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秘密のノート

作者: ふーみん

 春華は珍しく学校の図書室へ向かっていた。放課後の廊下には人影も少なく、いつもより自分の足音が大きく聞こえた。海沿いの街を壊滅状態に陥れた地震から一ヶ月余りが経ち、何事もなかったかのように毎日が過ぎていた。幸いにも春華の住む地域は震源からも遠く、高校二年目の始まりは至って順調だった。ただ、時折やって来る余震を感じる度、あの日のことを思い出していた。目の前で棚から落ちた皿が割れた、それだけのことだが、大きな地震を初めて体験した春華にとってショックを受けるには十分だった。


 図書室の扉を開けると、人がちらほらといるのが見えた。一緒に帰ることになっていた千尋が職員室に呼び出されたので、暇つぶしにこの場所を選んだのだ。あまり使い慣れていない図書室は、思ったよりも居心地が悪かった。特に興味もない一冊を手に取ると、足早に隅のほうの席に腰を下ろした。しばらく手元に目を落としていたが、その文字の羅列に飽きるのにあまり時間はかからなかった。辺りを見渡すと、ある人は読書をし、ある人は勉強をしているようだった。そして、その中に見覚えのある顔を見つけた。同じクラスの直樹だ。

 彼はノートとペンだけを机に出し、何か考え込んでいた。数日前、春華が階段を踏み外して足首を捻った時、彼は保健室まで付き添ってくれたのだが、ずっとお礼を言うタイミングを逃していた。それ程親しい間柄でもなかったので、その行動がありがたいと同時に意外でもあった。スポーツマンの直樹が真剣に机に向かっている姿が新鮮で、しばらくその様子を眺めていたが、お礼を言おうと思い近づいた。すると、自分に気づいた直樹がとっさにノートのページをめくったのが分かった。

「足はもう大丈夫?」

彼のほうから口を開いた。その気遣いがとても嬉しかったが、表情には出さないように努めた。

「うん、大丈夫。この間はどうも…」

そこまで言いかけたところで、突然後ろから肩を叩かれた。

「ごめん、お待たせ!」

千尋が全く悪びれていない笑顔で立っていた。その後すぐに直樹に気づき、

「あ、お邪魔しちゃったかしら。」

と茶化した。

「ううん、帰ろ。」

春華はそう言って図書室を出ようと思ったが、お礼を言いかけだったことが心残りで直樹のほうを振り返った。それに気づいた直樹は、微笑んで小さくうなずいた。自分の気持ちを見透かされた気がして、春華はすぐに図書室を出て後ろ手で扉を閉めた。


 家に帰ると、まずはベッドに寝そべるのが春華の癖だ。剥がれかけた天井の壁紙を見つめながら、直樹がノートに何を書いていたのか考えてみた。しばらくすると、先程の直樹の微笑みが蘇ってきて、思わず枕を抱えた。その時、少し家が揺れたような気がした。これから大きな揺れが来るのではないかという不安とは裏腹に、その後には何も起こらなかった。臆病な自分をあざ笑うような余震に苛立ちさえ覚え始めていた。

「帰ってたなら、ただいまくらい言いなさい。」

ドア越しに母の声がした。

「お母さん、今揺れたよね?」

母の言葉よりも自分の疑問を優先した。

「そう?気づかなかったけど。」

母はいつも揺れに対して鈍感だ。自分と違って神経の図太い母が、こういう時は羨ましかった。


 次の日も、春華は図書室へ向かった。すぐに直樹の姿を見つけたが、最初は気づかないふりをして、少しは興味の持てそうな本を一冊手に取ると、直樹のところへ近づいた。

「いつもここに来てるの?」

突然の春華の問いかけに慌てて顔を上げたが、すぐに冷静に答えた。

「ああ、いや、最近来るようになったんだ。ほら、体育館が使えないから。」

バスケ部で一年目からレギュラー入りしている彼が、放課後図書室にいる理由がようやく分かった。そういえば、大地震の時に体育館の一部に損壊があったとかで、修理や点検が長引いていた。

「体、なまらない?」

春華は、直樹の二つ隣の席に座った。

「毎朝5キロくらい走ってるんだ。でも、やっぱりボールには触れていたいな。」

運動が苦手な春華には、それがもの凄いことのように思えた。

「そうなんだ。」

感心している割に淡白な反応をしてしまった。それから本を開き、描かれた物語の世界に入り込みそうになっては、時々直樹がペンを走らせる音によって現実に引き戻された。横目でその手元を見ると、書いている内容は分からなかったが、左手の指先の皮が剥けているのに気づいた。

