第40話 数秒の好機、そして鉄壁との対峙
ギデオンが、持ち場を離れた。
その時間は、おそらく、数十秒。
いや、もっと短いかもしれない。
カイ様 に、迷っている暇はなかった。
音もなく、テオン王子の私室の扉を開け、
闇の中へと、その身を滑り込ませる。
(……カイ様……!)
遠く離れた城の隠し部屋。
私は、ただ、祈ることしかできない。
心臓の音が、うるさくて、
自分の息の音すら、聞こえなかった。
カイ様 が足を踏み入れた部屋は、
主の傲慢さを映し出すかのように、
悪趣味なほど、豪華絢爛だったという。
そして、その中央。
ビロードの敷かれた大きなテーブルの上に、
それは、静かに鎮座していた。
古代の文字が刻まれた、
巨大な、石の円盤。
ネプトゥーリア が、
私たちの海から奪い去った、
アクアティア公国 の、最後の希望。
(……重い……!)
カイ様 は、すぐにそれを確保しようとして、
その、予想外の重量に、舌打ちした。
見た目以上に、密度が高い石らしい。
しかも、テーブルには、
盗難防止のためか、
細い鎖で繋がれている。
(時間がない……!)
警鐘が、けたたましく鳴り響く。
ギデオンが、騙されたと気づくのも、
時間の問題だ。
カイ様 は、懐から、
フィンレイ様 が用意した、
特殊な酸の入った小瓶を取り出した。
鎖の錠前に、数滴垂らすと、
ジュッ、と小さな音を立てて、
金属が脆く崩れ去る。
(さすがフィンレイ様!
用意周到すぎるわ!)
石の円盤を、なんとか担ぎ上げる。
ずしりと、肩に重圧がかかる。
だが、今は、この重さすら、
希望の重さに感じられた。
脱出ルートは、来た時と同じ、
船尾の死角。
カイ様 は、重い円盤を抱えたまま、
混乱する船内を、
影から影へと、疾風のごとく駆け抜ける!
怒号が飛び交う。
兵士たちが、右往左往している。
偽の火事と、本物の混乱が、
彼の姿を、見事に隠してくれていた。
あと、少し。
あと少しで、甲板の端にたどり着く!
そこから、海に飛び込めば……!
カイ様 が、最後の角を曲がろうとした、
その時だった。
「――どこへ行く、鼠輩が」
氷のように冷たい声。
通路の先に、
一体の、巨大な壁が、
立ちはだかっていた。
『沈黙のギデオン』。
その手には、鞘から抜かれた、
禍々しい光を放つ長剣が握られている。
その双眸は、静かな、
しかし、底なしの怒りに燃えていた。
(……間に合わなかったか!)
カイ様 は、咄嗟に円盤を背後にかばい、
身構える。
相手は、ネプトゥーリア最強の騎士。
まともに打ち合って、勝てる相手ではない。
目的は、戦闘ではなく、離脱。
「その背に隠しているものを、
置いていってもらおうか」
ギデオンが、ゆっくりと距離を詰めてくる。
その一歩一歩が、
床を、そして空気を、震わせる。
絶体絶命。
だが、カイ様 の瞳から、
光は消えていなかった。
彼は、ギデオンから目を逸らさず、
しかし、その意識の全てを、
周囲の環境へと集中させる。
天井の配管、壁の燭台、
そして、床に転がっていた、
混乱で倒れたままの、酒樽。
次の瞬間、カイ様 は、
円盤を抱えていない方の手で、
腰の短剣を抜き、
床の酒樽へと、力任せに投げつけた!
ガシャン!と、大きな音を立てて、
樽が割れ、
中の酒が、ギデオンの足元へと、
勢いよくぶちまけられる。
「!」
最強の騎士が、ほんの一瞬、
その奇襲に、気を取られた。
その、コンマ数秒の隙を、
カイ様 は、見逃さなかった。
彼は、酒で濡れた床を、
スケートのように滑ると、
ギデオンの脇を、紙一重ですり抜けた!
そして、そのまま、
一切の躊躇なく、
甲板の柵を飛び越え、
重い円盤を抱いたまま、
漆黒の、冷たい海の中へと、
その身を躍らせたのだ!
ザッパァァァン!
大きな水音が、夜の港に響く。
ギデオンが、すぐに甲板の端から
海面を睨みつけるが、
そこには、黒い波が広がるばかり。
カイ様 の姿は、すでに闇に消えていた。
城の窓から、
ただ、祈るように、
その光景を見つめていた私の目に、
あの大きな水しぶきが、
確かに、見えた。
成功したの?
失敗したの?
カイ様 は、無事なの?
心臓が、痛い。
胃も、痛い。
もう、何もかもが、痛い。
アクアティア公国 の、
そして、カイ様 の運命は、
まだ、深い、深い海の底。
答えは、まだ、見えなかった。




