不思議の国のアリス
リアリストと寂しがり屋の話。
夢なんてもう見たくもない、思い出したくもない。
私は現実に抗うのに忙しいの。
*
「あんた、生き辛そうだね」
「余計なお世話よ」
廊下と教室を隔てる壁には窓がある。彼はその窓から教室にいる私を見下ろしていた。気が散って仕方がない。
最近よくこの男に絡まれる。私は勉強で忙しいのに、まるで邪魔するみたいに。
「高校受験が終わったばっかなのに、何をそんなに気が狂ったように勉強しているのさ」
「うるさいわね、どっか行ってよ」
何回突っぱねても、こいつは懲りずに寄ってきた。
確か、変わった苗字の人だったはず。それをもじって”ウサギ”とか呼ばれていた。いつも女を連れているチャラい奴。クラスが違うので、私は彼についてこのくらいしか知らない。
何の接点もないはずなのに、私は入学早々こいつに付き纏われている。でも彼が言うには、私たちは二年ほど前に会ったことがあるのだという。
「知らないわよ。人違いじゃないの?」
「まあ、覚えてないよね」
「だから、会ったことなんてないっての」
とにかく、こんな不良と一緒にいたら私まで悪い噂が立つ。そんなの、まっぴら御免だ。
「ねえアリスさん」
「その呼び方やめて!」
彼は、金切り声を浴びせられても気にする様子はなかった。
私の苗字も変わっている。少なくとも、同じ苗字の人に出会ったことは一度もない。その変わった苗字をもじられて、面白半分に”アリス”と呼ばれるのがすでに定着してしまった。迷惑な話だ。
「ちょっと気分転換しようよアリスさん」
ウサギは笑ってそう言う。そのスカした笑顔が憎たらしい。結局押し切られて、私は彼に連れられて学校の外に出てしまった。
ああこんなことしている間にも、時間は過ぎていく。
*
連れてこられたのは、小さな喫茶店だった。落ち着いた雰囲気のお洒落な内装。香ばしいコーヒーの匂い。奥にはピアノが一台置いてあった。
「あっ、ウサギじゃん」
店内に入った途端、カウンターに座っていた男性がこちらを振り返ってひらひらと手を振った。若い人だ。せいぜい二十代前半くらいに見える。
「こんにちは、洋一さん」
普通に手を振り返した彼に、私は唖然とする。誰にでもほいほい話しかける奴だとは思っていたけど、学校の外までとは。
だけど驚きはまだ終わらなかった。洋一さんとかいう人とウサギの周りに、また二、三人、人が寄ってくる。
「ウサギちゃん、今日も仕事?お疲れ様」
「ほれ、飴ちゃんやるよ」
「おや少年、可愛い子連れてんじゃん。その子誰?」
わしゃわしゃと頭を撫でられたり飴をもらったりしている彼を遠くから見ていた私に、突然、視線が集中する。わずかにたじろいで、私は数歩あとずさった。
「学校の友達」
ウサギが簡潔に答える。
「名前は?」
彼に群がっているうちの一人が聞いた。私が名乗るのを躊躇っていると、またウサギが代わりに答えてくれた。
「アリスさん」
「ちょっ、その呼び方やめろって……!」
「ええっ、ウサギちゃんがアリスを連れてきたって、それってあれみたいじゃない?」
私が反論する暇もなく、一人の女性が目を輝かせてぱんっ、と手のひらを合わせた。
「不思議の国のアリス!」
四人の男女の声が重なる。彼らは勝手にはしゃいで盛り上がっていた。私は完全に置いてけぼりだ。ウサギは涼しい顔をして、げんなりしている私には素知らぬ振りを通している。
「あ、こっちの自己紹介がまだだったね。あたしは沙織」
「さっき聞いたと思うけど、俺は洋一ね」
「私は梓。で、こっちのごついのが」
「浩介だ」
よろしくね、と言って沙織さんが私の手を握る。フレンドリーな人だ。私は戸惑い気味に「はあ」と返すことしかできなかった。
「君たち、少し声が大きいですよ」
はしゃぐ大人たちをやんわりと窘めたのは、カウンターの奥で食器を拭いていた初老の男性だった。
「ごめんねマスター」
「お詫びに今日の演奏は気合い入れてやりますよ」
お喋りを切り上げて彼らは椅子から立ち上がる。マスターと呼ばれた男性は、優しげな目を細くして微笑んでいた。
演奏。
その言葉は突然降って湧いてきた。私がついていけずにおろおろしていると、くい、と袖を引っ張られる。
「アリスさん、そこ座って聞きなよ」
ウサギだった。
私は大人しく、勧められた椅子に座り、彼を見上げる。視線に気がついた彼は、かすかに笑っただけで何も言わなかった。
そのときふと、あれ、と思う。この人、どっかで見たことある。
どこでだっけ?
