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人魚姫

引っ込み思案な女の子とムードメーカーな男の子の話。

 こんな気持ち、泡沫の夢みたいに消えてしまえ。





 昔から私は声が小さかった。

 不良品の喉は大事なときに限って言うことを聞いてくれなくなる。あげく、引っ込み思案で人見知り。国語の朗読の時間は大嫌いだったし、新しいクラスになったときの自己紹介なんて地獄だった。

匂坂さきさかさん、俺、黒板消しとくから日誌よろしく」

 日直の日も気が重かった。

 もう一人の日直の男の子は、私が一番苦手なタイプだったから。いっつもクラスの中心にいて、人気者で、ためらうことなく大笑いできるタイプ。

 放課後だから、もう教室には私たち二人しかいない。こういう人が相手だと、いつにもまして声の出し方を忘れてしまう。

「匂坂さん、字ぃちっさいなあ」

 いつのまにか黒板を消し終わっていた彼が、横から私の手元を覗き込んでいた。びっくりして、私はぎしりと固まってしまう。

「でも整ってて綺麗な字だね」

 彼はそう言って、爽やかに笑った。私はたちまち赤くなって俯く。

 せっかく褒めてくれたんだから、何か言わないと。そう思ったけれど、言いたい言葉は捕まえようとするほど逃げていく。

「……あのさあ、匂坂さんってさ、面白いこと言わないと、とか、早く何か言わないと、とか考えてない?」

 図星だった。私の顔は更にかっかと燃えて、顔が上げられない。

「そんな気負わないくてもいいよ、ちゃんと聞くから。焦らないで喋ってみな」

 そう言われて、驚いた。

 それよりも、嬉しかった。

 テンパって真っ赤になって、すぐ俯いて黙り込む私。そんな子の話を進んで聞こうとしてくれる人は少なかった。だからたまに話しかけられると余計に焦って言葉が出てこなかった。焦らなくていいと言ってくれたのは、彼が初めてで。

 だから私にとっては、その言葉がすごく嬉しかった。

 これがきっかけで、私はこの人……酒井くんと話すようになった。といってもそれは殆ど日直の日の放課後だけだったけど。

 このときは新しいクラスになったばかりの春だったけれど、今はもう夏。

 この頃私はふとしたときに考えるようになった。

 日直って、一年に何回あるんだろう。



 酒井くんは友達が多い。男友達も女友達も。まあそれも当たり前か、と私はため息をつく。あんなに話しやすい人なんだもん。

「ねえ酒井、今日の放課後、みんなで一緒に帰らない?駅前でアイス食べていこうよ」

 クラスメイトの女の子が酒井くんに話しかけているのを、私は教室の隅で聞いていた。確かあの子は、藤井さんだ。酒井くんと一緒にいるところをよく見る、綺麗な人。酒井くんには、ああいう人が似合うんだろう。

 放課後になると、私はいつものように自分の席に座って日誌を開いた。それを書き終えた私がふと顔を上げると、酒井くんは私の隣の机に突っ伏して寝ていた。黒板はすでに綺麗になっている。そういえば、最近忙しくて疲れてるって黒沢くんと話していたかも。

 隙間からちらりと見える彼の寝顔を見ているうちに、私の喉はまた壊れてしまったらしい。

「酒井くん」

 私の声は、ちっとも私の言うことを聞いてくれない。

「好きです」

 これまで一度だって。

 私は慌てて口を塞ぎ、言葉を押しとどめた。ばくばくと心臓が脈打って口から飛び出そう。

 何。

 何言ってるの。

 言うつもりなんてなかったのに。

 両手できつく口を塞ぎながら、俯く。

酒井くん、起きてないよね。聞かれてないよね。慌てて確認すると、彼はぐっすり寝ていた。やっぱり疲れているみたいだ。

 赤面をごまかすように、私は鞄の中からアメをいくつか取り出した。甘いものを食べたら彼も疲れが取れるかもしれない。寝てるところを起こすのも悪いから、書き置きと一緒に置いていくだけにした。

 その後、補充用のチョークを取りに職員室に行った私が戻ってくると、酒井くんはもういなかった。きっと今頃、藤井さんたちとアイスを食べに行っているんだろう。

 もしも私に、今よりもよく通る声があるのなら。この思いを面と向かって伝える勇気があるのなら。世界はもっと、綺麗に見えていただろうか。



 それから数日経ったある日のこと。私は放課後の教室で、酒井くんと藤井さんが二人きりでいるのを見てしまった。そして咄嗟に隠れてしまった。二人の会話が意識しなくても聞こえてしまう。こんなの駄目だと思って立ち去ろうとしたけれど、酒井くんの声を聞いた途端、足が動かなくなった。

