第2章:侵攻 ――しんこう――(4)
どさりと音を立てて、虎に似た魔物が血の尾を引いて床に倒れ、たちまち黒い粒子になって消え失せた。
「魔物が入り込んでいるとは聞いていましたが」
スティーヴが剣についた血を振り払うと。
「いや、これはちょっと思っていた以上かもね」
芙美香もうそぶきながら黒の長剣を鞘に収めて、自分達が通って来た道を振り返った。命を失うと粒子に還る魔物の死体が残る事は無いが、飛び散った血の跡や爪が抉った壁の疵は残る。そこからわかる、ここまで相手にした数は、一体や二体どころではない。
「ファルと未来ちゃんは大丈夫ですかね」
スティーヴは、この場にいない主人達の身を案じる言葉をこぼしたが、芙美香からはあっけらかんとした言葉が返って来る。
「言うほど心配してないでしょ。未来ちゃんは何だかんだで強いし、あの王子様もあれで結構面倒見良さそうだもんね」
「まあ、その通りですね」
しれっと応えると、芙美香がにいっと笑ってスティーヴの胸を拳で小突いた。
「いいよ、そんなかしこまらなくて。あんた、本当はそんな柄じゃないでしょ」
スティーヴは一瞬面食らったが、やがて口の端を持ち上げて芙美香を見つめ返す。
「未来ちゃんは、そちらの世界では年上が年下に敬語を使わないのが普通だと言っていたけれど、年下が年上に敬意を払わないのも常識なのかな」
「未来ちゃんは優等生だからね、そういう事言いそうだねえ」
芙美香はころころと笑い、スティーヴの肩を叩く。
「まあ、あたしはそんな優秀な戦巫女じゃないから。未来ちゃんが羨ましいくらいだから」
「そうなのか?」
スティーヴが訊ねると、芙美香は黒の瞳を悪戯っぽく輝かせ、冗談じみて。
「だってネーデブルグは、お姫様はあんな痛い子だし、王様はもっと痛い人だし。いっそステアに寝返ってやろうかと思うくらいよ」
「ネーデブルグの戦巫女の台詞とは思えないな」
「同情してくれる?」
手を組んで媚びるように顔を覗き込む芙美香に、スティーヴは苦笑を返す。
「同情でいいのかい?」
「やっぱり、やだな」
言いながら、新手の気配を感じ取り、芙美香は黒の長剣を抜いた。
「どうせ異性からもらうなら、同情より愛情の方がいいかも」
「君とは気が合いそうだな」
スティーヴも笑みを浮かべながら剣を構える。
「僕も女性に与えるならその方がいい」
そうして二人同時に、奥からやって来る魔物の群に、斬りかかってゆくのだった。
「動きを止めて!」
未来の言葉に従い、銀色の光がサイの肥大化したような魔物を取り巻き、その動きを封じる。腹の底まで響く唸りを洩らす灰色の巨体にファルスディーンが駆け上り、脳天に刃をめり込ませた。彼が剣を引き抜いて飛び降りると、魔物は断末魔の声をあげて横様に倒れ、びくびくと痙攣していたが、やがて黒い粒子と化して消えた。
「入り込んでいる魔物が思っていたより多いな」
頬についた返り血を拭いながら、ファルスディーンがこれまでに倒して来た魔物の数を振り返る。
「芙美香さんとスティーヴは大丈夫かな」
期せずして、未来はスティーヴがそうしたように、ここにいない相手を気遣う言葉を吐く。すると、ファルスディーンが背を向けたまま無愛想に答えた。
「あの二人なら心配要らん。芙美香殿は戦巫女として戦い慣れているし、スティーヴは俺の護衛筆頭だ。その辺の魔物に後れを取る訳が無い」
そうして、未来をじろりと振り返る。
「それより問題はお前だ。何も無い所で足を踏み外したりして、俺に迷惑をかけそうだ」
「何それ、ひどい言いがかり!」
言い返した途端、本当に未来の足元がずるりと滑った。今相手にした魔物のせいで柵が壊れ、道が崩れかけていたのだ。そのまま一階層下まで何も遮る物の無い空間を落ちて行きそうになったが、すんでの所で力強い腕に抱きとめられる。
「だから言っただろう、馬鹿者」
ファルスディーンの呆れきった声が耳元で聞こえた。
「この高さから落ちたら、戦巫女といえどただでは済まないぞ」
言っている事は至極正論なのだが、ファルスディーンの顔がこちらの頬に息が触れる距離にあって、支える腕は想像以上に逞しく、未来の心臓は何故かどきどきと激しく脈打つ。
「ご、ごめんなさい」
咄嗟にその一言しか出て来なかった。ファルスディーンは安全な場所に未来を立たせると、腕を解いて、眉間に皺を寄せた。
