銀河鉄道の夜
幼馴染の二人の話。
ねえ麦野、ほんとうの幸ってなんだろう。
君にとって一番の仕合せはなんだろう。
*
がたん、ごとん。
列車が揺れる音で、私は目を覚ました。天鵞絨張りの柔らかな座席からむくりと起き上がり、ぼんやりと辺りを見回す。見覚えのない内装の列車。少なくとも通学に使ってるやつじゃない。壁には小さな明かりが等間隔でつけられていて、車内は暗闇の中でぼんやりと明るくなっていた。車窓から見えるのは濃紺の夜空。床は飴色の木板で、壁は青と金のストライプ。
「……南條?」
そして目の前には、幼馴染の男の子がいた。
ここら辺で私の頭はようやく覚醒し始める。
「おはよう、天沢さん。寝起き悪いの、相変わらずだね」
南條は相変わらず呑気な顔と声でそう言った。とっさに何を言うこともできなくて、私は乱れた髪に手を入れる。
「……ここどこ?なんであんたが一緒にいるの?」
「見たらわかるでしょ、列車の中。なんで僕がここにいるかは内緒」
穏やかに笑って、彼は実に適当な返事をした。私が欲しいのはそんないい加減な答えじゃない。
「列車の中って……明らかに普通じゃないじゃない!だって窓から……あんな」
宇宙が見えるなんて。
そんな非現実を認めたくなくて、続きは言うことができなかった。だけど窓の外に見えるのは間違いなく、美しい星を散りばめた夜空だけ。どこを見たって、ビル群や住宅地、電線や川は欠片も見えない。
認めたくないけど、どう見たってここは宇宙だった。
「まあ、そんなに気になるなら夢だと思えばいいよ」
「夢って、あんた……」
南條が能天気なのは知ってる。こいつはいつだって脳みそ花畑。だけど今日の彼は、少しいつもと違う感じがした。
「ずっと君とこうして話したかった。どうかな、少し昔話でも」
彼は星月夜に相応しい静かな声でそう言うと、窓の外に咲く竜胆の花を指差した。
「天沢さんはあの花、好きだったよね」
*
あれは確か、小学生の秋祭りのときのことだった。
「青依のばか!」
私は力一杯叫び、青依……幼馴染の南條青依に背をむけて走り出した。このときの喧嘩の原因は何だったか、もう覚えてない。覚えてないってことはきっとくだらない理由だ。
とにかく私はこのとき青依と喧嘩して、一人で竜胆の花が咲く丘へ行った。このきれいな紫色の花は、私が大好きな花だった。落ち込むといつもこの花を見にきた。
青依もそれはちゃんと知っていたらしい。
私の怒りが収まったころに、ちゃんと迎えに来てくれた。
「ごめんね麦ちゃん」
「……別にもういい」
「許してくれる?」
不安そうに覗き込んで来た青依を見て、私は唇を尖らせながらもこくんと頷いた。
ところがそこからがちょっと大変だった。私は慣れない下駄を履いて走ったせいで足を痛めていた。鼻緒も切れてしまっていた。
「僕がかつぐよ」
ここで突然の使命感に駆られた青依が、私に自らの背中を差し出して、乗って、と言ったのだった。
結果は、やっぱり無理だった。
青依は私をおぶったまま立ち上がることすらできなかった。
「……ごめん無理」
「やっぱり?」
私たちは俄かにおかしくなってきて、さっきまで喧嘩していたのも忘れて二人して笑った。
*
今ならどうだろう。
南條の背中はもう私よりずっと大きい。そう考えて、やっぱり無理だろうなと思い直した。細っこい彼は、きっとあのときと同じにへなへなと崩れ落ちてしまうに違いない。
列車は一度停車し、昔話が終わる頃にはまた動き出していた。竜胆の花が遠ざかってゆく。
「あのときは大変だったね。結局僕が肩貸して、家まで送ってったんだっけ」
「二人ともふらふらしながら歩いてたわね」
うんうんと頷いて、私はちょっと笑う。
懐かしい。
あの頃は何も考えずに、ただ自分の気持ちに正直でいられた。
「天沢さんも食べる?」
「は?食べるって何、を……」
言いながら顔を上げて、ぎょっとした。
南條の手にはいつのまにか、綺麗に皮の剥かれた苹果がのっている。そしてもう片方の手には、まだ皮の剥かれていない、きらめくような赤色の苹果がのっていた。
「ど、どっからだしたのそれ……手品?」
恐る恐る受け取って、私はその苹果をじっくりと検分する。見たところ変な箇所はない。
