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機体は嘘をつかない  作者: 試作ノ山


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第四章 エンジンが冷める前に

 ヘルメットを外した瞬間、静寂が耳に流れ込んできた。


 コクピットの内側はまだほのかに熱を持っていた。計器類が放つ微かな電子音と、自分の呼吸だけが聞こえる。理津はシートに背中を預けたまま、少しの間だけ瞼を閉じた。一秒、二秒。それで十分だった。


 全身に疲労が染み渡っているのがわかった。右肩から首筋にかけて、重いものをずっと抑えつけていたような鈍い痛みがある。ハンドルを握り続けていた両手の指が、開こうとすると少し遅れる。それでも、理津はシートから身を起こし、コクピットのハッチを押し上げた。


 外の空気は冷たかった。廃工業地帯の夜気は、金属と埃と機械油のにおいが混じって、この場所に長い時間が積み重なってきたことを静かに教えてくれる。理津はハッチの縁に手をかけて機体の外に出ると、そのまま零式の外装へ視線を走らせた。


 左腕部のパネルに、思っていたより深い擦過痕が走っている。あの第三ラウンド、霧嶋のアルガス・フォルスが繰り出した近接押し込みで削られたものだ。外から見ると傷は浅く見えるが、感触でわかる。フレームの奥まで振動が届いていた。明日、外装パネルを外して内部を確認しなければならない。


 理津はつなぎのポケットから布を取り出し、指先で外装の表面をなぞった。傷の縁を爪先で軽く押す。凹みの深さを確かめる。左腕の根元、接合部の遊びも増えている。ここは増し締めが要る。


 歓声はとうに遠ざかっていた。フィールドの観客たちが沸き立った声も、アナウンスが勝者の名前を読み上げた声も、理津にとってはもうずいぶん前のことのように感じられた。工具箱を引き出しながら、理津はまず缶コーヒーを一本、零式の足元に置いた。プルタブを引く音だけが、静かな夜に小さく響く。


 それが合図だった。



「勝ったじゃねえか! なんで浮かない顔してんだよ!」


 背後から声が飛んできた。テツだった。


 振り向かなくても足音でわかる。あの重たい靴底の音は、理津が転々としていたころから変わらない。テツは工具箱を肩に担ぎ、少し息を切らしながら駆け寄ってきた。外部サポート用のモニタリング端末をまだ首からぶら下げたままで、画面には試合中のデータがまだ残っている。


「左腕」と、理津は言った。「思ったより削られた。明日の整備が長くなる」


 テツは一瞬きょとんとして、それから苦笑した。


「……おまえなあ」


 こういうときのテツの顔を、理津は好きだった。呆れているのに怒っていない、諦めているのに嬉しそうな、あの顔。言葉にしたことはないし、するつもりもないが。


「サポートモニターのログ、あとで見せろ。右スラスターの出力、後半落ちてた気がする」


「落ちてた。気づいてたんなら言えよ、コール入れたのに」


「わかってたから大丈夫だった」


「大丈夫じゃなかったら死んでるんだぞ」


 テツはぶつぶつ言いながら工具箱を零式の傍に下ろした。理津は答えず、左腕の外装パネルを留めているボルトに工具を当てた。父の工場から持ち出した、年季の入ったラチェット。手に馴染んだ重さ。


 足音が聞こえたのは、そのときだった。


 テツとは違う、均質で静かな歩き方。靴底の硬い音が夜のコンクリートに響いて、理津の手が一瞬だけ止まった。


 霧嶋ジン。


 パイロットスーツのままだった。ヘルメットを脇に抱えて、まっすぐにこちらへ歩いてくる。整然とした足取りで、表情はほとんど読み取れない。アークヴェインのロゴが入ったスーツに、汚れひとつない。


 テツが小声で「あ、」と言った。


 霧嶋は零式の前で立ち止まった。理津を見た。まっすぐに、と言うほかない視線だった。何かを探しているようで、同時に何かを確かめているようでもあった。


「ひとつ聞いていいか」


 声はフラットだった。感情が抑えられているというより、まだ整理がついていないように聞こえた。


「あの機体、自分で直しているのか」


 理津はラチェットを持ったまま、霧嶋を見た。


「全部」


 それだけ言った。嘘をつく理由もないし、付け加える言葉も思いつかなかった。零式の傷も、継ぎ接ぎのフレームも、積み重なった整備の時間も、全部がそのまま「全部」という一語に収まっていた。


 霧嶋は少しの間、沈黙した。


 理津には、その沈黙が何かを意味しているような気がした。驚いているというより、何かが揺さぶられているような間だった。エリートの訓練で磨かれた顔の作りの奥で、小さな何かが軋む音がしたような、そんな気配。


