第一章 今夜のコンディション
夜気が鉄の匂いを運んでくる。
廃工業地帯の空は、どこまで見上げても同じ色をしていた。街灯のない闇に、フィールド周囲へ仮設された照明機材の白い光だけが奇妙な格好で浮かんでいて、錆びたフレームや壊れたまま放置されたクレーンの残骸を、芝居の書き割りみたいに照らし出している。風はほとんどない。あるのは湿気と、金属と油が混ざり合った、鼻の奥に粘りつくような夜の重さだ。
緋山理津は、ヴァルカ零式(改)のコクピット横に立っていた。
残り十五分。試合開始まで、あと十五分。
足元の地面はコンクリートが割れ、砕けた破片の隙間から枯れた雑草が覗いている。そこに濃紺のつなぎを着た理津が立ち、右肩部のスラスターへ静かに手を伸ばした。人差し指と中指を揃え、指の腹で金属面を軽く叩く。一回、二回、三回。返ってくる振動を、指先ではなく手のひら全体で受け取るようにして、目を細める。
耳が音を拾う。
高くも低くもない、けれど普段より微妙に鈍い響き。まるで喉の奥に何か詰まっているような、すっきりしない余韻だ。
「……少し重い」
独りごちる声は、自分の耳にしか届かない音量だった。
「湿気のせいか」
視線を上げて空を見る。雲は薄く、星はほとんど見えない。乾いているようで、実際には空気に水が溶けている夜だ。フィールド北側の壁面に残った古いパイプから、細い水滴が石畳を叩き続けている音が聞こえた。零式のスラスター内部の気密シールは、先週交換したばかりだ。それでも湿気は入り込む。機械は正直で、かつ正直すぎるほど繊細だ。
理津は額に手をやり、色あせたオレンジのバンダナを締め直した。結び目をひとつ確かめ、垂れてきたほつれ毛を親指の腹で耳の後ろへ押し込む。それから再びスラスターへ向き直り、今度は外装パネルの縁を指先でなぞるように点検した。緩んでいる箇所はない。接合部の温度も均一だ。ここまでは問題ない。
出陣前のこの時間は、理津にとって戦闘の一部だった。機体に触れること。音を聞くこと。温度を確かめること。整備士としての習慣が、いつの間にか出撃前の儀式として身体に染みついている。工具を持たずに機体を触るのはこの時間だけで、手のひらと耳だけを頼りに機体の今夜のコンディションを読む。データは補助に過ぎない。本当のことは、機体が直接教えてくれる。
足音が聞こえた。
「おい理津、見たか?」
テツが息を切らしながら走ってきた。片手に外部モニター端末を持ち、もう片方の手で前髪をかき上げながら、理津の横に肩を並べる。二十六歳にしては声がでかく、落ち着きがないが、それがこの男の標準状態だ。
「相手、見たか。霧嶋ジンだぞ」
テツは端末を理津の前へ突き出した。画面に映るのは、対戦相手の登録データだ。顔写真と機体スペック、所属組織の名称。
「アークヴェインの若頭じゃねえか」
理津は返事をしなかった。
スラスターから手を離し、端末へ視線を動かす。相手の機体名がそこにある。アルガス・フォルス。理津は画面を左へスクロールし、スペック一覧を呼び出した。出力値、装甲厚、センサー反応速度、推進効率、すべての数値が並んでいる。
数値は嘘をつかない。
出力で零式の一・七倍。装甲厚で一・四倍。センサー反応速度に至っては計測基準が違うかと思うほどの差がある。最新鋭機というのは言葉の通りで、現在存在する技術の最前線を惜しみなく詰め込んだ機体だということが、数値を見ただけでわかる。
理津の視線は画面の上を、静かに、冷静に動いた。
ただ、右手の指が動いていた。
右手薬指。幅広の銀の指輪。指先がそれを摘まみ、くるくると回し始める。外れない指輪は空回りするだけで、それでも指は止まらない。端末を持っていないほうの手が、無意識に繰り返すその動作を、理津自身は気づいていない。
「やばくね」とテツが言った。「数値だけ見たらどう考えてもやばい。理津、お前どう思う。正直に言えよ」
理津はスクロールをやめ、霧嶋ジンの顔写真を一秒だけ見た。若い。二十一歳。端整な顔立ちで、写真の中の表情は静かで、どこか自信が形になったような目をしている。エリートというのは顔にも出るものだと理津は思った。
返事はしなかった。
端末をテツへ返し、零式のコクピット側面へ向き直る。フレームに手を置いた。長年の整備で塗装の剥げた金属が、ひんやりと手のひらに馴染む。
仮設照明の白い光が、コクピットのガラスカバーに反射した。
その一瞬、理津の視野の中で光の形が変わった。
ガラスに映り込んだ照明の輪郭が、工場の作業灯の色に似ていた。コンクリートの床。金属を叩く音。整備油の匂い。父の背中。古い工具箱の並び方。壊れたものを渡されるたびに、直せるまで手を離さなかった、あの感覚。機械は正直だ、と父は言っていた。嘘をつかない、正直に全部教えてくれる、お前はそれが聞ける人間だ、と。
光が揺れた。照明の電源が一瞬不安定になっただけだ。それだけのことで、工場の風景は消えた。
「……機体が正直に教えてくれる」
小さく呟いた。独りごちる声は、また自分の耳にしか届かない。
テツが隣で「え、何?」と聞いたが、理津は答えなかった。
足元に置いてあるヘルメットを拾い上げる。傷だらけのシェルに、内側のパッドが少し潰れてきているが、まだ使える。手に持った重さが、いつもと同じだ。いつもと同じ重さ。それが今夜の出発点だ。
指輪を回す指が、ようやく止まった。
理津はヘルメットを被った。バンダナの上から顎紐を締める。コクピットのラッチに手をかけ、搭乗の体勢に入りながら、一度だけ零式のフレームを平手で叩いた。返ってくる振動は先ほどと同じ。少し重い。湿気のせいだ。でも、動く。
数値の差は明確だった。スペックの上では、今夜の勝率を計算したとしても、割の合う数字にはならない。それは理津もわかっている。わからないふりをするつもりもない。
それでも、表情は動かなかった。
揺れるものが、どこにもなかった。
テツが「俺、外部サポートのポジション行くから」と言い、走っていく足音が遠ざかる。フィールドの向こう側から、観客の声がざわめき始めているのが聞こえた。非公認の試合だが、人は集まる。機体が動くのを見たい人間というのは、どこにでもいる。
理津はコクピットの中に収まり、シートベルトを締めた。起動前のチェックリストを、画面ではなく手順を身体で覚えているとおりに進める。計器類に視線を走らせながら、右手の指が一瞬だけ指輪に触れた。くるくると、一回だけ回す。それから手を離す。
零式が、低く唸り始めた。
エンジン音は、理津には馴染んだ声だ。湿気を含んだ夜気の中でも、この機体はちゃんと起きる。重いと言っても、動くことを拒んではいない。ただ、今夜の条件を正直に伝えているだけだ。機体はいつだって正直だ。だから理津は信じられる。
照明の白い光がコクピットガラスを縁取り、フィールドの向こうに対戦相手の機体シルエットが見え始めた。
アルガス・フォルス。
数値は正直だ。けれど、数値だけが全部じゃない。
理津は、静かにスロットルへ手を置いた。