もんもんと悩んでいると、不意にピアノの澄んだ音がきらめいた。その音に、一気に引き込まれる。気がつくと、彼らはそれぞれ配置について楽器を奏でていた。ピアノ、コントラバス、トランペット、サックス。それぞれの音が絡まり合って、一つの壮大な音楽を創り出す。
素人の私には、専門的なことは何もわからない。かっこいい感想も思いつかない。
ただ目の前に、きらきらと星が散っているみたいだった。流れるように奏でられる音楽に、さっきまでとはまるで違う真剣な表情に、息を呑む。彼らの世界に引きずり込まれる。
そんなことしかわからない。
だけどそれだけははっきりわかる。
演奏が終わると、店内にぱちぱちと拍手の波がさざめいた。そのとき私は、こんな小さな店なのに聴き手が意外に多かったことに気がついた。四人は拍手の真ん中で誇らしげに笑っている。
「す、すごかったです!」
カウンターの方に戻ってきた四人が「どうだった」と聞く前に、私はちょっと食い気味に感想を伝えた。
「あの、何がすごいかって聞かれたら具体的には言えないんですけど、でも」
途中から、自分でも何を言っているかわからなくなっていた。
「楽しかったです。聞けて良かった」
この感動を正確に伝える術を、私は持っていなかった。
だけど彼らには、それで十分伝わったらしい。嬉しそうに笑ってくれた。
「ありがと、アリスちゃん。私ら、演奏するの好きなんだ。もっと上手くなりたいから、たまーにこの喫茶店使わせてもらってんの」
沙織さんはにっこりと笑ってそう言い、それからこう付け加えた。
「飛び入りも歓迎だよ。アリスちゃんもやってみない?」
「や、私、楽器なんてできないんで……勉強しかやってこなかったから」
言いながら、私は俯いた。ぼんやりと明るい照明が足元に影を落とす。
私には何もない。空っぽだ。この人たちみたいに、自分の好きなことを貫き通す勇気も覚悟もない。さっきまでとは打って変わって、落ち込んだ様子で黙りこくってしまった私を、四人は心配そうに見つめた。
「……ようし、休憩済んだし、もう一曲やろうぜ」
「よし来た!」
洋一さんが言うと、梓さんが勢いよくそれに賛成した。浩介さんものそりと彼らの後に続く。沙織さんは優しく私の頭を撫でて、とびきりの笑顔を見せた。
「聞いてて、アリスちゃん。思いっきり明るいのをやるから!」
私がぽかんとしている間に、彼らは次の曲を奏で始める。それは本当に、明るい曲だった。泣きたくなるくらい。
「いい奴らでしょ」
こん、とカウンター席に座る私の手元に白いカップが置かれる。
「カフェラテ。あ、コーヒー飲めるよね?」
「の、飲めるけど……あんた何でそっちにいるの?」
飲み物を置いてくれたのはウサギだった。あろうことか彼は店の制服を着て、カウンターの向こう側にいた。
「ここ、俺のバイト先」
しれっとして、彼は簡潔に答える。目を剥いた私の前で、カップからふわりと湯気が浮いた。
*
演奏を楽しんでいたら時間はあっという間に過ぎていき、気がついたら辺りは暗くなっていた。慌てて帰ろうとする私を引き止めて、ウサギは「送るよ」と言った。断っても断りきれなかった。彼は妙に押しが強いところがある。
「仕事切り上げてまで来なくていいのに。私は一人で帰れるわ」
「……アリスさん、そういうとこ可愛くないよね」
私はむっとして、後ろからついてくる彼を睨みつけた。それでも彼は飄々としている。
「俺が連れ出したんだから、俺が送るのが筋でしょ」
それどころか、平然としてそう言ってのける。それから不意に柔らかく微笑んで、こう聞いた。
「今日、楽しかった?」
その笑顔があんまり無防備だから、私は少しの間見惚れてしまう。
「……楽しかった」
答える声も、何だか気の抜けた感じだった。
「良かった」
本当にほっとした様子で呟いた彼の横で、私は軽く俯く。少し迷ったけれど、そっと呟いた。
「普通の喫茶店が、まるで異世界みたいで」
ふっ、と隣でウサギが吹き出したものだから、私の顔は耳まで真っ赤になった。言わなきゃ良かったと思い始めた頃、彼はにやけるのを頑張って隠そうとしている変な顔でこっちを向く。
「可愛い感想だね」
その顔を見たとき、また、あ、と思った。
知らないなんて言ったけれど、やっぱり私は、この人と会ったことがある気がする。
家の前でウサギと別れて、扉を開けた。ただいま、と言いながらリビングに入ると、父が厳しい顔をして待っていた。母はお帰り、遅かったわね、と言った後、ぎこちなく笑う。それでだいたいの状況を察した私は鞄を置いて、ソファに陣取る父の向かいに座った。
「こんな遅い時間までどこをほっつき歩いていた」
「……友達と、喫茶店に」
ぼそりと答えると、父はわざとらしいほど大きなため息をついた。
「勉強もしないで遊んでいたのか」
「……ごめん、なさい」
「もう二度と失敗はするなと言ったはずだ。遊んでいる暇があるのか?」
「…………」
頭が重たくなる。自然と顔が下を向く。
そうだ、私はこれ以上失敗しちゃいけない。間違えちゃいけない。
もっと頑張らなきゃ。
「こんな時間まで遊び呆ける友人なんて、ろくな人間じゃないな。もう付き合うのはやめなさい」
ぐっ、と拳を握る。唇をきつく噛む。
今日、楽しかった?
