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おやすみ、先生。

作者: 雨間みゆ

 まるで春が近づいてくるのを拒んでいるような冷たい風の吹く日だった。

 突然吹いた強い風が教室の窓を激しく揺さぶった。

 黄金色に満たされた放課後の教室で世界史の補習を受けているわたしは、黒板にもたれかかってうとうとしている先生をボケーッと見つめていた。

 先生の長い睫が白い頬に柔らかな陰影を落としている。

 綺麗な顔、とわたしは呟いた。

 

 静かな教室には時計の針の音と先生が立てるかすかな呼吸音、たまにシャープペンの音。

 わたしの手元にはときかけのプリントが溜まっていた。

 それは今日までにやってしまわなければいけない課題なのだけど、少しでも長くこの教室にいたいわたしの手は問題を解くことを放棄していた。

 そんなこととは露知らず、先生は眠り続けている。


 でもいい加減、起こさないと。


 「先生、先生」

 いつもより少し大きな声で呼んでみる。

 先生は何度か眩しそうに瞬きをしてやっと目を覚ました。


 「ぅ、んん?って、俺もしかして寝とったん?」


 「はい、もうすーっごい気持ち良さげに」


 わたしがわざとらしくニヤリと笑うと、先生が塩をふりかけられたほうれん草のようにへにゃーっとなってモゴモゴと呟いた。


 「うわー、やらかした……。今日、職員会議あったのに」


 「先生、今日は職員会議ないよ」


 「えっ? 何で松野が知っとるん」

 先生が驚いた顔でわたしを見るから、また少し胸が痛くなった。


 先生はもう会議には出席できないから。

 先生が出席するはずだった会議はちょうど一年前の今日、終わってしまっている。

 理由はとっても単純で、残酷だ。


 先生はすでにこの世にいない。

 そして、いてはいけないのだ。


 先生の記憶は亡くなる直前のここで止まっている。永遠に。

 だからわたしはいつも放課後にこうして先生に伝えなければいけないのだ。


 「先生はもう死んでます」と。


 はじめのうちはどうして自分が死んだかもわからない先生はかなり動揺していた。

 わたしはそんな先生を見ていられなくて逃げたこともあったし、一緒にいたらいたで溢れてくる涙をこらえることができなかった。


 そんなことが一年も続いて先生はやっと自分が死んでいることを穏やかに把握できるようになった。

 けれど、記憶はそのままなのでこのやり取りは最早定番だ。


 「先生は、死んじゃってます」

 少しの沈黙が流れる。

 先生の反応は最近いたって落ち着いたものだ。

 購買の弁当売り切れですって言ったほうがきっと驚くとだろう。


 「あー、そうなんじゃ」


 先生はそう言って少し考え込む。

 今の先生の心理状態を簡単に説明すると、「死んでいることはなんとなくわかっていたけど記憶が曖昧でプチ混乱中です」という感じだろう。


 「えっと、俺どうして死んだんかな?」


 へらりと笑っているけれどいろんな感情を必死で押し殺したような先生の顔。


 「交通事故」


 「ふーん、それってどれくらい前のこと?」


 あれ?

 わたしの経験が何か異常だと告げている。 

 こんな質問をされたのは初めてのことだった。

 死んでしまった人に時間はあまり意味をなさないということらしく、今までの先生にとって時間は曖昧なものだったのに。


 「えっと、ちょうど一年前の今日」

 おそるおそる答えると先生はそうじゃったな、と優しく微笑んだ。

 まるで、今全てを思い出したようにどこか晴れ晴れとしていた。

 同時に、それに気づいたことで先生が急に一人ぼっちになってしまったような気がしてわたしは不安になる。


 「ねぇ、先生? 」

 「ん? 」

 「もしかして、全部思い出したん? 」


 先生は何も言わずに隣の席に座るとこっちを見ずに手だけ伸ばしてわたしの頭をぐしゃぐしゃに撫でた。

 その手にあるはずの温度はもう感じることはできなくて余計にかなしくなった。


 「もう、そろそろ忘れてたほうがええ。俺のこととか、辛いこと、全部。

今まで、辛かったろ? 」

 先生が唐突にそう切り出した。

 ああ、やっぱり思い出してたんだ。


 「何で、どうしてそんなこと言うん?うちずっと先生のこと好きで、なのに……

 うちが先生殺したのに、未来も幸せも全部うばってっ! わたしが死ねばよかった」

 