「……で、この前教室で寝てたら、起きたときにいつのまにかアメと書き置きがあって」

 どきりとして、私は俯いた。

「でも、誰がくれたのかわかんないんだ」

 続いた言葉に、私は首を傾げる。変に思ったけれど、すぐにはっとした。書き置きに名前書くの、忘れてた。

 どうしよう。不審物だと思われたかも。

「あっ、それ私だよー」

 でも、藤井さんがそう言った途端、不安は別の感情に塗り替えられた。心臓の底がひやりとする。

「そうなん?」

「うん。疲れてるときは甘いものがいいでしょ?」

「あれ、嬉しかったよ。ありがと」

 それ以上は聞いてられなくて、私はこっそりその場を離れた。鼻の奥がつんとする。

 確かに、藤井さんは酒井くんの隣がよく似合う。私よりも。酒井くんは遠い世界の人。一瞬でも手が届くかもと思った私が馬鹿だったんだ。

 私の喉が不良品で良かった。でなきゃさっき、教室に飛び込んで言ってしまったかもしれない。それは藤井さんじゃなくて私だ、って。

 お腹の中で醜い感情が渦巻いている。それが溢れださないように、私は自分の口を押さえていないといけなかった。

 こんな気持ち、泡沫の夢みたいに消えてしまえばいいのに。



 必死で自分の気持ちから目を背けようとしたのに、なかなか上手くいかなかった。だからなのか、私はこの頃ずっと、喉に何かが詰まったような不快感を感じていた。

「匂坂さん。これ、委員会のプリント」

 もやもやした気持ちでいたからか、目の前に人がいたことに気づかなかった。突然のことに、私の喉はまた動かなくなる。

「それで、明日の放課後、講義室で委員会があるから……」

 何か言わなきゃ。ありがとう、って。早く、早く。

 早く何か言わないと。

『焦らなくていいから』

 そのとき不意に、彼の言葉が頭の中に蘇った。麗らかな春の日、優しい笑顔と一緒に私を励ましてくれた言葉。きっと一生忘れないだろう、私の宝物になった言葉。

「あ、ありがとうっ」

 受け取ったプリントを握りしめて、私は何とかお礼を言った。白井さんはちょっとの間ぽかんとしていたけれど、不意に吹き出す。

「私、そんなに力一杯ありがとうって言われたの初めてだよ。匂坂さん、面白いね」

 どういたしまして、と返して彼女は自分の席に戻っていった。

 驚いた。こんなに普通に誰かと話せたのは、生まれて初めてで。それは全部、酒井くんのおかげだった。

 ぎゅ、ときつく手を握る。

 ずっと知らない振りをしていたけれど、気がついてしまった。

 無視しようとしても、破り捨てようとしても。私はこの気持ちを、忘れられない。だって、あんなに嬉しかったのは初めてだったんだもの。

 がたん、と椅子を蹴るように立ち上がって、教室のざわめきの中を抜けていく。今は休み時間だから、彼は廊下で友達と話しているかもしれない。

 鼓動が速くなる。自然と小走りになる。窓際で友達と談笑している酒井くんを見つけて、私は突進するように彼に近づいていった。

「さ、匂坂さん?どうした?」

 困惑したような酒井くんの声が、頭上から聞こえる。顔に血がのぼって上を向けない。どきどきしすぎて頭が痛い。

 だけど今だけは。今だけはどうか壊れないで、私の喉。泡沫の夢みたいに、この小さな勇気が消えてしまう前に。

「酒井くんあの、あのね、私」

 言わなくちゃ。

「あなたが好きです」

 声と涙は、自然と溢れ出した。その瞬間に、今までずっと感じていた喉の不快感が、すっと消えた。本当はずっと、彼と話したかったんだ。

「……俺も、匂坂さんが好きです」

 頭上から信じられない答えが降ってきて、私は思わず真っ赤な顔を上げた。

「アメ、ありがとう」

「えっ……え、何で……っ」

「いや、あの書き置きの字、どっかで見たことあるなと思ったから。あのちっさくて綺麗な字は、匂坂さんでしょ」

 酒井くんはいつも通りに笑った。ただ少しいつもと違ったのは、彼の顔も少し赤かったこと。

「……あのさあお二人さん」

 ずこー、とパックの緑茶を啜りながら、酒井くんの隣にいた黒沢くんが呆れた顔で話を切り出した。

「ここ、廊下な」

 ほどほどにな、と言われて、私たちは二人して真っ赤になったのだった。

















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