「お前は謝るしか能が無いのか?」
意味を理解しかねて未来がぽかんとすると、王太子は、はあ、とわざとらしく息をつく。
「ラプンデルの時も思った。『ごめんなさい』じゃなくて、他の言い方があるだろう」
未来はしばらく、彼の言葉の意味を探して当惑した。が、やがて思い当たると、恐る恐るその台詞を口に出す。
「あ。ありがとう、助けてくれて」
すると。
「そうだ」
ファルスディーンが満足そうに口元を緩めた。初めて見る笑顔に未来が驚いた表情を見せると、たちまちそれは消えて仏頂面になったが。
「何だ。俺の顔に何かついているのか」
「ううん、ファルスディーン王子がそんな顔をするところ、初めて見たから、びっくりしちゃって」
「そうか?」
ファルスディーンは首を傾げ、それから未来に向けてびっと人差し指を突きつける。
「そうだ。お前、その呼び方はやめろ。俺は王子じゃないと言っているだろう」
「え、じゃあ、ファルス……ディーン?」
未来がおずおず呼び捨てにすると、ファルスディーンはそれでもまだ不服だとばかりに首を横に振り、すぱりと言い切った。
「ファルでいい」
途端、未来は沸騰したように顔を赤くした。『王子』から急に愛称への切り替えなど、とんだ飛躍だ。異性は、弟の利久以外、好きなアイドルすらあだ名で呼ぶ勇気の無かった未来には、相当な冒険だ。スティーヴの時でさえかなりの気力を振り絞ったというのに。
「……努力します……」
か細い声でそう洩らすと、ファルスディーンは怪訝そうな顔をしたが、それ以上何かを訊く事も無く、再び歩き出した。
基本的に脇道の無い通路を、しばらく二人共無言で進む。やがて、目の前に大きな鉄製の扉が現れた。
「恐らくここが最深部だろう」
扉に手をかけ、ファルスディーンが振り返る。
「準備はいいな。何が出ても臆するなよ」
言われて未来は、緊張した面持ちでこくりと首を縦に振る。ファルスディーンは頷き返して、ゆっくりと扉を開き、次の瞬間、紫の瞳を見開いて未来に向け怒鳴った。
「――防御しろ!」
「防いで!」
訳がわからないまま、しかし即座に未来は自分の中の力に命じる。銀色の光が二人の前に壁を作った途端、紅蓮の炎が視界を覆った。対応していなかったら、ファルスディーンと揃って骨まで焼き尽くされていたに違い無い。未来は戦慄し、炎を放った相手を扉の向こうに見つけて、更に息を呑んだ。
深緑の鱗に覆われた巨体。鳥の羽のような翼を広げ、二又の尻尾が苛立たしげに床を叩く。赤い瞳が爛々と光り、ずらりと鋭い牙の並んだ口から、ふしゅるるるう……と荒い息が洩れている。
竜。
その単語が未来の脳内で形成されると同時、竜は一声吼えて再び炎を吐き出した。銀色の光がそれを防ぐが、このままでは、進む事も戻る事もままならない。
しかし、炎が途切れた合間を縫って、剣を抜き放ったファルスディーンが駆け出した。竜が、それひとつひとつが剣呑な刃であるような爪を持つ腕を振りかざす。
「守って!」
未来の言葉に銀の光は応えた。ファルスディーン目がけて振り下ろされた爪は、きん、と甲高い音と共に弾かれる。己の腕が小さな人間を叩き潰すと思っていたのだろう、予定外の反応にわずかに怯む竜の腕に、ファルスディーンは斬りつけた。剣は、浅いが確実に竜の鱗の合間を突いて、傷を作った。
「ファル、ご無事ですか」
「未来ちゃん、お待たせ!」
背後から飛んで来た声に振り向くと、スティーヴと芙美香が、それぞれの武器を構えて走って来る所だった。合流した二人も、部屋の奥に竜の姿を見とめると、すぐに戦線に加わる。
「皆を守って」
未来の言葉で彼らは銀色の光に包まれる。炎も爪も牙も受けつけない防壁は、物理的には無敵だったが、相手は魔物の中でも特に生命力の高い竜だ。なかなか決定打を与えきれない。
芙美香が竜の頭に飛び乗り、右目に黒の長剣をめり込ませた。痛みに咆哮をあげてのけぞる竜から、踏みとどまれずに振り落とされる。強く叩きつけられる前にスティーヴが受け止めたものの、二人してごろごろと床を転がった。
傷を負わせる事がかなわないと学習したのだろうか、竜は、彼らを飲み込んでしまおうとばかりに、大きな口を開く。それが二人を捉える直前、赤い髪を翻してファルスディーンが駆けて来た。王太子は雄叫びをあげながら竜の口内に飛び込み、その奥に力一杯剣を突き立て、内側から喉を引き裂いた。