 忘れ方なんてわからないし、わかりたくない。

 先生が一年前交通事故に遭ったのは、わたしのせいだなのだ。

 先生は信号を無視したトラックに轢かれそうになったわたしをかばって死んだ。


 「だから、先生がこの教室に現れたとき、何かの罰なんじゃと思った。世界で一番、幸せで残酷な罰じゃって」


 鼻の奥が痛くなって、喉が干上がる。ダメだ、涙が止まらない。


 「松野、松野。落ち着け、もうええけん。全部どうにもならんかったんよ。誰にも、どうすることも出来んかった。


俺はおまえの先生じゃったけど、生徒守るために命投げたりできるほど人間できとらんで。

松野のだから、松野が好きだったから。

だから……死んだほうがいいなんて言うな」


 「先生、ずるいわ。救われた人間は、救ってくれた人が無事じゃないと救われんのんよ、一緒によかったって言うまで、一生」

 わたしはそう言って先生を責める。

 助けてくれてありがとう、なんて言えなかった。


 「そうじゃな、でも。

俺は松野に恨まれても泣かれても何回でも同じことをする。何回だって助けると思う」


 知ってるよ、先生はすごく必死だったんだ。

 あの日も、今も全力でわたしを守ってくれてた。


 「先生、ごめん。こんなこと言いたかったんじゃないよ。ずっと、側にいてくれたんよね。うちが潰れてしまわように、心配してくれて……だから、先生あっちにいかないでくれてたんよね」


 今やっとわかったよ先生。

 わたしだったんだよね、先生をここに縛り付けてたの。


 「先生はもう死んでます」

 何度も繰り返したあの言葉の意味も。

 あれは先生の死を受け入れられなかったわたしのための言葉だった。

 わたしがちゃんと受け入れられるまで、先生は心配でここを離れられなかったんだ。


 「ごめんね、先生」

 「なんで? 」

 「大変だったじゃろ? うちなんかのために」

 先生は笑っていた。

 「楽しかったよ、何なら生きとるときより」

 「うそ」

 「でも、生きてこうやって松野のこと抱きしめられたらもっと良かったのになーーとは思う」

 先生の影とわたしの影が重なっても、先生がわたしのことを抱きしめることはもうできない。

 その影すらもだんだんと薄れている。

 ああ、もう少しで先生はいってしまう。そんな予感がした。


 「その先のことも考えとったじゃろ? 」

 「あ、バレた? 」

 「変態」

 「変態でもええし」


 終わりの時間はもうすぐそこまで来ているのに、わたしたちはそれに気づかないふりをした。

 なんてことない他愛ない話しがたくさんしたかった。

 別に特別なことなんていらなかった。ただ、こうしていたいだけ。


 先生はちょっと疲れたと言って、わたしの肩にもたれかかった。

 その重みも、あたたかさも、髪の柔さも全部嘘でもいいから知りたかった。


 「松野」

 「何?」

 「おまえ、あったかいよな。何かすげー眠たい」

 先生はそう言ってゆっくりと眼を閉じる。

 「なぁ、もうちょっとだけこうしとってもええ? 」

 わたしは頷くことしかできなかった。

 先生のことだから、わたしが泣いているなんて知ったらまたここに留まろうとするに違いない。

 

 だから、もういいよ。

 先生のことが大好きだから、ちゃんと言わないといけないよね。

 

 

 「おやすみ、先生」


 


 

 













ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

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