4話 夏の庭
セミすら鳴くのをやめるような暑さの中、私は学校の家庭科室で外以上にゆだる熱気の中にいた。来る文化祭に向けて最高の味噌汁を作るのだ。すでに味噌汁屋の名前も決まっていて、あとは目玉となる味噌汁を作るだけというところまで来ている。店の看板となる味噌汁である。そこらの顆粒出汁でいいはずがない。それを誰が言い出したのかは覚えていない。ただ、もし自分がそうですとのこのこ出てきたら思いっきりつねってやりたい気持ちだ。なにせ家庭科室にはエアコンがない。この暑い中、延々と出汁を取るためにゆで続けているのだ。もうサウナもさながら、強制我慢大会なのである。
一番出汁ってこのボウルの奴? 色の濃さで分かるようになってきたよね……。
誰か鰹節削り変わってくれぇ~! まだまだおかわりがあるぞ! 人力がいいとか言ったの誰だよ!?
背後では悲喜こもごもな会話と叫びが聞こえてくる。かくいう私は昆布を取り出す係だ。お湯が沸いた瞬間にくたっとした昆布を取り出すのだ。はっきりって暑い。一番熱源に近いところにいるのだから当然である。
……もう限界だ。鍋の火を止める。エプロンを外し、こそこそと出口へ向かう。当然見つからないわけがない。
「ちょっと水買ってくるだけだから……」
「ウソ。信ジナイ。美香モ由香里モソウ言ッテ戻ラナイ」
「ホント、私、ウソツカナイ」
小芝居を躱せばようやく外だ。全開の窓から吹き抜けてくる風が気持ちよい。汗だくな身体が一気に冷やされるようだ。
まずは宣言通り水を買いに行く。ただ、多少遠回りだったとしてもそれは誤差というものだ。すぐに戻るとは言ってないからセーフである。
ぐるりと大回りしながら校舎を歩く。いたるところで文化祭準備が進められている。夏休みだというのにご苦労なことだ。自分を棚に上げてそんなことを思う。
学内の自動販売機は購買前の2台だけ。あとは学外なので暑い直射日光に耐える必要がある。水が売り切れることはそうそうないだろうが、この暑さと登校生徒数を考えると油断はできない。
何度も戻ってくるお札に四苦八苦している生徒が先客だ。別に急いでないので黙って待つ。ようやく入った千円札によって購入可能なジュースが点灯する。うん、問題ない。炭酸飲料とコーヒー、そしてなぜかトマトジュースが売り切れになっているものの、お目当ての水は煌々と輝いている。
ガタンと男子生徒の買った飲料が落ちてくる音。がたがたとペットボトルを受取口から取り出し、その冷たさに満足げだ。うらやましい。私も早く涼みたいからそこをどきたまえ。もちろん言えないし、彼も私に会釈をしてすぐに通り過ぎる。
──はずだった。
急に立ち止まった男子を迷惑そうに見る。ハトでっぽう?を喰らったような顔。眉を上げたその顔は、なんとなく見覚えがあるようなないような。
「あ、あの! ちょ、ちょっとだけ、ちょっとだけここで待っててくれませんか?! 渡したいものがあって、すぐ戻るので!」
いきなりの頼みごとに後ずさる。勢いがありすぎて私に突撃してくるのかと思ったのだ。さすがにそれは思い過ごしだったが、そのくらいの熱意を感じた。
だから、つい頷いてしまった。
「ありがとうございますっ! じゃあ、ほんとすぐ戻るので!」
そういうと男子はすごい勢いで階段を上っていく。この暑いのに、階段ダッシュかぁ……。うっかり待つことを約束した手前、待たねばなるまい。家庭科室で私の帰りを待つものがいるとしても、してしまった約束を破るわけにはいかないのだ。自分なりの言い訳が出来たところで水を買う。スマホを取り出し、電子決済を行う。……出てこない。見れば、残高が56円と出ている。そういえば最近チャージしたのはいつだったか。便利さにかまけて電子決済ばかり使ってたツケがここにきて回ってきた。無論、財布は家庭科室の鞄に入れっぱなしだ。
「わざわざ戻るのもなぁ……」
一応人を待っている身でもあるし、家庭科室まで戻るという行為自体が面倒だ。多分戻ったらもう出してもらえないだろうし。
ため息をついたところで階段からバタバタと軽快な足音が聞こえてくる。全力疾走で駆け下りてくるような心当たりは一人しかいない。まずは話を聞くか。
息を荒げて私の前に立つ男子生徒。ちょっと待ってくださいと肩を上下しながら息を整えている。そうなるくらいなら初めから普通に降りてくればいいのに。無駄な行動に少し呆れる。
男子生徒が履いている赤い上靴からすると同級生だ(私たち2年生は靴からジャージまで全部赤色だ)。美術とかの合同授業でも見た覚えはない。なのに不思議と覚えのある顔。どこで見たんだったか。
私が思索にふけっていると、ようやく息を整えた男子が白い封筒を差し出してきた。
おとなしく受け取る。中を、見てもいいのかな? ちょっと無作法な気もするけど、その場で中身を取り出す。
中身は何枚かの写真だ。
「勝手に撮ってしまって、すみませんでした!!」
そう言って彼が頭を下げる。90度。見事な謝罪のポーズ。でもそれよりも、写真の方がよほど興味深い。