耳をつんざく絶叫が響き渡る。竜は血と共にファルスディーンを吐き出し、嗄れた声を洩らしながら天を仰いだが、やがて、どうと崩れ落ちて、とうとう動かなくなった。
未来はしばらく様子を見ていたが、もう攻撃は無いと確信を得ると銀の光を消して、ファルスディーンの元へ駆け寄った。
「大丈夫?」
「平気だ」
ファルスディーンは身を起こしながら応え、竜の血と唾液で汚れた自分の身体を見回す。
「だが、流石に気持ち悪いな。どこかで洗えないものか」
呑気とも取られる発言に未来は苦笑し、それから違和感に気づいて、倒れた竜の巨体を見上げた。
「この竜、どうして消えないのかな」
今までは、魔物は倒せば粒子と化して消えた。しかしこの竜は、赤黒い血を流し、死体をさらしたままである。あまり見ていて気分の良いものでもない。
「野生竜、だったのだろうな」
ファルスディーンが未来の疑問に答えた。
「魔族に属する竜と違い、野生で繁殖して、死んでも粒子にならない竜族がいる。恐らくこの竜だけは、ステアの置き土産では無く、ここに住み着いたものだったのだろう」
すると、スティーヴと共に竜の巨体の裏側へ回り込んでいた芙美香が、未来達を手招きで呼んだ。呼ばれるままに近づけば、一振りの剣が台座に突き立てられていた。柄には、色彩定まらぬ宝玉が埋め込まれ、刀身は、覗き込む四人の顔を鮮やかに映し出すほど輝く、黄金とも白銀ともつかぬ金属で造られている。
「これがグランシャリオか。確かに、秘剣の名に相応しい」
ファルスディーンが感慨を込めて呟き、台座から剣を引き抜く。剣は、王太子の手の中で、解き放たれた喜びを示すかのように、うぉん……と啼いた。
剣に関しては素人な未来にも、それがただならぬ力を秘めている事、通常の剣としても相当な威力を発揮するだろう事が、感じて取られる。これほどの剣なら、王城にいるだけのカーレオンより、前線に出ているファルスディーンが持っていた方がより有用なのではないだろうか。そんな不謹慎な事を考えた時、台座の後ろに何かの影を発見して、未来は首を伸ばした。
それは、木の枝や遺跡内の瓦礫を集めて作られた巣だった。そこに三つ、人間の頭大の、七色の殻を持つ卵が入っている。未来の心臓が跳ねる。それが誰のものであったのかを予感して。
「竜の、卵?」
続いて見つけた芙美香がぽつりと洩らす。それでファルスディーンとスティーヴも気づいたようだ。竜はステアとは関係無くここに住み着き、ステアの意志とは関係無く、ここで産んだ卵を守る為に、ネーデブルグの兵を襲っていたのだ。
「それを私達は、勝手に踏み込んで、殺してしまったの」
未来は竜の死骸を見上げて罪の意識に震えた。自分達は戦と無関係の命を奪い、続く命も台無しにしてしまったのだ。
「しかし、倒さねば、いつかはネーデブルグの兵が犠牲になっていたかもしれない。我々は確実にネーデブルグの民を守ったんだよ」
スティーヴが慰めるように声をかけてくれたが、昂ぶる心は収まらない。そこに追い打ちをかけるように、
「おお、流石は戦巫女様がた! このような凶悪な竜をも退治なさるとは!」
場の空気というものを全く読まない、喜色溢れる声が響いた。本当にのこのこ後をついて来たらしい、ネーデブルグの兵達が続々と踏み込んで来る。
「これは良い収穫になります。ファルスディーン様は急ぎアイゼンハースに戻り、グランシャリオを陛下にお届けください。我々は、こちらの始末をしてまいりますので」
隊長がそう告げると、兵達はたちまち竜の巨体に取り付き、鱗をはぎ、牙を折り始める。
「な、何をするの!?」
死んだ生命に対する陵辱とも取れる行為に未来は驚きの声をあげたが、彼らの手は止まらない。しまいには台座裏の卵を見つけて、次々とそれを割った。どろりとした中身が巣にこぼれる。
「野生竜の鱗や牙は、貴重な武具になる。また、卵の殻は、琥珀や貝に並ぶ高級な装飾品だ」
唖然とする未来の背後からファルスディーンが言い、唇をかみしめる。
「この世界の昔からの習慣だ。俺達に止める権利は無い」
それでも、未来の震えは止まらない。吐き気すら覚えて、その場にしゃがみこんでしまう。頬を、涙が伝った。元の世界で既に尽き果てて、もう流す事も無いと思っていた、涙だった。




