちた声が届いた。
「金色の武器……。戦巫女だ」
「ステアの、戦巫女様だ」
振り返ると、いつの間にか村人達が家から出て来て集まり、利久の足元にひざまづいている。利久は更に当惑するしか無かった。