雪の女王
先輩と後輩の話。
俺は忘れるわけにはいかないんだ。忘れたくない。
だから君と一緒にはいられないよ。
*
運命の二人って存在するんだと思う。陳腐な言葉だけど、確かに。
先輩にとっての運命は私じゃなかった。
たったそれだけ。事態は単純だ。
先輩がどんなに彼女を愛しているのか知ってる。今どれだけ悲しんでいるかもわかってる。だから私は、私が諦めるべきだってこと、わかってた。
それなのに身勝手にも言ってしまった。自分の恋を先輩に告げてしまった。
苦しませるだけだって。
少し考えればわかったはず。
だけど私だって、忘れられなかった。
先輩と初めて会ったのは春の麗らかな日のことだった。あのとき先輩は中二のときから高一の夏まで付き合っていた彼女と別れて傷心のさなかで。私はずっと思い出話を聞かされていた。
「すんごく可愛い子だったんだよ」
髪ふわふわで笑った顔なんか天使みたいで。優しくて気がきく子で。
「ただちょっと寂しがりやなだけだったんだよ……」
先輩は女の趣味が悪い。要は、別の高校に進学した彼女に浮気されて別れたのだ。そんな移り気な女捨てとけよと思う。
どうも私は、昔から人の心の機微というものに鈍感だった。だからこの人の話し相手をしていたら、何かわかるかもと思っていた。先輩は感情が豊かな人だったから。部活の先輩後輩なんだから、話す機会は自然とできる。将棋部の部員は私たちしかいないので尚更だった。ともかく私は自分のためだけに、この人の愚痴を聞く役を買って出た。
その年の夏、先輩には彼女ができた。
季節はあっという間に一巡りして、また春がやってきた。先輩とは、たまに部活帰りにクレープを食べに行ったり、ゲームセンターでクレーンゲームに熱中したりした。先輩は感情豊かな人で、一緒にいると飽きなかった。そんな彼が一切の感情を失ってしまったのは、夏の終わりを告げる風が木々を揺らす晩夏のことだった。
付き合っていた彼女が他界したのだ。
事故だった。
ほんの一年ほどの付き合いだったけど、先輩はこのことでかなりの衝撃を受けてしまった。もともとが素直な気性だから、彼は突然のことを受け止めきれなかったのだろう。それでも何とか表面上は取り繕って笑っていた。
だけど私には、わかってしまった。
彼が不意に見せる疲れたような表情も、ぼんやりと窓の外を見やる光のない目も。
ずっと見てるから、目についてしまった。
いつのまにか私は、こんなにも先輩のことが好きになっていた。
何も出来ないまま、何も言えないまま。
彼のそばにいることしか出来なくて、いつしか夏は通り過ぎ、銀杏は見事な金色の衣を脱ぎ去って、冷たい風が肌を刺す冬が来た。
先輩の前に、一人の女生徒が現れた。
彼女は太陽みたいに明るい人で、暖かい色が良く似合った。包み込むような優しさを持つ、陽だまりみたいな人。彼女はなかなか心を開いてくれない先輩にもめげずに、何度も会いに来た。笑いかけて話しかけて、何とか先輩に元気になって欲しいって。
そんな気持ちが伝わってきた。
俄かに私は怖くなったのだ。
彼女のまっすぐな優しさを見て、そしてその優しさに少しずつ救われてゆく先輩を見て。
だから、言った。
「先輩、好きです」
先輩は夕日の差す窓を背にして、どこか間の抜けた顔をしてこちらを見ていた。埃っぽい空気が褪せた光に照らし出される。古びた将棋盤には年季の入った駒がきれいに並べられて、動かされるときをただ静かに待っていた。
それから彼は不意に相好を崩して、下手くそな笑顔をつくる。
「……うん、知ってる」
そう。
ずっと前から、彼は知っているはずだった。
私の目からは、涙がとめどなく溢れていた。
苦しませるだけ。わかってた。
だけど忘れたくない。手放したくない。一緒に過ごした日々を一秒でも長く握りしめていたい。
先輩に告白したその日、私はふらふらと図書室に向かった。本棚の影に隠れるようにして、一冊の本を手に取る。友達の少ない私は、いつも本を読んでいた。これはその中でもお気に入りの話だった。
ある少女が幼馴染の少年を雪の女王から助けにいく話。
私にとっての少女は先輩だった。
じゃあ先輩にとっての”少女”は?
先輩の心に刺さった鏡の欠片は、誰が抜いてくれるの?凍りついた心は誰が溶かしてくれるの?
きっと。
それは私じゃない。
先輩に今必要なのは私じゃない。わかってた。知ってた。
先輩を捕らえているのは私。
雪の女王は私だ。
だけどもうすぐ、春が来る。
雪は溶けてしまう。
「先輩、卒業おめでとうございます」
こんなときでも私は可愛げのない仏頂面しかできなかった。ああもう笑え。こんな可愛くない顔を晒すくらいなら、もういっそ崩れまくった変な顔をしたっていいから、どうにか笑ってくれ。
思い虚しく、顔を強張らせている私の代わりに先輩が笑ってくれた。いつも見ている優しい笑顔だ。
「咲良、どうした?」
何度も聞いた優しい声だ。
ああ胸が苦しい。こんなことなら心の凍った雪の女王のままでいたかった。
いつのまにか彼の話を聞くのが楽しくなっていた。いつのまにかゲームセンターやクレープ屋に付き合うのも嫌じゃなくなっていた。
先輩がどんなに私を愛してくれたか知ってる。今どれだけ悲しんでいるかも知ってる。
だから。
「先輩」
私はこの人の手を、離さなくちゃ。
「日の当たる場所にいてください」
冷たい手で彼のあたたかい手を握ろうとしたけれどそれは叶わなくて、私は涙声で訴えた。
「私のこと忘れてもいいから、いっぱい愛して、愛されてください。私もう充分先輩から貰いました。充分すぎるほど」
もう温度を失ってしまったはずの頬に感じる涙は、確かに熱かった。
「だから今度は私じゃなくて、あの人に渡してください」
太陽みたいなあの人に。先輩を救ってくれるあの人に。先輩にとっての”少女”に。
あなたのあたたかい愛は、もう私のものじゃないんだ。冷たい死人にどれだけあたたかな愛を注いだって、そこには何の花も咲かない。横たわる想い出が厳かに、神聖になるだけ。
「ごめんなさい先輩」
今までごめんなさい。
離してあげられなくてごめんなさい。
死んじゃってごめんなさい。
「私、幸せでした。ありがとう」
たとえ一時だけでも、あなたの愛を一身に受けることができた。
*
「早瀬君?」
窓辺で桜を見上げる彼の頬には涙が伝っていた。
今年の桜は特にきれいだった。奇しくも、彼が去年の夏に亡くした一つ年下の彼女と同じ名前の木。それを見上げて声も上げずに涙を流す彼を見て、ああ、まだ忘れられないんだ、と痛感する。痛々しくて見ていられなかったから、なんとか元気づけたかった。もしかしたらただの同情で、偽善だったかもしれない。実際彼の傷はまったく癒える様子がなかった。
これで最後にしよう。
そう思って、声をかけた。彼から少し離れた位置から桜を見上げ、呟くように。
「桜、きれいだねえ」
返事なんて返ってこないと思ってた。
それなのに彼は桜から目線を移して、振り返る。
「うん、そうだな」
振り返った彼は、夢から覚めたような清々しい顔をしていた。