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1話 灰猫に招かれて

 汗で髪が首筋に張り付いて気分が良くない。普段なら気にならないような些細なことに気を取られるのは、状況の意味の分かなさが原因だ。

 突然私へ謝罪と共に差し出されたのは白い封筒に入った何枚かの写真だ。

 

 そこに映るのは、猫と私だ。入り組んだ路地の奥の奥、小さな空き地で開かれている猫の集会。それは私にとってはもう届かないはずの宝物のような時間だった。

 きっかり90度に頭を下げている男子生徒を見る。ようやくこの男子が誰だったのか思い至る。


 ──ね、ずっと撮ってるの?

 

 私のやらかしと彼のやらかし。多分、それこそがきっと大事なことだった。


 ***


 私が通う高校への道には猫が多い。いわゆる地域猫という、増えすぎないように管理された猫たちが気ままに暮らしているのだ。

 猫は嫌いではない。ことさら好きというわけではないけれど。毎日見る猫がいるなぁとか、いい気になって寝ている猫がいるな、とかそんな感想を持つくらい。わざわざ触りに行ったり、仲良くなりたいなと思うようなことはなかった。


 しかし私や猫が、というよりも巡り合わせというものは強いらしい。


 私が歩くこの道で同じ学校の生徒と会ったことがない。それは通学路を遮るこの踏切が原因だ。この線路を辿っていくと、何本かの路線が乗り入れしている、交通の要所と言うべき駅が近くにある。

 一日に何十、いや何百かな、電車が通る。つまり非常に高頻度で踏切が閉まるのだ。

 朝の忙しい時間だろうが疲れて帰る放課後だろうが、容赦なく踏切は閉まる。そして地域住民や生徒の大きな声に応えて陸橋が立てられたのが10年ほど前のことらしい。

 つまり、よほどの物好きだとかものぐさ人間でない限りは、陸橋を渡るからこの道は人気が無いんですね。


 ちなみに私の家から陸橋を使って帰る場合、いったん逆方向に歩いていかないといけない。さらに言えば、階段を上り下りする必要もある。ただその場で待つだけで開く踏切と、わざわざ遠回りして登らないといけない陸橋。私が前者を選んだとは言うまでもない。


 ***


 初夏の風が吹く夕暮れ前。授業が終わっての帰り道、私は手で庇を作って太陽を恨めしげににらみつける。まだ梅雨入りも前だというのに、今からこんなに暑くしてどうするのか。暖機運転にもほどがある。

 どんなににらみつけても太陽は素知らぬ顔で地球を回るわけで(地球が回っていることは知っている。念のため)、力なき人間はただ日差しを避けるしかないのだ。

 大通りとは口が裂けても言えないような細い路地だから、あまり日陰になるようなものはない。時々民家の庭から元気よく飛び出している木陰だけが私の味方だ。


 踏切の真ん前にも丁度良く大きな木が生えている。桜の木だ。あおあおと茂る葉っぱが目にも肌にもやさしく直射日光を遮ってくれている。細くても道は道なので、時々自転車やバイクも通る。だから私は木のそばへと出来る限り寄って、踏切が開くのを待つのだ。

 木のそばによるということは、道と家を隔てる塀に近づくということでもある。今時あまり見ない古いブロック塀である。何となく触れてみれば、ずっと木陰に守られているせいか、あまり暑くはない。直火で太陽に炙られているお隣の塀は陽炎すら出ているというのに、ずいぶんな差がある様子。あちらでは目玉焼きだって作れそうだ。塀と卵。単純な連想ゲームで、ハンプティダンプティ塀の上、などと口ずさむ。

 

 誰もいないからこそ出てきた鼻歌だったが、塀の上には卵ならぬ猫が一匹。胡乱気に私を眺めている。

 

 灰色の毛並みで、他の猫よりも少し大きい。口元だけが白いのがなんとも愛らしい。でも私を見つめる表情が半目。半開きの口も閉じていればもっとかわいいと思う。


 気まずさに鼻歌も勢いをなくす。卵よりは猫の方が塀の上はふさわしい。見れば片耳が少し欠けていて、地域猫だと分かる。あまりにじっと見過ぎたせいか、その灰色の猫はにゃ、と鳴いた。


「ごめんね、見過ぎちゃって。でも木陰にいることくらいは許して?」


 猫相手にお願いするのもおかしな話だが、一応は先客である。機嫌を損ねてひっかかれたくはない。

 灰色の猫は不満そうにフンっと鼻息を漏らしてから、顔をそむけた。一応は許しを得たということのようだ。

 踏切がかんかんと鳴って、上りと下りの電車が交錯する。騒々しいカザキリ音の後の静寂──踏切は鳴り続けているのになぜかそう感じるのは不思議だ──が終わり、踏切が開く。