「どこからも何も、ここでは欲しいと思えば出てくるものなんだよ」
「またわけのわかんないこと言って……」
そろそろ呆れて呟きながら、私は苹果を皮ごと齧った。苹果は見た目を裏切らず、甘くておいしかった。
苹果をすっかりたいらげた頃、窓の外に緑色の丈の高い植物が見えるようになった。
「……あれ、とうもろこし畑だわ」
あまりに驚いて、私はぽかんと口を開ける。どうして宇宙にとうもろこし畑があるの。意味がわからない。だけどとうもろこし畑を見ていると、南條のおばあちゃんの家に遊びに行った中学生の夏休みを思い出す。たしかあのときは彼のおばあちゃんがギックリ腰になって、とうもろこしの収穫を手伝いに行ったんだっけ。
「ねえ南條、覚えてる?中一の夏休み!採れたてのとうもろこし、美味しかったわよね」
少しはしゃぎながら振り返ると、彼は目を細めて穏やかに笑っていた。私はその笑顔を見て、途端に胸が苦しくなって俯いた。
いっつもそう。
南條はいつだってこういう風に穏やかな目をして笑ってる。
だからたちの悪い連中に目をつけられるんだ。
*
がぶり、と今さっき畑で採ってきたとうもろこしに噛み付いて、私は目を輝かせた。
「うまい!すんごく甘いよ!青依もほら、食べてみ!」
青依だって今食べようとしているところなのに、私はわざわざ彼を急かした。彼はそのことについては文句ひとつ言わず、黙って私の言う通りにとうもろこしに齧りついた。彼のきれいな瞳が、まんまるに見開く。
「……ほんとだ。あまい……」
「でしょでしょ!」
育ち盛りの私たちはすごい勢いでとうもろこしをたいらげ、満腹になったら途端に炎天下の田舎道に飛び出した。倉庫から古い自転車を引っ張ってきて、私は青依にこう言った。
「ねえ二人乗りしようよ!」
「……駄目だよ、危ないよ」
「なによ。都会じゃできないから田舎でやるんでしょぉ。ここは車も滅多に通らないしさ、ね?」
青依は私の勢いに押されて渋々承諾してくれた。
自転車の二人乗りはとても爽快だった。ちょっといけないことをしているという背徳感と、純粋な楽しさが混ざり合って不思議な感じだった。青依が自転車を漕いで私が後ろの荷台に乗った。
でもまあそこは青依だ。
彼はすぐにへばってしまい、自転車は見る間にスピードを落として転倒した。
がしゃあんっ、という派手な音とともに、私たちは土の上に転がった。からからから、と自転車の車輪が間の抜けた音をたてて回る。
「あいたた……なるほどこれは確かに危ないわ……」
肘をついて起き上がりながら、私はもう二度と二人乗りなんてしないことを誓った。それからすぐに青依に駆け寄っていって、彼を助け起こす。
「青依、大丈夫?」
「……ん、何とか……」
「って、大丈夫じゃない!あんた怪我してるじゃない!」
私はびっくりして叫んだが、青依は私以上にびっくりしたようだった。彼は捲れ上がった袖をそそくさと直すが、私は見てしまった。
今しがたできたのだろう肘の擦り傷と、そして。
「……青依、あんたその肩の痣、どうしたの……」
明らかに今ついたものじゃない、彼の青黒い痣を。
*
中学の頃、青依はいじめられていた。
穏やかそうな人柄と気弱そうな印象から、クラスメイトの苛立ちの捌け口にされたのだ。私はあの秋祭りの日の青依と同じように、妙な使命感に駆られた。青依がいじめられれば何度でも助けた。どこへでも駆けつけた。
そのうち、私にも嫌がらせが飛び火するようになった。
その頃からだったと思う。青依が私からさりげなく距離を取るようになったのは。
高校に上がるとわかりやすいいじめはなくなったが、青依の態度は更に顕著なものになっていった。いつしか青依、と名前を呼ぶのは私だけになっていた。昔は麦ちゃん、とか麦、と呼んでくれていたのに、彼は私のことを、他人行儀に天沢さん、と呼ぶようになった。
「お前、あんな暗いやつと友達なの?」
違う。青依は暗くなんかない。優しくて良い子なのよ。
「麦野ならもっとかっこいい彼氏つくれるじゃん」
どうしてそんなこと言うのよ。どうしてわかってくれないの。
青依も青依だ。
どうしてもっと他人と関わろうとしないの?