「……はい」
押し出した声は、自分でもびっくりするほど硬かった。
楽しかったよ。でも私は、夢じゃなくて現実を見なきゃいけないの。
*
高校受験に失敗した。
第一志望の私立高校に落ちたから、私は今の学校に通っている。きっとよくある話。
「あ、アリスさん」
廊下で呼び止められて、私はぴたりと足を止めた。
「洋一さんたちが、また来てだって。次は土曜日に……」
ウサギは話している途中で、私の様子がおかしいことに気がついたらしい。いったん話を中断して、彼は訝しげに首を傾げる。
「どうしたの?」
「何でもない」
「いや、でも顔色悪い……」
もうやめて欲しい。放っておいて欲しい。誰も私の邪魔をしないで。
「……あのさ、根詰め過ぎじゃない。一日中教科書と睨めっこしてんじゃん。少しは息抜き……」
「うるさいな!」
廊下だというのに、辺りに響き渡る大声で私は怒鳴った。周囲の視線が刺さるけれど、気にならない。
息抜き?そんなことしてたらまた置いていかれる。昨日だって本当は、こいつの手を振り払って机に齧り付いていれば良かったんだ。
「あんたみたいな、ふらふらした奴にはわかんないわよ!」
彼は、怒るでもなく鼻白むでもなく、ただ驚いているみたいだった。
大きく見開いたその目をまっすぐ見ていることができなくて、私は踵を返して走り去った。
いらない。全部いらない。
星がきらめくみたいな音楽も、あったかいコーヒーも。優しい言葉も、逃げ道も。
『そんなものはガラクタだ』
父の言葉が、呪いみたいに頭の中に染み付いていた。
*
あれ以来、ウサギはぱったり来なくなった。あんなに毎日来ていたのに、もう随分と会っていない。
私は膝を三角に折って、傾斜のある土手の柔らかい草の上に座っていた。少し距離を隔てたところに川が見える。膝に顔を埋めて、私は小さくなった。
そのとき、ぼんっ、と後頭部に何かがぶつかる。地味に痛い。
私の頭に弾かれたそれは、きれいな放物線を描いて土手道に転がる。それの正体はピンクのボールだった。ボールは、ころころと転がって小学生くらいの女の子のつま先にぶつかる。
「すみません!大丈夫ですかお姉さん」
女の子がボールを拾い上げるのとほぼ同時に、慌てたような若い男の声がかかる。はあ、大丈夫ですと言いながら顔を上げて、私は固まった。向こうも、軽く目を見張る。
「……アリスさん?」
久しぶりに会う彼は、傍に小さな女の子を連れていた。
「ごめんね、うちの妹が」
彼は女の子の頭を下げさせながら謝った。ごめんなさい、とウサギの妹も舌足らずな声で続く。私がいいよ、と言うと、兄妹そろってほっとした顔をした。
それから彼は私の隣に座った。ピンクのボールは緑の草の上に置かれて、彼の妹はそこらにあった白詰草で花冠を作り始めていた。
「……妹、いたのね。意外」
「うん、よく言われる」
違う、こんなことを言いたいんじゃない。ちゃんと謝りたいのに。
「俺の家、父子家庭だからさ。女の子は妹の茉莉しかいなくて。二人して甘やかしてたら、すっかりやんちゃなワガママ娘になっちゃったんだ」
彼はちょっとはにかんでそう言った。そう言いつつも、妹を見る目は優しい。
「……もしかして、バイトしてるのは」
「ちょっとでも生活の助けになるかと思って」
私は真っ青になって、俯いた。
「……ごめん。私、なんにも知らないのに、ふらふらしてるなんて言った」
「ああ、違う違う。そういう顔をさせたくてこの話したわけじゃないんだ」
彼は明るく笑って、それからちょっと躊躇って言い淀んだ。首に手を当てて、光る川面を見つめながら、彼は穏やかな声で話を切り出す。
「アリスさんさ、覚えてない?茉莉にお伽話聞かせてくれたの」
目が点になる。
そして私は、ものすごい勢いで思い出した。彼に初めて会ったときのこと。