 長い沈黙を破るには、少々勇気が要った。

「それ、何を書いてるの?」

「ん、ちょっとね。春華はよく図書室来るの?」

質問したはずが、質問が返って来てしまった。そんなことよりも、初めて“春華”と呼ばれたことに驚いた。

「まあね、読書好きだから。」

全くの嘘だった。普段は読書などほとんどしない。しかし、図書室に来る理由としては最も自然なものだった。もう一度ノートに目をやると、直樹はそれを閉じてしまった。

「俺、そろそろ帰るわ。」

そう言い残して図書室を出る直樹の後ろ姿を、春華は無言で見送った。それからまた物語を読み進めたが、直樹のノートの内容が気になって集中できなかった。春華は本を棚に戻し、すぐに帰ることにした。


 帰宅して自分のベッドに寝そべると、剥がれかけた天井の壁紙が目に入った。同時に、皮の剥がれた直樹の指先を思い出した。足首をぐるんと回してみたが、もう痛みは全く感じなくなっていた。そうこうしていると、名前で呼ばれた場面が鮮明に脳のスクリーンに映し出され、自分はあの時どんな顔をしていたんだろうと、無性に気になった。その瞬間、昨日と同じような揺れを感じた。隣の部屋のドアが開く音がしたので、春華もドアを開けてトイレへ行こうとする弟を呼び止めた。

「今、ちょっと揺れたよね?」

母と違っていつも揺れに敏感な弟なら同意してくれると思ったのだが、答えは期待はずれだった。

「いや、感じなかったけど。」

些細なことだが、腑に落ちなかった。わざわざ千尋にもメールして聞いてみたが、やはり期待した答えはもらえなかった。


 次の日は休日だった。以前から約束していた通り、千尋とチョコレートパフェを食べに出かけた。

「昨日、図書室で何してたの?」

パフェから引っこ抜いたポッキーの先端を春華のほうに向け、千尋が聞いた。

「春華が何もないのに図書室行くなんて、珍しいじゃん。」

どこまで見られていたのか気になりながらも、とっさに答えた。

「ちょっと読書の習慣でもつけようかと思って。」

「それはないでしょー。」

中学から同じクラスの千尋にあっけなく嘘を見破られたので、仕方なく答えなおした。

「直樹君がノートに何書いてるのか気になっちゃって。」

「それを確かめるために図書室に?」

「うん。」

千尋は一瞬納得しかけたが、意地悪な笑みを浮かべて言った。

「本当にそれだけ?」

「うん。」

春華はそう答えるしかなかったが、本当にそれだけかどうか、自分でも分からなくなった。

「アイス溶けるよ。」

千尋の言葉で我に返り、再びパフェに長いスプーンを下ろした。


 雑貨や洋服を一通り見て回り、地元の駅で千尋と別れた。暖かくなってきたとは言え、この時期は日が落ちるとまだまだ風が冷たい。電気屋の前を通りかかった時、店内にすらっと背すじの伸びた後ろ姿を見つけた。少しためらったが、店に入って狭い通路を奥へと向かった。町の電気屋だが、意外と品揃えが良く、横幅の割に奥行きがある。そこには、録音機器のようなものを眺めている直樹がいた。

 声を掛けようと口を開いた瞬間、地面が震え出した。小刻みに数秒揺れたかと思うと、ぐらっと大きな揺れがやって来た。今までのどの余震よりも大きく、立っていられないのではないかと思う程だった。近くに積まれた商品が床に落ち、ガラスが足元に飛び散った。春華の脳裏に焼きついた光景と今眼球でとらえている光景が重なり、魔法にでもかかったように体が動かなくなった。その時、直樹の大きな手が春華を引っ張り、物が置かれていない大きな柱の近くへ導いた。やがて揺れが収まると、春華はいつの間にか掴んでいた直樹の腕を慌てて離した。

「大丈夫?怪我とかない?」

太く優しい直樹の声にようやく落ち着きを取り戻し、春華が小さな声で答えた。

「うん。ありがとう。」


 学校では、前日の大きな余震のことばかりが話題に出ていた。それを耳にする度、春華の頭には直樹とのことが浮かんだ。電気屋からの帰り道に話した内容はあまり覚えていなかったが、彼の声、手や腕はリアルに思い出せた。同じ教室にはいるが、席が遠いのでわざわざ話しに行くのもおかしい気がして、離れたところからただ横顔を眺めた。それに、放課後の図書室に行けば、また話ができると思っていた。しかし、その計画は失敗に終わった。体育館の使用許可が下りたのだ。