上から見下ろすような画角で、見覚えのある小さな空き地が映っている。ひしめき合うような猫たちの集会だ。一枚目には私の知ってる猫と知らない猫が入り混じった、大集会が開かれていた。どこに潜んでいるのか、20匹くらいは映っている。好き勝手にするのは数が多くとも変わらないけれど、密度が高くなっているせいでちょっと邪魔そうに見ている子もいる。それぞれの猫の個性がよく表れた一枚だ。
二枚目にはそこに異分子が混じる。猫の集会に人間がいるのだ。つまり、私のことだ。その写真はちょうどぶち猫と私が挨拶を交わしている瞬間だ。ぶち猫が突き出した鼻先と、私の人差し指が触れる瞬間を映し出している。周りの猫たちは相変わらず何事もないように思い思いの姿勢でくつろいだまま。何となく、集会の外から見ても、猫たちに受け入れられているように見える。上から見た私の横顔は嬉しそうな表情をしている。そうか、私は嬉しかったんだなと、今更ながらに集会に参加し続けていた理由を悟った。全く勘の悪い私である。
その次の写真も、さらにその次も。写真は小さな空き地を映していて、私が映っていた。私に向かってあくびしている猫(本に目線を向けていて気付いていない)の写真、私の膝に手を当てて本を覗こうとしている虎猫、決して一定距離から近づいてこない灰猫も映っていた。素人目線だけれども、とても自然に撮れている写真だ。見ていてなんだか心が和む。映ってるのが自分でなければもろ手を挙げてほめちぎっていただろう。
そして最後の一枚には、カメラをまっすぐ見つめた私が映っていた。驚いた、という言葉を写真に写したとでもいうように、目を真ん丸に口を開けている。なんとも気の抜けた顔だ。あんまりにも気が抜けている顔に、思わず笑い声が漏れた。
先ほどからずっと90度を保ち続けている男子が、私の笑い声に顔を上げる。目が合う。
「ね、ずっと撮ってるの? 猫の集会を」
「あ、うん。なにせ俺の部屋のすぐ下でやってるもんだから」
「この写真、あなたに悪気があったわけじゃないってのは、分かる。だからもう謝らなくてもいいよ。その姿勢、辛いでしょ?」
男子はもう一度頭を下に向けてから、ようやく背筋を伸ばしてまっすぐに立った。私よりも頭一つ分は高い身長。妙にひょろっとして見える。
「ほんとさ、反省してる。君はそう言ってくれたけど、さすがに行き過ぎてたと思うから」
「いいよ。私だって人の敷地に勝手に入り込んでたんだもの。行き過ぎって言うなら私も一緒」
はぁ~、と安心したように彼が息を吐く。そして私から視線を逸らした。
「あれからさ、3回くらいは集会があった。俺の知ってる限りだけど。でも君は来なかっただろう? 絶対俺のせいだよな?」
「……別に文化祭の準備で忙しくなっただけ。っていうのはいいわけで、半分くらいはその通り、かな」
半分? と訝し気な視線に苦笑いしてみる。
「君に見つかって我に返ったってのもあるけど、何やってるんだろうなって自分でも思ってるところがあって。猫に交じってただぼーっとしてるって、変でしょ?」
「……俺は、すごくいいなって思ったけどな。実は君が集会に来てたのは何回か見てたんだ。同じ学校だって気づいてさ、時々校内で、あの人だ、って見たりしてた。いや、ごめん。ちょっときもいよな……。いや、勝手に撮って本当に悪いとは思っているんだけど、それでも撮らないとって思ったんだ。本当に良いと思ったんだ。映さないでいるにはもったいないって」
いつだったから感じていた視線も君か。まあ悪意があったわけではないようだから構わないけれど。それにしても、あまりに褒められるので、ちょっと照れるな。私からすればただ居心地がよかったから入り浸ってただけって、そんなつもりだったんだけど。
「そう? なら、悪くはなかったのかもね」
「あそこの空き地、今のところ誰も管理している人がいないんだ。でも雑草を放置してるとやぶ蚊とか出てきて良くないし、俺が時々草刈りしてんだ。だからある意味じゃ、俺が管理者ってことになる」
どうりでぼうぼうな藪草にならずに済んでいるわけだ。思わぬところで私たちを助けてくれていたという事実に感謝の言葉を贈りたく思う。
「だからさ、別にいいよ。あそこの猫たちがキミを連れてきたんなら、好きに過ごして貰えれば。第一あそこは俺が管理する前からずっと猫の集会場になってたんだ。後から来た俺が文句を言う筋合いなんてない」
「……いいの?」
「いい! 他の家から文句が出た時は、俺が引き受ける! ま、ずっと俺が草刈りしてたんだから文句は言わせないけどな」
「…………じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな」
ちょっと。いや、とても。すごく。嬉しい。自分でもあきれるほど、表情に出ているのが分かる。
目の前の男子が戸惑った風に私を見ている。そりゃ不審に思えるだろうけれど。こればかりは、私の気持ちは分かるまい!