 特に灰猫を振り返ることなく踏切を渡っていく。思ったより近くに猫がいた。ただそれだけの事で、すぐに私はそんなことを忘れてしまっていた。


 それを思い出したのは次の日。同じように帰りのことだ。昨日と同じように、昨日と同じ場所に灰猫がいた。私も同じように木陰に寄っていったから、ほとんど同じ状況が再現された。

 一日なら偶然、二日続けば気まぐれで、三日連続なら習慣だ。私よりよほど規則正しい生活をしているようだ、この猫は。


 それからというもの、灰色の猫と私は帰りの時間にだけ近づく。どちらも暑さをしのぐため。ただのすれ違いに過ぎないけれど、それが続けば顔見知りとなる。


 時々灰猫はにゃ、と鳴く。どうも私に言っているようで、じっとこちらを見つめている。猫相手とはいえども黙っているのは良くない。猫の言葉は使えないから、私なりに思ったことを伝える。


「今日も暑いね」


 当然言葉は通じない。互いに次につなぐ言葉も声もない。弾むはずのない会話である。ただの顔見知り相手だから当然と言えば当然だ。そうこうしていれば踏切は開いて、私は家路に戻る。

 時間にして1分やそこら。引き留められることもない、とてもさらっとした交流だった。



 ***


 しかし顔見知りも重なれば知り合い程度の関係にはなるらしい。

 ある日灰猫が塀の上で立ちあがった。四つ足を前後に伸ばしてあくびを一つ。猫にとってあくびは眠さを表すものではなく、動くぞという切り替えスイッチのようなものらしい。誰かがそう言っていたのを聞いたような気がする。そのまま灰猫は躊躇なく塀から路地へと降りてきた。ちょうど私の1m先へと。


「今日は君が先に行くんだね」


 いつも通りなら、大して熱のないその言葉をきっかけに別れるだけ。まだ踏切は開かない。電車の音は遠い。だから灰猫が鳴く声に顔を向ける余裕があった。

 にゃ、と鳴いて私の顔を見る。何歩か歩いた後に顔だけ振り返る。そして再びにゃ、と鳴いた。そのままの姿勢で動くこともなく。


「もしかして、ついて来いって言ってる?」


 にゃ、と鳴く。さっきとほとんど変わらない調子だ。試しに一歩、灰猫へと踏み出す。灰猫は動かない。もう一歩、二歩と近づくと、灰猫がスルスルと前に進む。そしてまた振り向く。

 完全に私が付いてきているかを確認している。早くしろとばかりに、目が半目になっている。多分、私が行かないと話が進まないやつ。

 年頃の女子高生にあるまじきことに、私には予定がない。予定がないからこそこんな線路や路地を歩いているともいえるけれど、平日はほぼ毎日なのだから言い訳にはならないだろう。

 予定がないことは余裕があっていい。何となく暇だから、それだけの理由で私は灰猫の後を追うことに決めたのだった。


 ***


 この路地裏に始めて入り込んだ時にはずいぶんと迷ったことを覚えている。灰猫にとってはまさに自分の庭同然だろうけれど、私は若干帰り道が不安になる。気まぐれな猫相手に帰り道の案内は期待できない。スマホの充電がちゃんと残っていることを確認して一息つく。まあそれなら恐れることはない。遅いぞと言わんばかりに足を止めて私を見る灰猫の後をやや早歩きで追う。

 向かうはどこだろうか。とある猫の漫画よろしく自動販売機と家の10センチの隙間に案内されたらどうしよう? なんて自分でも笑ってしまう想像をする。


 はてさて、たどり着いたのは路地の奥の奥、家と家に囲まれた空き地だった。いわゆる旗竿地という奴だ。家を建てるにしてもちょっと狭すぎる気はする。だから余計に使われずに残っているのかもしれない。

 四方は家の塀と壁。東側にある家の二階にだけは窓があるけれど、他はまっさらな壁だけ。その窓も厚いカーテンがかけられている。まあ面白いものがあるわけでもないし、開くこともそうそうなさそうだ。

 空き地はほどほどに草が茂り、それでいて地面埋め尽くされるほどでもない。そんな空き地には先客がいた。


 猫猫猫。10匹ほどの猫が空き地の中に思い思いの姿勢でくつろいでいた。


「これって、猫の集会……?」


 ぼそりと呟くと、すでにゴロンと横になっていた灰猫が、にゃあと鳴いた。

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