 本当に読書を習慣にしようかとも思ったが、気が進まないのでおとなしく帰ることにした。今まで気にもしていなかったが、放課後の体育館に響くドリブルの音が春華の胸を震わせた。正門に向かうつもりだったのに、その音のするほうへ引き寄せられて行った。体育館の扉はわずかに隙間が開いていて、顔を寄せると中がよく見えた。そして、正に直樹がボールを受け取ったところだった。直樹は素早い動きでディフェンスをかわし、ジャンプすると同時にシュートを放った。その手を離れたボールは美しい放物線を描いた後、ネットをわずかに揺らし、それから床に落ちた。専門的なことは何も分からなかったが、春華には心を強く打たれる音が聞こえた。

「何やってんの?」

千尋に声を掛けられ、えらく慌てたように振り返って言った。

「ちょっとのぞいてただけ。あはは。」

千尋との帰り道でも、前日の余震の話になった。あまり詳しく話す気にはなれず、何となくお茶を濁しておいた。

「あ、そうそう、こないだの揺れたかどうかって話だけど。」

千尋が話題を変えた。春華が首をかしげると、千尋が続けた。

「ほら、春華が今揺れたよねってメールしてきたでしょ。あれ、地震酔いじゃない?」

「地震酔い?」

「うん、何もなくても揺れてるように感じちゃうやつ。」

そうかもしれないと返事をしたが、内心違うと思っていた。


 家に帰り、いつものようにベッドに寝転ぶ。カーテンの隙間からは西日が差し、穏やかな午後が春華の目蓋を重くした。現実と夢の狭間で、直樹の声が聞こえた。いつも通りの太く優しい声だ。それが自分に向けられていると分かると、心が踊った。やがて、彼の大きな手が春華に触れた。戸惑いはしたが、全てを彼に委ねることにした。春華の心臓は強く、そして速く鼓動した。そのせいで、まるで家が揺れているような感覚になり、一気に現実が降りてきた。部屋の照明からぶら下がった紐を見ても、少しも動いてはいなかった。思い返せば、今までベッドで感じた揺れも今回と同じような感覚だった。その時春華は、自分が最近ベッドで感じていた揺れが錯覚だということに気づいた。そして、いつも揺れを感じる時には直樹のことを考えていることにも。

 自分が今抱いている気持ちは何なのか、心当たりはあったが、すぐに結論は出さなかった。ただ、会いたい、話したい、よく知りたいという素直な思いは否定できなかった。


 それからあっという間に一週間が過ぎた。お互いにちょっとした時に声を掛ける程度で、深い話はできなかった。それでも、直樹の優しさを近くで感じるだけで、春華は幸せだった。そんなある日、春華は思い切ってノートについて聞いてみることにした。

「ねえ、図書室でノートに何を書いてたの?」

直樹は困ったような顔をした。

「別に大したもんじゃないよ。」

いつも優しい直樹の素っ気なさが、非常に冷たい態度に映った。

「何よ、教えてくれたっていいのに。」

春華もわざと冷たく言ったが、さらに直樹が言い返した。

「関係ないだろ。なんで教えなきゃいけないんだよ。」

心が踏み潰されたような気がした。

「…もういい。」

 自分になら教えてくれると思っていたのが愚かに思えた。お前はただの他人だと言い放たれた気分だった。そりゃあ、目の前で派手に階段を踏み外せば心配もするだろう。ガラスが飛び散る中で人が突っ立っていたら、誰だって助けるだろう。逆に自分は今まで彼に何をしてあげただろう。きっとこれからも何一つ力になんてなれないだろう。馬鹿みたいに勝手に浮かれて、本当何やってんだろう…。今すぐ泣いてしまいたかったが、学校でそれはやめようと思った。その代わり、千尋が保健室へ連れて行こうとするくらい放課後まで元気はなかった。


 家に帰っても意外と涙は出なかった。置時計の電池を引き抜き、秒針の音を止めた。窓から注ぐ柔らかい西日をカーテンで遮った。空っぽになった頭では、もう何も考えることができなかった。


 次の日は朝から風邪を引くことにした。母から学校に連絡してもらい、あっさりと休むことに成功した。しかし、何が解決するわけでもなく、何を解決するべきなのかも分からなくなった。ただただ、時間の流れるままに過ごした。

