第26話 灰色の日常
あの日、
アクアティアが、
屈辱的な条約を飲まされてから、
一ヶ月が過ぎた。
私の愛した港町は、
その姿を少しずつ変えていた。
港には、ネプトゥーリアの黒い旗が
我が物顔で掲げられ、
横柄な態度の「行政顧問団」とやらが、
貿易の全てを取り仕切っている。
彼らの許可なくして、
アクアティアの船は、
一隻たりとも漁に出ることすらままならない。
町の活気は失われ、
道行く人々の肩は、
重たい灰色の空気に押しつぶされたように、
小さく丸まっている。
(……これが、私の決断の結果)
(私が、守りたかった民の姿……?)
執務室の窓からその光景を見るたびに、
私の胸は、ナイフで抉られるように痛む。
でも、下を向いている暇はない。
絶対に。
「……以上が、
ネプトゥーリアが要求してきた、
今月の『港湾管理協力金』の内訳ですわ」
評議の間。
私は、仮面を着けて、
いつもと変わらぬ、
凛とした(つもりの)声で報告する。
その声に、怒りや悲しみの色は、
一切乗せないように。
(協力金ですって!?)
(ふざけないでほしいわ!)
(これのどこが協力よ!
ただの、カツアゲじゃないの!)
(しかも、金額が、先月の倍になってるんですけどぉ!)
私の内心の絶叫とは裏腹に、
重臣たちは、もはや怒りの声を
上げることすらなかった。
ただ、唇を噛みしめ、
悔しさに耐えている。
この一ヶ月で、
私たちは、抵抗することの無力さを、
骨の髄まで思い知らされたのだ。
「……フィンレイ様。
この法外な要求に対し、
我々に打つ手はありますの?」
私が問うと、フィンレイ様は、
静かに首を横に振った。
「……遺憾ながら。
条約を盾にされては、
現状、従う以外の選択肢はございません」
「カイ様、騎士団の様子は?」
「はっ……。ネプトゥーリアの監視下、
満足な訓練も行えておりません。
現在は、『儀礼槍術』の名目で、
最低限の練度を維持するのがやっとです」
カイ様の言葉が、重く響く。
(儀礼槍術……。
本当は、対人戦闘訓練なのにね)
(カイ様も、みんなも、
悔しい思いを押し殺して、
必死に耐えてくれているんだわ)
評議の後、私は一人、
父の書斎に籠っていた。
フィンレイ様がまとめてくれた、
あの怪しげな人物たちのリスト () を、
もう一度、じっくりと眺める。
自称・預言者、偏屈な老婆……。
本当に、この中に、
一筋の光はあるのだろうか。
「アリア様」
セーラが、そっとお茶を運んできてくれた。
今の私には、彼女の存在だけが、
唯一の救いだった。
「……私、間違っていたのかしら、セーラ」
仮面を外し、素顔に戻った私は、
思わず、弱音をこぼしていた。
「あの時、戦うべきだったのかしら。
たとえ、国が火の海になっても……」
セーラは、静かに私の隣に座ると、
優しく、でも力強い声で言った。
「いいえ、アリア様。
アリア様は、この国と、
私たち民の命を守ってくださいました。
誰が何と言おうと、
それだけは、間違いではございません」
「でも、みんな、苦しんでいるわ。
笑い声も、歌声も、
あの頃の港町からは聞こえてこない……」
「……今は、雌伏の時なのですわ」
セーラが、私の手をぎゅっと握る。
「いつか、アリア様が、
この国に本当の笑顔を取り戻してくださる。
私たちは、そう信じております」
信じてる……。
セーラの、その真っ直ぐな言葉が、
私の乾ききった心に、
じんわりと染み込んでいく。
そうだわ。
私が諦めて、どうするの。
私が、この国の最後の希望なんだから。
(……なんて、自分で言うのは、
ものすごくおこがましいけど!)
私は、涙をぐっと堪え、
リストの一番下、
まだ接触していなかった、
一人の人物の名を指さした。
『最近流れ着いた、胡散臭い笑顔の吟遊詩人(自称)』
「……次はこの人に会ってみるわ」
「えっ!? アリア様、
この人、一番怪しいですよ!?」
「ええ、分かっているわ。
でも、もしかしたら、
こういう掴みどころのない人物の方が、
ネプトゥーリアの監視を逃れて、
何か面白い情報を持っているかもしれないじゃない?」
私の言葉に、セーラは不安そうな顔をしたが、
やがて、こくりと頷いた。
圧政の時代。
光の見えない、灰色の毎日。
でも、私たちの、ささやかで、
そして必死の抵抗は、
まだ終わったわけじゃない。
(見てなさい、テオン王子)
(あなたの思い通りにだけは、
絶対にならないんだから!)
私は、再び仮面を着ける。
それは、もはや、
弱さを隠すためのものではない。
私の、静かな覚悟と、
不屈の闘志を宿すための、
戦いの仮面なのだ。




