ひたすらに追う者
私は野良犬に追われる身である。なぜかと聞かれれば、偶然あいつと目の合った後に、怒鳴り立てながらこちらへ向かってきたからだ、とするほかない。ワンワンとやかましく一方的に騒ぎ立てながら荒い吐息をガアガアと喉の奥から吐き続けながら、あれは私を追いかけてくる。私は風のごとく走り続けている。もうすでに全速力で走って10分は経とうとは思われるのだが、未だに自己のスタミナの限界を感じぬ。どのように腕を振り、どのように足を運んでいるのか、自分でも見当がつかぬ。アドレナリンのなせる技はそれだけにとどまらず、必然、私の気分を狂おしいほどの高揚へ持ち上げてくれる。奇声を発せねば気がすまぬ。自分の耳で聞いても狂人に由来するものに疑いの余地など一切皆無。超高音域の音波である。
止まれば死ぬ。きゃつの高速は既知。ライオン、ジャガー、ヒョウ、それらと全く同じ走行形態。四足歩行のなせる高速度。人類の到底及ばぬ領域の存在。それに追われて逃れられようはずもない。きゃつの口内には無数の刃が仕込まれている。我々人類のものとは全く異なる用途の、生き物を殺すための刃。絶え間なく躍動する私の両足を破壊し、絶命へ至らしめる確実極まりないきゃつの初手が眼前にありありと映し出される。
しかしこの状態はどうだろう。もう15分は経とうという頃、未だに私は逃げおおせている。背後に迫る死にアドレナリンをみなぎらせられながら。私はまだ生きられる。きゃつは私に追いつけぬ。私は人間を超越している。そう思うと、気づけば3歩おきに発せられていた奇声も、私を取り囲むビル群の屋上を見据えて縁起よく射出せんというものだ。
このビル群の終りが見える。この薄暗い環境が終わりを告げると、つぎはまばゆい日光だった。その明るさを認識するや、私の足は空を切った。下は果てしない空間であった。後ろを振り返ると、切り立ったコンクリートの塊の先端で、先ほどの犬が立ちぼうけのままワンワンと鳴いていた。それは勝者の雄叫びにも聞こえたし、敗者の嗚咽にも聞こえた。私の体はゆっくりと地の底へ吸い込まれていった。重力という死神が私を確実な臨終へと導くのを、1音ごとに目覚ましい増幅を感じさせる心音が、けたたましく教えてくれた。
一秒に数百と心臓が脈打つのを感じたといえば、それは妄言としか捉えようがないのだろうか。思えば犬から自力で逃げ出しているという時点で、私は人間を超えていたのではなかろうか。私の心音が今もなお、まるで雨音のような連続さで胸を打ちならしているといえば、それを信じてくれる人間はいるのだろうか。私は今も走り続けているのだが、私の顔はどこへ行ったのだろうか。私が今懸命に振り続けているはずの両腕が、さっぱり見えないのはどうしたことだろうか。無限の速さで動いている私の足は、ついに液体と化してしまったのだろうか。
空が先ほどの重力を取り戻し始めている。私の体が、再びひとつに集まっている。私が自分の確かさを久しく感じた時、腕には大金の詰まったかばんが握られていた。なぜかばんを開かずに中身がわかるのか、なぜ背後に迫るパトランプを灯した4つの車が私を追ってくるのか、それらに対する理解は何一ついらず──ただ必要なのは、この無数の速度で鳴り続ける心臓を静めることだけだ。歓喜に震えるこの体が、この見事な夜空に鮮やかな音波を捧げよう。