「ああ、もう時間がないね」
彼はやっぱり穏やかに笑った。
その笑顔が、いつも私の苛立ちを鎮めてくれた。かっとなりやすい私を落ち着かせてくれた。それなのにもうずっと、その笑顔を近くで見ていなかった気がする。
「麦野、もう夢の時間は終わり。思い出して、何があったのか」
「……え……?」
窓の外に、赤い光が昇る。それは綺麗な色だけれども、少し恐ろしく、少し哀しい。この色を私は見たことがある気がする。
そう、つい最近のことだ……
*
すっかり青依と話さなくなってから、半年ほどが経った。もう高三の夏に差し掛かっていた。その日の帰り道、私は偶然彼と帰り道が一緒になったのだ。そう。そうだった。
そうして思い切って彼に聞いたんだ。
「どうして私のこと避けるの?南條は私のことが嫌いになったの?」
彼に詰め寄って、胸ぐらを掴まんばかりの勢いで。
日は暮れかかっていて、昨日大雨が降ったせいか川の水がいつもより勢いよく流れてた。その川のそばが私たちの通学路だった。小高くなった土手と川との距離はそんなになかった。
「……天沢さんは、僕なんかと一緒にいてくれる良い子だよ。ほんとうに僕は、君が嫌いなわけじゃないんだ」
青依は俯いてそんなようなことを言った。彼は微笑んでなかった。ただ困ったような顔をしていた。だからなのか、そのとき私は逆上してしまった。
「”いてくれる”って何!?今までずっと、そんなこと思いながら私と一緒にいたの!?」
悲しかった。
青依は何でも話せる、一番近しい人だと思っていたから。でもその思いは独り善がりだった。
それを知ってたまらなく悲しかった。
「……ごめん天沢さん、でも僕は……」
「やめてよ、謝って欲しいんじゃない!」
私の腕を掴もうとした青依の手を振り払う。
そのときに、ぐらりと体が後ろに傾いだ。
私の後ろには、勢いよく流れる川があった。
青依が何かを叫んで私に手を伸ばしたのを覚えている。
その後はなんにも覚えてない。
*
「麦野」
震えて蹲る私の背中をさすりながら、青依は何度も私の名前を呼んでくれた。
「……青依、ごめん。ごめんね」
川に落ちたことより、今死にかけているだろうことより、私は青依に対する自分の暴言に涙を流していた。冷静になって、青依の穏やかな笑顔を見て、思い知る。自分がどれほど勝手だったか。
青依が大事だった。大好きだった。
だから守ろうとしたけれど、私は幼すぎて、逆に青依を傷つけていた。私が青依に構えば構うほど、いじめや陰口はひどくなっていった。私はそれを知っていたくせに、青依のそばから離れなかった。離れたくなかったし、「青依を守っている自分」に酔っていた。
ほんとうに大事なら、もっとじょうずな守り方があったはずだ。
青依の静かな日常に、私が割り込んでいっていいはずない。近しい存在だからこそ、ちゃんと距離を取らないといけなかった。
「私のせいで、青依を苦しめてた」
「麦野、それは違う」
泣きじゃくる私を抱きしめて、青依は優しい声で諭す。
「全部僕の傷だ。君が背負うべきものなんて、何一つない」
「でも」
「僕は麦野と一緒にいられて、ほんとうに仕合せだったんだよ」