 夕方になると、心配した千尋が電話をかけてきた。「昨日から具合悪そうだったけど、今どんな感じ?」

春華は、真面目に心配してくれる千尋にとても申し訳なくなってきて、正直に全てを打ち明けることにした。ところどころ初めて聞くエピソードに千尋は驚きの声を上げたが、春華が直樹に好意を持っていること自体はとっくに勘付いていた。

「それで、諦めるの?」

それは質問ではなく、諦めるなと言っているように聞こえた。

「だって、私のことなんて何とも思ってないもん。」

「そんなこと分からないでしょう!」

そんなやり取りが30分以上続き、最終的には春華が折れた。いや、春華の本心を千尋が引き出したと言ったほうが正しい。春華は、改めて良い友達を持ったと思った。


 翌朝、いつもより早く学校に着いた。既に春華の覚悟は固まっていた。今までの関係を失う恐さはもちろんあるが、伝えたい気持ちが勝っていた。何より、近いようで遠い関係を続けることが苦しくなり始めていたのだ。それでも、自分が直樹のために何をしてあげられるのかなど分からなかった。ただ、直樹を大切に思う気持ちだけは誰にも負けないと思った。ベタな方法ではあるが、下駄箱に手紙を入れて屋上に呼び出すことにした。授業が終わって、部活が始まるまでの時間なら、迷惑にならないだろうと考えた。手紙を読んだであろう直樹と同じ教室で、生まれて以来最も長い半日を過ごした。


 千尋から最後のエールをもらい、春華は約束の時間より早めに屋上へ上がった。覚悟はできていたが不安がなくなったわけではなく、足取りが重い。屋上へ通じる扉を開けると、そこには直樹が立っていた。まさか先に来ているとは思わず、動揺を隠すことができなかった。しかし、来てくれたことに安心もした。

「昨日はあんな態度取ってごめんなさい。」

春華はできる限り気持ちを込めて謝った。

「こっちこそ、酷いこと言ってごめん。」

いつもの優しい直樹の口調だった。

「もしかして、それを言うためにわざわざ屋上に…」

「違うの!」

自分でも驚くくらい大きな声で直樹の言葉をかき消した。

「違うの。そうじゃなくて…。」

言葉が続かなくなった。言いたいことはたくさんあるはずなのに、頭の中が真っ白になった。何があっても後悔しないと決めた昨日の自分が行方不明になっていた。仲直りできたのだから、それでいいではないかと、弱い心が訴えた。この時の沈黙の長さを、春華は後になっても思い出すことはできなかった。そして、ようやく絞り出した一言が沈黙を破った。


「直樹君のことが、好きなの。」


 とうとう言ってしまった。春華は直樹の顔を見ることができなかった。顔が熱く、胸が苦しく、自分の体が自分のものでないみたいだった。すると、目の前に一枚のCDが差し出された。春華が何も言わずに受け取ると、直樹が口を開いた。

「ノートのこと、昨日は教えてあげられなくて悪かったね。」

それから、直樹はゆっくりと説明を始めた。ノートには詞を書いていて、完成するまでは見せたくなかったこと。曲をつけたくて、指の皮が剥けるくらいギターを練習したこと。録音機器を買って収録し、昨日の夜CDに焼いたこと。その曲は、春華のために作ったということ。


 直樹は真っ直ぐに春華の目を見た。春華はその視線を受け止めるのに精一杯で、最後に耳に入った言葉を少し遅れて頭で理解できた。




「前から春華のことが好きだった。」





 いつもの帰り道が、その日の春華には果てしなく長く感じた。


 右足と左足を交互に出す作業さえ、気を抜けば間違えてしまいそうだった。


 節電のために灯りの消された商店街も、すっかり花びらの散った桜の木も、全てが輝いていた。


 自分の部屋にたどり着くと、鞄を置くより先にCDをプレーヤーに入れた。


 流れ出したギターの音色を全身の細胞で感じながら、ベッドに寝そべった。


 剥がれかけた天井の壁紙は次第に滲んで見えなくなった。


 家がまた少し揺れた気がした。



最後まで読んで頂けて嬉しいです。

完全なる素人ですが、初めて小説というものを書いてみました。

「ギター」、「チョコレート」、「錯覚」という3ワードを使って自由に文学作品を作るという企画に参加したときのものです。


恋はいつも苦しいものですが、その苦しさに対して臆病にはならずに生きていきたいですね。

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― 新着の感想 ―
[一言] 面白いです。 私は普段、人の小説を全部読んだりしないのですが、全部読みました^^ 素敵なお話ですね。
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