人魚姫-second encounter-
鈍感なお姫様と一途な王子様の話。
その物語の結末を知ったとき、こう思った。
王子様はなんて馬鹿なんだろうって。
*
ゴムマットを敷いた階段を駆け上がって、たんっ、とプールサイドの床を踏む。すごい勢いでやってきた私に気がついて、プールで一人泳いでいたその人は泳ぐのをやめてこちらを見た。
「朝早くから誰!不審者!?」
開口一番そんなことを叫んだ私を見上げて、その人はぽかんと口を開ける。その顔を改めてよく見てみて、私はあることに気がついた。
「香椎君じゃない。どうしたの、何でここに?」
早朝から一人プールで泳いでいる人を見つけて慌てて来たものの、それは不審者ではなくてうちの学校の生徒だった。しかも同じ学年の男子生徒。
「一応、水泳部の部員だから」
「えっ、私、水泳部のマネージャーだけど君のこと知らないよ」
「そういえば入部届け出してないかも」
知らないのも無理ない。小さな声でそう続けた彼の声は、とってもきれいだった。男の子にしては高めの声だからか、その澄んだ響きがそう感じさせるのかはわからない。とにかく、その声のおかげで私は「それは部員って言えるの?」っていう問いを飲み込まなくちゃならなくなった。さすが王子と呼ばれるだけはある。
香椎君は女子生徒の間では密かに人気だった。白い肌に細くなよやかな体格はもちろんのこと、無口なことや表情が乏しいことも少し女っぽい仕草も、彼にとっては全部プラスになっていた。イケメンって得だ。
だけど泳ぐのが好きなんてしらなかった。どっちかっていうと窓辺で本でも読んでいそうな雰囲気。
「でもこんな時間に一人で泳ぐの危ないよ。足攣ったりしたらほんとに……下手したら死ぬから」
「うん、ごめん」
少し俯いて謝る様子も、やっぱり格好良かった。今まで気づかなかったけれど、よく見れば彼の体つきはちっともなよなよしくなんてない。程よく筋肉がついてきちんと均整がとれている。
この日以来、私は香椎君とよく言葉を交わすようになった。
「香椎君は、あれだね。あんまり競泳向きの泳ぎじゃないね」
私がそう言うと、彼は小さく笑った。わかる?と言っているみたいだった。
「早くないわけじゃないんだけど、なんていうか……香椎君きっと、縛られるの嫌いでしょ。タイムとかルールとか気にしないで、ただ泳ぎたいからここにいるんだ」
ひとしきり泳いで満足した彼は、タオルで頭を拭きながらやっぱり微笑していた。
彼は極端に口数が少ない。でも肯定か否定かわかる態度は最低限返してくれる。少し不便だけど、これが彼のスタンスなのだろう。
「私は、君の泳ぎ方好きだなあ。きれいで無駄がなくて、水に馴染んでる」
言いながら頭の中にある言葉が降ってきて、私はちょっと笑いながらその言葉を口にした。
「魚みたい」
彼は目を丸くして、暫くそのまま停止していた。気分を悪くさせてしまったかなと私がびくびくし始めた頃、彼は不意に吹き出した。王子じゃなくて普通の男の子みたいな笑い方を見て、私は何だかほっとして一緒に笑い出してしまった。
「君は泳がないの?」
ある日彼が私にそう聞いた。
私はプールサイドに置いてあるベンチに座ったままちょっと目を泳がせる。受け答えを躊躇っているうちに、彼が答えを引き当ててしまった。
「水が怖いの?」
いきなり核心を突かれて、私は動揺した。目線を足元に落として、彼から顔を隠す。頑張って笑顔を作ってから、もう一度顔を上げた。
「当たり。私、中学のときに近所の海で溺れたことがあるの」
あのときは本当に怖かった。
いつもは青くて綺麗な海が真っ黒な化け物に見えた。どれだけ手足をばたつかせても沖に流されていくばかりで、助けてと叫ぼうにも水を飲んで咳き込むだけ。足が地につかない恐怖と水の冷たさが合間って、私は更に悪いことに足を攣ってしまった。本気で沈みかけたときに、強い力で腕を引っ張られた。
「幼馴染の男の子が助けてくれたんだ。今のうちの部の部長だよ。私の命の恩人」
さらりと話しただけだったが、香椎君はひどく申し訳なさそうな顔をした。気にしないでと言いたかったけれど、どうやらちょっと鮮明に思い出し過ぎたみたいだ。私の手は小刻みに震えていた。
「じゃあ、手を握っているから」
プールの水に濡れた手が、私の前に差し伸べられる。今日の彼はいつもよりお喋りだった。
「大丈夫、怖くない。水は怖いときもあるけど、今は大丈夫だ。僕が保証する」
真剣な目でまっすぐ見つめられて、私は別の意味でたじろいだ。
「……出たよ、王子」