私の真っ黒な感情をきれいな宇宙色で塗り直すみたいに、青依は言葉を重ねた。彼の言葉はひとつひとつが星の欠片みたいに輝いていた。私はずっと彼の声を、言葉を、宝物のように抱きしめていこうと思った。死んだ先でも、心が生きているうちは絶対に手離さないでいようと。
「本当はずっと、こんなふうに名前を呼びたかったし、呼ばれたかった。」
「私もよ」
「僕たち、もっと素直になれば良かったね」
本当だ。
私たちはどうしようもなく馬鹿だった。小さい頃からずっと一緒で、離れることなんて想像したこともなくて。もっと自分の気持ちに、素直になっていれば。
「麦野、あのときの続きを言わせて」
一瞬なんのことかわからなかったが、すぐにわかった。あのとき。川に落ちる寸前。私の金切り声に遮られた、青依の言葉。
「麦野、僕は、君が好きなんだ」
痛いほどに私を抱きしめて、青依は私の耳元に囁いた。涙が溢れる。
私も好きだよ。
ずっと前から好きだった。
私も青依の耳にそう囁く。こころなしか、彼の体からほっとしたように力が抜けた気がした。
このまま時が止まってしまえばいい。このまま、私たちだけを宇宙の片隅に取り残して、世界は勝手に回ればいい。
だけどそんなこと、青依が許してくれなかった。
彼はしゃくりあげる私の手を開いて、何かを持たせた。大きさからして、葉書きのような紙だった。
「……何……?これ……」
「ただの手紙。そんで麦野は」
彼は腕をほどき私の肩を押しのけて、私から離れた。
「それ持って帰んな」
嫌な予感がした。
とてつもなく嫌な予感が。
青依のことはよく知ってる。だって物心ついたときから一緒にいた。彼の考えることくらい、なんとなくわかる。
「……あ、あんた、いっつもそうじゃん!何で私に何も言わないで離れようとするの!?簡単に譲ろうとするのよ!!」
泣きながら震える声で叫んで、私は青依の胸板を強くどついた。彼の手に葉書大の紙を握らせようとするけれど、一向に受け取ってくれない。
やきもきしているうちに、青依はもう一度私を抱きしめた。ぎゅう、と抱きしめられて、私の目からはとめどなく涙が溢れる。
「麦野、最後くらい僕に守らせて」
「最後って何よ、ばか青依!あんたほんとバカ!昔っからずっと……」
罵倒の言葉は遮られた。
唇で唇を塞がれて、私は強制的に黙らされる。
唇が離れたあとも、私は呆然としたまま声が出せなかった。そんな私を見て、青依はしてやったり、という顔で笑った。初めて見せる表情だった。
「じゃあね、麦野」
彼はそう言って、宇宙の一部になった。
*
麦野へ
ねえ麦野、ほんとうの幸ってなんだろう。
君にとって一番の仕合せはなんだろう。
僕は一生懸命考えたけど、やっぱりわからなかった。
だけどね、君と一緒に見た竜胆の花を、とうもろこしの甘さを、高揚する気持ちを、僕は僕の至上の仕合せだったと思うんだ。
君と出会えたことが、僕にとってはとてもよい巡り合わせだった。
君もそうであるならどんなにいいだろう。
ねえ麦野、君はこれからたくさんの幸を見つけていくだろう。
そして僕はどこにいても、君の仕合せを願っている。
忘れないで。