「……そうか」


 霧嶋は短くそれだけ言って、踵を返した。来たときと同じ、均質な足音で歩いていく。ただ、その背中に何かが揺れていた。言葉にはならない何かが。どこへ帰るのか、何を考えながら歩くのか、理津には知る術がない。


 テツが首を傾げながら言った。「あいつ、なんかあったか?」


 理津は答えなかった。


 右手が自然に、薬指の指輪に触れていた。くるくると回す。外れないまま空回りするだけの動きを、指が勝手に繰り返す。霧嶋の去った方向を、一瞬だけ目で追った。コンクリートの暗がりに、背中がゆっくりと消えていく。


 それだけだった。


 理津はラチェットを握り直して、ボルトに向き直った。



 夜が深まるにつれて、フィールドから人影が減っていった。


 歓声も、エンジン音も、スタッフの怒鳴り声も、少しずつ遠ざかっていく。最後には理津とテツと、零式だけが残った。テツは傍らでモニタリング端末のログを整理しながら、小さな古いラジオのスイッチを入れた。どこかの放送局が流している夜の音楽番組で、ゆったりしたギターの音が薄い空気の中に溶けていく。


 損傷した左腕の外装パネルを外すと、金属音がフィールドに響いた。パネルを地面に置く鈍い音。内部を覗き込む。フレームに走った細かい歪み。接合部のわずかな変形。理津の指が、ひとつひとつを確かめていく。


「やっぱり内側もか」とテツが言った。端末の画面を覗き込みながら。


「フレームまでは届いてない。外装の交換と、接合部の調整だけで戻る」


「それでも三時間はかかるだろ」


「四時間かもしれない」


「どっちにしろ長えな」


 テツが苦笑いするのが、視界の端に見えた。理津は構わず工具を替えた。父の工場から持ち出した工具と、後から買い足した工具が混在している工具箱の中から、指の感触で目当てのものを探す。形でわかる。重さでわかる。


 零式の足元に置いた缶コーヒーが、夜気に冷えていく。


 理津はそれをまだ飲まなかった。飲み終わるまでは整備をやめない。だから、飲み終わるまでに終わらせなければならないことを先に決めてしまう。今夜終わらせるのは、外装交換と接合部の応急措置と、右スラスターの出力低下の原因特定まで。本修理は明日でいい。


 機体が静かだった。


 戦闘が終わった零式は、いつもこういう静けさを持つ。熱が少しずつ抜けていく過程の、微かな金属の収縮音。それが理津には聞こえる。機体が今夜あったことを、静かに自分の中に収めていくような音だった。


 霧嶋の問いが、まだどこかに引っかかっていた。


 あの機体、自分で直しているのか。


 理津は特別に深く考えたわけではなかった。ただ、あの問いが生まれた場所について、少しだけ思いを馳せた。アークヴェインのエースパイロットには、機体を直す人間が別にいる。整備チームがいて、データがあって、最新の解析システムがある。霧嶋はおそらく、自分が乗る機体の内側を自分の手で触ったことがない。それが悪いことだとは思わない。ただ、違う、と理津は思う。


 知らない、ということだ。


 機体が正直に教えてくれることを、知らない。


 それが何を意味するのか、霧嶋がこれから考えるかどうかは、理津の知るところではなかった。ただ、あの背中に揺れていた何かは、本物だったと思う。数値にならないものが、確かにそこにあった。


 指輪が指の腹に触れた。


 くるくると回す。外れないまま、ただ回る。父が作業台の端に残していった端材を、理津自身が削り出して作った銀の輪。内側が変形するまで金属を叩き続けた結果、もはや外れなくなったそれが、今夜も指に収まっている。


 工場の鍵だけが残されていた朝のことを、理津はあまり詳しく思い出さないようにしている。思い出そうとするとうまく像を結ばない。ただ、父が最後に言った言葉だけは、いつでもはっきりと聞こえる。


 お前は機械の声が聞こえる人間だ。


 ラジオから流れる音楽が、少し音量を上げた。テツが端末を置いて背伸びをする気配がした。


「コーヒー、冷めるぞ」


「わかってる」


「飲んだら少し休め」


「終わってから」


「おまえの『終わってから』は信用できない」


 理津は答えず、接合部の歪みに工具を当てた。微妙なテンションをかけながら、指の感触で調整の具合を確かめる。少し、また少し。ここは慎重に。急いで締めると後で歪みが出る。


 ラジオの音楽が続いている。


 金属音が夜に響く。


 零式は静かにそこにあった。傷だらけで、継ぎ接ぎで、今夜またひとつ削られた痕を左腕に刻んで、それでも確かにここに立っている。理津が手のひらを当てると、フレームの奥に今夜の熱がまだ残っていた。


 冷め切る前に、ちゃんと確かめてやらなければならない。


 工具の音が、夜の奥へ静かに溶けていく。缶コーヒーは、まだ足元でその時を待っていた。

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