「俺も父さんも、わがままな茉莉のこと持て余してて、ある日茉莉が拗ねて家を飛び出しちゃったんだ。まあそのときはすぐ見つかったんだけど。茉莉は近所の公園にいて、一緒にいたお姉さんが話す物語を熱心に聞いてた。で、そのお姉さんが」
「あぁああっ!待って、言わないでっ!」
「アリスさんなんだけど」
「言うなって言ったのにバカっ!!」
耳まで真っ赤なのが自分でもわかる。膝に顔を埋めて、私はぷるぷると震えた。
「何で言っちゃだめなの」
「空想癖はもうやめたのよ!」
「どうして?」
何で、どうしてって、一々うるさいのよ、と怒鳴りつけようとして顔を上げたのに、思いがけず真剣な目とかち合って暴言は喉の奥に引っ込んだ。代わりに本音が溢れ出す。
「だってもう、現実を見なきゃ」
じわりと視界が滲む。彼の輪郭が潤む。
どんなに綺麗な夢でも、どんなに捨てがたいものでも。いつか決別しなきゃならない時が来る。
夢と現実は共存できない。
創作した物語を語る私に、『そんなものはガラクタだ』と父は言った。あの人が私に望んだのは、空想とは真逆のものだった。
「空想なんて……ただのガラクタよ。いつまでも子どものままじゃいられない」
ウサギだって、それはよくわかっているはずだった。
彼だって、夢を見る暇なんかない。私と同じはず。
「だからもっと頑張らなくちゃ」
彼は、ぼろぼろと涙をこぼす私をじっと見守りながら、おもむろに口を開いた。
「アリスさんは自分を甘やかすのがとっても下手だね」
私が何か言い返すのを遮るかのように、彼は私の頭をぽんぽんと叩いた。気がつくと、彼の妹も心配そうに私を見上げている。
「茉莉に物語を聞かせてくれたときの君は、楽しそうだったよ。でも高校で会った君は疲れたような顔をしていた。心配だったから、声をかけたんだ」
逆に君を苛立たせちゃったみたいだけど、と彼は苦笑した。違う。ウサギのせいじゃない。そう言いたいのに、嗚咽が邪魔して声が出ない。
「ずっと見てたから知ってるよ。昼休みも放課後も机に向かって、友達と遊ぶのも我慢して」
涙で前が見えない。彼の表情が見えない。
「君は頑張ってる」
ただ一言。
一度でいいから、誰かにそう言って欲しかった。先が見えなくて苦しかった。自分がどこに向かっているのか、どこに行きたいのかすら曖昧で。
目の前が真っ暗だった。
「忘れないで。君の空想が、俺の妹にとってはガラクタなんかじゃなかったこと」
彼の言葉を聞きながら、私はうずくまって泣いた。一度泣いてしまったらスッキリした。ウサギの妹が、出来上がった花冠を私の頭に被せてくれた。
*
「あ、アリスちゃん!」
からんころん、とドアベルが鳴ると同時に、沙織さんの明るい声が上がる。
休日の昼間だからか、店の中にはこの間よりも人がいた。
「こんにちは」
「演奏、聞きにきてくれたの?」
「はい」
答えた私の肩をがしっ、と掴んで、沙織さんは穴が開きそうなほど私の顔を見つめてきた。それからぱあっ、と笑顔になる。
「なんか、いい顔つきしてるね!」
「えっ……そう、ですか?」
「うん。前に会ったときよりも」
沙織さんはいたずらっぽく笑って、配置について待っている三人のもとに向かった。その背中を見送りながら、私はこの間と同じ席に座る。
「なんかいい事あった?」
すると、すぐにカウンターの向こう側から聞き慣れた声が話しかけてきた。私は彼の顔を見上げてはにかむ。
「自分のやりたいこと、見つけたの。お父さんには認めてもらえなかったけど、わかってくれるまで何度だって言うつもり」
ウサギは、ふっと表情を緩めた。
「良かったね」
短い言葉だったけれど、それが彼の心からの祝福だと、声で、表情で、私にはわかった。自然と頬がゆるむ。
「たまにはこっちにも遊びにおいでよ」
そう言って、彼は私の目の前にことん、と飲み物の入ったカップを置いた。
星がきらめくみたいな音楽。あったかいコーヒー。背中を押す言葉、安らげる場所。
真っ暗闇の世界に、明かりが灯る。