「は?王子ってなに?」
「や、何でもない」
「いいけどそこ暑いでしょ。ちょっと熱逃がさないと日射病になるよ」
ほら、と促されて、私はおずおずと彼の手を取り、裸足の足を水にひたした。
水は冷たかった。でも怖くはなかった。手を握る彼の手が確かな体温を伝えてきて、一人じゃないんだと思えたから。
*
香椎君は以前この町に住んでいたことがあるらしい。たまたま帰りが一緒になった日に、地元で美味しいと有名なアイス屋に連れていったときにわかった。
それと、味覚がおかしい。これもそのときにわかったこと。ゲテモノ味ばっかり頼んでた。平気な顔して「食べる?」とか言われたけど、謹んで辞退しておいた。
「だって、アボカド味だよ!?信じられる!?」
「本庄お前……最近修の話ばっかだな」
「え、修って誰」
「香椎だよ。香椎修介」
私はこのとき初めて香椎君のフルネームを知った。でもそれよりも幼馴染が彼のことをあだ名で呼ぶくらい仲が良かったのが驚きだった。
「沢野、香椎君と仲良かったの?」
「中学んときからの友達。同じ学校だったし」
初耳だった。
でも沢野と同じ中学ということは、私とも同じだ。私と香椎君は同じ中学の同級生だったということ。
「お前、海で溺れたときに助けてもらっただろ?」
思考が完全に停止する。
全ての音が遠のいて、蝉の声だけがやけにうるさく耳の中に響いた。
「……は……?」
目を見開いて固まり、何とかそれだけを言った私は、唾を喉の奥に押し込んで苦労して声を引きずり出した。
「あ、あんたが、助けてくれたんじゃないの?」
「違うけど」
即答。ばっさりと音がしそうなくらい。
彼はため息をついて頭をかき、まあ仕方ないか、と呟く。
「お前あのとき混乱してたし、無理もねえわ。お前を助けたのは修だよ。俺じゃない」
人は本当にショックを受けると、簡単に頭を誤魔化してしまえるらしい。私はこのとき、身をもってそれを思い知った。
全部聞いた。
あの日私を助けてくれた香椎君がすぐに立ち去ってしまったこと。沢野はあの時点ではまったくのカナヅチで私を助けられなかったこと。香椎君が私に気を遣って会うのを避けていたこと。
私の恐怖を呼び起こさないように。
どうりで彼の手は、安心するわけだ。
校舎内を全速力で走って、昇降口で外履きを引っ掛け外に出て、私はじりじりと焼けたアスファルトを蹴った。真っ青な空が目にしみて痛い。
人魚姫に出てくる王子様を、なんて馬鹿なんだろうと罵ったことがある。でも今の私はそんなこと言えない。私の方がずっと馬鹿だ。
「香椎君!」
だんっ、とプールサイドの床を強く踏みしめた私を見て、今まさにプールにダイブしようとしていた彼はびっくりした顔を無防備に晒していた。
「今日……部活休みなんですけど……」
ぜいぜいと息をつきながら言うけれど、彼はまったく悪びれる様子がない。むしろ飄々としていた。だって、こんないい天気なのに泳がないのは馬鹿のすることだと言わんばかりの顔に、私は青筋を浮かべる。
「一人で泳ぐの危ないって言ったじゃん!もしものことがあったら……っ」
私みたいに。
私のときはあなたが助けてくれたけど。
感情が昂ぶり過ぎて、喉が詰まって言葉が出てこない。彼の前に膝をついて、濡れた床の上に座り込んだ。ぎゅ、と手のひらを握りしめ、俯いたまま声を絞り出す。
「……人魚姫じゃないんだから、ちゃんと喋れるでしょ。言ってくれないとわかんないよ……」
自分が情けなくなって、更に俯いてしまう。だんだん声が出なくなる。
「わたし……鈍いから……」
水の中にいるみたいだ。
そのとき、ばしゃん、と水音が炎天下の中で弾けた。私の頭にも水飛沫がかかる。制服も濡れてしまった。
香椎君が飛び込み台からジャンプしたのだ。
「……ちょっと!人が話してるときに君は何して……」
「ん」
たった一言で叱責を遮られて、私は思いっきり顔をしかめた。それでも香椎君は面白そうに笑うばかりで、まったく余裕だった。
「おいで。涼しいよ」
「すずっ……しい、って」
声が上手く出せない。胸が苦しい、顔が熱い。私はこんなの知らない。どうして今日に限って香椎君はよく笑うんだろう。
「一緒なら怖くないでしょ」
そう言って笑う彼は、王子様なんかじゃなかった。この人はそんな優しい人じゃない。絶対に性格悪い。
私は半分やけっぱちになって水の中に飛び込む。制服を着たままだったけどそんなこと気にする余裕はなかった。
「やっと捕まえた」
どうやら私の人魚姫はずいぶんタチが悪かったみたいだ。